今週のお題「空の写真」
はてなブログのお題に便乗。
いつも言いたいことを書くだけだがww
空、そらとも読むけど、くう、とも読む。
色即是空、空即是色の空(くう)だ。
空という字は、穴と工の組み合わせだ。
工は虹と同じ工。点と点を結ぶ線だ。
トンネル、通路、道。ある地点と地点を結ぶ、ある世界と世界を結ぶ。
では穴とは?
土を掘った穴とか、木のウロとか。
暗い空洞だろうか。そしてそれはいつかどこかに掘り抜ける。
違う世界に繋がる。天元突破だw
人体にも口とか瞳孔とか耳孔とか排泄孔や生殖器とか、孔、穴がある。
食べ物や光や音が穴から入ってくる。穴に吸い込まれて消える。
排泄されたり、赤ん坊がくぐって出てきたりする。
体内という世界と体外という世界が、穴で通じてる。
地球という世界も、宇宙と通じている。
熱や光や、隕石や人工衛星や、なにがしか双方向のやりとりをしている。
その通路になるのが空(そら)だ。
空というのは穴だ。
古代の人はそう感じた。そう類推した。
暗い空、青い空にぽっかりあいた出口、輪が、ゲートが、月や、太陽だ。
穴の出口、トンネルの出口は、まるくて、明るい、同じイメージになる。
現代人は、あれが天体、球体、星だと先に教わっちゃうからな。
象徴を見るコツは、そういう先入観を外すことだ。
かぐや姫では月から天上人が迎えにくる。
穴の向こうから、違う世界の人がやってくる。
空は、違う世界へつながる通路だ。
空から、月や太陽から、違う世界のものがやってくるとか、違う世界に行けるっていうのは、古代世界に時々みられるモチーフだ。あんまりメジャーではないけど。
星野之宣の漫画に昔そんなんあったけどな。宗像教授シリーズのどれかだった気がする。
天気の子では、鳥居が写って、次の場面ではそこにとんでるという描写になってる。
空の上にどんどん昇ればあの場所があるわけじゃない。
だいたいそんなん寒いし空気薄いしで死ぬし。衛星とかの写真に草原とか写らないし。
あれはこの世の場所ではないどこか、彼岸だ。
陽奈が浮かんでいくのも夢の情景だし。
その辺の誤魔化し方が堂に入ってるよな新海監督はw
もうパっと切り替えちゃうw アニメというかMV的な感覚だ。世代が違う感ある。
あとそう、グランドエスケープの歌詞には太陽がでてくる。
太陽の死角に立ち 僕らこの星を出よう
彼が目を覚ました時 連れ戻せない場所へ
この場合の太陽は、顕なる世界のことだ。
此岸と彼岸なら、此岸の方。
顕世(うつしよ)と幽世(かくりよ)なら顕世の方。
見える世界と見えない世界なら、見える世界の方。
太陽、陽、光、男性、父性原理、文明、秩序、ルール、外へ向かう力。
人柱を選ぶような存在や運命、警察や法律、「大人になれよ」というプレッシャー。常識。そういうものからエスケープして、
幽世へ、見えない世界へ、内なる世界へ。
無秩序と直感の世界で、道標になるものはインスピレーションだけだ。
自分だけの真実、それを見出すためには、ノイズを除くこと。自分を否定しないこと。
ガラクタを手放すこと。ペルソナをはずすことだ。
15才の少女陽奈は、母・大人のペルソナをつけていた。
母を失って、弟がいたからなー。
稼いで、ご飯の支度して、大人っぽく振る舞って、母親になろうとしたんだろうね。
子どものために尽くす、他者のために尽くす。それは美徳だけど。
そのために15才の少女の、素の姿を抑圧してしまった。
ペルソナ、外面をはずすことができなくなった。その延長で、
人柱として望まれているなら、その役目を果たさなくてはと思ってしまった。
こういう状態に陥ったら、内省の時間が必要だ。
現代日本人は、ほぼほぼ全員これを必要としてると思うわ~。
グランドエスケープは素晴らしい詩だ。
これを歌って、背負っているもののすべてを疑え。ノイズを手放せ。
幽世、見えない世界、内なる世界は、音の世界でもある。
内なるものの声、恋い焦がれる声、真に求めるものの声を、そこで聞くことができる。
鳥居をくぐらなくても、静かで落ち着ける場所で、十分目を閉じるだけでもできることなんだよな。慣れれば。
