当ブログではこれまで、
宮崎駿のテーマは作品を通して成長していくので、
前後の作品と比較しながら観ると色んな事に気がつくという視点を導入してきた。
魔女・猫・少年・飛行体、などの各テーマに注目して変遷を解釈してきたわけだが。
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いよいよ、
少年が成長して青年となったその先。
成人し伴侶や子を得て、家族という共同体を導く父となっていく、という人間の道程。
父性的なキャラクターに注目して記事にしてみたい。
父権を示す肩書としては父親、師匠、長(おさ)、主、族長、親方、将軍、王様、ボス、頭目、船長、社長・・・などなど。
該当しそうなキャラをざっと挙げてみよう。
風の谷のナウシカでいうと、ユパ様とナウシカの父であり風の谷の族長ジル。
ラピュタだと炭鉱の親方やモウロ将軍。
トトロだとサツキとメイの父。
魔女宅だとキキの父かパン屋の亭主。
紅の豚では不在
もののけ姫だと乙事主と牛飼い頭
千と千尋だと千尋の父
ハウルの動く城だとマルクルの師匠としてのハウル
ポニョだと船長の父
風立ちぬだと服部課長
で、最新作の君たちはどう生きるかでは父である勝一と、インコ大王。
まず注意して見ていきたいのは、父性存在と王佐や道化の違いだ。
同じような成人の男性でも、クロトワやムスカやゴンザは女王に侍る王佐、王配、組織の長ではなく二番手、参謀、補佐役世話役、といった役どころ。
そして、
ピッコロ社のおやじ、ジコ坊、黒川、青サギ男などはどちらかというと道化の性質が強い。笑いを誘う滑稽な動きや等身の低いコミカル寄りなキャラデザとかも判断材料だ。
おやじの猫みたいなヒゲ、ジコ坊のふんチラ、黒川の髪のモッサモッサする動きなど、
王と道化については、ちょっと豆知識というか歴史的教養が必要なところなので説明する。
現代感覚でいうと道化、クラウンやピエロというのはサーカスや大道芸で見るものだ。
旅芸人、アーティスト、観客を非日常へ誘ってくれるちょっと不気味な水先案内人といったところか。
しかし過去へ遡ること王政の時代においては。
宮廷道化師といえば王の側に侍る職業であり、接待や緩衝材、いわゆる潤滑油としての人材だったという。
王という絶対権力者と相対すると、臣下はある種の緊張を強いられる。
そこで道化がふざけて場をとりもってくれたり、愚者として王と臣下の共通の蔑みの対象になることで、二者が対立する関係を緩和させたり。
そして物語においては、あらゆる権力や利害、関係性や責任と無縁であるがゆえに何にも憚らず真実を口にし、舞台の外から世界を俯瞰し、メタな視点をもちこむ狂言回しのような役割を担えるキャラだ。
タロットでいう愚者の意味合いだな。
ポニョのフジモトはキャラデザもまさに道化師かつ愚者だった。
あまり馴染みがないイメージかもしれないが、
日本においても封建時代にゃ幇間(ほうかん)、太鼓持ち、太夫衆とかいう言葉が残っていて、権力者が存在するとその側には緩衝役も自然発生しやすいのかなとは思う。体癖でいうと3種が得意な職。
道化師 - Wikipedia
あとは父の段階を過ぎた老年期。タロットでいうと教皇や隠者。
タイガーモス号の技師のじっちゃんやカマジイはなにかを教えてくれる教師の役があるから教皇か。
顔も似てるし、ドーラとじっちゃん、湯バーバとカマジイの関係も楽隠居のじいさまをまだまだこき使う女主人てかんじで似ている。
大ババ様やポムじいや寛太のばあちゃんとか、いつか老人というテーマも注目してみても面白いかも。
で、
王佐や道化を侍らせている権力者、為政者、リーダーの方に話を戻そう。
宮崎駿が人間集団を描くときは、基本的に女が強い。
母や女王が集団の長をつとめている。
