ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

結界師を解釈する。

結界師(1) (少年サンデーコミックス)

 

サンデーうぇぶりで3月7日24:00まで無料だったので、

結界師全35巻を一気読みした。

 

サンデーで連載当時読んでたんだけど、途中で脱落して結末を知らない漫画だったので、

読めて懐かしく面白かったので感想をまとめとく。

 

結界師は、夜の学校で結界術で妖怪と戦う、という設定はドストライクだったんだけど、

なんで飽きたんだったかなあ。

犬の相棒っていうのが好きだったのに、意外と重要度が低くて途中から存在感がなくなったからだったっけ。

あと、登場する女性がことごとく強気の姉属性だったからだっけ。

悪役をスカッとぶっとばすカタルシスがイマイチだったのもあるな。

ヤバそうな雰囲気で登場してどう戦うのかわくわくした悪役が、

掘り下げてみると彼ら自身の問題で自滅するとか、立場が変わって敵に見えなくなるみたいな、リアルなんだけど少年誌的には萎える展開が多い。それもうちょっと超能力で殴り合ってからでもよくない?ダメ?

終盤で主人公がほぼバトルをしないというのも少年誌的な展開ではないと思う。

心情のドラマが主になって、群像劇、大河ドラマみたいになっていくので、

主人公と一体化して冒険したいという気持ちで読むと消化不良になる。

結界術の手印を構えて「結!」「滅!」はつい真似したくなるステキな必殺技なのに、

俺TUEEEEできなくてつらたんってなる。もっと「結!」「滅!」でアドレナリンどばーっと出させてくれよぉぉぉ。

 

でも一気読みすると「誰も傷つかなくていいように、妖怪を引き寄せる土地を封印する。」というテーマの一貫性は良かったな~。

そこはよく練られてて、初志貫徹で良かった。

 

以下オチまでのネタバレあり注意。

 

烏森の土地が妖怪を呼び寄せ、活性化させるのは、

地下に400年封印されていた子供・宙心丸に与えられた異能のせいだった。

 

災厄の元の大きな力が、邪心のない子供っていう発想は女性的だなーと思う。

もうビジュアルが子供ってだけで色々かわいそうっていうか。

大人の勝手な思惑で振り回されてるだけの子供はだって子供なんだから悪くないし、

なんとかしてあげたいよねっていう気持ちになる。

 

400年もの間、死にも老いも育ちもせず、メンタルがまるきり子供のままというのも歪な話ではある。

400年独りで封印の城の中に閉じ込められていたら、

普通は飽きて倦んで、到底まともな精神的発達は望めないだろう。

五億年ボタンじゃないけど、自分だったら、もうたくさんだ死にたい殺してくれとしか言わなくなる自信ありゅww

 

だから封印されていた宙心丸には、肉体がなく時を止められていた、と表現される。

漫画でラノベでよく見る精神と時の部屋理論だな。主観的時間は伸び縮みする、精神体にとっては一瞬も一時間も一年もたいして変わりないってやつだ。

 

それでも流石に400年目には封印に限界が来てしまうということらしく、

結界師達によって宙心丸は、新たな神域へ封じなおされる。

 

・・・え? いや、また封じるのかよっていう話だ。

優しい主人公もそれが嫌だ可哀想だと悩んでいた。

宙心丸の異能は、生まれながらに他者にとって致命的で、あまりのパワーに滅することもできないので、隔離するしかないんだろうけど。

生命や心にとって、すこやかさっていうのは生々流転で移り変わっていくことだ。

生まれ、育ち、実り、老い、そして死ぬ。

このサイクルを大小あらゆるレベルで繰り返し、その流れが滞らないことが快だ。

子供のまま時をとどめられること、成長できないこと、変われないことは、心にとって多分ひどく不健康で苦しいことだと思う。

 

だから主人公良守は、新しい封印の中では 時間が進むように 結界世界を創ったという。

 

ほう。

 

ということは、一年経てば一年分、脳はなくても結界内のどこかに記憶が蓄積されて、経験によって心が育って、心が育ったならそれに応じて肉体はなくても外観も成長していくのではないだろうか。

宙心丸自身にも変化があって「立派な人間になる、強き男になる」という意志を明確に表明してるしな。

時間が流れず、「退屈は嫌いじゃ」というだけの400年とは違うサイクルが始まっている。

で、結界内には開祖である父と、歴代最強の結界師がいる。

 

ここからは物語の外の話、ひとつの解釈だが。

時間の進む環境と、成長の意志を示す子供と、卓越した師匠が揃っているのなら、

そこは単に「消え去るまで楽しく暮らせるわ」なんて消極的な、

子供を閉じ込めたことを誤魔化し続ける遊興施設じゃなくて、

最高の修行場にもなるのではなかろうか?

 

宙心丸は、幼い子供だから自身の異能を制御できないが、

結界師の作中には厄介な異能、人の枠には過ぎた力を持ちながら、

それでも力に呑まれず、自身の意志を発揮して生きている人たちがいくらでもいる。 

 

力を制御できず、周囲の人を傷つけたことを背負いながら、

それでも生まれ持ったものと折り合おうと努力していた少年も、

そういえば結界世界の中に遊び相手として創造されていた。

宙心丸は志々尾限の生き様の話を聞いて奮起するべきww

 

宙心丸が努力して大きくなって志々尾みたいになれたら、

他者を傷つけてしまう自分の力を、御して自分のものにできたなら、

 

そしたら、あらためて結界から出てくればいいよな。

天才結界師良守の母がいるうちなら、一緒に出てこれるっしょ。

結界師の世界観では、そのくらいの異能者でも居場所があって生きていける。

あ、肉体はないのか。でも魔性化も成仏もしない名物浮遊霊キヨコさんとかもいるし。

余裕でしかないと思うんだよな。満足したなら成仏してもいいし。

 

子供に残酷な真実を隠すことなく伝え、時間が進むように設定した良守君、

超グッジョブなんじゃね。その行いの結果、きっとまたカーチャンに会えると思うよ。

 

さて、後は主人公の修行パートにとても自分好みの個所があった。

 

24巻あたりから、「夢想」というある境地を示す言葉がでてくる。

爺「お前、強く想えば想うほど強い力が出せる、そう思っとりゃせんか」

良守「違うの?」

爺「まあ、間違いではない、だがそれは引き金に過ぎず、強すぎる思いや感情は、時に歪む。」

爺「本来、力は独立したものじゃ、引き金を使わない方がより強く、純粋で安定した力を出せる。」

爺「心を無にすると言うても、無くすということではない、心を静かに何事にもさざめかない状態にする、ということじゃ。」

 

 

良守「なあ、氷浦。力使う時とかって・・・、何考えてる?」

氷浦「なにも」

氷浦「考える・・・、というより、見える・・・に近いと思う。」

氷浦「命令と状況で、どう動くか、答えは見える。だから見えた通りに動くだけ。」

良守「すごいなそれ!、そういう時ってどんな感じなの?」

氷浦「意識が宙に浮いて、時間を止めているような感じ・・・?」

良守「その感じは何か分かるかも・・・、

   今日だって烏森と話してた時、心が少し自分から離れて、どんなものからも、

   肉体とか感情とかそれこそ時間からも自由になったような・・・、

   そうだ、確かにああいう時って、

   考える前に答え出ちゃってるんだよな、これだ!」

 

これだ!インスピレーションの感覚の言葉、0や空の感覚の言葉、いいねえ。

夢想の境地に入ると主人公の目からハイライトが消える描写はちょっとどうかと思うけども。

そこは宮崎駿アニメだったらハッと目を見開くやつですよ。むしろハイライトは入れるか、拈華微笑のような半眼にしろとか言いたいが。まあ、うん。

 

何が最適解か直感する、なんとなく、でも間違いなくそうだと解る。

だからそのとおりにただ行う。その時とても心は静かだ。

夢中とか、三昧とかそんな言葉になる感覚だ。

なんでも極めるとそういうことになっていくと思うんだよね。

音楽でも創作でも身体技術でも、その人にとって至福の追求であるなら、なんでも。

道を求め、究めたものの行きつくところはいつも同じだ。

 

結界術、空間支配系の異能の究極が、

世界を消し去り、初期化、0に戻し、そして任意の世界を創造することにあるっていうのも良かったけど、そういうことだ。

 

結界師、面白かった。

 

サンデーうぇぶりでは次にGS美神とかうしおととらとかも公開されるんだけど、

それは好きすぎて全巻持ってるんだよなー。ということはらんまでも読むか。

またしばらく寝不足になりそうw

 

 

 

結界師ってアニメ化もしたのにグッズの類が全然ないな・・・。

不遇の良作感。

もっと斑尾と白尾の相棒感を推すべきだったと思います。わんわんお!

魔女の宅急便を解釈する3 神秘なる絵

 

 

以下の記事はこちらの曲をBGMにしてどうぞ。


星空をペガサスと牛が飛んでいく

 

 

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神秘なる絵

もう一人のキキ、森の絵描き、内なる天使のウルスラが描いていた油絵には、元ネタがある。

 

版画家で教師の坂本小九郎と、八戸市立湊中学校養護学級昭和51年度生徒の作品だ。

「星空をペガサスと牛が飛んでいく」という。

 

宮崎駿監督が感銘を受けたというエピソードがあって、作中で印象的に登場する。

原作からいくらかモチーフは改変されている。

 

絵画の解釈もまた鑑賞者の数だけある、と前置きして、

自分なりにこの絵にどんな意味があるものが言語化してみたい。

 

自分がよく使う象徴の読み方、考え方は、陰陽の対比だ。

この絵のなかにある対立物っていうか、対になっているものを見てみると、

 

まず、牝牛と天馬だろうか。

 

牛には乳房があって、両目が見える描き方で

天馬は横顔、目がひとつで、すぐそばに横顔の少女か天使が天馬に寄り添って、

少女と天馬で両目が揃うような、一つの顔であるような構図になっている。

 

乳房のある牛が女性原理であるなら、天馬は男性原理的だ。

 

染色体なら、女性はXX、男性はXY、というけど。

同じものがふたつの女性性は聖杯、受動的、安定していて、

互い違いになってる男性性は聖剣、能動的だという。不安定さが推進力にもなるっていうか。

 

天秤を想像してみるとわかりやすいだろうか?

