ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

魔女の宅急便を解釈する2 スランプのわけ、大切なのは心。

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キキの母のセリフに「大切なのは心よ」というのがあるが、

これが魔女宅を解釈したときに核心となるテーマかと思う。

 

というか、宮崎駿作品全体で本質的なテーマかもな。

ハウルの監督インタビューでも「おばあちゃんになっても、大切なのは心」というのがあったっけ。

 

宮崎駿の世界では、魔法を使うために必要なのは呪文や魔方陣ではなく、

心とか血とか、そういう言葉で示されるなにかだ。

 

作中で、キキは重篤なスランプに陥る。

魔法が弱くなって、飛べなくなる。

それはなぜか。

そして再び魔法を得ることができるのは、なぜか。

 

言葉以外の色んなヒントや伏線が、とても丁寧に配置されていて、読み取っていくと非常に面白い。

図像学(イコノグラフィ)とか、メタファーによるものの見方を練習するのに最良のアニメではなかろうか。

 

まず、ラジオだ。

 

キキは、お父さんのラジオを持ち出してずーっと聞いている。

 

草原でも、空を飛ぶときも、掃除のときも、寝る直前まで、ずっとだ。

 

これは現代で言うところの、スマホ中毒みたいなものに相当する。ラジオ中毒か。

 

冒頭の草原では、魔女であるなら、雲の動きや地面の温度、草の匂い、蜂の羽音に耳を澄ますほうがいい。

天気予報ではなくて、そういう自然のなかから天気に関する直観を得るのが魔女、古来のシャーマン的な在り方というものだ。

 

母コキリは「あなたまたお父さんのラジオを持ち出して」とキキを叱っている。

それは父の持ち物を勝手に使うことを叱っているのでもあるけど、

魔女が、自然や自分の心でなく、ラジオから流れてくる人工的な情報、ニュースやゴシップに耳を傾けることの危険を警告しているはずだ。

 

まあ、「今の時代に合いませんわ」という感覚もある母なので、強制で取り上げることはしない。

キキが自分で気が付かないと意味がないと解っているから、

ラジオを持っていくというキキになんともいえない顔で頷いてみせるんだな。ぐっと堪えて信じて待つ、そういう表情だろうか。

 

キキは、空を飛ぶときもラジオをかける。

ラジオからは、松任谷由美の「ルージュの伝言」が流れてくる。

ルージュの伝言の歌詞は、

不安な気持ちを残したままは街はディンドン遠ざかってゆくわ 

のところは旅立ちの場面に合っているが、

内容としては夫の浮気を義母に言いつけにいく嫁、というキキにはなんの関係もない、ワイドショーのネタのようなゴシップの歌だ。

 

ラジオからは、そういう下世話な噂もとめどなく流れてくる。

ワイドショーやツイッターやインスタ、まとめサイトを延々と眺めているようなもんだな。

 

ずーっとそういうことをしてると、心がどうなっていくか、という物語でもある。

 

先輩魔女が「そのラジオ、消して下さらない?私静かに飛ぶのが好きなの」と言うけど、さすが先輩は魔女の心構えがある。

 空と、風と、星と、夜と、自分と、そういうものに心を澄ませて、溶け合うようにして、飛ぶという魔法を顕現させているなら、

 そこにしょーもないノイズを差し挟まないで、集中できる環境を整えることが、できないといけない。

 

母コキリも、先輩魔女も、ラジオについてさりげなくキキに教えてくれている。

 

ラジオはいったん置いといて、

次に、鏡だ。

 

居候してるパン屋の二階で、朝、キキが窓を開けて髪を梳く場面があるが、

諸兄はここで違和感を感じられるだろうか?、

髪を梳く、というのは普通、鏡の前でやることではないだろうか。

キキは、訪問先でベルを鳴らして、人が出てくる前に髪を整えたり、笑顔の練習をしたりする。

つまり身だしなみを気にする子なんだけど、

そう思ってからよく見ると、あの部屋には鏡がないんだよね~。

お金がなくても、それは魔女として女性として必須アイテムというものではなかろうか。

ていうか手鏡でもいいのに、持ってきてないし。

 

実家のキキの部屋には姿見の鏡があって、それを見ながら母と心についての会話をしているんだけどね。

 

鏡は、自分の姿を写して見るものだ。

自分では見えないものを、写しとって見ることができるようにするもの。

キキは、鏡を見ること、自分の姿を見ることを、忘れている。

象徴的意味としては、自分自身の心と向き合うことを、忘れている。

 

鏡の次に、眠りだ。

 