クシャナ、ドーラ、エボシ、湯バーバ、などなど女傑揃いだ。
一方で男性の父権はいつもどこかが不完全だ。
ユパ様は初手から最も理想に近い父権っぽく描かれる。
ナウシカの先生であり、エンディングではアスベルの師にもなって伴に旅立ってるようで、
べらぼうに強くて思慮深くて渋くてかっこよく、
この人についていきたいと思わせるカリスマがある。「私にユパ様のお手伝いができたらいいのに・・・」とか。
風の谷で「この子の名付け親になってください」と頼まれる場面があるが、
名付け親、ゴッドファーザーというのは子にとって親に次ぐ後見人であり保護者だ。
それはユパ様が皆から慕われてる立派な人物であるという表現なんだが。
ただひとつ、ユパ様は旅人であり、マレビトであり異邦人であり、共同体に属さない人、共同体の外の人なんだよなあ・・・・。
それはやはり配役としては王(皇帝)ではなく愚者なのだ。タロット的にいうと。
そして共同体のトップ、王であり族長であるジルは病の床に臥せていて、慕われてはいても族長としては機能不全に陥った状態であるわけだ。
姫であるナウシカが族長を代行している。
漫画版では王と道化の元型そのまんまのヴ王と道化というキャラも登場する。
ヴ王はクシャナと兄王子達にとっての父権としてまあ割と過不足ないキャラなんだけど、
なんだけど、ちょっとびっくりするほど醜いというか、人外ギリギリの造詣であるところに含むものを感じる。あきらかに威厳を損なう外観にしてるだろこれ。
やけに頭が小さく首が体にめりこみ、目がイッてるという造詣は、
ラピュタのモウロ将軍もそう。あとライサンダー大佐(名探偵ホームズのキャラ)も同じ系統だな。
体癖的にいうと、首は生命力と知性を読み取る部位なので、首が無くて、脳ミソ入れとく頭蓋も小さいというのはずばり頭が悪いってことで、肩をいからせてるってのは緊張の強さ呼吸の浅さ、短気とか怒鳴る準備姿勢であるとか、そういう性質を想起しないでもない。デコ狭く目が離れてギョロってるというと10種ぽいかな、親分でありたい気質。
モウロとライサンダーは声も同じく永井一郎。
金欲にかられて短絡的に「突撃だ~撃ちまくれ~!」とか叫んでからモブ兵とわちゃわちゃなだれこむコメディな流れも一緒だ。
レストレード警部やルパンの銭形警部でも「逮捕だ~」でモブ警官わちゃ~ってやってるお約束のあれ。
兵を指揮する将である、ということ、
率いる者の命の使い方を決めて命じる、というのは父権の最も特筆すべき権能であるというのに、
その描写がいつもいつもコメディになるというのはあまり褒められたことではないというか、まあぶっちゃけ宮崎駿の病理だったと言っていいだろう。
他の作者であれば、それは屈指の名場面をつくれる権能でもある。
たとえば進撃の巨人のピクシス司令のこれとか。
内地の守るべき人のため、兵士はここで死ぬまで戦えと演説する。
大義や理念を掲げられ、使命感を鼓舞されて高揚する。それが父権の力だ。
さて、風の谷からはユパ、ジル、ヴ王、で
ラピュタの壮年男性キャラはモウロ将軍と、炭鉱の親方がいる。
親方はマッチョメンでパズーの仕事を指導するあたりはなかなかイケてるのだが(それはやっぱ皇帝じゃなくて教皇だけど)
赤毛のおかみさんの尻に敷かれている。
「いい子じゃないか、守ってやりな」と、姫を守る勇者の使命を授けるのは、おかみさんだ。
いや、RPGとか、物語の定石でいうと勇者を魔王退治の旅に送り出すのは王様の仕事なんだけど・・・。宮崎駿作品ではその役がいつも女性っていうね。
トトロの父は、穏やかな学者タイプ。
子どもと目線を合わせて話してくれる優しい父。
魔女宅の父と、風立ちぬの二郎なんかもこのタイプだよな~。