両端の錘が同じ重さの時、天秤は静止して、それは安定だ。

両端の錘が違う重さなら、天秤はぐらぐらして動く。それは運動量があるってことだ。

 

女性性である牝牛には、乳房がある。それは子どもを産み育てていける力の象徴だ。

男性性である天馬には、翼がある。それは精神的な飛翔ってことじゃないかな。

何かが足りないから、それを求めていけるっていうことなんだ。

なにかに憧れ、冒険に出て、新たなものを獲得していく、そういう力の象徴だと思う。

 

・・・、あー、象徴というのはジェンダーや優劣ではないと何度でも断りを入れておく。

人間の脳も、右脳と左脳の両方があってひとつの器として完成しているわけで。

ひとりの人間に、女性性と男性性の双方がほどよく必要だ。

右は、み、水、陰、マイナス、直感、自然、地、黒、女性性、そういうもので、

左は、ひ、火、陽、プラス、理知、人工、天、白、男性性、そんな感じだ。

 

左右、陰陽、男女、そういう双翼が揃ってこそ飛翔できるというものだ。

 

あ、左に白い天馬で、右に黒い角の牝牛というのも符合するな。

坂本小九郎てのは、象徴ってものに理解が深い版画家なんだろうね。

 

で、この絵には天地という対比もある。夜空と森だ。

自然と人工という対比もある、森と小屋だ。

 

小屋には煙突があって、わざわざ煙が出ているのが描かれている。

それは森を拓き、木を切って薪にして燃やしてるってことだ。

自然を破壊して、利用したり加工したりするのが人工、人の業だ。

 

小屋はふたつあって、ひとつには煙突が、ひとつには屋根に小さな人がいる。

これは、天馬の横の少女と対になる少年ではないかな、と思う。

 

飛翔する少女を見上げ手を振る少年、というと実に宮崎駿的なイメージだ。

メーヴェで飛ぶナウシカと、アスベル。

箒で飛ぶキキと、トンボ。

飛行石で飛ぶシータと、パズー。

 

作品群の後半では少年も飛ぶちからを得ていくけどね。

 

 

夜空にはあとカラスと、よく見るとサソリがいる。

 

カラスはまあ、魔女の眷属、少女の眷属、飛翔のイメージの強調かなと思う、

本編では雁の群れが風に乗って高く飛ぶ場面もあって、そこと印象が似ている。

 

ジジ「風が来るって言ってるよ、風に乗って高く高く飛ぼうって」

鳥の群れが意味するのはそういうことじゃないかな。

風は、宮崎駿が好んで使うメタファーでもある。

風の谷のナウシカ風立ちぬとかな。

 

私たちの命は風のようなもの、生まれ、響きあい、消えていく・・・

 

誰が風を見たでしょう、僕もあなたも見やしない、けれど木の葉を震わせて風は通りすぎてゆく

 

そんな詩が挿入される。風は、高く飛ぶ力、目に見えないものや、生命のメタファーだ。

 

では、サソリは?

小屋と少年の上に二匹いるんだよな。目立たない色合いで。

 

サソリといえば星座でもあるし、やはり毒や危険や死ってことかなあ。

人工物の煙突と、空への憧れの上に、隠れた危険を示唆するものがある。

 

森を拓いて人の住処を作り、山や地を掘って鉄や石油を得て、煙を吐く。

そうやって自然から色んな糧を得なくては生きていけないけど、

それはもののけ姫のテーマの神殺しでもあり、環境破壊が行き過ぎれば結局人間も生きてはいけない。

 

空を飛ぼうとして、落ちて命を失うのはイカロスか。蝋で固めた翼は溶けてしまう。

サソリ座の由来のギリシャ神話ではサソリの毒で落命するのはオリオン、驕った英雄だという。

 

まあ、そういうこともあるよね・・・。

冒険や挑戦には危険がつきものだ。注意深くなるようにという警告でもある。

 

あるいはもし銀河鉄道の夜のサソリであれば、生まれ変わり、みたいなことだろうか。

サソリは身勝手な生を悔い、みんなの幸いを神に祈って星になる。

祈りが、願いが、地を這う虫を、空で赤く光る星に生まれ変わらせる。

宮崎駿の世界観を貫く、空への憧れがサソリの意味するものなのかもしれない。

初期は腐海の蟲やタイガーモス号のような虫モチーフの飛行体が多くて、

メーヴェやパズーの鳥飛行機のような鳥モチーフの飛行体と対比になってる。

後半はハクのような竜、神に近い飛行体や、ハウルの星の子や、昇っていくグランマンマーレと光の奔流などは、もう実際の空を飛ぶものというより、

精神的な高みや、宇宙や、もっと遥か遠い彼方へ飛んでいけるものになっていく。

虫が星になっていく過程になっていると言えるかも。

 

 

さて、残るはメインディッシュ、赤い三日月だ。

 

版画の原作には、色がついていない。赤く彩色したのは宮崎駿だろうか。

普通に月を描いたら、白か黄色か銀色かってところだろうけど。

赤は、宮崎駿の世界観では魔女のテーマカラーだ。魔法の力を示す色ってことかな。

 

三日月、欠けた月なのはなぜだろう。

 

もし月が真円であれば、〇、0、ゼロ、輪、環、和、サークル、それは完全性の象徴だ。

 

欠けたところのない形、完全な形、滞りない循環の形、みんな繋がっている形、

あるいは丸い穴、隣り合う世界へのトンネル、空(くう)への接続だ。

有限と無限の境界の形が、〇だ。

 

坂本小九郎は象徴を解する人だ。

〇は基本であり到達の象徴なので、意味するところは深いものと推測される。

 

完全なものが欠ける、それは無限から有限への現出、創造ってことかな。

完全から欠けている、完全を求めている、その偏り、その指向性こそがあらゆる被造物が存在を続けられる力だ。

 

この宇宙は、空間と時間は、十干と十二支は、10と12のズレた歯車の噛み合わせで運行している。

時間と空間の交わって尽きるところが、そのズレがすべて重なり一致するところが、この宇宙の終わるところだ。

 

有限の宇宙の尽きる先、無限は完全で不変だ。

遍くすべては成就し、安らいで、もはやなにも起こらない。

 

そこからなにか始めようとすれば、

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。

万物は陰を追いて陽を抱き、冲気を以て和を為す。

 

っていう古今東西の神話の序章みたいなことになる。

始原の混沌から、天地や男女、陰陽の原理の神々が生じる。

 

日本神話だと、

それ混元既に凝りて、気象未だあらわれず、名も無くわざも無し、誰かその形を知らむ。

然して乾坤(あめつち)分かるる初め、参神、造化の首を作し、陰陽ここに開けて、二霊群品の祖と為りき。

 

言ってることが同じだと、感じられるだろうか。

 

ギリシャ神話だと混沌(ケイオス)から天地、ウラヌスとガイアが生じて以下略だ。

 

・・・、話が脱線して帰り道を見失ったw

いや、そんなことこそ言いたいばかりに駄文を書き続けてるんだけどww

 

 

だから、月が欠けてるのはなんでかっていう話か。

 

それは多分、牝牛や天馬、森と煙突、少年と少女、カラスやサソリ、それら被造物すべてを受け入れるためではないだろうか。

 

この絵は、すべて対になるもので構成されている。

牝牛と天馬、少年と少女、森と煙突。

 

そして小屋やサソリまでふたつづつなのはなんでかってことではないだろうか。

小屋はサソリは、ひとつあれば意味としては十分なのに、わざわざ2個描かれている。

 

それは、対の構図の強調であり、欠けた月を読み解くヒントだ。

 

みんなペアなのか~、じゃ、月は何とペアになっているのかな? という疑問を抱くためのヒント。

 

もうお解りいただけるだろう。

 

牝牛、天馬、少女、カラスは月を目指して飛んでいる。

 

彼らは〇、満月、完全なるものから分かたれたカケラ達であり、

分離されたものが統合へ、回帰へ向かっている。

 

いつか彼らの飛翔が月に至るなら、その時こそ欠けた月は再び満ちるだろう。

 

月と対になるのは、この絵のなかにある月以外のすべてだ。

 

絵の中にあるのは欠けた月だが、

 

この絵全体で見るのなら、真円の完全性が成立している。

 

これは世界や宇宙の在り様の縮図なんだな。宇宙盤や曼荼羅のような絵だ。

 

 

 

 

 

・・・・以上。

いやー、こんなにキレイに絵解きができる絵も珍しいよねえ。

 

芸術の素晴らしさ、神秘なる絵の神秘さに触れられたようで、

当時スレッドでこのくだりを書いてるときは面白かったなあ。

名推理をキメてる名探偵のような気分だったわwwガンギマリで脳汁ブシャーだったわww

 

ま、あくまでひとつの解釈だ。

それぞれその人なりの鑑賞の参考になれば幸いです。

 

 

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追記

キキのお父さんも赤いベスト着てるでやんの。

で、ラストの人力飛行機を漕ぐトンボの服は赤と黒だった。

赤を身に着けた男性てのは、アシタカとフジモトくらいかと思ってた。

まあ、魔女コキリと結婚できるんだから、異種を受け入れる力があると見てもいいか。

トンボは、赤と黒の服着て、キキに寄り添われて、落ちそうになったら紐で吊り上げてもらって飛んでるんだからな。

もはや人力でなく、魔法で飛んでるよねそれ。

歩行器のように、まずは飛ぶ感覚を学んでいるのだろう。

 

あと、白髪の奥様だが、

二度目にキキに会ったとき、足が痛むといって座っている。

で、キキに箒に乗って飛ぶ魔女の絵が入ったケーキをくれる。

これは、母が娘に、祖母が孫に、老女が少女に、魔法の力を移譲するような意味かもしれない。

奥様はキキに力を渡したことで代償に足を痛め、

キキは飛ぶ魔法を取り戻す、と。そんな風にも解釈できそうな。

 

若い者に託して、老いていく。それもまた生命の滞りないサイクルだ。

 

キキと白髪の奥様は、

コキリとドーラさんのような、永い付き合いになりそう。

 

 

 

 

アナ雪2を解釈する。未知なる心へ向かう。

映画ポスター アナと雪の女王 2 FROZEN Ⅱ ディズニー US版 hi3 [並行輸入品]

 

今ごろアナ雪2を観に行って、しかも思いのほか感動したので、ちょっと書いとく。

ネタバレは全部盛りなのでご注意ください。

 

これはアナ雪無印よりも良かったんじゃないかと、個人的には思う。

っていうか、今までのディズニーにはない新しいストーリーだったんじゃないか?

