ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

PSYCHO-PASSを解釈する。槙島聖護、至福の追求。

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サイコパス三期とても楽しみだ。人気タイトルになって嬉しい。

スレッドで一期二期の内容を解釈した内容をまとめておこうと思う。

 

一期の敵役、 槙島聖護というキャラクターが好きだ。

残念ながら一期で退場したが、サイコパスのヒットには彼の魅力も大きく貢献したことに疑いの余地はない。

リアルでは絶対に絶対に遭遇したくないタイプだが、フィクションの世界ではああいうタイプの悪もいい。

 

ジョジョの悪役や、鬼滅の刃の無惨や童磨、ネウロのシックス、バッカーノのラッド・ルッソ、チキタ・グーグーのラー。

 

一言でいうと、理由なき悪っていうかな。

彼らには、同情できる過去とか、悪を成すに至る人格形成っていうか、そういうのがない。

彼らの悪は、復讐とかトラウマとかコンプレックスの裏返しとかではない。

愉悦部ていうか、楽しいからそうする。

そのように生まれついたから、そうする。

そんな感じだ。湿っぽさがなくて、心からの笑顔、無邪気な眼差しでイキイキと、エグイ悪事を働く。

 

 

「至福を追求せよ」という言葉がある。

神話学のジョーゼフ・キャンベルのよく言った言葉なんだけど、

単に肉体的な欲求の解消とか以上の、自らの魂の求めるところに従うっていうかな。

美空ひばりが「歌は私の命」とよく言ったけれど、そんな意味だ。

命、いのち、めいずる。

生命の命と、命令の命が、同じ字を使うのにはそんな意味があると思う。

命、というのは、モノの集合の肉体を動かしている不思議なちからで、心の源で、

ある存在を存在たらしめているベクトル、指向性、そんな感じだ。

 

いのちは、なにかをめいじている。目指している。

それがなにかは、その人にしかわからない、生まれてきて生きている由だ。

 

「歌が命」だと自らの内なる声に従い、その研鑽に生涯を捧げるというなら、

それは本人にとっても周りの人にとっても幸せな求道だと思うけども。

 

そういう至福が、いわゆる公序良俗に必ずしも合致するとは限らないのが、この世界の奥深いところだ。

 

伊集院光の のはなし というエッセイがある。

中二病、という言葉を使いはじめたのは彼だって話があるけど、

皆が忘れてしまう子どもの時の感覚を忘れずにいて言葉にできる、稀有な感性の人だと思う。だいたいふざけてるけどw

そのエッセイの中に、ザリガニの話がある。

 

伊集院少年は小学校低学年のとき、近所のドブ川でザリガニをとって遊んでいた。

ザリガニは共食いをするので、最初の一匹を手で獲れば後はいくらでもとれる。

当時の小学生は小刀や爆竹を当たり前にもっているし、

大人の監督もなく子供が下町で遊んでる、色々とおおらかというか大雑把な時代でもあった。

ザリガニやカマキリは、自分より大きなものでも威嚇するし挑む生き物だ。

獲ったザリガニどうしを戦わせるところから始まって、

ザリのハサミに爆竹をはさませて近所の野良犬にけしかけてみたり。

ザリと爆竹を〇〇に詰めて〇〇したり、走ってる車に〇〇したり、相当アブナイ遊びをしていた。

 

エッセイには、小学生男子がどんな気持ちで遊びをエスカレートさせていくのが綴ってある。

あまりにもいくらでもとれるし毎日そうやって遊ぶので、相手が生き物だってことがマヒするというか、

次はああしてみようこうしてみよう、もっと刺激的なことをしてみよう、という無邪気な創意工夫の面白さが、生き物への共感を上回っていくというか。

そもそもザリガニみたいな人から遠い生物には大した感情移入もないし。

 

この共感能力の未熟な小二メンタル。

このメンタルのまま、対象がザリガニから人間になってるのが槙島聖護な気がする。

「潜在犯に犯罪を実行する力を与えてみればいい、それで彼らが何をするか興味がある。」

なんて、ザリガニに爆竹を与えて戦わせてみようという、伊集院少年の発想となにも変わらないw

「信じられないかもしれないが、僕は君たちのことが好きだ」人間が好きだというのも、

ワルガキがザリガニを好きなように、興味の尽きないオモチャとして好きなだけだと思いますww

 

もちろん、大部分の人間は成長の過程でそういう時期があっても、

対象がザリガニや魚以上のものになることはあまりない。

犬や猫でも可哀想でそんなことはできないっていう人が大半だろう。

 

次元の意識の話でいくと、

槙島聖護のような者は、三次元のごく初心者、幼い魂だと言える。

「自と他がある」を知り「自分を愛する」を学び始めたところだ。

命あるもので遊んでみることで、命がどんなものか知る、そんな学びの段階だ。

 