これは父のような母、男のような女というキャラの配偶者を考えたときのバランスかもな・・・。
船頭多くして船山に上る、両雄並び立たず、という格言があるが。
男勝りの嫁と、男らしい男の夫婦では、多分家庭が破綻する。
互いの方針が食い違ったとき、どっちも家長を自負して譲らないんじゃ先へ進めないからな。
陽に沿うのは陰であるほうがよい。
夫唱婦随か、婦唱夫随か、
決定権を持つ責任者、家庭というチーム代表は一人にしとくべき。
だから、トトロと魔女宅の父は、女のような男、お母さんのように優しいお父さん、なんだろう。
男女の役割が反転した夫婦。
リアルでも結構よくある話で、それはそれでアリ。
二郎は、妹が医者になりたいっていう男勝りなんだよな。兄妹で男女の性質が入れ替わっているようだ。
あー、それで本庄・・・、二郎が実は女王で本庄は王佐のポジなのか。
で、紅の豚はモラトリアムの物語、親の目や社会の重圧から逃れ、ひとときの自由と放埓を謳歌する大学生くらいのノリなので、父親などというウザい煙たい存在は登場しない。
そして、もののけ姫。
あまり目立たないし名もないキャラだが、牛飼い頭(うしかいがしら)のおやじさんは落ち着いて道理を弁えてて、割と良い感じに牛飼いという集団をまとめてるように見える。
「俺たちの稼業は山を削るし木を切るからな、山の主は怒ってな・・・」のセリフはなかなか、他者を害しながら生きるよりほかない忸怩な感じが味わい深い。
まあ、タタラ場の長はエボシであり、それに従う下部組織の頭なので、
裁量権はあっても最終意志決定権は無い、苦労の多い中間管理職だ。ハゲるもやむなし。
印象的なのは乙事主のほうだ。
太古の力を宿す巨大な猪神、山の主(ぬし)、
鎮西(九州)から何百頭もの一族を率いて海を泳いで渡り、
「たとえ我が一族ことごとく滅ぼうとも、人間達に思い知らせてやる。」
となるとこれは、典型的な父性・父権のキャラクターということになる。
一族に指針を示す族長で、
集団の進退を率いる将で、
時に構成員に死さえ命じる王たるもの。
だというのに。
ここまでの流れをふまえて観ると乙事主の描写も不憫に尽きる。(´;ω;`)
まずもって、乙事主は老い、盲いている。
あばら骨がうくほど痩せ、毛並みは毛玉がもつれて垂れ下がり、毛の薄くなった鼻、黒ずんで割れた牙、目ヤニなどから伺える健康状態は病んでるといって差し支えなさそうだ。ジルと一緒。
目が見えない、という設定は物事の本当の姿が見えていない、という暗喩として受け取っていいだろう。
「目が、目がぁ~」のムスカも、目が悪いからシータが真なる王であることを見抜けない、という暗喩があった。(過去記事参照)
全盛期の乙事主は、モロも惚れるほどもののわかった御仁だったのかもしれないが、
老いが彼の目を曇らせ、判断力や直観や大局観を鈍らせてしまったのだろう。
森と土着の神の力が衰え、人の力が増していく状況に焦燥を覚え、
衰えきって死ぬよりは、動けるうちに一矢報いようという心意気は理解できるが、
シシ神の在り方を自分達に都合よく誤解しているのは大変よろしくない。
モロに「そんなことも忘れたか」と言われてたやつ。
昼は人面獣身、夜は獣面人身、月の満ち欠けとともに生死を輪廻する神は、
獣と人、双方にとっての母なる神であり、
戦でどちらか一方に肩入れするようなレベルの存在ではない。
山や湖を創造する逸話をもつ神の心は、山や湖のスケールそのもの。何万何億年、幾星霜を生きる壮大な機構だ。
足元を這いまわる小さきもののめまぐるしい趨勢にはなかなかフォーカスできないんじゃないかな。そこに愛はあるとしても。
人間でいえば、庭を手入れし愛でつつもそこで生きる虫達の趨勢まではなかなか気がつかないみたいな。
