何度でも繰り返し観ていい作品だと思う。
子どもの脳内に刷り込み、日本人の無意識に浸透させるべきw
さて、色々トピックはあるわけだが。
物語の最初のイライラポイント、千尋の母親冷たくね?っていうのから書くかぁ。
もうなんつーか、あからさまに娘に冷たいよねー。
それが見てとれるところは多々ある。
トンネルで、千尋は母の腕に手をかけてるけど、普通の母親はそこで十歳の娘と手を繋いでくれるもんじゃないだろうか・・・。
腕に手をかけることを拒みはしないが、手を繋いでもくれない、そういう距離感の母親だ。
川を渡るところで父とイチャついて「あら本当ね」からの「千尋、早くしなさい」の表情の変化とかもあからさまだ。父にはデレで娘にはツンだ。ツンツンだよ。
この母親なー。
しかしまあ良く見てると、無理もないか、と思えてくる。
千尋のなー、直感が正し過ぎる。直観力があり過ぎる。
宮崎アニメの主人公の、わりと標準装備な能力ではあるんだけど。
ハッとした表情になって、そしたら必要なことが解ってる、みたいな。
英雄でも魔女でもない、ごく普通の女の子としてデザインされた千尋の、唯一のスキルと言ってもいいw
知識も武力も処世術も美貌も何も持たないただの子供の、唯一もてる能力だ。
この閃きの力と素直さだけで、見知らぬ世界で成長し親を救出して帰ってくるんだから、あふれかえる異世界系アニメのチートスキルのバーゲンセールの中で比較してみても、なかなか有用なスキルだと言えると思うよw
千尋には、トンネルの先に行ってはいけないことも解るし、
並べられた食べ物を食べてはいけないことも解る。
オクサレサマの異物を取って欲しいという訴えも解るし、
ニガダンゴの使いどころも解る。
竜がハクだということも解るし、
油屋の玄関に並んだ豚のなかに両親がいないことも解る。
なんかもー、なんでもピンときて解っちゃう。そしてそれは理屈ではないんだな。
異世界でパーティを組むなら是非欲しいキャラだけど、
ごく普通の親がこういう子を育てようと思ったら大変だろうね。
千尋の母は、なんていうか理性派?左脳派?
千尋の父が、アクセルをどんどん踏んでどこでもぐいぐい行っちゃう積極的なムードの人で、
母はそれにブレーキをかけてる「やめてよ、そうやっていつも迷っちゃうんだから」とか「引越センターのトラックが来ちゃうわよ」とか。理由を言って父を止めてる。
まあ、父の積極性に流されることを楽しんでもいるようなので、カップルとしてはバランスが良さそうだけど。
情動のハウルと理知のソフィとタイプとしては同じだ。
この母にはいつでもそうすべきだということに理由がある。
千尋の閃きには理由がない、なのに、結果をみれば正しいのはいつも千尋のほうだ。
これは、合わないタイプだ・・・。
母の立場になってみたら、千尋は育てにくい子に違いない。
「勘のいいガキは嫌いだよ」というのは大人の真理だww
親の都合や威厳が何度まるつぶれになったか想像に難くない。
それでああいう風にやや突き放して命令するっていうのが基本姿勢になるんだろうけど。
まぁなんとか距離感を測って育ててるだけ偉いわ。
少なくとも湯バーバの百倍はマシな母親ではあるw
しかし千尋は誰に似てあんな子なんだかw
母は左脳派なら、父は右脳派、そして直観、閃き、啓示、インスピレーションは両脳が同調、シンクロしたとき発現する能力、というところか。
ニガダンゴの使いどころだが、あの丸めた草か泥のような地味~な見た目のダンゴは、
実は作中で最も神格の高いキャラがくれたラストエリクサーなみのスペシャルなアイテムだ。
半分に割ったものでカオナシの食べた従業員全員を吐きださせることができるし、
ハクの体を食い荒らしていた2種類の呪いの両方を消すことができる。
はんこを返しにいったところでゼニーバが
「あんたこれを持っててなんともなかったかい、あれ?守りのまじないが消えてるね」
「その虫はね、妹が弟子をあやつるために竜の腹に忍び込ませた虫だよ。」
と言う、ここがちょっと見てて混乱するんだけど、
千尋が踏んでエンガチョした虫は湯バーバのものだったらしい。
ではゼニーバのまじないは?
