坊ってさ、つまり子供部屋おじさんってやつだよね。
いやーそんな言葉が流行る十年も前から、子供部屋で大きくなって自立できないおっさん達を、あんな愛すべきキャラクターに仕上げていた宮崎駿の先見性と言ったらw
明日は千と千尋の神隠しの放送がある。また金曜ロードショーでジブリの季節だ。
去年のハウルで何かに目覚めてスレ立ててから、スレ3つ書き潰して、ブログに移行して、そんなこんなで一年経つな。
でもやっぱり、千と千尋は見てて楽しい映画だよなあ。
もののけ姫の後、詰め込みと血みどろの後の作品だから、作品全体にその反動のカタルシスがある。解放感と気楽さ、軽やかさがある。
ゴリゴリの戦争と神殺しのシリアスでへとへとに疲れたから、ちょっと温泉でゆっくり骨休めをするような物語がやりたくなったんだろうなっていう。
もののけ姫で、人間の文明や開発によって現世、顕世、此岸、この世から追いやられた産土(うぶすな)の神々、
モロや乙事主やシシ神はどこに行ってしまったんだろう、ていうアンサーでもある。
川を埋め立てられたハクもそう。ハクはモロやシシ神と同じだ。
この世界での居場所、依り代を失った神々はあの世へ行く。異界、幽世、彼岸。そういう場所だ。
油屋はそういう場所にある。八百万の神様達が疲れを癒すお湯屋だ。
あそこで、モロや乙事主も湯浴みして酒盛りして浴衣でゴロ寝して憂さを晴らしたんじゃないかと妄想するとなごむけども。
カスガ様やオシラ様は祀られてる神様だから、屋形船で川を渡って此岸と彼岸を行き来するけど、
祀られなくなった神々、忘れられた古き神々は、おそらく湯屋より先、線路の向こうへ去っていくんだろう。
その湯屋の女主人が魔女というのが、とても面白い宮崎駿独自の設定だと思う。
魔女、というのは宮崎駿作品を通して語れる設定だ。
以下の記事にだいたいまとめたけど、
湯バーバのトピックだと使い魔から見ていくと面白い。
油屋の従業員は、カエル男にナメクジ女、カマジイがクモだ。
魔女の眷属っていうのは、そういう暗がりにいる小動物だ。
坊がネズミ、ハエドリで虫系、リンはイタチかテン、ハクが子供の竜でヘビと見做して、
なかなかオールスター感があるが、
何と言っても魔女のマスコット(護符)として重要なのはネコ。次点でカラスだ。
魔女の宅急便でもキキは黒猫のジジ、ウルスラはカラスをマスコットにしている。
で、湯バーバを見てみると、カラスは湯バードがいるが、ネコがいない。
猫のいるべきところにいるのは、カシラとかいう転がる緑色のおっさんの頭だ。
意味不明の造形だけど、あれは多分、猫の不在の強調ではないかな。
跳ねて転がるボール、猫が好きな、じゃれつきそうな動きだけがあって猫がいないっていう。
湯バーバは、猫を従えていないこともそうだけど、色々と魔女としては、らしくないところが目立つ。
一応魔女のテーマカラーの赤と黒、赤い宝石や黒いリボンも身に着けてはいるが、服は基本青系だし髪も白い。
そしてゼニーバだ。双子の姉と言うけど、服や装飾まで一緒だ。
普通に考えたらあれは同一人物、分身、分裂、ドッペルゲンガー、そういうものだと思う。
ゼニーバのライフスタイルで、あの服装や指輪はおかしい、不似合いだ。
ゼニーバの家には畑があって、綿か麻か、繊維を縒り合せて糸をつむいで、染色して、機織り機で織る。加工の過程の一揃いが見てとれる。
あの家に住むならもっと素朴な服でエプロンとかしてそうなものだ。
宝石がついた指輪とか作業の邪魔でしかない。
湯バーバとゼニーバの関係性を考察するのも面白い。
なぜ、湯バーバはゼニーバのところから契約印を盗みたかったんだろう?
なにか、姉妹間で不当な契約が成されてて、それを反故にしたかった、という仮説はどうだろうか。
湯バーバは、見た限りどうも働き過ぎだ。
夜は油屋を取り仕切り、朝から湯バードとどこかに出かけている。いつ寝てるんだ?