乙事主はそういうことを忘れ、シシ神は森と獣とに属する神の頂点であり、森のために戦えばシシ神にも通じると思い込んだ。
いやーそれ、シシ神様サイドにコンセンサスとってないですよね・・・。
シシ神様一言も喋らないっつーか言語でコミュれる系のアレじゃないんすよ・・・。
一族を率いての突撃特攻も、
なぜかアシタカの察したビジョンという視点で描かれる。まわりくどい。
折角の見せ場を勢いよくフィーバーヒャッハーさせてもらえない。
時間軸一緒なのにわざわざ過去形にするとかなんなんだー。
エボシは景気よく「放てー!」で山犬も侍もふっとばしてるのとの落差よ(T_T)
「すべて分かっていても正面から攻撃したいのさ、それが猪の誇りだからね。」と矜持を表明する大事なセリフもモロ(♀)が言ってしまう。そこは猪(♂)に言わせてやれ駿(T_T)
さんざんフラストレーションためる構成にしといて、
乙事主がようやっと「進め戦士たちよ!」と配下に号令する、父権を発露し行使する場面があったと思ったら、
その時はすでに敗走中で、生皮剥がれた戦士の中身はジバシリ共だったとか、
これを不憫な描写といわずしてなんと言うのかって感じ。父権の不完全燃焼だ。
そして、敗走先のシシ神の池で、
ムスカがシータを見誤っていたように、
盲いた乙事主がシシ神を見誤ってたという場面になる。
森のために戦ったから、シシ神は助けてくれると思いきや、
乙事主は命を吸われてしまう。
どっかに書いたっけ?
シシ神はなぜ、アシタカの傷は癒し、乙事主の命は吸ったのか。
モロがヒントをくれている。
「シシ神は命を与えもし、奪いもする。そんなことも忘れたか」「私は十分生きた、シシ神は命を吸い取るだろう」「奴は死を恐れた、私は逃げずに死を見つめている」と。
あと、
アシタカは「曇りなき眼で見定め、決める」と宣誓していて、
乙事主の目は白く曇ってしまっているという対比も。
シシ神は、生死を司る。
生死は月の満ち欠けるように陰陽になって巡っているから、
サンはアシタカの前に切った若木を差しておいた。
根を切られもはや死ぬばかりの若木から、シシ神は命を吸った。
命を吸った次は、命を吹き込むターンが来るはずだ、だからアシタカには生が与えられますようにと、アレはそうあるよう整えられた儀式に見える。
サンにも優れたシャーマンの片鱗があるよな。
しかし、シシ神のような神に、儀式の力がどれほど通じるかというと・・・
猪の献身に応えないシシ神は、人の請願にも応えないような気がする。
だからこれは、曇りなき心に映ったことがそのまま起きるっていう、それだけなんだと思う。
生と死、二つの世界は隣り合ってはいるが、そこをくぐるとき、私たちは何も持ってはいけない。
人は裸で生まれ、死出の旅には肉体を捨てておもむく。
肉体が失われるのなら、それに伴って肉体に付随し肉体から派生していたものが必要なくなり、心から削ぎ落とされていく。
たとえば、生存本能や種族への帰属意識も意味を失くす。
すると、保身のための欺瞞、故意の誤解、自分に都合のいい嘘をつく必要性も無くなる・・・。
生死の神、シシ神と相対する時、己の死の淵を覗く時。
乙事主は、老いから犯した過ちに気がついたのかもしれない。
栄枯盛衰もまた自然の成り行きなのに、己の種族は衰え、若い種が栄えていくのを見るのは耐えがたかったこと。
流れに逆らうためには、猪神一族を全国から結集してもまだ足りぬ。
求心力を高め士気を鼓舞するためには、大義や旗印が必要だ。
例えば、自分達の主神であるシシ神と聖域の森を守るというような。
モロには「そんなことも忘れたか」と言われたが、
忘れたのではない。
シシ神の両義性についてはあえて口を噤むことにしたのだ。
子々孫々に語り継ぐべき信仰を歪めた。
戦のために、滅びを認めぬために。
