ラピュタはイイ・・・。
なんかもうOP見て聞いてるだけで謎の感動で涙ぐむww
冒険活劇の傑作で、時代の集大成って感じ。
というわけでラピュタは観たままに楽しめばいいだけで、
解釈ってほどのこともないと思うんだけど。
今までの赤毛の魔女設定や父性の欠如という観点からも符合はしてるのと、
あと、ラストシーンは漫画版ナウシカの救済にもなってると思うのでその辺まとめとく。
母性の力で、息子たちを従えている。
「いつまで経っても子供なんだから」とドーラがグチる場面があるけど、
ドーラ自身が子供を自立させない母、支配する母性でもあると思う。マ・ドーラ、マドンナ、聖母、母なるもの。そういう名前だ。
鉱山の町で親方と息子たち、ルイ、シャルル、アンリが乱闘になる楽しい場面があるけど、
あそこで三人の息子の服装に注目すると、白いスーツ、ピンクのシャツ、黄色いネクタイ、白い帽子に緑のリボン。という恰好をしてる。
とてもオシャレなカラーリングで白スーツなんていう奇抜で難しいアイテムを着こなしていると思うが、
三人ともお揃いの服ってことは、あれはドーラのセンス、チョイスなんでないかな。
成人した三人の息子に、七五三のような服を見繕ってやる、お仕着せの服を着せている、そんな感じだ。
息子以外の部下は紫のスーツで、オートモービルは素敵な緑で、ドーラ一家はオシャレ海賊だ。
しかしフツーに考えれば、成人して自立した男性は、カーチャンがくれる服は着ない。
自分で、自分に似合う服を選んで着る。
仮にカーチャンのセンスが良いから選んでもらうとしても、兄弟とお揃いの白スーツでは何の罰ゲームかとwお断わりするだろうw
が、あの三人兄弟は何かと言えば「ママ、ママ~」だ。
ドーラはパズーには「船長とお呼び」と言うけど。
息子達にはママ呼びを許している。
公私のけじめをつける気もなく、息子と自営業、海賊をやっている。
「お前たちも嫁にするならああいう娘にしな」っていうけど、
そんなマンマユート共に嫁はこねーよww
さて、鉱山の乱闘もすごい楽しい場面なんだけどもだ。
おかみさんも割と髪赤いよねw
親方、というのは父性、父権の存在だ。
構成員に仕事を与え命令をする、同時に庇護し教育し、
全体を把握して、共同体を運営する指針をもつ。王、長、責任者だ。
しかしラピュタの親方は、象徴的には親方とは言い難い。
彼はパズーの「空から女の子が」の訴えをスルーし続けるw三回くらいスルーするww
「いい子じゃないか、守っておやり」というのはおかみさんなのだ。
象徴的父権であれば、パズーの報告を受け、対策を講じ、パズーに「その子を守ってやりな」と使命を与えて送り出す、そういうのが親方の役目のはずだ。
乱闘の場面でも、まず互いに筋肉を披露するってのは、
どっちが強そうかケガする前に把握できる、割と動物として正しい喧嘩の作法なのに、
「誰がそのシャツを縫うんだい」で、おかみさんがせっかくのマッチョイズムを尻に敷いちゃうんだよなww
守っておやりと使命を与え、シータとパズーを裏口から逃がし、
フライパンをもってドアの前に立つおかみさんこそが、あの場のマスターだ。
そして乱闘はドーラの登場で終わる。
女性性の掌の上の男達、そういう構図なんだな~。
父性、父権というなら、親方もそうだけど、将軍もそうだ。
閣下と呼ばれる将軍が出てくるけど、名前がモウロ将軍というらしい。
モウロ、もうろく、耄碌ですね、分かります・・・。
今youtubeで配信中の名探偵ホームズ、宮崎駿演出の海底の財宝って回で、
モウロ将軍にとてもよく似たキャラが出てきた。声も同じ、永井一郎だ。
大佐と艦隊司令官の双子なんだけど、まあ同一の造形だ。目がもうw今やると放送コードに触れるキャラデザだw
大層な役職は名ばかりで金に目が眩んでる乱心キャラだ。部下への指示は「ついてこい」とか「撃ちまくれ」とか煽りだけで、腹心の部下とかそういうキャラがいない。
ライサンダー大佐
宮崎駿には、父性・父権が描けない、てのはつまり、父と息子の関係性が描けないってことだ。
これは全作品を通して言える。風立ちぬまで行ってようやくそこに焦点が当たる。
いや、親方がパズーに昇降機の操作を任せるところは、かなりイイ感じなんだけど。
「おまえやれ」で任せて「やりゃあできる」で励まして「ブレーキ!」でちゃんと監督しててなあ。
ムスカが将軍閣下を海に落とすところも、まあ、なんか惜しいんだけど。あそこで立体映像じゃなきゃなあ。
もののけ姫でも乙事主にはちょっと腹心ぽいイノシシもいたんだけど。
うーん。まあ、親方とパズーは風立ちぬ以前では一番それらしい描写ではあるのか。
父性、父権というのは、RPGで言うところの勇者を送り出す王様と、勇者が倒すべき魔王、その表裏一体だ。
息子に指針を示し、送り出して、最後には壁となって立ちはだかり、戦って越えるべきもの。父とはそういうものだ。象徴的に。
父さんが遺した熱い想い、母さんがくれたあの眼差し、っていう歌詞とかもそんな感じするじゃん?