湯バーバの居る最上階は仕事場の書斎や風呂場や台所や子供部屋は出てくるけど、
寝室が出てこない。寝室自体があるのかないのかはわからないが、湯バーバは休まないというイメージなんじゃないかな。休息の場が描かれない。
そして、従業員の監督や客あしらいは実に堂に入ってるが、
なんとなく金勘定に関するところでヘマが多い。
オクサレサマをもてなすところではなかなか職業意識の高い女将っぷりだったのに、
カオナシの出すニセの金には目が眩む。
出納帳や帳簿や金貨が雑に積み上げてあったり、宝石をやけに入念に鑑定してたり、
湯バードと帰ってきた時、チャリンという音のする袋をもってるんだけど、ちょっとコケたりしてる。金策に出かけてたんだろうか。
そういうことが得意じゃなくて手間取ってるのかな〜という印象だ。
ゼニーバ、銭婆。銭の、金の勘定をするスキルを持ってそうな名前なのは姉のほうだが、
姉は田舎で金とは無縁そうなスローライフを満喫している。
つまり、湯バーバは、ゼニーバのぶんまで働いているのでは?働かされているのでは?という気がしてくる。
「あたし達、二人で一人前なのに」とゼニーバは言うが、
もともと、湯バーバとゼニーバは、油バーバという一人の魔女だったという仮説はどうだろうか。
で、油屋の経営が忙しくて猫の手も借りたいというのに、猫がいない。
そこで彼女は自分を二人にすることを思いついた。
金勘定や帳簿、モノを扱うスキルは姉、ゼニーバに。
差配や接客、ヒトと関わるスキルは妹、湯バーバに。
それで二馬力になってうまくいくはずが、
元の彼女は「もっと儲けたいねえ」と「田舎でのんびりしたいねえ」というような二つの相反する想いも持っていて、その想いも二人の人物に分かれて渡り、そして均衡は崩れた。
姉ゼニーバは、妹湯バーバを騙して、自分のぶんまで働かせる契約を結ぶ。
「そういう決まりなんだよ」というセリフがあるが、誓いや契約、そういうものを重んじ、逆らったときの恐ろしさを知るのが魔女、魔なる法に連なる者の態度というものだ。
いやー、ゼニーバは怖いねww
あるいは、妹は現世利益、金銭、豪華な内装など、物質的な豊かさを追い求め、
姉は精神的な豊かさを追求している、とみてもいい。役割分担だ。
そもそも魔女としては、後者のほうが本分ではあるはずだ。
魔法の道を究めんとする者、研究者だ。
ゼニーバの家には、染色や糸巻きから、植物を織物に加工する過程のすべてが揃っている。
過程を省略して、結果を現出させるのが魔術だとするなら、
その過程のひとつひとつを確かめていく、というのはなかなか丁寧な修行法に思える。
魔術が文明や科学でも同じだ。
今、蛇口をひねれば、っていうかレバーを上げるとかセンサーに手をかざすとか、それだけで水が出るのは当たり前だが、
平安時代の人が見たら、まさに魔法だと思うだろうねw
あまりにも進んだ科学は魔法と見分けがつかないってやつだ。クラークの法則だっけ。
でも手をかざすだけで、きれいな飲める水がいくらでも出てくるようにするには、
かなり多岐にわたる技術が必要だ。治水、浄水、金属加工、土木、配管・・・。
個人レベルでやるなら、井戸掘って竹の樋でなんとかするってところからかな・・・。
車の運転ができるってことと、車を作れるってことは必要な知識と技能のレベルが全然違う。
スマホやPCを使えるってことと、それらの仕組みを理解してるどうかは全然レベルが違う。
魔法でも一緒だ。使えるのと精通してるのとではレベルが違う。
ゼニーバは車やPCの自作ができるレベルの追求をしてる人ってことだ。
「魔法でつくったんじゃ何にもならないからね」と言って、髪飾りを編んでくれるのにはそういう重みがある。
プロに専用PCを組んでもらったくらいの有難さだろうかw
ジャパネットに電話一本で届くノートPCとは相当のスペック差があろうというものだw
「あの魔女はこええぞ」と言われてた割にフレンドリーで、サービスのいいゼニーバだが、ただ優しいわけではない。が、イーブンな取引ができる相手ということではある。
千尋のほうもそれなりの態度で手土産をもっていってるからそういうことになる。
手土産は、カオナシだw
ゼニーバとカオナシってのは、ベストマッチングなパートナーだ。
次作のハウルではサリマンと金髪小姓がその関係だけど、
つまり支配するものと、庇護を求めるものっていうかね。
カオナシは、自分の意見、意志、主義主張をもたない。自分の言葉もない。
青蛙を食べて初めて喋り出す。人がやってることを真似することはそれなりにできる。
自分のなかにはなにもなくて、指針や安心を外から与えて欲しがっている。未熟な精神の在り方、その象徴の存在だ。