都合の悪い真実を見ぬとしたことで、目は曇り盲いた。
しかし結局、神への無知は一族から更に神性を失わせ、戦には負けた。
それでもこの惨状を訴えればシシ神もあるいはと敵を引き連れ敗走し、聖域に戦の穢れとタタリをバラ撒いた。
一族の長として示すべき指針を間違い、群れのほとんどを死なせた・・・。
死の淵で、功も罪も偽りなく己の心のありさまのすべてを明らかにして、
決して逃れ得ぬその責任を負って、それでもなお生きるか、
と己の心に問うた。
返ってきた答えは、否だった。
と。
いや、まあ、考察つーか解釈つーか、ここまで書いちゃうと二次創作もいいとこなんだけどー。
でも順に考えるとそうならん?
目が見えない→暗喩的な盲目→シシ神の性質を誤認→それはなんのために?
あー、プロパガンダか…と。歴史を省みれば実によくある話だ。
あと、ムスカとシータの場面が踏襲されてるのもある。
ムスカとシータは追いかけっこの果てに、ラピュタ王の玉座の間につく。
乙事主もジバシリとの追いかけっこの果てに、シシ神の池、神域につく。
共通する意味は最深部、心臓部であるということ。
瞳孔の色が薄く、夜でも地下でもサングラスで目を保護しているムスカは多分、目が悪い。
「目が、目がぁ~」は彼の弱点を示唆するセリフでもある。
目が悪い彼は、リュシータ・トエル(真なる)王女がラピュタの王であり、パロ(副王)である彼の主人、彼の仕えるべき女王であることが見えない。
乙事主の目も瞳孔の色が薄く、盲いている。
目が見えない彼は、シシ神が両義性を備える神であり、
生と死と、獣と人との神であり、戦に加担するようなレベルの神でないことが見えない。
ムスカは「ラピュタは甦るさ!」と言っていた。滅んでしまった超文明の国を再興し、世界を支配したがった。
乙事主も、猪神や森、太古の超自然の力が再興すること、人を退け、神々やもののけの国の拡大を望んでいたのだろう。
それは陰陽になって流転する世界の在り方に反する願いなんだな・・・。盛者必衰の理あり。
そして、王女シータの首元のおさげ髪が二発の銃弾ではじけ飛んだように、
女神シシ神の首も二発目の銃弾を受けてはじける。
女傑ではあってもただの人間であるエボシが、神の首を落とすことができたのは、
ラピュタでの、王佐が女王を裏切り王国が崩壊した成り行きを下敷きにしている。
あの時は月も細く、月の満ち欠けとともに生死を行き来する神の最も死に近い時、
昼の姿から夜の姿へ変容する蛹のような不安定なタイミング、
そして、乙事主が神域にバラ撒いたケガレとタタリ、背信行為も神の力を削いだ。
神殺しが成立したのには色んな要素の重なりがあった、と。
乙事主さま、遺憾ながら(T_T)戦犯ですw
衰えや死の定めを見つめたくないからって、
いと高き神様を下界の争いに駆り出そうとしちゃいけねえのよ・・・。
神性が変質したらどうしてくれる。
それでもまぁ、あれはタタリガミになるより全然マシに死ねたんだと思う。
大地母神、黄泉の女神に口付けられてその懐に還る死なんていったら最高に安らかそうで羨ましいくらい。
シシ神は、生と死の両方を持っているものだという。
人や猪神からすれば無尽蔵といえるほど豊富に生の力も死の力も蓄えている。
が、シシ神の心のスケールは大き過ぎ、彼我の差があり過ぎて、双方向の意志疎通は難しい。
だから、相対したときシシ神は心を写す鏡となり、扉となってくれるだけ。
シシ神から生を引き出すか、死を引き出すかは、向き合うものの心が決めているのだと思う。
過去に心を囚われ滅びまいと藻掻くものには、その混迷のままに死がもたらされ。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と言うが、