陽奈と帆高が行った場所は、異界でもあるけど内面の世界でもあると思う。
自分が人柱になると知っても悲しそうに笑っていた陽菜は、あの場所で泣いている。
泣きたくても泣けないペルソナがあって、心の中ではずっと泣いていたんだろう。隠された本心のあらわれた場所だ。
そこで「自分のために願って」で、陽奈は「そうしなくてはならない」と思い込んでいた自分を手放すことができる。
人柱なんかに、心底からなりたいなんて思ってるキモチワルイやつはそうそうおらんわw
メサイアコンプレックス気味の人は言われなくても前に出るから、そういうのは人柱とは言わない感じになるしw俺が皆を救うんだ!系のヒーローになるか、
皆を救いたいってのが心底の願いだったら、アルティメットまどかのように自ら人を越え神に近しい者になることだろうw
陰と陽は、巡りながらバランスをとることが望ましい。
ペルソナは必要なんだけど、一人の時は外せるようでないと、だんだん危なくなる。
みんなでつくる社会に参加することと、自分だけの世界をもつこと。
昼の時間に社会と関わり、夜の時間にひとりになること、眠って夢を見ること。
左と右、左脳と右脳、理性と直感、どちらも一個の人間に必要な双翼だ。
そういえば、
挿入歌の大丈夫、で、世界が君の小さな肩に乗っているのが・・・ときて、
グランドエスケープで、どうにかなるさと肩を組んだ、っていう歌詞がくるの、いいな~と思った。一緒に背負うよっていうか、
そんなん背負わなくていいよっていうか。
帆高いいわー。あの無謀さ、ひたむきさが若さだわ~。
・・・・さて。空(そら)の話は前座で、
いつだって自分は空(くう)の話がしたいんだが。助走がいるんだよなあ。
二つの世界とそれを繋ぐのが、空という字だけど。
有限と無限、というのを対なる世界としたとき。
この有限の世界から無限へと、穴のようなものをくぐりぬけたとき、
無限から眺めると、有限というのはすべて虚となる。幻だ。
っていうか、眺めてる視点というものすら存在できない。
すべては満ち足りて、もはやなにもおこらない。どこまでも無辺に平らかだ。
みたいなことになる。
まあなんつーか、瞑想のコツだ。マインドフルネス。
目を閉じた十分でこういうイメトレができると捗る。
ノイズを再生し続けてちゃ、迷想になる。
星々も神々も、法も、すべてをくぐり抜けて越えて、
全知全能、ゆえに零知零能の境地がしてきたら。
陰陽と左右が釣り合って和し、
空の、0の静けさにシンクロできたら。
そこで「手放す」を実行する。
生老病死を、ペルソナを、「そうしなくては」という思い込みを。
過去を、記憶を、恐怖を、疑いを、繋がりを、名前を、
身も、心も、魂すら、順に手放していく。
生まれてきた、存在している、ということは、欠けているということだ。
空なるもの、混元なるもの、完全なるものから分かたれたということ。
欠けているものがなにかを知りたがる、完全性を求める。
回帰することが、魂の希求だ。
それは結局のところ、求めている間は得られない。あらゆる存在の負う業だ。
神ですら、法ですら、存在である以上、業を負う。
自由とか自在とか安らぎ、空なるもの完全なるものの感覚に同調できるのは、
自分という存在を、存在してるということを、意識が手放している瞬間だけだ。
0に等しくなれるのは、持っている+と−がちょうど釣り合っているときだけっていうかね。
・・・そんな感じか?
色即是空で空即是色っていう究極の詩の、展開、解釈だ。
まあ、言葉にしたら、もう一部を切り取ってて変質してるのは間違いない。
これは各々で、意識の操作や身体感覚として得ていくしかないなにかだ。
ほんと、一日十分でいいからそういう事をする時間をもって、
日々やってること、積み重ねてることが求道になっていくと、
生きてるのが少しずつ楽になっていくよ、と伝えたい。誰かに。
あ。空の写真は適当に拾った画像を加工してつくった。
空って、穴で通路なんだ。っていうのは図だとこんなんかな~と。
思い出した。 宗像教授伝奇考の月が空の穴って話はこれだな。
かぐや姫と浦島太郎のやつ。
色々挿入歌があるけど、自分はグランドエスケープが推し曲だなー。