青蛙や食べたものも全部吐き出してしまうけど、そもそもカオナシはなにかを食べて消化して身に付けるとか、糧にして成長する、ということが出来ないような気もする。
だから「あなたはどこから来たの、来たところに帰った方がいいよ」という問いがクリティカルヒットになる。
来し方行きし方、自分なりの人生の指標。そんなことは考えたくもないのがカオナシだw自らと向き合う段階にない精神だ。三次元存在になりたての初心者。
それがなぜああも愛されるキャラになるのかはまじで謎www
湯バーバや油屋の連中は、カオナシに金を出させたければ、ただそう命令すれば良かったんはずだ。
おだてるのは悪手だ。おだてられてもカオナシは嬉しくない。認めて欲しい自分というものがないんだから、だんだん不安になる。
カオナシの主人になってやって、がつんと命令すればカオナシは喜んで金を出したはずだ。まあ真似事しかできないんだけど。
湯バーバにはそれがわからないが、ゼニーバにはそれがわかるらしい。一枚上手だ。
物語開始時、湯バーバ&ハク VS ゼニーバ のところが、
おまけに坊との友好関係を築き、油屋はカオナシが暴れて大損害、紙人形で油屋の内情偵察まで、戦況が劇的に変化してる。
契約印も使われず返却されるしで、
これは絶対、ゼニーバは笑いが止まらない状況のはずだw
千尋が直感に優れた子であったこと、油屋でリンや湯バーバに何度も礼儀を教えられたのは絶対に必要なことだった、それでゼニーバに対等の相手として認めてもらえた。
いくら利をもたらしても、それで交渉のテーブルにつけるか、
ネギ背負ったカモとみなされて美味しく頂かれてしまうかは、
どうしても個人の器量によるところになる。そういうものだ。
姉妹の確執はかなりゼニーバが有利になったところで、
物語終了後、湯バーバとゼニーバの関係はどうなるのだろうか?
この姉妹は、同一人物の二つの側面、陰陽で裏表で、両翼だ。
魔女宅でいうキキとウルスラだ。街で人と関わり暮すキキと、森で一人で絵を描くウルスラ。
この二人は、適宜、二人で対話すること、交流し、ひとつになることが望ましい。
昼に他者と関わり仕事をし、夜に一人で静かに自分を見つめること、一人の人間にその両方が必要なように。
気が合わないのは無理もないけどwいがみあい押しつけあうようでは結局どっちもダメになるだろう。拮抗と統合が、いつかは必要になる。
つーか、そういうことをしてるから、親としてダメ過ぎることになる。坊がああいうことになってしまう。
「おんもに出たら病気になる」と吹きこんで塔のてっぺんの子供部屋に閉じ込めて、
母親がしわしわの婆ァになり、赤ん坊が成長して大人にならず赤ちゃんのままでっかくなる。
よく考えたらそれは、
ええ・・・それ何十年経ってんだよ・・・っていう、
そらおそろしい話だ。毒な親だ。子を支配する母性だ。
坊も湯バーバも、何十年か前の最初は普通の母子だったはずだ。
子を監禁してスポイルしてしまっている。甘やかして成長させないでいる。
歪な年月が外観にあらわれているんだと思われる。
なかなか闇が深いテーマなんだけど、
シリアスに全振りのもののけ姫の後だから、反動でなんとなくそのへんがコミカルに済んでしまうんだよなw
そしてそのテーマはハウルに引き継がれていく。
坊の赤い前掛けには「坊」ってでかでかと書いてあるけども。
名前が重要なファクターである千と千尋で、それはなかなかに意味深な気がする。
赤ん坊を象徴するアイテムである前掛けに、坊という、赤ん坊への呼びかけを名前として記し、ずっとつけておく。
それは、成長しないように、大人にならないように、赤ん坊のままでいるように、という呪い(まじない)、魔術ではないだろうか・・・。
湯バーバは息子に名前をつけていないってことまであり得るな・・・。ずーっとママのカワイイ坊やよ、って呼んでたんだよ。魔なる力を込めてな。ウヘァ。(;´Д`)
坊は、自分で自分に名前をつけるといい、
それできっと子供か大人かに成長できるだろう。
マルクル、という名前をつけて次作に登場してもいいわけだww
まだ色々トピックあるけど、ここまで長くなったし次の記事にしよか。
マルクル=坊という解釈の過去記事。
車を作るっていうと、現代では想像しにくいけど、
YouTubeで無料配信中の名探偵ホームズみてると、あのステキな自動車はよく故障するし、ホームズはそれを自力で修理してる。
修理キットも積んであるし、下宿のガレージでもメンテしてるようだ。
ひと昔前は、車もまだシンプルで法律関係もめんどくなくて、おじさんの趣味でいじれたんだよなぁ。今だといじれるのはバイクくらいか?