ラピュタでいうと魔王ポジションはムスカだけど、彼は特務の青二才と言われてて、その通りだ。青二才。
彼も父権ではない。部下との関係性を築けてないからなー。
シータは、黒髪のヒロインだけど、赤い髪留めと最初は黒い服を着ている。
これはキキと同じカラーリングだ。赤毛ではないけど、長い髪に赤と黒を身に付けた魔女だ。
ルシータ・トエル・ウル・ラピュタ と ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ
トエルがトゥルー、ture 真の、という意味なら、
パロというのはパロディ、模倣、副次的な、二次的な、語源的にはギリシャ語で para 傍らに、側に、という意味だ。
日本の古代王国、邪馬台国・ヤマトでは、卑弥呼・日巫女という女王を据えて、弟を副王にして国を治めたって話がある。
男の王では争いが絶えず、巫女を象徴的な王にして実務は男がやるってことで上手く国が周るっていうのは、
割と今でもそうだ、天皇家を祭祀の王にして、実務は政府がやるとか、分権にすることでうまくいくんだな。
「お母さんもおばあさんも、そのまたおばあさんも」飛行石は女系で継承されていた。
ラピュタでも代々の女王と補佐する副王というシステムであったのかと思われる。
シータとムスカは、クシャナとクロトワ、エボシとゴンザのような関係性ならうまくやれたのかとも思う。
「流行りのドレスは嫌いかね?」でムスカがシータに服を贈ろうとする場面があるが、それが真っ赤なワンピースなんだよな・・・。赤、魔法の色、魔女の色。
もし、あの贈り物を受け取っていたなら、女王と王佐の関係が成立する展開になったんだろう。
まあ、シータは滅びた国の王様に興味はなかっただろうけど、
「あたしの若い頃にそっくりだ」とドーラが言うように、男達を従えるカリスマ、魔力、魅力はあったんじゃないかな。
シータはあらゆる場面でマジ有能だからな~。
玉座の間でゴンドワの歌「土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。」
シータが決然と威厳をもって、彼女の王国の理念を掲げた時、あそこにも最後のチャンスがあった。
ムスカはワンチャンあそこで王佐となる道を選ぶこともできた。かもしれない。
が、彼はシータの三つ編みを撃ちとばし、「ひざまづいて命乞いをしろ」と言う。
髪は魔力の媒介だ。それを失えば魔力やカリスマを失うという意味になる。
ひざまづいて云々も、精神的優位に立ったシータへのマウンティングだ。
クロトワやゴンザになれたはずの2度のチャンスを無駄にしたムスカなわけだが。
これは多分、ムスカは目が悪いんだろうね。「目がぁ〜」っていうのもそうだけど。
目の色が薄くてずっとサングラスを外さないのはダブルミーニングだ。
目が悪くて、だからシータの本当の姿が見えないということ。己が仕えるべき女王が見えない。
女王と副王の関係は結ばれず、ラピュタはトルメキアやタタラ場のように新たな国となることはなくなる。バルスするしかなくなる。
ところで、漫画版ナウシカのラストもラピュタと似たところがある。
玉座の間で対峙するシータとムスカは、墓所で対峙するナウシカと番人に似ている。
失われたはずの古代の超文明が、眠りから覚めて再び世界を覆うかどうかってところで、
シータがゴンドワの歌を掲げたように、ナウシカも番人にこう言い放つ。
「お前は、亡ぼす予定の者達を
あくまであざむくつもりか!!
おまえが知と技をいくらかかえていても
世界をとりかえる朝には結局ドレイの手がいるからか
私達のからだが人工で作り変えられていても
私達の生命は 私達のものだ
生命は生命の力で生きている
その朝が来るなら 私達はその朝にむかって生きよう
私達は血を吐きつつ くり返しくり返し
その朝をこえて とぶ鳥だ!!
