海獣の子供スレもなかなか楽しくてブログ放置してたわ。
あっちで書いたり思いついたりしたネタだけでもまた海獣の子供記事は書けそうなんだけど。
でもさー、ぐるぐる回るモチーフが頻発することについて書いても、全然その話題広がらないんだよなあ。
わりと凄いことだと思うんだけど。
風向風速計、扇風機、洗濯機、タイヤ、その回転を強調する描写。
海少年の周りを魚の群れが周る。
空少年の話のなかで、水色の粒の渦巻きが、裏返って赤い渦巻きになってほどけて消える。
クジラのソングで目覚めた隕石が赤い螺旋のエフェクト、クジラが青い螺旋のエフェクト。
隕石をキャッチした空少年が渦になる。
海少年も渦巻き、泡になって消える。
その泡にクローズアップすると銀河が回転してる。
誕生祭の海中も渦になってる。
DVDが出たら他にもそういうものがあったかどうか確認したいところ。
こういう図像イメージは多分、物語に仕込まれたいわば魔方陣として作用しているはずだ。
人の無意識への作用、干渉があるはず。
ポニョの筋立てに、タロットが仕込まれているのもそう。
君の名は、の各要素が陰陽とそれを繋ぐものに対応してて、クライマックスで五行の元素が揃っているのもそう。
果てしない物語の表紙に、二匹の蛇が絡むアウリンがあって、前編後編になってて、中が二色刷りになってるのもそう。
その辺も順次記事にしていきたいけど、
そういうの、言うなれば魔方陣なんだよなぁ。作家は物語に魔法を込めている。魔法使いになってる。
魔法、魔術、というか精神に作用するメソッド、見えないものを操作する技術、なんだろうね?なんて言えばいいのか・・・。
GS美神世代だとそういうネタあったけどなぁ、と思い出せる。
ゲームやアミューズメントパークに開発設計から風水やら憑依やら色んなオカルトを組み込む。それで消費者の五感以上の霊感にまで訴えてヒットを出したり、逆にトラブルになってしまったりw
でもとにかく、そういうものはあるし、認識することも使うこともできる。
メソッドに良し悪しはないので、良い心で使わないと危ないけど。
米津玄師のMVは瞑想に使えるクオリティに仕上がってる。
渦巻きは、対極図のエネルギーの循環する動きだ。
海獣の子供でも、魚の群れが二方向から来て交わったり、赤と青を使ったり、
その辺までどうも良く解ってらっしゃる。
一瞬図像が入ってたDNAも二重螺旋だな。そういや。
0、無限、空、原初の混沌。そういうものがあって、
なにか1なるものが生まれる。愛か、全か、道か、有限か、創造そのものか。
そして1なるものは2つに分かれる。陰と陽、光と闇、男と女、天と地、空と海、そういう対になる原理となる。
2なるものが混交することで3、万物が生じるという。
2なるものが混交するとき、再び0から創造を引き出すことができる。
2なるものの混交していく姿が対極図で、渦巻きだ。
渦巻きの映像を繰り返し脳に流し込むことで、0へのシンクロが発生する。
処理向上もするし、ガラクタの思考パターンを手放せる状態も訪れる。
それと意識するほど、効果は顕著になる。精神のメソッドは、つまり意識、認識、観測のメソッドだからな。
そんな話題が広がっていくスレってないのかしら。
アニメ板じゃなくてオカ板案件かな。オカ板にもそんなスレないけど。
そういやスレ見てて、思ったより海獣の子供とポニョの共通点が多いことにも気が付いた。
海の物語、人魚姫、異類婚、パンスペルミア説、次元上昇、新世界誕生、
それから海の古代の女神。グランマンマーレと女神クジラはイメージ的にイコールだ。どちらも泡から生まれたアフロディーテ。ビーナスでもある。
タロットと渦巻き、魔方陣が仕込まれている、オカルトな構造を持ってる点も似てる。
ポニョはタロットのアルカナ順に物語が展開するんだけど、
海獣の子供は、空少年が消えたところから急に物語のテンションが変わる。
海の世界、常ならぬ世界、異界へ陰転する。
そこまでが陸の陽的な青春物語だっただけに落差についていけない人続出w
そこを脚本の破綻だと批評する人も続出w
無理もない感想だと思うけど、自分の二回目視聴についてきた人は、
途中からキャラの目が尋常じゃなかったイッてた、という実に的を得た感想を教えてくれた。
そう、目がね、イッちゃってるよね。
イッてるって、面白い言葉だと思う。
どこに行ってるのか、何を見てるのか、っていう。
常ならぬモノを見て、違うワールドに行っちゃってる。トランス状態で、個の意志が眠って、なにか違うものに接続してそれに動かされているっていうかね。
それが、大きなものの指向と共にある喜びなのか。
それとも、個の意志では抗えない奔流に流される苦しみなのか。
そこなんだよなー。自分的最近のテーマは。
映画で、後半から物語が陰転してしまうのは、対極図をふんだんに組み込んだ副作用ともいえるかもな。
脚本がその構造にひきずられてしまったのかも。魔法ってそういうものだよ。
エンデの果てしない物語もそうだ。後半は鬱展開で、映画ネバーエンディングストーリー2は1より不人気だ。
前半はハラハラどきどきの冒険物語が展開していって敵を倒し、クライマックスは一粒の砂から世界を再創造する。
からの後編は想像の国に訪れた主人公がすべてを失っていき、無意識の坑道の底まで降りていってえんえんと穴掘りという、なんとも気が滅入るというか内省的なことになってる。そこも好きだけどね。
季節の前半で生成発展、春夏で動植物が目覚めて芽生えて繁っていき、外に向かって広がっていき、
季節の後半で崩壊回帰、秋冬で豊穣の収穫から枯れ衰えて眠っていく、内へと畳み篭っていく、というような、
どーしてもそういう感覚がしてきちゃうんだよな。
主題歌、エンドロールの後にまた本編映像が続くのもマナー違反とか批判されてたけど、
それもなんとなく、一度対極図が巡って区切りをしないと、違う雰囲気の語りを入れられなかったのでは?という気もする。
魔法とは、そういうもの、そういう決まりなんだよ。と湯バーバが言ってる気がするわww
魔法使いや魔女になるってことも、いいことばっかりじゃない。
法に詳しくなり、その力を使えたとしても、それは万能ということではない。必ずどこかで帳尻が合うことになる。
やっぱりソフィのような、奇跡に触れられる天使になっていくべきなんだよなぁ。
(この辺の用語は宮崎駿ワールドの定義で使ってるのでハウル記事参照)