キキは、ベッドでお金を数えている。

そして眠る直前までラジオを聞いている。

 

眠り、夢を見るというのは、体を休め、

昼の心、顕在意識を休め、

夜の心、自分の無意識と繋がることだ。

 

夜の心、非現実、無意識や超自我のための場である寝所、ベッドで、

現実、物質、即物的なものの象徴である金銭を勘定したり、

寝入るギリギリまで昼の世界、顕の世界のノイズを聞いている。

 

眠り、夢、無意識、密なるもの、精神、見えないもの、心、

そういうものを蔑ろにしてるってことかな。

 

キキは、自分の心に耳を澄ませること、自分の心に向き合うこと、心を鎮めること、

瞑想やマインドフルネスみたいに、心のケアすること。メンテナンスすること。

そういうことを、忘れている。

 

それが、魔法を失っていくということだ。

自由自在を忘れ、心が錆びつき、重くなり、飛べなくなっていくということだ。

 

 

 

ラジオ、鏡、眠り、そういう図像や象徴も説得力のための舞台装置だけど、

心理的にもキキがどういうコンプレックスやストレスを感じているか読み取れる。

 

こっちの方はわかりやすい。

キキは、田舎から都会にやってきた13歳の女の子だ。

都会の女性たちの華やかなファッションと、自分の黒い服を比べてコンプレックス、劣等感を感じている。

同い年くらいの三人のおしゃれな女の子達とすれ違った時、顔を伏せる。

ショーウインドーの素敵な靴に見惚れる。

「この服しか持ってないもん」とか「せめてスミレ色なら良かったのに」とか言う。

 

自立、魔女の修行の一人立ちに関してもコンプレックスがある。

たった一人で知らない街へ行き、イチから住む所や仕事を見つけてやっていく、

というのは大人でもなかなかハードルが高い試練だ。

勇気、憧れ、孤独、不安、複雑な心境があると思う。

 

そこに、お気楽なトンボと愉快な仲間達だ。

地元の友人たちでつるんで、ボロ車を乗り回して、夏休みに飛行機をつくって、

その完成を祝って瀟洒な屋敷で盛装して招待状を出すような本格的なパーティーして、

キャッキャウフフでウェーイwってかこの野郎どもは。

リアルが充実した陽キャ過ぎる。スクールカースト最上位の青春ドラマか何かか?

 

この対比はツライ。

 

キザっぽいイケメンが運転する車の上から、

素敵なドレス着てパーティーしてた同い年の女の子達に、

 

「あの子知ってる、宅急便してる子よ」「へー、もう働いてるの」「たっくまし~い」とか言われて、ぐぬぬ、イラっとしない女の子はいないと思う。

 

トンボや孫娘たちは、地元民で、友人グループがあって、裕福で、まだ働かないで親元で守られている子供だ。

 

同い年で、この差を見せつけられ、さりげなくマウンティングされて、怒るのは当然だが。

 

しかし、そこで怒ったことが、決定打になった。

 

ラジオ、鏡、眠りと、良くない要因を詰み重ねてきたところに、

この怒りで、とうとうコップの水が溢れたというか。

 

 飛行船の中を見せてもらおうという誘いを断って帰った後、

ジジの言葉がわからなくなり、飛べなくなっている。

 

飛べないキキのスランプの様子は、見ていてなんとも心にくるものがある。

 

やみくもに飛ぼうとして、落ちて、一人で思い詰めてしまう。

 

そんな風にもがいている人、たくさんいると思うし、自分もそうだった。

 

小さい頃はかみさまがいて、不思議に夢を叶えてくれた

そういう風に、子供のころは世界と自分とが一体で繋がっている安らぎの中で生きていたのに、

大人になって、色んな常識やしがらみやルールや、こうあるべきという思い込み、ガラクタの思考パターンを山ほど背負って、がんじがらめで、葛藤して、苦しくて、自分が嫌いで、誰かが憎くて、毎日死にたい。

 

そんなことになってしまったら、どうしたらいいか。

 

 

そこで ウルスラ の出番だ。彼女は何者かってことだ。

 

ジジが、「僕はまた、天使にお届け物をするのかと思ったよ」という場面があるが。

 

天使、これは宮崎駿的重要ワードだ。ソフィと同じで、全作品中でたった二度だけのワードだ。

 

黒猫のぬいぐるみは、まずウルスラに届いた。

お届けものを受けとった彼女は、すなわち天使だ。

 

ウルスラは、赤毛に赤い服でカラスと心を通わせる魔女で、

森の小屋で、ずっと一人で絵を描いている。

 