記憶、感情、愛憎、矜持、家系、執着、未練、嘘、恐れ、様々に心を彩ってきたもの。
その全てを手放し、委ね、生まれ変わって良い。
という曇りなき自在の心でこそ、
死から生を、0から1を、無から有を、隣り合う世界から万象に成り得るエネルギーを引き出すこと、魔法を越えた創造を行うことができる。
「生きろ」と根源から生を呼び覚ます感覚を受け取ることができる。
銃弾が左胸を貫通した致命傷を癒すというのは、通常有り得ない奇跡だからな・・・。
即死しなかったのはナゴの守の呪いがバフでもあったからだろうけども。
ハウルが魔王にならずカルシファーに水をかけても生きてたことと同じぐらい有り得ないことだから、もののけ姫でも同じことが起きていたとみた。(過去記事参照)
乙事主の話から長くなったけど、
それは書きかけだった記事の内容が合流したからですまん。
ちょうどいつものまとめっぽく持って行けたところで、
以降の、千尋父、ハウル、船長父、服部課長、勝一、インコ大王、彼らについての後半戦は記事をわけようかと思う。
ちょっと先になるけど、君たちはどう生きるかのDVDが7月発売だから、それ買って周回してみてから書きたいんだよね~。
結局劇場一回しか行けてないもんで。
いやー、ムスカや乙事主みたいな心を愚かと笑うのは簡単だけどさー。
誰だって、自分についてる嘘のひとつやふたつ、無視してやり過ごしている不都合な真実の三つや四つ、あるからね。
例えばここんとこだとmRNAワクチン打つべきか打たざるべきか問題とか?
ほんとにほんとに、曇りなき眼で見定めて決めたと言えるだろうか?
あの騒動は大規模で、不安、恐怖、扇動、迎合、保身、差別、分断、支配、反発、金欲、義憤、正当化、自己顕示欲、エコチェン、そりゃもう心を曇らせるネガティブな想念の見本市てなもんで、無関係でいられる人はほとんどいなかったろうと思う。
恐れや欺瞞が生き方を歪めてしまう前に、
心の曇りをクリアにするメソッドを会得していこう。
大丈夫大丈夫。
アシタカのようにソフィのように、
死をも癒す奇跡、生きる力の源泉と深く確かに繋がって、
いつも新しい今このときを全霊に生きる。
その道はいつでも、誰にでも開かれてる。
シシ神と対峙するように、己の死の淵を見つめてみるのも一興だ。
死の瞑想。臨死体験というような。
臨死体験をすると価値観が変わるとかいう話があるが、
なにも銃弾貫通みたいな危ない目に遭わなくても、
段階的に習慣的にその淵を訪れる意識の訓練をすることもできる。
たとえば「武士道は死ぬことと見つけたり」とかいうけど。
弓や刀、命を奪う力を形に現したものを、正しく扱うためのわざを身につけるとか。
それは身体にフィードバックしつつ、彼我の死をシミュレートできる修行だ。
そういう言葉が内面から自然にでてくるようになると、
それは心の曇りが磨かれてるあらわれだよなーと思う。
たとえ身の内に人間どもが打ちこんだ毒の礫がくいこんでいようとも、
恨みを忘れ、曇りなき眼で己の死と生を見つめるのなら。
空なる無限の淵から、癒しの奇跡をひきだすこともできようというものだ。
色即是空 空即是色
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反ワクにもワク信にも与しないし、自分は打たないことにした。という過去記事。
結局一本も打ってないし、考えも変わってない。
しかしなんでそんなオチに転がっていったのか自分でも謎ですまん。
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ムスカの目がうんぬんの話はこの記事。
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致命傷を癒すとか、魔法以上の奇跡とはどのようなものか、という記事。