あのはんこにまとわりついてて、床にしみて消えてしまった黒いタールみたいなものがそうだったってことかいな。
ニガダンゴは、とにかく異物のすべてをデトックスしてくれる霊薬のようだ。
名のある川の主から異物を取り除いた千尋に与えられる御礼として相応しい気もするし、
つーかじゃあ川の主は自分でニガダンゴ飲めばよかったんじゃねーのって気もするww
まあ、多分、ニガダンゴは川の主がずっと持ってた宝物というわけではなく、
川の主の、ケガレから解放された喜びの気持ちや、あの出来事や縁が形を成して生まれたものなのかもね。
名のある川の主も白い竜で、ハクも川の神の白い竜なわけだが、
竜、というのは蛇に似ているようで、やはり蛇ではない。
そもそも魔女の手下や弟子になるような存在ではない。神様だもの。
ま、蛇神というのもメジャーで強力な神様ではある。
生命力が強く、毒をもっていることとか、
脱皮を繰り返すこと、殻を脱いで生まれ変わることに不死性を見出したり、
とぐろを巻く円錐の形に山との相似形を見出して山岳信仰とつなげたり、
一本の筒状である体に、口から肛門までがひとつの管である生物の元型を見出したり、
害獣のネズミを捕ってくれること、白色個体がいること、赤い舌をちろちろさせるのが火を吹いてるように見えるとか、
設定を盛るネタに事欠かないので、世界中で多種多様な蛇神がいる。大人気だ。
一方で竜というのは、東洋では川そのものの神格化だ。
長くてくねくねしてるのは蛇ではなくて、滔々とうねって流れていく水、川そのものの姿だ。
それはある生物種というのとはレベルが違う。大河や地下水脈や大雨や洪水や、大きな水のエネルギーそのものへの畏怖が生んだ神の姿だ。
ハクはまだ子どもの竜で、川を埋め立てられて行くところがなくて、志願して湯バーバの弟子になった。
そういう経緯でもなければ、全盛期でもない魔女に竜が従ってるなんてこたーないものだろう。
一個人が蛇をペットにするのはいけるが、個人が川を治められるかっていうと無理ゲーだ。そういうイメージだ。
だから湯バーバはハクから名前を奪うだけでは支配するには足りないと思って、腹に虫のまじないまで忍び込ませているんだろうね。
そしてそこまで手の込んだことをして従えてる竜も、「もうその子は使いものにならないよ」で、あっさり捨てようとする。ブラック企業だな~。人材が一番得難いってことがわかってない経営者ってやだねえ。
エンディングでハクは境界の川の向こうに、異界サイドに残る。
虫を吐いて名前を思い出したハクが湯バーバの弟子をやめることは難しくないだろう。
川を埋め立てられてるから、この世には戻ってこれないのかなーとも思うけど。
でも、よく考えたら、
千尋が、ニギハヤミコハクヌシという名前を、存在を覚えてるからな。
ハクは忘れられた神ではなくなった、
もし、帰った千尋がささやかでいいから社と御神体を揃えて祀って、コハク神社を建立したら、ハクはそれを拠り所にこの世界に戻ってこれるなあ~、とか思ったりもするwww
大事なのは気持ちと縁だからねwもう庭に建てちゃうか、神棚でもいいと思うww
そういや、千尋家族の新しい家のあるところは、グリーンヒルとちの木、という山を削った造成地、新興住宅地のようだ。
自由ヶ丘とか夢とか光とか虹とかヒルズとかニュータウンとかそういう系の、最近になって新しくつけましたっていう感じのキラキラした地名だし、整地が終わった土地に売地の看板が立ってる。
で、石の祠やそこにある大木はとても古いもののようで、
平成狸合戦ぽんぽこのように、古いしきたりのある土地に新参者がどっとなだれこんできてるっていう構図になってる。
いかにも古いものと新しいものの軋轢の起きやすそうなところだ。
ああいうところで、千尋の父のような無遠慮にグイグイ行く態度ではトラブルになるのは残当ww
もっと慎重に敬意をもって行動すればトトロのような楽しい冒険になったかもしれないのにねw
食べるといえば、千と千尋にはヨモツヘグイの思想が登場する。
黄泉とか、その世界のものを食べて、その世界に馴染むもの属するものになる、その世界の住人になる。
みたいな考え方だ。
ハクが千尋に小さい赤い玉、飴かな?を食べさせれば千尋の体は透けなくなる。
