天気の子、1/3、21時からテレ朝で放送。
地上波で初視聴の人がうらやましー。
記憶消してもう一回新鮮な気持ちで観たいなあ。
過去記事まとめとく。
小説もDVD周回もしちゃってもう書くだけ書いたけど、
また地上波勢の感想から新しい視点が得られたらいいな。
水没でなくコロナでだが、世界は一変したもんな。
当時とは違う見方になるとしたら、どこだろ。
そういえば、晴れ女じゃなくてアマビエっていうおまじないが生まれたね。
まじないっていうか、願掛けの対象かな。
「晴れますように」が「疫病が収まりますように」くらいの、
本気度は人によってまちまちの、でも誰もがその存在を認知しているジンクス。
効果のほどはどうだろう。雨が晴れたら見りゃわかるけど、
アマビエビフォーアフターを観測するには、比較用に世界がもうひとついるなw
ただ、グッズやアイコンの経済効果もそれなりにあったし、
日本はハグキス文化がなく手洗いや風呂や、室内で靴を脱ぐ習慣、夏の湿気に合わせて通気のいい家屋をつくる文化があったりして、その辺の事情の相乗効果が感染予防になってる幸運はあると思う。
そもそも、病はワクチンや魔除けじゃなくて生活習慣から治していくものだと思うぞ。
人は気軽に願いをかける。
世界には努力ではどうにもならないことが多すぎるから。
でも、タダで誰かが願い叶えてくれることはない。
神社で願掛けしたら、お礼参りに行かないといけないし、
願いを叶える悪魔や精霊は、古今東西必ず代償を要求してくる。
「願う」ということ自体が、目には見えなくても世界へ働きかける力だ。
不特定多数の心から同じベクトルを収束させる、というのは、
実はとても強力なエネルギー源を発生させている。
力やエネルギー、それそのものには善悪はない。
それをどう使うか、という心の在り方が問われるだけだ。
野菜を切るのは良い包丁、人を斬るのは悪い包丁、ではなくて、
包丁は単に道具であり、使う人の目的次第なのと一緒。
私達は、気軽に願を掛けて、それを忘れてしまうほど心の力に無関心だけど。
その力を把握し、律することができたら、
本当は、何だってできる。
空を晴れさせることも、病を掃うことも、
もっと想像できるだけ、もっと素晴らしいことができる。
願掛けの対象を生み出すより、
想像力の果てまで精一杯、眩しい未来を思い描くところから始められたら、ずっといい。
追記!
天気の子を初視聴した方が記事を書いてくれた。
ので、何かもう少し書けそうな気がしてきた。
神話的原型の話でいくと、
冥界や黄泉から妻を奪還するとなるとバッドエンドだが、
祟りなす神や魔物から生贄を奪還して妻にする話、というのがある。
クシナダヒメとスサノオ、アンドロメダとペルセウス、聖ゲオルギウスの竜退治などだ。
この場合だと遠く隔たった世界へ渡るという感じではない。
アンドロメダが鎖で繋がれてる海や、竜の住処の森か荒野かなどは人のテリトリーの外、という意味で異界っちゃ異界だけど。
人と荒神のテリトリーが近く、せめぎ合っている感じだろうか。
天気の子では数ヶ月間雨が降り続いている。
前作君の名はでも雨が降り、山頂の磐座一帯を水で満たすことで、
普段は聖域ではあっても現世だった場所が、幽世と繋がる場となった。
水で満たし、霧で満たすことで世界の境界は曖昧になる。
異界は水と音の世界、現世は空気と光の世界だ。
雨もまた、天から降って地へ至るもの。多少意味は弱くても、
エンジェルラダーや迎え火の煙、硝煙と同じに、天と地を繋げるものだ。
天気の子では、舞台設定から現世と幽世の距離は限りなく接近し、重ねられていた。
いくつかのきっかけで容易に行き来できたのにはそういう仕掛けもある。
それは数百年昔、優れたシャーマンが築いたであろう呪的治水システムだったわけだが。
ノーメンテによるガタがきていた、とも思える。貯水量に限界がきて溢れてる感がある。