 

アナ雪無印では、隣国の王子が裏切り者、王子がエネミーでヴィランという、

今まで積み重ねてきた伝統、王子様とお姫様は結ばれて幸せに暮らしました、めでたしめでたし

というお約束の図式を破壊する、一回限りの型破り、掟破りの衝撃のカタルシスだった。

 

まどマギ三話で魔法少女の首が落ちるような衝撃展開が見どころだったわけだが、

 

今回はもう、エネミーとかヴィランにあたる人物がいない。

敵を倒す、ボスキャラをぶっとばしてメデタシという文脈ではなかった。

 

日本のアニメ映画でなら、ハウルでも天気の子でもそれなりに見慣れた展開だけど、

アメリカのアニメがこれをやってくるとは思わなかった。

みくびっていた手の平をクルーして謝り、素直に称賛したい。

 

ヤンキーが内省と融和の優れた物語を発信してきたとは、アメージング!

 

 

 

さて、どこから書こう?

そういえば、以前シンデレラの記事を書いたとき、

 

姉エルサにだけ強力な魔法の力があって、

妹アナには異性のパートナーがいる、という構図は、

 

お妃さまが魔女で、白雪姫と王子。

マレフィセントが魔女で、眠り姫と王子。

トレメイン夫人が魔女で、シンデレラと王子。

 

そういうディズニーの伝統的なテーマ、嫁姑の争い、お局が若い娘をイビる構図に則っていると書いた。

 

 

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アナ雪2で、エルサが夜眠るときも化粧をとらないのを見て、

このキャラはすっぴんになるわけにいかないのか?と思った。

目がでっかいので、閉じたまぶたが黒いとまるでパンダみたいで変な感じがしたけど、

 

まあこれは、化粧も込みでキャラクターが成立してるってことだろうと思った。

 

で、エルサの目元の化粧の濃さ、キービジュアルの眉をしかめて片頬で笑う、意地悪っぽい表情は、

歴代の年嵩の女たちと共通の印象であることが、並べてみると判りやすい。

 

アナと雪の女王 Free Fall:スノーショット

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マレフィセント2 (吹替版)

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この斜にかまえた表情は、エルサのちょっと気弱というか、

コンプレックス強めで、人を傷つけることを恐れて引きこもり、

すぐ「ごめんなさい私のせいなの」とか言う、不満を溜めこむ内向的な性格からすると、

あまりエルサらしい表情とは言えないはずなんだけど。

わざわざこの表情をチョイスするのは、ディズニーの魔女達の流れをくむキャラであることを示してるんじゃないかと。

 

アナは髪といいメイクといい、ナチュラルで素朴な印象だ。似ていない姉妹。

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そんなエルサが、妹アナと絆をとりもどすというのは、

これまでのディズニーの定型、女達の確執の物語を、許して昇華する物語になっていると思う。

 

で、無印では女達の和解がテーマで、

 

アナ雪2では、その姉と妹の和解に、自然と人の和解、先住民と入植者の和解、というテーマをオーバーラップさせてきたというか。

これが実に良く出来ていたと思う。

 

先住民と入植者の混血児が懸け橋になる、というのは多民族国家ならではの説得力があってよかった。

 

ま、そこらへんは他にも詳しいブログが色々あったから後でリンク貼っておく。

 

自分が最も興味深く見るのは、エルサを呼んだ声、エルサが行ったところ、水の馬、

そういうものが一体なんのメタファーだったのか、みたいなところだ。

 

先住民の地には、地水火風の四大精霊と、人と精霊の懸け橋になる第五の精霊がいるという設定で、

 

その第五の精霊は、「エルサだったのね」と最後にアナには解る。

第五の精霊=エルサということを念頭におけば、

 

そもそも、入植者の王子を救った先住民の娘、その時に娘が精霊に助けを求めたようにも見えるね。

戦と霧の混乱のなかから、娘が独力で王子を助けるのは無理そうだし。

精霊の加護があってこそ、二人は王国へと逃げのびて王と王妃になった。

そして代償に王妃は精霊の母胎になることになった、と。

 

人と精霊の環、自然のバランスが崩れたとき、それを取り持つのが第五の精霊の役割だったとして、

争う二つの民族の、両方の血をひく娘に生まれて、その争いを治めようとしたわけだ。

 エルサの魔法はそのために授かった力なんだと、アナも言っていた。

 

ということは、エルサにだけ聞こえていたアアーアア♪ という呼び声は、

彼女自身の無意識の啓示、心の声的なものだったことになる。エルサ以外には聞こえないのも当然だ。

 

第五の精霊は、ダムで水が堰き止められて、精霊や自然の循環が滞ってしまったことも、

人間達が争いをやめないと解決にならないことも、滞った水が一気に流れ出たら王都が沈むことも、

全部最初から知っていた。

 

だから人間の娘に転生した。

やるべきこと、大きな使命とそのための力をもって生まれた。

 

でも、人間に生まれると、生まれる前のことを覚えてはいられない。

 

それで、幼い時は力を制御できなかったり、疎外感を感じてしまったりする。

 その自責や孤独を、ありのままでいい、良い子はやめるの、と開き直って、認められたのが無印で、

 そこから更に先に進んで、使命を思い出し、やり遂げるのがアナ雪2だ。


他者から拘束を受けない消極的自由、解き放たれるfleeが前作で、
自己自身に対して自己実現を課す積極的自由、引き受けていけるlibertyが今作だ。

 

もし第五の精霊が、それっぽいキャラクターとして登場したら台無しになるところだった。

上位者に従い指導や庇護を求めるような段階を過ぎることが、精神的自立であり、

そうなれば、生き方の指針は自らの内に見い出す段階になる。

 

自分以上の自分、すべてを知る魂の呼び声に従って向かう先は、どこか?

 

ダークシー(闇の海)の先、アートハラン、という名称が登場する。

 

雪だるまのオラフが「アートハレン?」と一度間違えて訂正されるけど、その名称に印象づけるべきなにかがあるのかな?

 

アート art ハラン hran ハレン hren

 heart ハート、心、に近い音でつくられた名詞なんじゃないかと思った。nが余分だけど。

 

魔法の源、なぜか知っている懐かしいところ、魂の故郷、すべての記憶の潜む大河、そういうもの。

それはつまり、

 

自分自身の、未知なる心への旅だったんじゃないかと思えてならない。

 

だから、そういうところへは、ひとりでしか行けないんだよなあ。

 

 

異界、非物質の世界、精神の世界は、古今東西で水や音の世界として描写される。(ソースはリンクしておく)

 

 霧・水滴に包まれた魔法の森やダークシーを、ステュクスや三途の川と見做し、

アートハランを黄泉、死者の世界と解釈できないこともない、

 

水に浮かぶ氷河の大地、巨大な氷壁の下部にあいた小さな洞穴へ入っていくのは、

沖縄の磐座、斎場御嶽(せーふぁーうたき)のようなイメージだと思った。

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地母神の胎、産道というトンネルをくぐるような、千引の岩のような、

巨大な自然物に空いた小さな穴、というのは神域の境のメタファーだ。

穴の向こうは彼岸であり、

斎場御嶽も、この穴をくぐった先は海と聖地の島が見える。

 

別にアナ雪2のネタ元が沖縄だと言ってるんじゃなくて、

人間存在が普遍的に、どういうロケーションを聖域への境界と感じるかっていう話だ。

きっと西洋にもそういう場所がいくつもあると思う。

 

しかし、エルサが進んだ氷の洞穴の先には、

死んだ両親も祖父も、呼び声の主の神霊のような存在もいないんだなー。

てことは、そこは死者や神々の世界ではない。

 

歌いながら洞穴をどんどんと下っていって、氷の柱を階段にして降りていって、

そこにあったのは、記憶、過去の真実だ。

 

エルサ自身の過去の記憶、そして彼女の知りようもない祖父達の過去、精霊の視点の記憶。

アカシックレコードだとするなら、それは法の層ってやつだが。

 

更に穴が開き、そこを下る。

戦の記憶の再現が始まって、エルサは凍ってしまう。

ネガティブな情報の量に耐えられなくなるんだろうね、人の心は恐怖に弱い。そういう危険がある。

アナが後を引き継いで為すべきことを為してくれると、

 

底が抜けて、エルサは落ちる。

 

そして水の奔流とともに霧の森を抜け、運河を抜けて、現世へ還ってくるわけだが。

 

このストーリーの流れ、めっちゃハウルの動く城で見たのと同じメタファーなんだよな~。

 

底へ底へと降りていき、そこで問題の核になっている出来事を見る。

谷底からドアと闇をくぐったソフィは、泥に足をとられながら過去を見て、そして黒い穴が空いて、落ちるんだ。

 

どこまでも下へ。記憶より、集合的無意識より深く、自我の枠、心の底すら抜いて、最下層へ、そういうメタファー。

 

そこにあるのもまた、無限とか空とか、根源、混沌、0、そういうものなんだよな。

 

When all is lost. Then all is found.