街で、喧騒の中で、自分を見失って行き詰ったキキを、

身ひとつで、森の中へ、自然の中へ連れ出してくれる。

ラジオも箒もジジも何もなし、手ぶらだ。

 

自然のなかで、キキは深呼吸する。そして夜、ウルスラと語らう。

 

キキとウルスラは、声が同じだ。声優が高山みなみ

 

キキとウルスラが二人でずっと話しているのは、

声優がずっと一人芝居をしているという図なわけだが。

 

つまりそれは自分自身との対話、という意味の配役になっているのではないだろうか。

 

キキは街で人と関わり仕事をする、昼の顏、外へ向かう顕在意識のキャラクターで、

ウルスラは森でひとりで絵を描く、夜の顏、内へ向かう無意識のキャラクターだ。

 

ウルスラは、もう一人の自分、無意識、そういう役だ。

それが天使という言葉の意味だと思う。

スピ的にいうハイヤーセルフ、高次の自分とか、そういうことかな。

 

ウルスラてのは少女の守護聖人の名前なんだけど、

作中では一度も彼女の名前が呼ばれることはない。

字幕にするか、キャラ紹介とかを見ないと絵描きのお姉さんの名前はわからない。

それは多分、あえて伏せられてるんだな。

固有名詞がなければ、存在はどこか捉えどころのない曖昧のままだ。

彼女はキキの影、キキの天使と見做せるように仕掛けられている。

 

 

彼女は、色々良いことを言ってくれるけど、

その内容もさることながら、

それが自分自身の内面から訪れた言葉、気づきの言葉であることが重要だ。

インスピレーション、直感、夢の啓示、ゴーストの囁き、自分の魂の真実。そういうもの。

 

キキ「時々ここに来てもいい?」

ウルスラ「うん、私も時々会いに行くよ」

 

このやりとりが何より肝要だ。ここでキキのスランプは解決する。

一人の人間に、昼の顏と夜の顏の両方が、陰陽がほどよく必要で、そのバランスをとることができた。良い関係を築けた。

キキは、自然や静けさに耳を澄ませること。夜は静かに自分の心に、内面へ向かう。そういうことを思いだした。

それで、魔法を取り戻すことができる。再び、空を飛ぶことができる。

 

 心が、自由と自在の境地を思いだす。

目に映るすべてが贈りもののような歓びの今とか、

カーテンを開いた先の、静かな木漏れ日のような世界を感じることができる。

 

ルージュの伝言、ゴシップの歌が、

優しさに包まれたなら、0や空の境地を示す素晴らしい歌になる。

 

キキは街へ戻り、またラジオを携えて仕事をしているけど、きっと今度は大丈夫だろう。

心が自由なら、とめどない情報の奔流の中から自分に必要なものを直感し、受けとることができる。

ラジオでもスマホでも何でも同じだ、便利な道具に振り回されず、主となって正しく使い熟すことができる。そういう心の在り方を会得したと言える。

 

父のラジオ、というのは他にも象徴的意味を解釈できる。

なんでも対立物と陰陽で考えるクセがついてるわけだが、

 魔法が、自然、無意識、夜、森、異界、母、女性性に属するものなら、

科学は、人工、健在意識、昼、街、現世、父、男性性、となる。

 

魔女が、科学の産物であるラジオ、父性的な象徴を持っているというのは、とても面白いアイデアなんだよな。

角野栄子のほうの原作もちょっと読んでみたけど、すごくその辺の感性も頷けるものがあった。

 

対立物を、釣り合わせてひとつにする。

冲して和する、止揚する、0・無限・空と同調して結果、次元が上昇する。

 

そういうことが、ある。

 

魔法と科学の両方をもつキキは、釣り合った天秤であり、完全性をあらわしていると見做すこともできる。

古き魔女以上のなにかに成れた可能性がある。

奇跡とただ共にある、天使となった可能性がある。

 

だから自分は、きっとまたジジとも話せるようになったと解釈しているよ。

 

 

 

 

さて、魔女宅はそんなもんか?

スレのほう見直してないまま書いちゃったから、

あと一記事、そこらへんの補足があればっていうのと、

ウルスラの描いていた絵についても解釈しておこうと思う。 

 

 

 

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ソフィも天使、については、それはもう長い話になる・・・。

 

お掃除も、ハウルでは心のケアをするものとして描写される。

キキはお掃除中もラジオを聞いていたが、宮崎駿的にはノーグッドということだろうか。

 

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