メアリと魔女の花も金ローで見た。色んな意味で面白かった。
米林宏昌監督の心、人生がうかがえるというか。
天才宮崎駿の二世として期待されるっていうのは、ほんとーに大変なんだろうなと。
師とその作品を深く愛し理解してるだけに、それを越えるのも容易ではないんだろうなと。
その後マーニーとアリエッティも見たけど、米林監督にはちゃんと作家性も特長もある、才能ある監督だと思う。致命的な欠点もあるけど。
さて、メアリを見てまず思うのは、どこかで見た場面、ポーズ、動きのオンパレードだったってことww
メアリが窓にもたれてるのは、パン屋のカウンターにもたれてるキキ。
森で草むらを抜けるところは、メイ。
箒で飛ぶ場面はキキとそっくりの動きとアングルが何度か。
エンドワ大学のある積乱雲の塊はラピュタの竜の巣。
博士を運んでる灰色のやつは荒地の魔女のゴム人間。
「消えろ消えろ」とか、箒から落ちてころげてもろに顔を打つところは、風呂釜からこけた千尋。
大粒の涙をうけて箒が青く光るのはソフィ。
水色のスライムがカエルジャンプするところはカオナシ、手を伸ばしてくるところはデイダラボッチ。
ラストのピーターの手を本にあてて「魔法なんかいらない」は、もうまんまバルス。
滅びの呪文で愚かなる人の文明は崩壊し、森が、自然が全てをのみこむ。
まだいくらでもある。まるでジブリクイズだ。
これは、なんだろうか。
安易なパクリなのか?ジブリ二世を期待する視聴者のニーズへの応答?
お前らこういうのが見たかったんだろという皮肉?
いや~、そんなひねくれたモチベーションではあんな長編はつくれないと思う。
多分、総決算とか、卒業作品とか、決別の意志表明とか、そういうことなんじゃないかな。
もう二度と真似ができないように、徹底的に真似し尽してやろう、みたいな。
何度も何度も見た好きな場面とか、勝手に手が描いちゃうとかありそうだもんな。
必死でつくったはずなのに、なんでかどこかで見たものの模造品になってしまったりする。
そういうことがないようにするには、一度自分の手で脳内にあるものをアウトプットしてしまうことだ。
ラストで、メアリは髪に残っていた魔法の花を、「魔法なんていらない」と空に投げる。花は、光って消える。
なんかそれが、師の影響、残滓、そういうものを越えたんだ、という表現かもなと思った。
次作のカニーノはまだ見てないんだけどね。また駿オマージュだったら手の平クルーして叩くw
場面のオマージュもそうだけど、メアリは米林監督の駿愛が詰め込まれていて、
更に宮崎駿より、親切な解説のセリフがたくさんあるので、
宮崎駿の世界観を理解する手引きにもなるw
メアリの赤毛をまとめるのが黒いリボンなこと、ツインテがポニテに髪型が変わることなんかもそうなんだけど、
「この燃え上がるような赤毛、古今東西赤毛の魔女は優秀に決まっています、天才だけがもてる髪の色です。」
「猫は魔法に精通している」
これは駿作品すべてを通しての特記事項だw次記事はいよいよコレ書けるww
あとメアリのテーマで重要なのは、
校長「電気も魔法のひとつなのよ」
おばさま「人間には扱いきれない力がある」
メルトダウンする炉心 木々に呑みこまれる実験場
科学偏重への警告、自然回帰、それでも諦めの悪い科学者とかかな~。
そして、「全ての魔法を解く魔法」とはどんなものなのかってことだ。
でもなあ。それらはどれもとてもとても語り甲斐のあるテーマなんだけど。
なんでそれをセリフで説明しちゃうのかっていうと、多分そうせざるを得なかったからなんだよな。
「やっぱりおうちが一番ね」というオズの魔法使いのオマージュや、
男の子に赤毛をからかわれて怒るとこなんかは赤毛のアン、
フラナガンが不思議の国のアリスのお茶会のメンツをひとまとめにしたようなキャラであること、
アリエッティでも秘密の花園が下地になってること、
米林監督には、すごく児童文学的な下地や感性を感じるんだよな。
特に、心情のやりとりの描写が優れてる。
メアリだと、冒頭は親より先にひとりで赤い館に預けられて、やや心細い気持ち、
誰かの役に立つことで自分の居場所を見つけようとして、色々手伝うことを探すけど失敗ばかりで、
それを察したおばさまがおつかいを頼むとすごく喜ぶし、