環境改善のため生み出された点では腐海と似てるけど、
異なるのは、生態系ほど完成された循環ではなかったってことだ。
こないだまでの三峡ダムみたいなもんww
帆高の元ネタにスサノオがあるのは前記事参照なんだけど、
陽菜とクシナダヒメを結ぶネタがあるかな?と思ったところ、
晴れ女は稲荷系とか、陽菜の目がきゅっと吊り上がったツリ目、狐目で、
クシナダヒメは、櫛稲田姫、奇稲田姫、稲、稲荷。米や稲作関連のイメージはあるかもな。
お願いサンダーも稲妻、雷で清められた土地ではよく稲が育つという伝承がある。
狐はネズミを捕る、お米の守り神。
ヤマタノオロチは斐伊川の神格化、それが姫を食うってのはつまり、
川の氾濫によって流されてしまう田や稲がクシナダヒメってことだ。
しかし、クシナダヒメもアンドロメダも竜に差し出された娘も、みんなお姫様なんだな。
クシナダヒメの親はテナヅチとアシナヅチというが、手を撫で、足を撫で、と可愛がって育てたという意味でもあるという。
ツチ、は蛇のことでもあって、それもネズミを捕る田の守り神だ。
陽菜は、とてもお姫様とはいえない。安アパートで、歳を偽ってバイトして体まで売りそうになって、誰からも世話されない。
陽菜は漢字をみればアマテラスとの関係を見て取れるが、
ひな、という音は、
雛、ひよこ、幼いもの。一人前でないもの。
鄙、ひなびた。都から離れて文化の至らない地、いやしい。
ひな人形、人のケガレを移して川へ流すもの、身代わり、形代。
とまあ、散々な意味ではある。が、全て当てはまってもいるっていう新海誠の名付けの巧さよw
周囲から様々な恩恵を受け、蝶よ花よと育つ美しいお姫様は、有事には最も価値の高い生贄でもあり、
お姫様自身にも「今まで良くしてもらったのだから、恩を返さなくては」という心理が生じるだろう。
でも陽菜は、共同体に返すべき恩なんかないと言えば、ない。
すでに母親を犠牲に取られているし、そこからは弟と二人ギリギリのサバイバルをしている。
今まで誰か助けてくれたか?どれだけ搾取すれば気が済む?自分が逃げて、それで東京が水没しようが自業自得だ。知ったことか。
と自分だったら言っちゃう境遇だと思う。そもそも生贄が人選ミスってんだよなー。
そして、スサノオとペルセウスとゲオルギウスにも共通項がある。
通りがかりの異邦人。共同体のルールも存続も知ったこっちゃない立場ってことだ。
むしろマレビトに望まれるのは良くも悪くも変化をもたらすこと、新しい波を呼ぶことだろう。
島から来た家出少年は、生贄は取り戻すが、
神話の英雄たちのように竜を倒すことがないので、荒神の祟りは共同体を襲うと。
そのように等価交換が成り立ってるというか、そんだけの話なんだけど。
戦わない、受け取らない、エスケープする、敵前逃亡するっていう選択肢は斬新過ぎるっていうか、
この手の少年少女が見るべき物語の基本ルールから逸脱しているので、心理的抵抗も生じる。
「守るべきものに責任を負い、戦う力を得る。壁を乗り越える。」
これが大人になる過程で獲得すべき是であり、
幾多の冒険も試練もそのためにこそ綴られてきたわけだからな。
逃げたのではイニシエーションにならない。
共同体に貢献しないと、成人、構成員としては認められない。
ここは善悪や是否の二元論ではなく、複雑さに耐えないといけないところだと思う。
なんでもかんでも守り続け、維持し続け、伝え続けていこうとすれば、
人はすぐ容量オーバーになる。ルーチンは手抜きを生む。
権力は必ず腐敗し、閉じた系は血が濃くなって奇形を生む。
システムは細分化複雑化して鈍重になり、あらゆる物体は風化していく。
人知で成し得る盤石など無い。
常に変化する世界には、適者生存の理があるだけだ。
複雑系の世界で最適解は流動する。
壊れるべくして壊れていくもの、それは役目を終えたものなのだと、ただ手放すこと。
少しずつ壊して、代謝していくこと。破壊を内包すること。