すべてを失ったとき、すべてが見つかる。

 

という歌詞があるけど、これはとても優れた詩だ。

このブログでいつも言いたい0の感覚は、これだ。

すべてを手放したとき、すべてを得ることができる。

 

アートハランから戻ってきたエルサは、色白さと透明感に拍車がかかってるというか、

人間離れして神々しい、もはや精霊の姿として描写されているように思う。

魂の旅を経て本来の姿に戻り、人間の国の女王はアナに譲位することになる。

 

人間のアナは、人間の異性と結婚してめでたしだが、

精霊のエルサには、新しい相棒が登場した。

 水の精霊、水の馬、ケルピーだ。

水でできた人馬一体の美しさは劇場で観る価値があった。

 

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まあ、火の精霊や風の精霊とも仲良しみたいだけど。

 あ、地の精霊、アースジャイアントだけ氷魔法のゴリ押しでいけないのは、

土剋水で、土は水を剋するものだからかなーと思った。

ダムもそうだ。土で水を堰き止める。

陰陽五行なら、ダム破壊には木性のなにかが相応しいんだけど。

四大精霊には相生相克の思想がないから、土には土を、という発想だった。

 

脱線した。

水の馬には、格闘の末、氷の手綱をつけたんだよ。

それはとても面白い比喩だと思う。

 

馬、というのは、外に駆けていくもの、乗り物、荷や人を運べる大きな力、その象徴だ。

遊牧民は、一人前の証に自分専用の馬を選び、世話するようになる。

馬という大きな力を御することは、成人のイニシエーションでもある。

人は結婚して一人前、みたいなことを言うけど、それと似ている。

 

中盤では、氷の魔法ではダークシーを渡れない。

荒れ狂う水の圧倒的な質量を、凍らせて押さえつけることができないんだけど。

 

水の馬を御することができるようになった後、人馬一体で現世に戻ってきたエルサには、

王都を飲み込もうとするダムいっぱい分の質量の水を、氷魔法でガードすることができる。

パワーアップしてるんだよな。

 

無印でコンプレックスを認め、周囲の求める良い子であることから自立して、

2で、生まれる前に決めていた使命を思い出す旅に出て、

未知なる大河のような心の底でそれを見つけて。

 

完全性を取り戻し、本来の姿に戻ったことで、より大きな力を正しく使う主になることができた。

 

これは、とても素晴らしい物語だと思う。

 

人が、魂が、どう成長していくかっていう物語になっている。

 

いやー、アメリカ、ディズニーがこんなのつくってくる時代なんだねえ・・・。

先住民が侵略者を追っ払ってハッピーエンドだったアバターから隔世の感があるわ。

 

前作と2を比べて、前作の方が良かったという評価もあるけど、

自分的には、エルサがアートハランで、レリゴー歌ってる過去の自分を見て、

それは恥ずかしいから蒸し返さないで、みたいな表情をしたところがツボだったw

 

全世界でヒットしたあれを黒歴史と思っているとはねwww

 

未熟さを恥じるほど、今作で成熟を描けてる自負、

前作を越えた物語になっている自信が制作者達にあるんだろうなと思った。

 

 

When all is lost. Then all is found.

すべてを失ったとき、すべてが見つかる。

 

これはほんとに素晴らしい歌だ。

All is found は、優しさに包まれたなら、とかいつも何度でも、並みの自分的殿堂入りソングに認定。民族調子守唄っていうのも好みだ。

瞑想の導入に良さそう。

 

 

 

 

アナ雪2の記事、ナガの映画の果てまで

https://www.club-typhoon.com/archives/2019/11/22/frozen2-film.html

この記事で観に行く気になった、感謝。

 

アナ雪2の記事、westergaard 作品分析

https://ikyosuke.hatenablog.com/entry/2019/11/27/041804

 

異界は水の世界、M山的グリム考察サイト

https://grimm.genzosky.com/?p=25#more-25

 

 ああ後、天気の子を引き合いに出したのは、都市水没のピンチっていうのが似てたからだ。

 

天気の子は水没してもなんだかんだ大丈夫というエンドで、

アナ雪2ではエルサの魔法ガードで王都は守られる。

ポニョも水没からの新世界だったなぁ。

 

都市が水に沈むというのは、

人の暮らすところが水の世界、異界と化すということだろうか。

 

精神的な、霊的な価値観が益々台頭してくる、とかそんな時代を予感しているのかもしれない。

 

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魔女の宅急便を解釈する2 スランプのわけ、大切なのは心。

魔女の宅急便 [DVD]

 

キキの母のセリフに「大切なのは心よ」というのがあるが、

これが魔女宅を解釈したときに核心となるテーマかと思う。

 

というか、宮崎駿作品全体で本質的なテーマかもな。

ハウルの監督インタビューでも「おばあちゃんになっても、大切なのは心」というのがあったっけ。

 

宮崎駿の世界では、魔法を使うために必要なのは呪文や魔方陣ではなく、

心とか血とか、そういう言葉で示されるなにかだ。

 

作中で、キキは重篤なスランプに陥る。

魔法が弱くなって、飛べなくなる。

それはなぜか。

そして再び魔法を得ることができるのは、なぜか。

 

言葉以外の色んなヒントや伏線が、とても丁寧に配置されていて、読み取っていくと非常に面白い。

図像学(イコノグラフィ)とか、メタファーによるものの見方を練習するのに最良のアニメではなかろうか。

 

まず、ラジオだ。

 

キキは、お父さんのラジオを持ち出してずーっと聞いている。

 

草原でも、空を飛ぶときも、掃除のときも、寝る直前まで、ずっとだ。

 

これは現代で言うところの、スマホ中毒みたいなものに相当する。ラジオ中毒か。

 

冒頭の草原では、魔女であるなら、雲の動きや地面の温度、草の匂い、蜂の羽音に耳を澄ますほうがいい。

天気予報ではなくて、そういう自然のなかから天気に関する直観を得るのが魔女、古来のシャーマン的な在り方というものだ。

 

母コキリは「あなたまたお父さんのラジオを持ち出して」とキキを叱っている。

それは父の持ち物を勝手に使うことを叱っているのでもあるけど、

魔女が、自然や自分の心でなく、ラジオから流れてくる人工的な情報、ニュースやゴシップに耳を傾けることの危険を警告しているはずだ。

 

まあ、「今の時代に合いませんわ」という感覚もある母なので、強制で取り上げることはしない。

キキが自分で気が付かないと意味がないと解っているから、

ラジオを持っていくというキキになんともいえない顔で頷いてみせるんだな。ぐっと堪えて信じて待つ、そういう表情だろうか。

 

キキは、空を飛ぶときもラジオをかける。

ラジオからは、松任谷由美の「ルージュの伝言」が流れてくる。

ルージュの伝言の歌詞は、

不安な気持ちを残したままは街はディンドン遠ざかってゆくわ 

のところは旅立ちの場面に合っているが、

内容としては夫の浮気を義母に言いつけにいく嫁、というキキにはなんの関係もない、ワイドショーのネタのようなゴシップの歌だ。

 

ラジオからは、そういう下世話な噂もとめどなく流れてくる。

ワイドショーやツイッターやインスタ、まとめサイトを延々と眺めているようなもんだな。

 

ずーっとそういうことをしてると、心がどうなっていくか、という物語でもある。

 

先輩魔女が「そのラジオ、消して下さらない?私静かに飛ぶのが好きなの」と言うけど、さすが先輩は魔女の心構えがある。

 空と、風と、星と、夜と、自分と、そういうものに心を澄ませて、溶け合うようにして、飛ぶという魔法を顕現させているなら、

 そこにしょーもないノイズを差し挟まないで、集中できる環境を整えることが、できないといけない。

 

母コキリも、先輩魔女も、ラジオについてさりげなくキキに教えてくれている。

 

ラジオはいったん置いといて、

次に、鏡だ。

 

居候してるパン屋の二階で、朝、キキが窓を開けて髪を梳く場面があるが、

諸兄はここで違和感を感じられるだろうか?、

髪を梳く、というのは普通、鏡の前でやることではないだろうか。

キキは、訪問先でベルを鳴らして、人が出てくる前に髪を整えたり、笑顔の練習をしたりする。

つまり身だしなみを気にする子なんだけど、

そう思ってからよく見ると、あの部屋には鏡がないんだよね~。

お金がなくても、それは魔女として女性として必須アイテムというものではなかろうか。

ていうか手鏡でもいいのに、持ってきてないし。

 

実家のキキの部屋には姿見の鏡があって、それを見ながら母と心についての会話をしているんだけどね。

 

鏡は、自分の姿を写して見るものだ。

自分では見えないものを、写しとって見ることができるようにするもの。

キキは、鏡を見ること、自分の姿を見ることを、忘れている。

象徴的意味としては、自分自身の心と向き合うことを、忘れている。

 

鏡の次に、眠りだ。

 

キキは、ベッドでお金を数えている。

そして眠る直前までラジオを聞いている。

 

眠り、夢を見るというのは、体を休め、

昼の心、顕在意識を休め、

夜の心、自分の無意識と繋がることだ。

 

夜の心、非現実、無意識や超自我のための場である寝所、ベッドで、

現実、物質、即物的なものの象徴である金銭を勘定したり、

寝入るギリギリまで昼の世界、顕の世界のノイズを聞いている。

 

眠り、夢、無意識、密なるもの、精神、見えないもの、心、

そういうものを蔑ろにしてるってことかな。

 

