天気の子、二回目行ってきた。やっぱ好きだなー。
前回の記事で、天気の子のアンサーは、
セカイ系の次へ行くテーマ、あるいはアンチテーゼだと書いたけど、
もうひとつ、天気の子はアンチテーゼが込められた物語としても解釈できる。
竜退治、ドラゴンスレイヤーの物語の新しい形だ。
これはもう古今東西、枚挙に暇がない類型だ。いくらでもある。
人々をおびやかす怪物を打ち倒す。ときに生贄にされた美女を救出する。宝物を持ち帰る。
聖ゲオルギウスの竜退治、ジークフリートの竜退治、
竜王はてるてる坊主の起源の逸話、掃晴女にも登場する。
その辺は興味あったらどれもウィキペディアで見れる。
天気の子にも、彼岸の空に、白い竜・・・のようなものが登場する。
あの白い竜は、バトル展開になるラスボス的な存在としては描かれない。
ピーチ姫をさらった魔王クッパのように、恐ろしげな顔で脅してきたりしない。
あの竜には目が描かれていない。目が合わない。何を考えているのか想像できない。話しかけてこない。
コミュニケーションをとれるような存在として描かれていないように思う。
白い竜は鯨の鳴き声みたいな音をたてる。
白い竜は帆高を飲み込む。
陽奈が地上に帰ると、白い竜は力を失ったっぽく落ちてくる。
ま、状況からすると、人柱を受領する水神のようでもあり。
またはあの、水の魚、空の魚の集合体のようでもある。群体っぽい。
水滴が集まって雲になるように、水の魚があつまって雲の竜になってるみたいというか。
作家の冲方丁がブログで、天気の子を見て、
帆高の銃(鉄と火)で白龍(気と水)を撃って倒し、陽奈を取り返してくるという展開はどうだろうかと書いているけど、
それは実に、古典に則った由緒正しき竜退治の物語になる案だと思う。
魔王を倒して姫を奪還する、とても馴染み深い物語だ。
千の類型がある、物語のアーキタイプだ。
もし、天気の子の白い竜に、顔や目があればそれだけで、あれがボスキャラだと認識し、
どうにかあいつをやっつけて陽奈を取り戻すんだろうな~、
と視聴者は皆ナチュラルにそういう展開を予想したんじゃないかなwそう思う。自分達はそういうパターンに慣れきってる。
しかし、帆高のやったことは英雄のように武器をもって竜に立ち向かうことではない。
陽奈を見つけて、手をとって「一緒に帰ろう」「晴れよりも陽奈がいい」「自分のために願って」そういう言葉をかけてエスケープすることだ。
少女や美女が、竜や怪物の生贄、人柱にされるとは言うけどさ、
なんていうか、それ以前に彼女たちを怪物に差し出してるのは村人達で、彼女たちが所属してる集団、共同体なんだよね。
まず彼女たちは、帰るところがない。
見捨てられている。保護されず、閉め出されている。仲間外れにされている。
集団が食われないために、一人が人生を諦めさせられている。
須賀が、「人柱一人でもとの天気に戻るなら歓迎だね。てか皆そうだろ」って言ってたけど。
でもオメー、もし、かわいい娘の萌香チャンや嫁の明日香が人柱だったら絶対そんなことは言わんだろっていう。
須賀は全力で妻子を守るだろう。
親を失った子供、陽奈は誰にも守られてないんだよな。
だから早く大人になろうとしている。
白い竜には目がない顔がない。
新海誠はクリーチャーやキャラデザのセンスがないってのもあるとは思うけどw
なんていうか、神話の怪物や竜も、そもそもは自然の猛威、水害や疫病や飢饉なんかの災禍を擬人化というかキャラクター化したものであって。
台風をキャラにしたら怖い顔になったからって言っても、台風にはそもそも顔はないわけで。
自然現象には、人とコミュニケートするようなスケールの知能はないんだよな。当たり前だけど。
人の都合を考慮してくれるなんてこたーない、自然のサイクルだ。思考の次元が違う。
白い竜はそういう存在だから、目がないと表現されているのかもしれない。
だから、生贄や犠牲や人柱を、必要としているのは、彼女たちを食いものにしているのは、穢れや歪を押しつけて切り離しているのは、
本当は、同じ人間、村人や共同体、人の集合、総体のほうだ。と言うこともできる。
古今東西の竜退治の物語で、本当に退治されるべきだったのは、竜に顔を描いた人間達だったんじゃないのか?