異なるものを受け入れ、新しいものを生んでいくことで、総体は健やかさを保つ。
創造と維持だけでなく、破壊や否定もまた貢献なのだ。
開発されつくして、閉塞・衰退していく日本を見て育った世代ならではの感性だとも思う。
しかし、何が守るべきもので、何が破棄すべきものか。
環の内側でその庇護と支配を享受しながらそれを判断するのは難しいだろうね。
須賀の言うように、うすうす知っていたけど、知らないフリをして、決定的なことになるまで動けない。
共同体の、総体の、民族の、コミュニティの、無意識で共有される総意。無言の同調圧力。
ユニットである自分たちが、それとは異なる視点を手に入れる方法。
まあ、行動するなら家出、旅に出てみるのが一番だろうけど。
ステイホームでもできる。そういつものメソッドでだ。
陽菜の祈りのイメージも使える。あれだけ幻想的な空を描く新海誠のインスピレーションの感覚を言語化したもの。
そこらのスピリチュアリストの誘導より、その優れた美的感覚こそが、至るべき場所へ至る確かな道すじだ。
深く息を吸い、目を瞑る。
雨と風は私の肌にぶつかり、髪を揺らす。
世界と私は隔てられていることを、肌がはっきりと教えてくれる。
私は頭の中でゆっくり数を数える、いち、に、さん、し、
すると考えている場所、脳のありかがくっきりと際立つ。
その数字たちを私は全身に散らしていく。赤い熱い血に混ぜて数字が頭から体じゅうに流れていくのをイメージする。
思考と、感情が、まざっていく。
私は爪先で考えることができるようになる。
私は頭で感じることができるようになる。
次第に、不思議な一体感が全身に満ちてくる。
私の境界が世界に溶け出していく。
自分は風であり水であり、雨は思考であり心である、私は祈りであり木霊であり、私は私を囲む空気であり。
奇妙な幸せと切なさが全身に広がっていく。
っていう。
思考と感情が混ざっていく、というのはとても興味深い表現だ。
思考は左脳、感情は右脳、陽と陰が巡り、止揚している。
次のくだりで、肉体は陽で、精神は陰、それも反転し止揚する。
プラスとマイナスが釣り合って、0になる。静寂になる。無辺の霧になる。
観測し得る有限を心で捉え、ひっくりかえすと、無限、空(くう)へ至る。
その感覚を得たら、そこでもう一度手放してみるのだ。自分のすべてを。
手に入れてきたすべて、同意してきたものすべて、苦しいものすべて、愛しいものすべて。
恐れも、記憶も、望みも、心も、形も、名も、わざも。
その命、その魂の源泉ギリギリまですべてを手放してみる。
恐れずにいられたら、その最後の光さえ閉じてみる。
そこまで出来れば、もはや共同体の一部であることもただ手放して眺めることが可能だ。
安らぎと静けさそのものになって眺めれば、
あー、なんか別に全部ぶっ壊れてもどってことねーんだなっていう、達観を得ることができる。
明日人類が愚かさ故に滅びようとも、自分の今日を生きることができる。
グランドエスケープだ。運命の向こうへ至って、そこから自分で始める。
何度でも新しい自分になって、新しいインスピレーションを受け取る。
守ろうとか、背負おうとか、戦おうとか、気張ることはない。
そうすべきなら、心と体はすでに動いているから、それに委ねればいいだけだ。
【歌詞付き】グランドエスケープ/feat.三浦透子/RADWIMPS Grand Escape "Weathering With You"
書いてて思ったけど、そういやここんとこのゲームだとさ。
逃げて隠れて、敵を倒すよりとにかく謎を解いて進むっていうシステムあるよね。
ICOあたりからそういうパターンが生まれた気がする。
その辺の感覚を下地に持ってると、帆高の行動原理に馴染みがあるというか。違和感が少ないかも。
敵を倒すのはクリア条件じゃないっていう。
今週のお題「大人になったなと感じるとき」