キキは、自分の心に耳を澄ませること、自分の心に向き合うこと、心を鎮めること、

瞑想やマインドフルネスみたいに、心のケアすること。メンテナンスすること。

そういうことを、忘れている。

 

それが、魔法を失っていくということだ。

自由自在を忘れ、心が錆びつき、重くなり、飛べなくなっていくということだ。

 

 

 

ラジオ、鏡、眠り、そういう図像や象徴も説得力のための舞台装置だけど、

心理的にもキキがどういうコンプレックスやストレスを感じているか読み取れる。

 

こっちの方はわかりやすい。

キキは、田舎から都会にやってきた13歳の女の子だ。

都会の女性たちの華やかなファッションと、自分の黒い服を比べてコンプレックス、劣等感を感じている。

同い年くらいの三人のおしゃれな女の子達とすれ違った時、顔を伏せる。

ショーウインドーの素敵な靴に見惚れる。

「この服しか持ってないもん」とか「せめてスミレ色なら良かったのに」とか言う。

 

自立、魔女の修行の一人立ちに関してもコンプレックスがある。

たった一人で知らない街へ行き、イチから住む所や仕事を見つけてやっていく、

というのは大人でもなかなかハードルが高い試練だ。

勇気、憧れ、孤独、不安、複雑な心境があると思う。

 

そこに、お気楽なトンボと愉快な仲間達だ。

地元の友人たちでつるんで、ボロ車を乗り回して、夏休みに飛行機をつくって、

その完成を祝って瀟洒な屋敷で盛装して招待状を出すような本格的なパーティーして、

キャッキャウフフでウェーイwってかこの野郎どもは。

リアルが充実した陽キャ過ぎる。スクールカースト最上位の青春ドラマか何かか?

 

この対比はツライ。

 

キザっぽいイケメンが運転する車の上から、

素敵なドレス着てパーティーしてた同い年の女の子達に、

 

「あの子知ってる、宅急便してる子よ」「へー、もう働いてるの」「たっくまし~い」とか言われて、ぐぬぬ、イラっとしない女の子はいないと思う。

 

トンボや孫娘たちは、地元民で、友人グループがあって、裕福で、まだ働かないで親元で守られている子供だ。

 

同い年で、この差を見せつけられ、さりげなくマウンティングされて、怒るのは当然だが。

 

しかし、そこで怒ったことが、決定打になった。

 

ラジオ、鏡、眠りと、良くない要因を詰み重ねてきたところに、

この怒りで、とうとうコップの水が溢れたというか。

 

 飛行船の中を見せてもらおうという誘いを断って帰った後、

ジジの言葉がわからなくなり、飛べなくなっている。

 

飛べないキキのスランプの様子は、見ていてなんとも心にくるものがある。

 

やみくもに飛ぼうとして、落ちて、一人で思い詰めてしまう。

 

そんな風にもがいている人、たくさんいると思うし、自分もそうだった。

 

小さい頃はかみさまがいて、不思議に夢を叶えてくれた

そういう風に、子供のころは世界と自分とが一体で繋がっている安らぎの中で生きていたのに、

大人になって、色んな常識やしがらみやルールや、こうあるべきという思い込み、ガラクタの思考パターンを山ほど背負って、がんじがらめで、葛藤して、苦しくて、自分が嫌いで、誰かが憎くて、毎日死にたい。

 

そんなことになってしまったら、どうしたらいいか。

 

 

そこで ウルスラ の出番だ。彼女は何者かってことだ。

 

ジジが、「僕はまた、天使にお届け物をするのかと思ったよ」という場面があるが。

 

天使、これは宮崎駿的重要ワードだ。ソフィと同じで、全作品中でたった二度だけのワードだ。

 

黒猫のぬいぐるみは、まずウルスラに届いた。

お届けものを受けとった彼女は、すなわち天使だ。

 

ウルスラは、赤毛に赤い服でカラスと心を通わせる魔女で、

森の小屋で、ずっと一人で絵を描いている。

 

街で、喧騒の中で、自分を見失って行き詰ったキキを、

身ひとつで、森の中へ、自然の中へ連れ出してくれる。

ラジオも箒もジジも何もなし、手ぶらだ。

 

自然のなかで、キキは深呼吸する。そして夜、ウルスラと語らう。

 

キキとウルスラは、声が同じだ。声優が高山みなみ

 

キキとウルスラが二人でずっと話しているのは、

声優がずっと一人芝居をしているという図なわけだが。

 

つまりそれは自分自身との対話、という意味の配役になっているのではないだろうか。

 

キキは街で人と関わり仕事をする、昼の顏、外へ向かう顕在意識のキャラクターで、

ウルスラは森でひとりで絵を描く、夜の顏、内へ向かう無意識のキャラクターだ。

 

ウルスラは、もう一人の自分、無意識、そういう役だ。

それが天使という言葉の意味だと思う。

スピ的にいうハイヤーセルフ、高次の自分とか、そういうことかな。

 

ウルスラてのは少女の守護聖人の名前なんだけど、

作中では一度も彼女の名前が呼ばれることはない。

字幕にするか、キャラ紹介とかを見ないと絵描きのお姉さんの名前はわからない。

それは多分、あえて伏せられてるんだな。

固有名詞がなければ、存在はどこか捉えどころのない曖昧のままだ。

彼女はキキの影、キキの天使と見做せるように仕掛けられている。

 

 

彼女は、色々良いことを言ってくれるけど、

その内容もさることながら、

それが自分自身の内面から訪れた言葉、気づきの言葉であることが重要だ。

インスピレーション、直感、夢の啓示、ゴーストの囁き、自分の魂の真実。そういうもの。

 

キキ「時々ここに来てもいい?」

ウルスラ「うん、私も時々会いに行くよ」

 

このやりとりが何より肝要だ。ここでキキのスランプは解決する。

一人の人間に、昼の顏と夜の顏の両方が、陰陽がほどよく必要で、そのバランスをとることができた。良い関係を築けた。

キキは、自然や静けさに耳を澄ませること。夜は静かに自分の心に、内面へ向かう。そういうことを思いだした。

それで、魔法を取り戻すことができる。再び、空を飛ぶことができる。

 

 心が、自由と自在の境地を思いだす。

目に映るすべてが贈りもののような歓びの今とか、

カーテンを開いた先の、静かな木漏れ日のような世界を感じることができる。

 

ルージュの伝言、ゴシップの歌が、

優しさに包まれたなら、0や空の境地を示す素晴らしい歌になる。

 

キキは街へ戻り、またラジオを携えて仕事をしているけど、きっと今度は大丈夫だろう。

心が自由なら、とめどない情報の奔流の中から自分に必要なものを直感し、受けとることができる。

ラジオでもスマホでも何でも同じだ、便利な道具に振り回されず、主となって正しく使い熟すことができる。そういう心の在り方を会得したと言える。

 

父のラジオ、というのは他にも象徴的意味を解釈できる。

なんでも対立物と陰陽で考えるクセがついてるわけだが、

 魔法が、自然、無意識、夜、森、異界、母、女性性に属するものなら、

科学は、人工、健在意識、昼、街、現世、父、男性性、となる。

 

魔女が、科学の産物であるラジオ、父性的な象徴を持っているというのは、とても面白いアイデアなんだよな。

角野栄子のほうの原作もちょっと読んでみたけど、すごくその辺の感性も頷けるものがあった。

 

対立物を、釣り合わせてひとつにする。

冲して和する、止揚する、0・無限・空と同調して結果、次元が上昇する。

 

そういうことが、ある。

 

魔法と科学の両方をもつキキは、釣り合った天秤であり、完全性をあらわしていると見做すこともできる。

古き魔女以上のなにかに成れた可能性がある。

奇跡とただ共にある、天使となった可能性がある。

 

だから自分は、きっとまたジジとも話せるようになったと解釈しているよ。

 

 

 

 

さて、魔女宅はそんなもんか?

スレのほう見直してないまま書いちゃったから、

あと一記事、そこらへんの補足があればっていうのと、

ウルスラの描いていた絵についても解釈しておこうと思う。 

 

 

 

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ソフィも天使、については、それはもう長い話になる・・・。

 

お掃除も、ハウルでは心のケアをするものとして描写される。

キキはお掃除中もラジオを聞いていたが、宮崎駿的にはノーグッドということだろうか。

 

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魔女の宅急便を解釈する1 女性の一生を描く。

魔女の宅急便 サントラ音楽集

金曜ロードショー魔女宅ゥー!

新型コロナ報道でささくれた心が癒されますな。

 

 魔女宅は何度観てもイイ。最高だ。ジジが本当にかわいい。

子猫らしいかわいさ描写はアニメ界不動のNo. 1と確信する。

 

特に解釈するような小難しいことはない、ただ素直に楽しめばいい作品なんだけど。

 

が、まあ、

ここまで解釈を続けてきた材料をもって見直せば、それはそれで、色々符合することがあって面白いってことはある。

 

 

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宮崎駿の世界観は、初期作から一貫してる、と思う。

これはいったい本人はどれほど自覚して設定を練っているものなのか?

それとも精魂込めた作品はおのずと自分自身の鏡となるということか?

 

 

さて、

まず赤毛のアンでいうところの、ニンジンのような色の髪、オレンジ色の髪、

赤毛=魔女、赤い服や飾り=魔女のアイテム、という前提で魔女宅を観ると、

驚くべきことに、

登場する女性たちが脇役や名もない端役まで、赤毛や赤い服、赤い石のイヤリングをしていることに気が付くだろう。

 

キキの母コキリ、コキリの客の老婦人ドーラさん、占いが得意な先輩魔女、オソノさん、おしゃぶりがないと泣く赤ちゃんのお母さん、最初の依頼人マキ、ケットちゃんのお母さん、バーサ、パイが嫌いな孫娘、ウルスラ、etc・・・

 

家で子育て中の母親が、真っ赤な石の耳飾りをしているというのも多少違和感があるが、あえて描きこまれているとしか思えないし、

 

パン屋のお客さんとか、ほんとに通りすがりの女性までちょくちょく魔女カラーが配色されている。

 

逆に、赤髪でない女性は、キキと、ニシンのパイが得意料理の奥様くらいだ。

キキは黒髪に赤いリボンをしているが、奥様は白髪で装飾も緑系だ。

 

さて、ここからどういう意味を読み取ったらいいだろうか?