大雨とか顔のないものに顔を描いて、自分達の理解できるものとして扱い、それとの交渉の材料に弱い同胞を差し出したもののほうが、よほど分かりやすくおぞましいのではないだろうか。
竜や怪物は、人の無意識や深層心理の象徴としても解釈される。
顔のないものに描いた顔は、自分自身の内にあるものの投影になるというわけだ。
少年、英雄が真に立ち向かい、越えて統合していくべきものは、それだ。
白い竜は、悪意を感じる干渉や妨害をしてこない。
陽奈は、帰りたいと、自分のために願う。それだけで帰ってくることができる。
ほんと、たったそれだけで帰って来れるのに、それができないほど15才の少女の心を追い詰めたのは、
「人柱一人でもとの天気に戻るなら歓迎だね。てか皆そうだろ」とか、
「大人になれよ」とか、「子供だけで暮らしてるっていうのはちょっと問題なのよね」とか、
そういう人間の社会の方だ。同調圧力、常識から外れたもの、アウトサイダーへの不寛容というか。
親がいなくてバイトをクビになってお金なくて、どうみても未成年なのに風俗にスカウトされてな。職質されて、大雨の日にホテルをたらい回しにされて。
天気の子で描かれる東京は、陽奈や帆高を突き放す。冷たいところだ。生きにくい。
「世界の形を決定的に変えてしまったんだ」というセリフが、
二回目の視聴では違う意味に聞こえた。
東京が水浸しになったのは、ただの因果応報だ。人柱システムをやめた反動がきただけ。先延ばしにしてきた800年分だかのツケを払って、
世界は、元通りになっただけだ。変わってない。
二回目の視聴では、
世界なんてもともと狂ってる、の須賀説より、
世界はこれで元通り、の立花おばあちゃん説をより推したくなった。
陽奈と帆高が変えたのは、彼ら自身が見る世界の形だ。
生きにくい冷たい街を、「東京って怖えー」を、
大切な人に会える世界、そこで生きていける、大丈夫と思える世界に、変えた。
心を変えれば、解釈を変えられる。
昨日と同じ世界に、違う意味を見ることができる。
自分のために願うこと、自分を愛することを取り戻せれば、この世界は姿を変える。
それは何者かを倒して、勝利によって得られるようなものではない。
もっと本質的な変容で、精神的な自立だ。
竜退治の物語は、人間が自然を征服したり、技術を以て制したり、開墾とか治水の伝承としても見ることができる。
ヤマタノオロチは、八又の首をのたくらせる恐ろしい大蛇というのは、洪水をおこす斐伊川のことだ。
それも江戸時代には川違えの工事によって治められている。とっくの昔にだ。
もうね、人が住んでるところのあらかたでは、竜退治、神殺しは終わってるんだよね。
その辺はもののけ姫の記事でも書きたいけど。
だから、いつまでも退治すべき竜を求めるような精神構造ではいけんのかもね。
地球は球体で、限りある惑星なんだから、どんどん開発できる場所はなくなっていっちゃう。
敵がいくらでも出てきてどこまでも能力がインフレしていくバトル漫画じゃあるまいし。
いや、そういう漫画も好きだし、地球を開拓し尽したら次は宇宙だ!みたいなイケイケな考え方も少し前まであったような気がしなくも、なくもなくもなくもないけども。
外へ敵や何かを求め続けるのは、いずれ限界が来る。
環境か自分の精神か、どちらが先に壊れるかは分かんないけど。
現代っ子はもうそれを肌で知ってると思う。
宇宙開発や月面基地なんて昭和なドリームは語られなくなった。無人探査機の予算すら仕分けされかねないのが現代の感覚だ。
天気の子とか、ハウルの動く城とか、
バトらないで、内面から世界を変えていく話のほうが、
自分が求めてて、新しくて、時代に合ってる物語のように思う。
竜は、もはや倒すべきものではない。
人類単位で意識の段階が進み、象徴の意味するものが変化した。
今は、竜や怪物のようなものを恐れていた、自分の中の思い込みのほうを手放す、それだけでいい。
怪物は去るか、敵ではなかったということになるだろう。
世界の形を変える方法はそれだ。
それが新しい竜退治譚の文脈だ。
まあ。そんな風に思ったよ、っていう、それだけの話。
冲方丁の話はここから読んだ。
http://blog.esuteru.com/archives/9352463.html
冲方丁は割と好きな作家。
天地明察は白眉。マルドゥックスクランブルも好き。サイコパス二期も良かった。
最近の時代劇路線よりSFが好きだけどなー。
確かに、帆高のアイテムが銃から手錠にチェンジした意味は…?