橋の上にいるカオナシに、なぜ千尋だけが気が付いたのかっていうと、
千尋が此岸と彼岸の二つの世界にまたがって存在してる状態だったからではないかな。
あの橋は下に電車が通ってる。 橋はそもそも世界と世界の境界を意味するし、
下を通る電車は人界の死者を異界のもっと先へと送るものだ。
あの橋も人界と異界の中間地点にあると思っていい。
カオナシは人界と異界の中間にいて、
蛙男や神様達、異界の存在達には見えてなかった。
湯バーバがカオナシの気配を察知するのは、橋を渡って油屋に入ってからだ。
人界の存在で、異界のものを食べて、
同じようにふたつの世界に中途半端に属していた千尋にだけは見えた。
千尋だけが自分の存在に気が付いて会釈してくれたから、
カオナシはよろこんで千尋についてくる。
カマジイが40年前の使い残りの切符を出してきて「行けるだろうが、帰りがなあ。前は帰りの電車もあったが最近は行きっぱなしだ。」という。
め、とか、めめ、とか、生あります、という謎の表示がある。
なんかその辺は、風刺というか、最近の風潮をあらわしてると言うか。
時期がお盆だけど、迎え火や送り火、死者をもてなしてまたあの世へ帰す、
みたいな儀式や、そういう意識自体が40〜60年前と比べても減ってるんじゃないかな。
田舎の農家で一軒家で、代々の墓も歩いていけるとこにあった祖父母はそんなこともやってたなーっていう覚えがあるけど、
もう自分の世代ではそんなことしてる人のほうが珍しい。だいたい集合住宅に住む核家族にはそういう意識が希薄だ。庭ないし。火とか焚けないし。祭壇なんか収納場所がないしww
最近の死者はあの世へ行きっぱなしでこの世へ帰ってきてない。この世からお呼びがかからない。
だからあの世とこの世を行き来する電車にも帰りの便がないのではないかな。
三途の川の渡し船や、ナスやキュウリの精霊馬、乗り物でイメージするものの現代版があの海原電車だろう。
あの電車に乗ってる乗客は黒く透けてる、多分みんな死者なんだろう、そしてそれぞれの駅で降りていく。
スウェーデンボルグやシルバーバーチ、シャーマンキングなんかの世界観では、死者の往く霊界もそれぞれのレベルに合わせてコミュニティを形成してるということになっている。霊界は、異界のほんの一部だ。見えない世界には物質という制限がない。精神の世界は広大というか、空間そのものだ。
ゼニーバは乗客がすべて降りた6つ目の駅に住んでいる。これはどういう世界観を採用して解釈するかにもよるけど、かなり上位の階層ってことになるんでないかな。
め、めめ、は目だ。片目でめ、両目でめめ。見えないものを見る目。超常や不思議を見る目、第六感、センスオブワンダー。
誰でも子供のころは夢か現かわけのわからないものを見てたりするけど、
大きくなると「そんなわけないかー」でそういうものを見なくなる。
トトロやススワタリのようなものが見えなくなる。その目は、その能力はどこに行ったのかと言えば、見えない世界、超常や不思議の異界へ、あの世へ渡って売り買いされているというw
ここまでくれば、生あります、も見当がつく。
自分の生、本当の生、本物の人生、そういうものを見失っている現代人の生はどこへ流れ着いているのか、という宮崎駿のブラックなジョークじゃないかな。社畜批判だw
誰かの言うとおり、常識という鋳型のとおり、外圧に求められるとおりに生きる、
脳死の人形、思考停止の木偶の坊、社会という機構の歯車、カオナシになってやしませんか?と、そういうことではないかな。
自分自身の人生を生きていますか?
あなたの生は、あなたのもとにありますか?というわけだw
名も、目も、生も、ただ思い出せばいい。取り戻すことができる。心持ちひとつだ。
千と千尋は、色んな寓意が散りばめられてるけど、それがひとつも押し付けがましくないんだよな~。すべて軽やかで開かれている。
好きなところを好きなように解釈していいんだろうなって感じがする。
スレをやってた時に、名前は大事で、本当の名前を思い出す、本来の自分を取り戻すっていうテーマがすごく響いた人がいて、そこはスレでも屈指の盛り上がりポイントだったので、次の記事ではそこをそのまま抜き出してまとめたいと思う。