 

黒髪のキキは、魔女の才能がないとか?

 

ま、色々解釈はあるかもしれないが、

 

自分はこれは女性の一生、ライフステージを表現してるんじゃないかと思った。

物語全体が、ひとつの象徴的な女性像、聖母と言ってもいいかもしれない。

 

ヒント1は、赤毛の女性を年代別に並べる。

 

キキが13歳の少女。

パイが嫌いでいじわるな感じの孫娘は、ほぼ同年代でライバルのポジション。

先輩魔女はもうじき修行が終わるところ。14歳

ウルスラが16歳くらい、絵描きで手先も器用だ。

マキは未婚の働く女性、デザイナーだという。20代前半。

オソノさんは妊婦、出産まで。20代前半

おしゃぶりがないと泣く赤ちゃんの母、20代中盤

3,4歳くらい?のケット少年を育てる母、20代後半

13歳の娘をもつ母のコキリ、魔女の薬を売っている、30代

中年女性のバーサ、お屋敷の女中、60代

そして白髪の奥様、70代

コキリの客の老婆、ドーラさん(多分彼女もマ・ドーラで母という意味かと)80~90代

 

年代は適当に推測したが、女性のライフステージを網羅する意図がありそうなのは察して頂けると思う。

 

キキ以下の年齢の女性だが、前作トトロでメイとサツキが8歳と4歳だったかな。

サツキとメイも、原案では一人の女の子だったのを姉妹にわけたという裏話がある。

となりのトトロ [DVD]

この女の子が、サツキとメイになる元のキャラらしい。

一人の女性の様々な側面を、何人ものキャラにわけて描く、というアイデアの元はそこにあったのかもね。

ちなみに次作のラピュタのドーラは30代の息子の母なので、コキリより年嵩でバーサより若い。50代かな。

 

もしエンディングで生まれているオソノさんの赤ちゃんが女の子だったら、

赤ちゃんから老婆まで、全年代の女性コンプリートだ。

 

ヒント2は、よく言われてる噂話だけど、キキに初潮がきてる。

パン屋の二階に間借りして最初の朝、不調そうな表情で起きてトイレに行って、パン屋の主人、男性を避ける。

というのは確かにそんな感じの描写だ。

まずアニメの登場人物は意味なくトイレに行かないしなw普通は捨象することだw

キキがトイレで憂鬱そうにしてるイラスト案もある。

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まあ、少女の初潮だけ描きたがったら宮崎駿はただの変態おじさんなわけだが、

女性の一生を描こうと思ったら、そこは避けて通るとウソになる重要なファクターなので致し方なし。無罪判決。

 

人間は、幼児のうちは大して男女の区別が重要ではなく、

第二次成長期が来て、初潮や精通があって、生殖、繁殖可能な個体としての成熟を迎える。

 

それはある意味で、生物学的な意味で、

大人になった、一人立ちの時期を迎えたってことではあるな。

繁殖したら子供ができて親になるもんな~。人間は子育てする生物だ、子育てするなら親になっていくと。そういうもんだ。

 

宮崎駿の描く女性性の力、空を飛ぶ力、受け入れる力、異種と心を通わせ交わる力、魂鎮めの力、子を産み育て、あるいは子を支配する力、

そういった魔女の力というのは、年代やライフステージとも無関係ではないと思う。

 

ニシンのパイの奥様が白髪なのは、髪から色が抜けているのは、体力や気力のように、魔力も加齢によって衰えているってことではないだろうか。

 

以降の作品で、ヒイ様や湯バーバ、サリマンなど、白髪の巫女や魔女も登場するけど

いずれも、力が衰えていると見える描写があった。

 

もし奥様が緑でなく、

赤い石や赤い服を身に着けていたなら、

魔女の力をもっていたなら、得意料理を作れないということはなかったんじゃないかと思う。

電気オーブンは故障しないか、薪オーブンにすぐ切り替えたか、なんとかできたはずだ。

キキとバーサがいたから、薪オーブンを使おうという気になって、料理が完成したけども。

あと、奥様とドーラさんは役目や仕事がないというか、隠居した有閑夫人な感じだ。

 

老婆のドーラさんは赤を身につけることで、衰えた力を補っているのかな。

これはサリマンもそうだった。

 

まあ、奥様は料理は作れなかったけど、オソノさんやウルスラのように、

キキという異邦人、魔女をすごく親密に受け入れてくれてはいる。

そこは魔女的というか、

魔女宅では、孫娘以外のすべての赤毛女性と奥様でキキを受け入れ、自立を支援してるんだよな。

 

キキが初めて海に浮かぶ街に訪れたとき、一騒動起こしてから箒を降りて挨拶するけど、街の人はみんな生温かくスルーという対応だった。

あれが通常の反応というものではなかろうか。13歳の女の子にいきなり話しかけられて、「じゃあウチにどうぞ」とはwwなかなか言わんよww

世の中そりゃ優しくて懐深い人もいるけど、未成年者略取とか世知辛い罪状もあるわけで。

 

オソノさんや奥様の親切さ、親身さは、初対面の他人ではほとんど有り得ない、身内への愛情的だ。

 

物語全体が、赤を身に付けた女性たちと奥様のみんなが入れ代わり立ち代わりして、

娘の自立を支援する母的、キキの自立を支援する女神的、とそういう構造になってるように思う。

一人の母親像を、多数のキャラクターに分割して描いてる、

それを統合してみると個人の容量を越えてるので女神と言葉にしてみたけど、

まあそんな感じだ。象徴的母像、聖母像というか。

初潮がきて、子供から女性になった娘に、

仕事を斡旋して、失敗も見守って、報酬をくれて、やっていけるようになるまで一緒にいると。

 

つまりこれは母性の善性の物語ってことなのかな。

 

そういえば、

グランドマザー効果、おばあさん仮説っていうのがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%B0%E3%81%82%E3%81%95%E3%82%93%E4%BB%AE%E8%AA%AC

 

女性が生殖適齢期過ぎて何十年も生きることが、人間の生存戦略にとってどう有利だったかっていう仮説だ。

たいていの動物は、寿命イコール生殖適齢期だ。


それは母が娘の子育てを支援すること、

経験者のフォローがあることでより子育てが円滑にできるっていうか。
人間の子供はとにかく未成熟で、手がかかるからな~。

たいていの動物の赤ちゃんは、一か月もすれば自力で歩くくらいには育つものだ。

 

グランドマザー戦略は人間だけに限ったものでもない。

シャチやゾウでも年嵩のメスが群れのリーダーだというし、

ダーウィンが来たで見たんだけど、相島っていう島の猫は、母娘が共同で子育てしていた。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=19373

娘が一人前になるまで、母が見守り、手助けする。

娘の子育ても初めてじゃわからないことだらけだし、体調だって万全とはいえないだろう。

人間は脳の発達や二足歩行、両手が使える進化と引き換えに、

胎児の頭が大きくなって母体の骨盤が小さくなって、ひどく難産な動物だ。

そんなとき経験豊富で頼れるグランドマザーがフォローしてくれたら、

母も子も生存率、精神安定度ともに向上するだろうねっていう話だ。

 

ヒトの難産化とグランドマザー効果には相関関係がありそうだなー。

 

母娘の関係性っていうのは、

母息子の関係とは違って、一体化しやすく、またそれが実利になるという側面があるなあ・・・。

 

母性のダークサイド、息子の自立を阻む母はその後の作品で登場する。

ドーラ、湯バーバ、サリマンなどだ。

 

で、そういえばこないだディズニーのシンデレラを解釈したんだけど、

母と娘の確執の物語はあっちのお家芸なんだよな~。

白雪姫、眠り姫、シンデレラ、みんな娘を排除しようとする継母の物語っつーか。

 

魔女宅、母が娘を育て、自立を支援する物語も、

その後の、母が息子を虜にして自立させない物語も、

 

ディズニーの文脈の補完や派生、アンチテーゼとして見ても面白いよね。

ディズニーを見て育った監督が、そこでやりつくされたこととは違う切り口で表現を始めると。

するとそれは時代の波に乗ってるってことになるのかもなあ。

アニメ史にも潮流があるようで面白い。

 

 https://nazology.net/archives/46406#midashi1

 

 

 

さて、次の記事は、キキがなぜ魔法を失ってしまうのか、

そこに至るまでに非常に丁寧な伏線の積み重ねがあるのを見ていきたい。

まじで天才のお仕事で感動することうけあい。

 

 

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一人立ちする、自立する、自由と責任。

Uyuni Magick

 

 

 

今週のお題「二十歳」

 

はてなブログって、一ヶ月放置だと記事書きませんかってメールが来るんだねえ。

 

そんなに更新してなかったとは。年末年始なんだかんだ気忙しかったのか。

 

あらためまして、あけましておめでとうございます。

 

改める、より、新ためるって漢字のほうが好きだな。

 

さて、魔女の宅急便の記事も作成中なんだけど、

あれは「魔女は13歳で一人立ちするんです」ってことで、

親元を離れて、見知らぬ街へ飛び込んで、仕事を探すっていう物語だな。

 

13歳って中一か~。

自分の13歳の時のことを考えると、とてもキキのようにはやれない気がするな・・・。

キキにしても、オソノさんに出会って、グーチョキパン店に居候して、住む所や電話や、顧客の斡旋とか、お世話になりながら、すこしづつ仕事をするってことを学んでいく。

 