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唐突にタロットとか引用したんじゃなくて、
そもそもポニョを読み解くのに必要だったから、タロットの本とか読み始めたんですよ。
この本が抜群におすすめ。
今回こちらの記事のコメント欄で、もののけ姫の続きの記事やる気あんの?という有難いコメントを頂きまして、ようやっと着手に至った次第です。読者さんありがとうございました。
いやー、書いてみてまた色々気がついたよね。有難いなあ。
www.youtube.com
前半だけ公式で見れる。ライサンダーもちょっと見れる。
当時劇場でナウシカと同時公開だったんだって~。
www.youtube.com
レストレード警部とモブ警官の突撃シーンはここでちょっと見れる。それにしてもハドソン婦人は最高過ぎる。
ハエのような飛行機やプテラノ飛行機、プロトベンツ、宮崎駿の造詣センスはもうここから非凡に爆発していた。
フェイスマグネットのサムネだけでモロとモロの子の区別がつくものだけが真のジブリオタを名乗ってよし!(`・ω・´)
青白っぽいか黄味がかっているかの色でわかれ。
٩( ''ω'' )و追記。
玉座で弱視のムスカがシータを見誤ってる場面と
神域で盲目の乙事主がシシ神を見誤ってる場面は、色んなとこがよーく似てるな~と思いつつ見ててもうひとつ。
「うるさい、人間なんか大嫌いだ!」で小刀でグサッとやるサン、それをそのまま抱きしめるアシタカの場面は、
指をガブッとやるテトと、「ほら、怖くない」で包みこむナウシカの場面によーく似ている。パニックを愛で受けとめ鎮めている。
テトはそこからナウシカとずっと一緒にいてくれて、
サンもアシタカと一時行動をともにしてくれるけど。
そのあと生きる場所が別れちゃうんだよな~。
ナウシカがチートなのか、アシタカに魔力が足りないのか、サンはテトより複雑なのか・・・、まあ、その全部かな・・・。
アシタカめっちゃかっこいいのに、ヒロインと結ばれないのはタロット的には奇術師というより愚者だからかなぁ。放逐され、どこにも属さない者。
٩( ''ω'' )و追記。
「シシ神は死なないよ、生と死と両方持っているものだから」とアシタカが最後に言うけど。
そこはぶっちゃけどうなんだろうね?
首を返したところで、朝日を浴びてシシ神は倒れた。
神聖不可侵の大森林は里山や草原になった。
神殺しによって環境が不可逆に変化したのは間違いない。
モロや乙事主のような神々は、次作で湯屋で清められて次の世界へ葬送される。
が、シシ神は名のある川の主よりも更に神格が高く、不死性を備える。
ん~。
ていうか川が汚染されると神がクサレるという相関関係からすると、
シシ神がほんとに首もってかれて死んでたら、
神体でもある周辺地域一帯で地は割れ日は翳り水と土とは枯れ腐り、となるわけか。
ドロドロにエナジードレインされたあの惨状がどこまで広がったのやら…。
あの辺がまだ住めそうに豊かな地であるからには、やっぱ生きてるんだろうな。
朝日の前に首を返せたから、あのくらいで済んだのでは。
大ダメージが入って弱体化、元通り回復するまで百年千年単位で時間かかりますとか、
そのころには今度は人類のほうが滅んでました。とかはあるかもねww
つーか天朝様と師匠連とジコ坊は、そんな超天災級の被害が出ると知ってなお不死を欲していたと?都から遠い地方への関心なんてそんなもんか。シンプルにクソだな。為政者ってやつぁいつもそうだよ。
エボシはタタラ場が住めなくなることも承知だったのかなあ。そうなったらなったで、その恨みさえ国崩しに使いそうな人ではある。