彼は、

通常の規範からすれば、到底容認できない残虐きわまる犯罪者でありながら、

次元の意識とかスピリチュアル的な観点からすれば、学びの幼いだけの同胞でもある。

 

サイコパスでは免罪体質とか、特殊スキルみたいに言うけど、

魂の命ずる学びを、喜びを、ただ追求してるだけだから、色相はクリアなんだ。

ストレスも罪悪感も背徳感も鬱屈も抑圧も、彼の心は感じていない。

つまり、それを悪とは言えない、ってことになるんだよな。犯罪係数はゼロだ。

彼は彼の学びのレベルにおいて、道を追求しているだけだ。

なので槙島を説得するとか、反省を求めるとか、 セラピーや矯正プログラムでどうにかしようとかは、無理だ。意味がない。

彼の在り方は、彼なりに正しい、としか言えない。

 

彼のような人が、どう学んで成長していくか。

TONOという漫画家のチキタ・グーグーではそこがメインテーマだ。これ隠れた名作。

無邪気で可愛い人喰いが、ある少年と100年を過ごすうちに心がどう育つかっていう物語だ。

人喰いは、最初は腹が減るからその衝動のまま人を喰う。

いくらでも残酷に殺し喰うことができる。

まずくて食べられないある少年と出会い、暮らし始める。

色んな事件を通して、喧嘩したり笑い合ったりして、少しずつ、仲良くなる。

そんな時間をともに過ごした相手を、食べられなくなっていることに気が付く。

そんな物語だ。100年かかるってところが秀逸だよw

 

伊集院少年のようなワルガキがいたら、ある一匹のザリガニに名前をつけて飼わせてみることだ。

まあ、死なせる可能性大だが、毎日世話をして愛着の湧いたザリガニ、特別なザリガニが死んだなら、他のいくらでも釣れたザリガニの死とは違う、惜しさや悲しみを感じるだろう。小鳥や金魚、犬や猫でもそうだ。

 

槙島聖護も、共犯者のチェ・グソンや、好敵手の狡噛慎也と、そんな情が湧くまで付き合えたら良かった。彼らが死んだら悲しいだろうなと思えるまで心が育つという展開も見てみたかったけど。

 

まあ、サイコパスはそういうテーマでもないんでw

あくまで現世、この社会の物語、ハードボイルドな刑事モノなので、勧善懲悪が必要だ。

槙島聖護は、やりたい放題やらかした報いを受けて死ぬ。

ぶっとんでて理解できない悪役のまま退場するのも、それはそれで印象的で良かった。

 

ただ二期で、同じ声優を登用して、雛河翔、という人物を登場させるのは一種の救済か、転生ネタのような気もする。

雛、ひよこ、生まれたての幼いものという意味だ。

 

イキイキと悪の限りを尽くしていた槙島さんが、

雛河君に生まれ変わって、おどおどと常守朱を「お姉ちゃん」と呼んでついてまわってると思うと結構それも面白いw

物語のプロットのどこかの段階には、槙島を執行官に、仲間にするという案もあったんじゃないかと思う。

 

まあ、そんなもんじゃないかな。

アルさんのスレには、「加害者が、被害者側の陣営に転生するのもよくあること、そうやって傷つけたり傷ついたりして痛みを学ぶ」そんなことが書いてあったっけ。

 

悪いことをすると、地獄に堕ちるなんても言うけど、

槙島聖護のようなタイプは、地獄に堕ちることはないだろう。

彼は彼なりに、自らの魂の求めるところを行っただけだ。

それはそこだけ見ると、善いことですらある。

 

・・・鬼滅の刃の童磨も、名前に童、わらべ、幼いものという意味の字があるが、

多分そのタイプだ。共感能力も感情も未発達で、自分の死にすら恐怖がない。

恐怖による支配ができないので、パワハラ上司無惨様からはウケが悪い。

死を理解しない、個の断絶を知らない、というのは魚か爬虫類か、そうとう未熟だ。

 

それこそワルガキが虫を何百と殺してもなんの悲しみもない、そんな感じで人を食っている。

しのぶが「地獄に落ちろ」って言ってたけど、多分落ちないんじゃないかなぁ。

カナエや炭治朗が鬼を憐れむのは、残酷さが未熟や無知からくるものと解る人のもつ優しさだと思う。

 

小二男子のザリガニ遊びは、大人には見るに耐えない様相を呈することもあるだろうけど、

「可哀相だからやめなさい」と早々に取り上げるようなことをするのも考えものだ。

その遊びが楽しいうちは大人から隠れてやるようになるだろうし、

あまりに抑圧されればその歪みが大人になって違う形で表出する可能性もある。

その場合はワルガキの動機に大人の悪知恵が上乗せされて、よりヤバイ遊びにもなりかねない。

 