子どものころは無心に見てたけど、

大人になってから社会人的な視点でみると、キキの仕事始めは結構ムチャクチャだ。

 

黒猫のぬいぐるみを落としてしまい、ジジを身代わりにするわけだが、

 

客から預かった荷物を紛失、自前の類似品で誤魔化して、後からすり替える。

なんて、一発アウトで信用なくすやつww

 

ま、仲介のオソノさんにしても、依頼人のマキにしても、受け取り人のケットちゃんのお母さんにしても、ぬいぐるみを拾って修理してくれるウルスラにしても、

全員に共通する、ある特徴があって、物語全体でキキの成長物語になってるのでそれはいいんだけど。

 

一人立ちする、自立する、と決意を表明し実行するだけでも、

13歳や20歳では、大変なことで、立派なことだ。

 

最初はやっぱり、色んな人に助けてもらって、失敗もして、少しずつ仕事を覚えていく。

 

自分の心に従って、天職や使命と言えるものを見いだし、その結果に責任を負えるようになるまでは、成人の儀式、イニシエーションを経てからもそれなりにかかるんじゃないかと思う。

 

孔子で言うなら、

吾十有五而志于学、 三十而立、 四十而不惑、 五十而知天命、 六十而耳順、 七十而従心所欲不踰矩

「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」

「三十(30才)にして立つ」(自立できるようになった)

「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)

「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)

「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)

「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」(心の思うままに行動しても人としての道をふみはずすことがない)

 

国語の教科書に載ってたけど、子供にゃ実感としてわからんだろうなww

ま、覚えておいて、その後だんだん自分の人生経験のなかでその意味がわかってくる。

 学びて時にこれを習うってそういうことだと思う。

 

かくいう自分も、精神的な自立の意味が実感として解ったのは最近だ。

 

三十過ぎて、宮崎駿アニメを解釈してたら気がついたと言ってもまあまあ過言ではないwww

 

支配する者を憎むっていうのが、

支配と庇護の裏表と、信じると甘えるの裏表だったんだよなあ。

 

あ、自立に関してなら、最近読み物として面白いブログ見つけたからリンクしとく。

 

信者と書いてカモブログ

http://shinjakamo.seesaa.net/article/455459354.html

 

心屋っていう自称カウンセラーのグループから足を洗った話。

教祖止まりのメンターとスピリチュアルジプシーの共依存関係から、

精神的自立を果たした、実に普遍的で優れた気づきの物語だった。

 

よくあるヲチ系ブログと違うのは、

まず最初に、教祖と信者は共犯で共依存で、
互いに心に足りないものが引き合っていて、
どっちにもメリットがあって離れられないんだと、
需要と供給がバッチリ噛み合っちゃってるんだと、
だから、一概に加害者と被害者ってわけじゃないんだと、

そう書いてあるところから始まって、二ヶ月で書ききってしまうところだ。

 

メンターとジプシー、教祖と信者は、つまり親と子の相似関係なわけだが、
子存在が自立して、自分と親を対等に、かなり客観的に見ることができるようになってる。

 

まあ、なんだな。

 

成人の儀式を済ませたばかりの皆様に伝えたいことがあるとしたら、

 

学生の時期が終わって、仕事をはじめたら、

学生の時とおなじメンタルのままでは病むということだ。

 

親元を離れて、大人になってからも、心のどこかで庇護を求めていると、

メンターやマスター、指導者のような顔をした支配者が寄ってくるだろう。

 

真面目で素直で、大人の言うことをよく聞く優等生だった人ほど、

仕事を始めるとなんでもかんでも背負いこんで病んだりするけど、

 

病むとか、苦しいってことは、何かが間違ってるというサインだ。

 

サインを出しているのは、他の誰でもない、自分自身の心と体だ。

 

だからそこで、誰かにすがって教えてもらおう救ってもらおうとか、

誰かが自分を害してるから苦しむんだとか、他責の思考から離れて、

 

自分の内面へ向かうことだ。

 

何かが間違っているから苦しいと、救難信号を出してくる自分は、

何が正解かも知っている。

 

自分にとっての真実を知っている自分がいる。

 

魂とか、アートマンとか、超自我とかハイヤーセルフとか?

語はなんでもいいんだけど、そういう自分以上の自分か、あるいは自分の源泉に辿りつくことだ。

 

まず、そう決意する。

誰のせいにもしない、自分の人生は自分で決めて、そこで起きるすべてを引き受ける。

 

ほんとうのさいわい、至福の追求、自由自在、空より高く飛ぶ、そんな境地。

 

そんなものが知りたくて、そんな風になりたいと常日頃から思っていれば、

 

帰依を囁く教祖ではなくて、

この世界の在り方をただ明らかにし、

それぞれのペースで一緒に行こうぜ、楽しんで行こうぜ、とゆるく言ってくれる人と出会えると思う。

 

と、そんな感じのことをまたえんえんと書いていきたい令和二年。

 

よろしくお願いします。

 

転生したらスライムだった件を解釈する。優しい魔王の物語。

 

転生したらスライムだった展 大抽選会 当たり ポスター リムル ミリム 転生したらスライムだった件

 

転スラもyoutubeで期間限定無料配信!ウオーヨッシャー!

 

https://youtu.be/HurtjqboeV4

 

これとオーバーロードもそうなんだけど、最近流行りの、魔王が主人公の物語だ。

父性存在が自分の眷属、王国を獲得していく物語だ。

宮崎駿が逆立ちしても絶対描けない、

父性とはどんなものかという理解に最適なので、この機に書いておこう。

 

というか、純粋に面白くてハマる。

スライムのぽよぽよ弾む動きがもうアニメとして見てて楽しい。

人物の内面の描写から、作者の懐の深さがうかがえて癒される。本質的な許しの感覚が描かれる。みんなイイやつの優しい世界だ。

・・・少なくともアニメ化されたところまではw

 

さて、転スラの導入はいわゆる、なろう系の異世界転生モノだ。

主人公は現代社会でゼネコン勤務の会社員、37歳男性童貞。

 

転生によってチート能力を持ったスライムの姿になるけど、

メンタルが、社会で働いた経験のある、ちゃんとした大人であることが重要だ。

オーバーロードもここの設定がほぼ一緒なんだよね。

 

いわゆる少年漫画やラノベの主人公というのは、ほぼ十代の少年だ。

彼らは勇者であり、王様の命を受けて、冒険の旅に出て、魔王を倒す。

 

十代の少年が、父親にどう生きるべきかを学び、家庭の外の社会で自分の力を試し、父親を精神的に越えて自立する。

そういうイニシエーション、心理的な成長の段階が、物語の形になっているわけだ。

 

さて、そこで。

37歳の成人した男性を主人公に据えると、魔王となり眷属を従え、勢力圏を拡大する物語になる。

 

自分の能力で生きていけるようになった男性が、

配偶者を得て子を増やし、あるいは部下を雇って育成していく。

そうやって家庭や会社、自分が舵取りをする集団を繁栄させていく、そういう心理的な成長の段階が、物語の形になっているわけだ。

 

スライムのリムルは、実に寛容かつ鷹揚、理想的な上司の性格をしてると思う。

 

リムルの姿はぷるぷるでまんまるのスライムと、

水色の髪の、中性的な十代の美形バージョンがある。スライムなので無性体らしい。

王、魔王、上司、社長、首領、リーダー、父権としてはそぐわない、意外なデザインで、そこがウケるんだろうな~と思う。

オーバーロードも骸骨の魔王な外見だし。

やっぱ、主人公が厳ついオッサンだと映像的につまんないのかな。中身も見た目もオッサンじゃ当たり前過ぎるし。

中身が成人男性で、見た目が球体や美少年や骸骨という、ギャップが面白いんだと思う。

見た目は子供、頭脳は大人名探偵コナンもそうだけど、ギャップというのはそれだけでドラマになる。

 

転生したらスライムだった件 「リムル=テンペスト」 塗装済み完成品フィギュア

魔物の盟主、リムル・テンペスト

 

Furyu Overlord: Ainz Ooal Gown 1: 7 スケール PVC フィギュア マルチカラー

オーバーロード、アインズ・ウール・ゴウン

 

・・・最近のフィギュアってめっちゃよく出来てるよな。ほ、欲しい・・・。

リムルの足元が半透明なのほんと良く出来てる。スライムから変身しました感でてる。

スタッフオブアインズウールゴウンのデザインまじ立体で映える。カッコイイ。

 

あ~。欲しい~。

いやいやいや。

で、

 

転生したリムルが、異世界でイチからどうやってのし上がっていくのかというと、

まず暴風龍ヴェルドラっていう、広大な土地に加護を与えてて、知名度高くて畏れられてて、洞窟に封印されている高位な存在と、友情を結び、同格として一体化する。

捕食者というスキルで飲み込んで、スライムの体内の異空間に保持する。

 

ここで一気に成人男性の持つ能力とか、積み上げた経験値、築いた地位や権威、そういうもののメタファーをゲットしている。

少年期~青年期でそういうものを得ていく過程の短縮というか、話をてっとり早くするナイスな設定だ。

 

オバロだと、地下大墳墓というゲームの基地拠点ごと異世界へワープしてて、NPCが最初から忠誠度MAXで仕えてくれてる。

 

暴風龍との一体化は、もうひとつ大事な設定のチュートリアルでもある。

名前をつける、だ。

転スラではこの名づけ、というのがずーっと重要なものとして描かれる。

 

 父親なら子どもと血を分けた仲で、師匠なら弟子に技能を教え、雇用主なら従業員に給料を払って、

そういう繋がりをもって、親子や師弟や主従の関係となるわけだが、

 

リムルは、魔物に名を与えることで係累、眷属としていく。

 