銃を竜に向けたらそれは対立だ。
天気の子は対立でなく自立の物語なので、銃は手放していい。
手錠を陽奈にかける案は自分的には却下だ。
陽奈を自己犠牲精神の呪縛から解き放って、心が自由になる物語なのに、また手錠なんかかけたら台無し。
とするとだ。
ひょっとしたら高度な文明で加工された鉄を身に付けてたから、帆高は白竜に飲まれたけど、消化されずに済んだのかもねw
鉄まっず!こんなもん食えるか!ペッ!
って異物として排出されて、それで陽奈のところに行けたのかもよ。
100%生身の少年では自然霊に溶けて一体化しまったかもしれない。
手錠や、それに付いてる鎖は、
文明の世界、太陽の世界、此岸の世界との結び、絆、切っても切れない繋がり。縁。帰り道、道標。
そういう意味のアイテムだったのかも。
君の名はの時の、どこかのインタビューで新海誠は、結びを必ずしも肯定的なものとはとらえてないと言ってた。
それは逃れ得ない面倒なしがらみや義理でもあると。
絆と束縛、それも表裏一体の陰陽だ。
だから手錠という捕縛の道具、マイナスイメージのあるもので繋がりを表現したのかも。
冷たい鉄の鎖によってつながれる縁も、
美しい絹糸の組紐によってつながれる縁も、
まぁ、同じものの表と裏だ。禍福は糾える縄の如しだ。
リーゼントの刑事と結んだ「クソガキ、捕まえてやる!」という縁も、やはり縁には違いないw
それを辿って帰れる此岸からの呼び声だ。
手錠という座標によって、陽奈と帆高は、正しくこの世界に戻ってこれた。
という解釈でどうか。
神隠しに遭うと、
帰ってきたとき時間や場所がズレてしまってる。というのはよくある話だからなぁ〜。
浦島太郎とか千と千尋とか。
小学生の弟が待ってるんだから、ちゃんともとの時間に帰ってこないといけない。
陽奈のハサミというのは、掃晴娘の話で娘は切り絵が上手かったってところから来てそうな気がする。
紙を切って、形を変える。人や動物や何かを模する。
豆苗やネギを育てて切る。包丁を使わない料理は、大人や母を模しているけど、どこかちぐはぐというか。
チャーハンにポテチやらサラダにチキンラーメンっていう発想がなぁ。なんていうか子供だよな。
三十過ぎると、ジャンクフードを避けるようになるw年でww胃がもたれるからさあww
若い頃はああいうの平気でいくらでも食べてたし旨いと思ってたなぁ…。
新海誠はあの年齢で良くそんなこと描けるな。その感覚すごい。
猫のアメは二回目よ〜く見てても、特になにもしてなかったわw
捨て猫の境遇が須賀と帆高をオーバーラップさせるだけ…、にしか見えない。
帆高が署から逃げて刑事が須賀のところに来て、
須賀がアメを外に出す、そこからアメがなにかするのかと期待しちゃうけど、なんもしないw次の登場は3年後の貫禄のアメさんwかわいいけどw
君の名はでテッシーの犬も特に何もしてなかったしなー。
新海ワールドでは動物の扱いはそんなもんなのかなぁ?
天気の子ではワンシーンだけのモブもしっかりキャラデザされてる感じがあって、
その辺がセカイ系からまた先へ進んでる感じだと思うんだけど、
猫のアメもそういう世界の豊かさを示す一環なのかな。