YouTubeで期間限定無料配信のセーラムーン視聴を続けているのだが、
https://www.youtube.com/channel/UC7J1bN5V1kL6xJ42ue_W6Vg
Sシリーズに入ってからいまひとつついていけないものを感じていた。
二十年前のTV放送当時もこの辺からは見てなかったので、ノスタルジーがないせいかとも思ったけど、
ミメット登場で色々腑に落ちたので覚え書きしておく。
敵幹部ミメットの声は特徴的で、少女革命ウテナの「かしらかしら、ご存じかしら~?」の影絵少女を思い出した。(CVかないみか)
そうか、そういえば、ダイモーンの生成場面とか独特の様式美に拘る演出や音の使い方、随所にウテナみが出てきたなーとは思っていたけど、
セーラームーンSはストーリーの構成もすごく幾原邦彦っぽいんだ。
今までのダークキングダム編・魔界樹編・ブラックムーン編では、
敵の目的や組織の命令系統がすごく明快だった。
クイン・ベリルがトップで、数名の幹部と各回妖魔。
プリンス・デマンドがトップで、幹部と部下と各回ドロイド。
王を唆す黒幕にクインメタリアとワイズマン。
黒幕と、王様と、将軍と、兵隊。
見たまんまの支配のヒエラルキーに、
目的はシンプルに世界征服だ。
エイルとアンなんかもっとシンプルだ。毎回カーディアンを召喚する。
術者と式神っていう関係性に、目的は捕食。
子供でもわかるし、途中から見始めてもすぐに理解できるテンプレだった。
今北産業どころか二行で済んだじゃねーかwww魔界樹編ほんとすきwww
ところがSに入ってから一気にその辺がややこしくなる。
敵ボスは白衣のマッドサイエンティスト風で、その秘書や生徒風の人物が、実験体(ダイモーン)を使って襲ってくる。
白衣の教授は、女王や王子のような悪のカリスマ感がない。
ミメットは命令に従うのなんてやめちゃおっかな~と発想する。
今までの敵幹部はみんなトップを畏怖し粛清を恐れていたものだけど、デスバスターズは恐怖政治ではない組織らしい。
更に、ウラヌスとネプチューンという共闘を拒むセーラー戦士が登場して、
セーラーチームと三つ巴になる。
三つ巴だけでもまぁまぁややこしいのに、
敵の目的もややこしい、というかよく分からないのだ。
セーラーチームではマーズが不吉な予知夢を見ているだけで、
ウラヌスとネプチューンはその予知夢の危機「沈黙」がやってくるから、
対抗策として聖杯を、その聖杯を召喚するために三つのタリスマンを、そのタリスマンを探すために、ピュアな心の持ち主を探しているという。
この説明がもうややこしいww
白衣の科学者たちも聖杯を探しているし、その聖杯を使って「沈黙」のメシア(救世主)を・・・?
と、30話も費やしながらにして、
いまだに肝心な敵の動機や目的がなんだかよく分からないのだ。
なんだかよく分からないけど、世界を「沈黙」が覆うとか言われると不吉っぽいし危機っぽいし、
毎度その辺の人間を襲ってくるから、そこは正義の味方として見逃さず成敗しているという、場当たり的対処の連続だったのだ。30話も。
今までの単純明快な対立構造を見ていたノリでSを見ていたので、
いくら見ても知りたいことが明かされないというフラストレーションを溜めていた。
が、そうか。これが幾原邦彦作品であるなら、
その謎が解明されるのを期待してはいけないんだろうな。
少女革命ウテナでも、輪るピングドラムでもそういえばそうだった。
ユリ熊嵐やさらざんまいもそんなんだった。
「世界の果て」「ディオスの力」とか「生存戦略」「こどもブロイラー」みたいな、
未だにすぐ思い出せる、とってもキャッチーで意味ありげなキーワードを常にチラつかせながら引っ張り、
アニメらしからぬ電波ソングで決闘場へ向かうシーンや、
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」一連のシーンみたいな、
意味はわかんないんだけど、センスのカタマリっていうか、
ものすごく独特でカッコよくて目が離せないバンクシーンをつくりだして、
毎週毎週それを流して、一種のお約束にするんだよな。