生きることは変ることだ
王蟲も粘菌も草木も人間も変っていくだろう 腐海も共に生きるだろう
だが、お前は変れない
組みこまれた予定があるだけだ、死を否定しているから
真実を語れ、私達はお前を必要としない」
ザマーミロというラストではあるんだけど、漫画ナウシカではちょっと後味が微妙なところがある。
ナウシカは、墓所に保存されていた新しい人類の卵、世界の浄化が済んだら生まれる予定の、争わず穏やかで賢い人間達になるよう設計された究極のデザイナーベビーみたいなものもまとめて滅ぼした。
破壊と慈悲の混沌のナウシカは、破壊した後でそれを悔い憐れむっていうかね。
「自分の罪深さにおののきます」とか言う。
で、戦争や少子化や石化の病や腐海の毒に侵される世界に帰っていく。
傲慢な支配者の計画を白紙にして退けたはいいものの、
問題は山積みのままでどうしよう、でもとにかく生きねば、
というラストなんだ。代を重ね適応していく一縷の希望がないわけでもないけど、重い。重過ぎる。
その次の作品であるラピュタでは、そういう葛藤を越えて、バルスの後がほんとに軽やかだ。
ラピュタにも中庭に墓所がある。でもそれは大樹になかば飲み込まれ、その大樹はドームの天井を突き破って空へ伸びている。
その場面の劇伴、音楽がまたイイんだよな~。雄大で明るい。
終わった文明が、自然に還っているのを肯定的に表現している。シータも微笑む。
バルスしたラピュタは、大樹の根で崩壊が止まり、空へ昇っていく。
エンディングを見てると、ドーム部分が白く光ってるので、空調的なものがまだ生きてて、ヒタキやキツネリスなどの鳥や小動物も生きていけるんじゃないかって感じがする。
竜の巣に覆われていたころのラピュタからすると、動物たちも閉じ込められて外に出られなかったのが、
雲は晴れて、開かれた環境になって、少しずつ世代交代しつつ高高度への適応もしていけるかも知れないし。
漫画版ナウシカでは、墓所で超科学が劣化しないまま永く保持され続けていた。
生き物になる予定の卵だけ抱えて、肉体の無いプログラムのような番人がそれを管理していた。
ラピュタでは、700年の時とともに自然がそれを侵食していくんだよな。
不変のものなどない、世界は変わり続けるものと共にある。
世界は死者のものではなく、生者のものであるというラストだ。
神林長平のSFにそういうのがあったなあ。
コールドスリープ、冷凍睡眠、生命体を眠らせ続け永い時を越えることはできない。
なぜなら、命というものは止めておけない。止めてしまえば死んでしまう。
代謝し続け、変わり続け、死を内包して生き続ける、動的平衡を保つダイナミクス、
生命活動している状態こそが、すなわち命の本質なんだと。
クソ分厚い文庫の中でそこだけ鮮明に覚えてるんだがw膚の下だったかな。
どれほど優れた超文明であったとしても、
墓所とまで銘打ってそこへ引っ込んだのなら、もう潔く死んでおけってことだな。
天空の城ラピュタも、それを支える飛行石を産出していただろう鉱山の町も、
かつての繁栄の跡は廃墟になり、自然や日の光や時の流れや色んなものに覆われていって、
今生きる人々がそこで素朴な暮らしを営んでいる。それでいいんだと思う。
パズーがトランペットを吹く場面で、荒廃した鉱山跡を朝日が真っ白に照らして鳩が飛んでいく場面とかも、
なんとなく漫画版ナウシカで荒んだ心が癒される情景だと思うんだよな~。
人が穴だらけにしてしまった土地を、朝日と鳥が再生させている。
あ、鳥といえばだ。
ナウシカでも飛ぶものは蟲と鳥の二種類の対比で出てくる。
メーヴェはカモメという意味で、ナウシカは鳥の人だ。歌のタイトルにもある。
パズーは鳩を飼ってて、鳥型の飛行機模型を飛ばして、シータと乗る凧も鳥のシルエットだ。
ドーラ一家のタイガーモス号は灯盗蛾という虫の名前で、フラップターも虫の羽、虫の羽音で、繋いで飛ぶと虫の体節構造みたいになる。ヘビケラみたいだ。
まあ、どっちも飛行するものだけど、虫の羽より、鳥の翼のほうが飛行能力は高いな。
ラピュタの解釈はそんなもんかな。
パズーについては、全作品の男主人公比較で次記事にまとめたい。
あ、滅びの呪文がバルスでたった一言で、
「光よ甦れ、我を助けよ」がリーテ・ラトバリタ・ウルス、アリアロス・バル・ネトリールでめっちゃ長いのはなんでだろうって質問があったので、
一応思ったことを載せとくと、
「滅べ」「閉じよ」とかでバルス
「光よ甦れ、我を助けよ」でリーテ・ラトバリタ・ウルス、アリアロス・バル・ネトリール
割と古代語とかラピュタ語でそのまま言ってるだけなんじゃないかな。
効果もバルスは全システムの崩壊で、
リーテ・ラトバリタなんとかは、
飛行石が光ってラピュタの位置を示す、ラピュタが主を迎えに来る、ロボット兵の再起動、ロボット兵が主のもとへやってくる。とか確認できる効果が多いので、複数の命令が組み合わさった言葉なんだと思う。
しかしまあ、王の言葉ひとつで自壊する都市機能ってのはなんだろうね・・・。
フツーに考えてそんな都市には安心して住めないんだがww
ラピュタの形状と武装の多さからして、城とか都市っていうか城塞都市なんだろうか。
モン・サン・ミシェルっぽくもある。
地上のすべてを焼け野原にできる火力と科学を、万が一にも不心得者に渡すわけにはいかないと、そういう覚悟が必要になるような世の中だったんだろうか。
なぜわざわざ空中に城を浮かべたのか、なぜ滅びたのかとか、色々想像してみて面白いところではある。
談話室に書き散らかしたけど、どれも確信に至らないので割愛。
バルスが「平和」を意味して全武装解除の恒久的平和宣誓をするための言葉だったという説もあるけど。うーん・・・、まあそれも夢があっていいよね。