ゴッドファーザー、名づけ親となって、魔物たちを子供のような存在として受け入れていく。

洗礼の代父、ゴッドファーザーってのは、名をつけた子どもに相応の責任を負う、親に次ぐ後見人みたいな人だ。人望のある立派な人が頼まれることだ。そういう文化的背景がある。

風の谷のナウシカでも、風の谷の母子が、ユパに「この子に名前をつけて下さい」とお願いしにくるところがあるけど、

それだけで旅人のユパが風の谷でよっぽど尊敬され信頼されている人物なんだなーと分かる、そういう場面になっている。

 

転スラの世界では、基本的に魔物には名前がない。

言語があるのに個々に固有名詞をつけないってのも妙な話だが、

名づけにはそれなり以上の魔素、生命力、精神力のようなものが代償として必要であり、

またそれは一種の関係性を結ぶ契約であることも読み取れる。

オーガ達は名を貰う相手を選ぶ。自分の上に立つ者に相応の格を求める。

 

敵役の魔神ゲルミュッドも魔物に名を与える時「私を父と思え」と言う。

それはただの話し言葉ではない。催眠暗示のようなものだ。

名とともに精神に刻まれる強固な契約で、呪で、力ある言葉だ。

 

異世界に限らず、本来、名というものは、そういうものであるとも言える。

現代では忘れられがちで、形骸化してしまったけれど。

あるともないともわからない、すべてが流転する世界で、

ある事象を、認識し、定義し、固定する。

移ろうはずのものをとどめ、輪郭をひく。それが名をつけるということだ。

それは人の知がもつ本質的な力で、魔法だと思う。

 

生きているとも死んでいるともつかないシュレーディンガーの猫、

粒とも波とも定まらない不確定性原理を、確定する。それが観測のもつちからだ。

名の作用、名の魔力はここに起因する。

 

 

・・・いや、名じゃなくて、父性の話がしたいんだったっけ。

 

異世界の魔物たち、最初はゴブリンの集落が登場するんだけど。

文明レベルが低い。掘っ立て小屋と柵があるだけだ。

現代社会でゼネコン勤務だったリムルは、まずは衣食住の向上という指針を示す。

集団の目指すべき指針を示すのが、父性、リーダーの仕事だ。

ドワーフの技術者を招いて、上下水道から田畑から街道から、文化的生活を整備していく。

 

そう、技術者を招くという発想。これがアニメでは珍しい。

 

リムルの基本的な姿勢は、自分でやるより、人に任せる。だ。

できる人を探してきて、係累に加えて、任せる。

ここが十代の主人公と違うところだ。十代だったらまずは自分でやってみるだろう。

三十代では、技能の獲得の段階から、監督する立場に移行する。

 

そして、起きたことを「俺が引き受ける」で責任を背負う。

 

そんでリムルは放任主義だ。任せた人の自主性を寛容に見守る。

部下にしたベニマルや秘書のシオンが、主のリムルの前にずずいっと出てきて相手と交渉を始めても、諌めることなく成り行きを眺める。

で、色々予想外が起きても顔には出さず、最後に、まあいいか、で引き受ける。

 

そんなイイ上司見たことありますか・・・?

 

そんな感じなので、部下たちはのびのび育つ。

ゴブリンのゴブ太がどんどん力をつけていく描写があるけど、

リムルはその成長を見て驚く。

ゴブ太がガビルに勝った時、本当に意外そうで、ランガやベニマル達の方がゴブ太の実力を知っていた。

 

つまり、リムルはゴブ太が努力してるとこは特に見てないんだな。何か教えたりもしてない。

中間管理職のゴブリンロードや技能者達とか、役職のあるものが役割を果たしてるか、大きな流れが滞りないかを見てて、子供ひとりひとりとかの細部はあんまり見てない。

 

環境を整えて人材を揃えてたら、伸びる子は勝手に伸びていく、あらわれた結果を見て評価する。そんな感じだ。

それが父性の子育てでもある。

濃やかなマンツーマンは母性的な子育てだ。赤ちゃんはそうでないと育たないからな。

 

指針を示し、人材を登用し、その自主性に任せ、責任は負う。

 

そのやり方で、リムルの国はどんどん大きくなっていく。

快い父性の自己実現だ。アニメではだいたいそこがメインなので楽しい。

 

 

転スラはまだ原作が続いてるので、終わり方まで観てからまた解釈できたらな~と思う。

父性がいかに危機に陥り、そこを越えるのかとか、興味あるところだ。

周囲の国家や勢力との軋轢もそうだけど、

リムルの係累、王国の中から、独立する者や、魔王を倒す勇者が出てくるかどうかとか注目したい。

 

ただ、そうだな。

オーバーロードは魔王としてのバッドエンディング路線らしいんだが、

転スラは更なる昇華を見せてくれる物語に成り得る、と思うポイントがある。

 

命題の設定に素晴らしい秘密がある。

命題が正しければ、正解に辿りつける。

真に正しい命題は、答えそのものですらある。

そういうものだと思う。(夢枕獏上弦の月を喰らう獅子より)

 

オープニングやエンディングで、

名も無い物語を拓け とか 物語が今始まった名前を宿して とか 許しあうことの答えになる僕ら とか、そういうフレーズがあって。

この曲は原作のマインドを大事にしてると解るんだけど。

 

そう、転スラには、名前をつける、ということと、許しあう、というふたつのテーマがある。

 

リムルはとても鷹揚だし、そもそも争いは好まないが、

その鷹揚さ、優しさ、慈悲深さ、懐の深さは、敵対することになった者にも発揮される。

 

20万の大軍勢を率いて森を蹂躙するオークロードとの対決が、アニメ14話付近のハイライトだが、

リムルは、飢えるオークの魔王を、まるごと呑み込む。

スライムなので比喩でなく、張り付いて消化して取り込む。

肉体のみならず、その存在のすべてを、だ。

 

心象風景の場面になって、

オークロードもまた父、主、族長として飢饉から一族を救う決断をした過程が描かれ、

長は一族の飢える子たちのため、諦められず抵抗を続ける。

 

リムルは、起きたことの責任として、オークロードには死を求めるが、

彼が守ろうとした者すべては、自分が引き受け守るから、安心しろ。と言う。

 

ひび割れた荒野だった心象は、リムルを中心に豊かな草原と森に塗り替わり、

オークロードは、「飢えは、満たされた。」と言って、リムルに取り込まれる。

 

「飢えは、満たされた。」だよ・・・?

 

それは真に救われた感覚の言葉だ。アニメで思わず涙ぐむこと請け合い。

オークの軍勢はイナゴの群れのように、底なしの飢えに突き動かされる餓鬼の軍だった。

森も魔物も同胞もなにもかも、食い尽くしてなお飢える、地獄が広がるだけの行軍は、許されることで終わる。

 

飢え、という苦しい衝動から解放される。思い込みをリリースする。

 

 

 

名をつける、ということが、無限を仮に確定して有限へ引きだすことなら、

許す、ということは、こんがらがった有限の事象をほどき、無へ回帰させることだ。

 

名をつける、が空即是色で、

許す、が色即是空だ。

 

このふたつを、同時に行使できるとなると、物語がどうなるか。

答えは、どんどん次元が上昇する、だ。

 

プラスとマイナス、陰陽、有と無、左右、対になる原理の双翼が揃えば、どこまでも高く飛翔できる。

 

例えば、リムルの演算スキル「大賢者」は、それだけでも大概チートで万能なスキルなのに、

智慧之王(ラファエル)」そして「神智核(マナス)」と、どんどん統合進化する。

思考加速100万倍とか、量子コンピュータを凌駕するとか、

もうなんか凄過ぎて、そんなんどう使ったらいいのか想像もつかないよーなレベルだが、

大賢者以外のスキルや、他キャラのレベルアップもそんな感じで、さくさく進む。

ラファエルとベルゼビュート、天使と悪魔の両翼のスキルでリムルは飛翔する。

 

どこまで彼らのレベルが上昇するのか、

あるいは異世界の殻をくぐり、無限を見出すことができるかもしれない。

 

深淵、無限、0、空、混元、アルケー、カオス、根源、「  」 そして愛や許し。

 

それは決して言葉にはならないなにかだが、

それでもそれをどんな言葉で表現してくれるか、とても楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

転スラは当然リムル推しだが、鬼族のキャラのバランスの良さもアニメ映えする。

リーダーの赤、クールな青、ピンクが少女で、紫が脳筋怪力巨乳で、白が剣技の老師とか、最高~。オープニング見てて目が楽しい~。

序盤だけだが狼の作画もとてもイイ。わんわん最高。

 

ただしアニメのラスト、テメーはダメだ・・・。

やり直しを要求する。二期か劇場でカモン。

 

 

 

部下の皆さんと一緒にアインズ様マンセーするの楽しい。

部下の皆さんの悪い顔芸が楽しい。

オバロはもっと、人の醜さ、狡さ、残酷さを描くダークさがある。

人間不信になりそうなところを、アインズ様のひとりコントが和ませてくれる。

そんな面白さだ。

 

最近ここからまだまだ続編が出てたことを知る。

一時期、脱オタしようとかラノベは卒業と思って本屋でコーナーに近寄らなかったからな~。

 

 

・・・、しかし、できることならどの物語も、もうちょっとコンパクトにまとまらないものだろうか。

優しい物語なのに、お財布に優しくないよぉ・・・。

 

 

追記

この記事書き終わってから、小説家になろうサイトの転スラ一気読みしました。

いやー面白かった。

 

まさか天使と悪魔を統合進化して、虚空之神(アザトース)まで行くとはww

 

神話の主神クラスまで上り詰め(しかもクトゥルフw)、神様まで倒してしまうとはww

 

時間と空間が交わり果てるところまで至って、そして帰ってきて。

番外編では異世界まで行っちゃってたww

 

なろう版の解釈もまとめて記事にできそうなくらい内容があって面白かった。