ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

一人立ちする、自立する、自由と責任。

Uyuni Magick

 

 

 

今週のお題「二十歳」

 

はてなブログって、一ヶ月放置だと記事書きませんかってメールが来るんだねえ。

 

そんなに更新してなかったとは。年末年始なんだかんだ気忙しかったのか。

 

あらためまして、あけましておめでとうございます。

 

改める、より、新ためるって漢字のほうが好きだな。

 

さて、魔女の宅急便の記事も作成中なんだけど、

あれは「魔女は13歳で一人立ちするんです」ってことで、

親元を離れて、見知らぬ街へ飛び込んで、仕事を探すっていう物語だな。

 

13歳って中一か~。

自分の13歳の時のことを考えると、とてもキキのようにはやれない気がするな・・・。

キキにしても、オソノさんに出会って、グーチョキパン店に居候して、住む所や電話や、顧客の斡旋とか、お世話になりながら、すこしづつ仕事をするってことを学んでいく。

 

子どものころは無心に見てたけど、

大人になってから社会人的な視点でみると、キキの仕事始めは結構ムチャクチャだ。

 

黒猫のぬいぐるみを落としてしまい、ジジを身代わりにするわけだが、

 

客から預かった荷物を紛失、自前の類似品で誤魔化して、後からすり替える。

なんて、一発アウトで信用なくすやつww

 

ま、仲介のオソノさんにしても、依頼人のマキにしても、受け取り人のケットちゃんのお母さんにしても、ぬいぐるみを拾って修理してくれるウルスラにしても、

全員に共通する、ある特徴があって、物語全体でキキの成長物語になってるのでそれはいいんだけど。

 

一人立ちする、自立する、と決意を表明し実行するだけでも、

13歳や20歳では、大変なことで、立派なことだ。

 

最初はやっぱり、色んな人に助けてもらって、失敗もして、少しずつ仕事を覚えていく。

 

自分の心に従って、天職や使命と言えるものを見いだし、その結果に責任を負えるようになるまでは、成人の儀式、イニシエーションを経てからもそれなりにかかるんじゃないかと思う。

 

孔子で言うなら、

吾十有五而志于学、 三十而立、 四十而不惑、 五十而知天命、 六十而耳順、 七十而従心所欲不踰矩

「われ十五(15才)にして学(学問)に志(こころざ)し」

「三十(30才)にして立つ」(自立できるようになった)

「四十(40才)にして惑(まよ)わず」(いろいろな迷いがなくなった)

「五十(50才)にして天命を知る」(天が自分に与えた使命を知った)

「六十(60才)にして耳順(したが)う」(どんな人の話も聞けるようになった)

「七十(70才)にして心の欲するところに従(したが)っても矩(のり)をこえず」(心の思うままに行動しても人としての道をふみはずすことがない)

 

国語の教科書に載ってたけど、子供にゃ実感としてわからんだろうなww

ま、覚えておいて、その後だんだん自分の人生経験のなかでその意味がわかってくる。

 学びて時にこれを習うってそういうことだと思う。

 

かくいう自分も、精神的な自立の意味が実感として解ったのは最近だ。

 

三十過ぎて、宮崎駿アニメを解釈してたら気がついたと言ってもまあまあ過言ではないwww

 

支配する者を憎むっていうのが、

支配と庇護の裏表と、信じると甘えるの裏表だったんだよなあ。

 

あ、自立に関してなら、最近読み物として面白いブログ見つけたからリンクしとく。

 

信者と書いてカモブログ

http://shinjakamo.seesaa.net/article/455459354.html

 

心屋っていう自称カウンセラーのグループから足を洗った話。

教祖止まりのメンターとスピリチュアルジプシーの共依存関係から、

精神的自立を果たした、実に普遍的で優れた気づきの物語だった。

 

よくあるヲチ系ブログと違うのは、

まず最初に、教祖と信者は共犯で共依存で、
互いに心に足りないものが引き合っていて、
どっちにもメリットがあって離れられないんだと、
需要と供給がバッチリ噛み合っちゃってるんだと、
だから、一概に加害者と被害者ってわけじゃないんだと、

そう書いてあるところから始まって、二ヶ月で書ききってしまうところだ。

 

メンターとジプシー、教祖と信者は、つまり親と子の相似関係なわけだが、
子存在が自立して、自分と親を対等に、かなり客観的に見ることができるようになってる。

 

まあ、なんだな。

 

成人の儀式を済ませたばかりの皆様に伝えたいことがあるとしたら、

 

学生の時期が終わって、仕事をはじめたら、

学生の時とおなじメンタルのままでは病むということだ。

 

親元を離れて、大人になってからも、心のどこかで庇護を求めていると、

メンターやマスター、指導者のような顔をした支配者が寄ってくるだろう。

 

真面目で素直で、大人の言うことをよく聞く優等生だった人ほど、

仕事を始めるとなんでもかんでも背負いこんで病んだりするけど、

 

病むとか、苦しいってことは、何かが間違ってるというサインだ。

 

サインを出しているのは、他の誰でもない、自分自身の心と体だ。

 

だからそこで、誰かにすがって教えてもらおう救ってもらおうとか、

誰かが自分を害してるから苦しむんだとか、他責の思考から離れて、

 

自分の内面へ向かうことだ。

 

何かが間違っているから苦しいと、救難信号を出してくる自分は、

何が正解かも知っている。

 

自分にとっての真実を知っている自分がいる。

 

魂とか、アートマンとか、超自我とかハイヤーセルフとか?

語はなんでもいいんだけど、そういう自分以上の自分か、あるいは自分の源泉に辿りつくことだ。

 

まず、そう決意する。

誰のせいにもしない、自分の人生は自分で決めて、そこで起きるすべてを引き受ける。

 

ほんとうのさいわい、至福の追求、自由自在、空より高く飛ぶ、そんな境地。

 

そんなものが知りたくて、そんな風になりたいと常日頃から思っていれば、

 

帰依を囁く教祖ではなくて、

この世界の在り方をただ明らかにし、

それぞれのペースで一緒に行こうぜ、楽しんで行こうぜ、とゆるく言ってくれる人と出会えると思う。

 

と、そんな感じのことをまたえんえんと書いていきたい令和二年。

 

よろしくお願いします。