そういう学びが必要な段階がある。今はそんな事を思いもよらない善良な人達も、きっといつかは通ってきた道なんだろう。

 

 

そういえば、槙島聖護も童磨も、頭がいいっていう一面があるね。

 

槙島聖護はシビュラの正体に疑問を持ち、なんかいっぱい本の内容を引用して喋る。

電子書籍全盛の時代に、紙の本を愛好し、「紙のページをめくるのが、自分の感覚の調律になる」という実にそこだけは同意できるあるメソッドというか哲学というか、瞑想法みたいなものも知っていて、頭でっかちじゃなくて体も鍛えてて格闘もできる。

 

童磨も他人に望まれる言動が分かるとか、情報を重んじるとかそんな描写がある。

 

ん~。まあ次元の意識のレベルと、知能のレベルは、ふつうだいたい釣り合っているものだ。

メンタルが小二なら、悪事のレベルも単純な暴力とか小二的であるのがほとんどだろう。

そこがアンバランスだからこそ、幼いだけの者が凶悪な犯罪者になってしまうとも言える。

 

ただまあ、彼らは共感能力の低さゆえに、周囲の人間からガラクタの思考パターンを吸収することが少ないということはあるだろう。

常識や信仰、こうあるべきという思い込みにとらわれないでいられるし、

人の痛みなど思いもよらないからこそ、自分の楽しいことだけに集中できる。

ゴミアプリをインストールしないから処理サクサクのPCやスマホみたいなもんだ。

 

 

ああ、伊集院光といえば、NHK100分で名著で今ちょうど西田幾多郎 善の研究 という本を扱ってるけど。

あの本の定義で言う 善 というのはまさに人格的要求に従うことだという。

至福を追求し、魂のきたるところ、宇宙のつきるところにある、原初の混元たるものに瞑合すること、それが善だという。

それを〇という象徴であらわすという。

無限とか、空とか0とか愛とか大日如来とか、色んな呼び方があるもの、宗教や哲学やメソッドが示す最高のもの、言葉にならないものを、この本では善と呼んでるんだなあと思ったけど。

 

その定義を使うなら、悪というのは、

魂の指向を遮るもの、至福の追求を阻むものに他ならないんじゃないのか。

 

とすれば、執行官と犯罪者における善悪は逆転する。

己の魂に従う槙島聖護こそ、その名の通り聖で善だ。

法律、秩序、シビュラという最大多数の幸福を是とするものが、個人の追求にとって時に俗であり悪だ。

 

悪とは、罪とはなにか?

殺すのは悪いことで罪で、裁きと罰があるのは人の社会の秩序を守るシステムだ。

しかし生死する肉体は魂の仮の宿に過ぎず、殺して食うの連鎖は物質の世界の摂理ですらある。

人が死ねば、法も規範も執行官もいない世界に行くことになるとして、

そこでは自分の魂こそが唯一の法となる。誰が悪を決め罪を糾弾するか、それは自分自身だ。

己の魂の求めるものに真摯であったか、成長できたか。問われることはそれだけだ。

地獄があるとすれば、それは他者や神による裁きの場ではなく、ただ自責し続ける苦しみということになる。


悪も罪も罰も、閉ざされた心が見せる幻だ。無限へと心を開けば霧散する。

シルバーバーチとかだと、そういう世界観になっている。

そうだろうなって感じがする。

 

まあ・・・、善も悪も、命も魂も、所詮は言葉に過ぎない。

その視点を現世におくか幽世におくかで、その意味するところは容易に変わる。

 

その無限なるもの空なるもの0なるものの本質的感覚を知りたいと思ったら、

言葉を眺めているだけではいけない。その言葉が示す先に注目し、自らのものとして体得しなければ。

君たちは、何を見ている?

僕は、君たちを見ている。

 

「・・・・なんてね。」

 

 

 

 

 

 

 

 



サイコパス一期は見といて損はない。

 SFに乏しい昨今では貴重な良作だ。

 

 

 

 のはなし の一巻二巻は売り切れてるな。チキタも売り切れてる。

絶対面白いのに~。再販を切望する。

 

 

 


槙島聖護まとめ

セリフはここから拝借した。櫻井孝広の声まじマキシマムに適役ww

長~い一人語りをつい聞いちゃう絶妙な抑揚なんだよなあ。モノノ怪の薬売りも好きだ。

 

アルさんのやつ。

http://www.oumaga-times.com/tag/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6

http://allwise-song.blogspot.com/2015/04/

 

次元の意識。

inspiration.hateblo.jp

 

 追記、自分も小学生のとき、カマキリを飼い犬にけしかけて愉悦していたことをここに懺悔します。

今は、猫がたまに獲物を獲ってくるのに悲鳴をあげ、それもまた猫の学びと思いつつ涙目で供養する日々です。南無。


 

シビュラと常守朱についても次でまとめたい。