夕食に帰ってきて「おうちが一番!」とメアリが言うと皆にっこりする、とか。
少年少女のどこか素朴な心の動きが良く解る。
それはキャラの内面が理想像になりがちの宮崎駿とは違う、独自の作家性だと思うんだけど。
それだけにな、多分、科学偏重への警鐘とか、自然への回帰とか、戦争のような描写とか、
そういう過激なことを描くのが向いてないんだな~。セリフで言わせるしかできないんだ。
それと関連して、メカやクリーチャーのデザインが壊滅的にダサい。モサい。
闘争本能が足りてないから、破壊兵器へのロマンがない。怪物へのロマンがない。悪役にスタイリッシュさがない。
博士のメカが何種類も出てくるし、マダムの飛行機械や灰色の鳥とも魚ともつかないクリーチャーもあるけど、
フィギュアにして飾っておきたいカッコ良さというものがない。あのデザインでは絶対売れない。
メーヴェや王蟲や猫バスや動く城や、宮崎駿の造形物は立体にしてもマジ映えるんだよな。
米林監督は、デザイナーと組むか、それとも世界名作劇場のような方向へ進むか、どっちかだと思う。
NHKの子供アニメ枠が宮崎吾郎のローニャだったけど、あの枠は米林監督も狙うべき。
ダイアナウィンジョーンズとか角野栄子みたいな、どこか女性的で濃やかな感性の監督なんだよな。
そういう風に、メアリはつぎはぎでちぐはぐで、なんか良くも悪くも、作った人のことがまず気になっちゃう作品だ。
でも、さすがというか、キャラの行動原理、心理から読むと全く破綻がない、そこは監督の技量がある。
あとそう、世界と世界の境界の表現に、宮崎駿は主にトンネルを使うんだけど、
米林監督は、水や、水に関係するものを使う。霧とか、橋とか、鏡とか。
エンドワ大学のある異世界や森と、赤い館のある人間の世界、異なる二つの世界が接してるところで必ずそういうものが描かれてる。これはマーニーでもそうだった。
グリム童話の世界観だと、現世、此岸は、空気と光の世界であり、
異界、あの世、彼岸、は水と音の世界だというものがある。(出典はコメ欄に)
井戸の底とかに落ちて異世界体験とか、蛙とか水辺の生物と関わる系の話の基底にある思想だ。
海獣の子供でもこの世界観だったな。海と陸、波打ち際で二つの世界が交わる。
胎児は羊水のなかで水を呼吸し、産道を通って空気を吸ってこの世界に生まれる。
あの世に行く時、三途の川とか、ステュクス、アケローンとか川のイメージがあるのも普遍的だ。
トンネルもそうだけど、水に関わるものも、ゲートの表現として相応しい。
心理面は、メアリはわかりやすいし、ピーターも早く大人になりたいとか言うから炉の中で姿が急成長することになったりするのも、わかりやすいけど、
シャーロットやティブに注目しても、ちゃんと背景が用意されているのが良く出来ている。
冒頭のシャーロットが雲を抜けて落ちてくる時、髪の色が赤毛から黒に変わっている。
夜間飛行の発芽の際に、魔法の力を吸われちゃったのかな?
それでシャーロットは魔法を失ってもとの世界に帰れなくなったんだろうけど。
ていうか赤毛じゃなかったら、即おばあちゃん化してた可能性あるな。
一気に老けて白髪になったマダムみたいに。
夜間飛行飛行は周りの生命を急成長させて、その力を吸収して、魔力を多く溜め込んでる花なのかも。
で、メアリはその花を使うわけだから、花が溜めてたシャーロットの魔力の一部を使ってるわけでもある。
浜辺のシャーロットの家の、主の帰りをずっと待ってる喋る灯り、ハチ公みたいで不憫なんだけど。
赤毛か魔力のパターン認証なのか、メアリはシャーロットと同一と認識されて邸内に招かれる。
で、机の上に実験ノートが開きっぱなしになってる。
シャーロットはあれを見てすぐに、実験を止めようと飛び出したんだろうね。
でも、なんで生徒のシャーロットがマダムとドクターの実験ノートを持っているのか?
メアリのように、うっかりこっそり盗ってくることになっちゃったのかもしれない。
キリッとしたシャーロットも、やっぱりメアリとどこか似てるんだろうなと思える。
そして、黒猫のティブだが、あの子は魔女宅のジジのように言葉を話さないんだけど、実はティブはジジと同等かそれ以上に優秀だ。物語の影で、ティブがどう行動したか、読み取れるようになっている。
それは次の次の記事にまとめる。