いや意味はわかんないんだけど。(二回言う)
変身とかの販促でもないのに、バンクシステムをここまで様式美として昇華するのかっていう、幾原監督の作家性だ。
https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF
ダイモーンのバンクもその初期型ってことなんだろう、今見ればテイストに同じものがある。
毎週見てるのに、ちっとも謎の解明は進まないお預け状態だというのに。
でもカッコいいアレを見たいからとりあえず見ちゃう、みたいな習慣性を誘発させてくるんだよね・・・、幾原監督って・・・。
飽きないようにバンクシーンがちょこちょこアップデートされてって、
見てるうちに脳がパブロフの犬化してくというか、中毒性が高いというか。
もう意味とかいいからとにかくアレを・・・アレをくれよぉ!ってなっちゃう映像ドラッグっつーかww
よく考えたらコワいんですけどww
そして結局最後まで見ても、「世界の果て」「ディオスの力」「ピングドラム」「こどもブロイラー」などなどの、思わせぶりなキーワードの数々がなんだったのかは明確に説明されることはないのだ。
だから視聴者はそれらの考察で盛り上がるんだよな~。
あれはこういうことの象徴だったんじゃないか、って。
幾原作品でそういう設定の投げっぱなしが批判されることはない。
物語はだいたい、キャラクターの心情の面では盛り上がっていって、試練を越え、ちゃんと決着がついて終わるから、そういう意味で満足できるようになっている。
俯瞰して見ると、幾原作品のテーマはだいたい身近な人間関係のゴタゴタや、思春期的なコンプレックスなんだよな。
世界観としてはいつも狭く閉じた世界を描いていると思う。
教師の登場しない学園だったり、モブがピクトグラムだったりして、人間関係が閉鎖的で濃い。
大人や第三者の介入を拒否する、耽美で少女的な世界だ。
つまり、世界の危機とかそういうスケールの大きい風なことを言ってるのは、
思わせぶりなだけの舞台装置というか、視聴者を引っ張るエサっていうか、
あるいは内面的、精神的、主観的な意味での危機だったりっていうか。
いや、まあ。解釈によって自分の内面に答えを見る人もいるだろうから、問いかけとしてはアリだと思うけど。
だから、何が言いたいかっていうと、
セーラームーンSでは「沈黙」とか「沈黙のメシア」がなんなのか、みたいな答えが開示されると期待して見てはいけないってこと、
デスバスターズは思わせぶりなだけで、止むに止まれぬ事情とか、悪に堕ちた悲哀とか苦悩とかは特になくて、地球に漫才しにきた愉快で迷惑な人達ってこと。
過去シリーズのような、普通の人々の日常を守る、地球を背負って守る、みたいなスケールの大きな使命感の感性は幾原監督の得手ではないのだ。
そういうヒロイズムを求めないで、
耽美さと、独特の様式美と、漫才と、キャラクターの心情の成り行きに注目すれば面白く見られるはずだ。
ウラヌスとネプチューンは百合界の元祖カリスマだというし、そういうところが見所なんだよな。
そこの関係にいまひとつ萌えないまま見ていたから辛かった・・・。
ウテナとアンシーは好きなんだけどな~。
まあ、幾原邦彦のその後の作品を見て、今改めてセーラームーンSを見たから分かったことがあったっていう。
オタク道も長く続けてこそ見えてくる文脈があるということか。
リアルタイム視聴していた子どもの頃から、思えば遠くに来たものだ。
いつか少女革命ウテナやピングドラムの記事も・・・、いや見なおすと長いからな・・・。
そういや、Sは家族や学校の場面がほぼなくなったよな。
セーラー戦士が増えたからそういう人物まで描くヒマがないし、
受験生ということでレイちゃん家で勉強会ばかりなのも、設定的におかしくはないけど。
ハルナ先生やなるちゃんみたいな普通の同級生、育子ママや生意気な弟、娘に甘いパパ。
無印のころはそういう人達との日常と、変身戦士の非日常の対比が見所だった。
Sではセーラームーンにも戦士としての自覚(あるいは母としての内面)ってやつが確立されてしまって、
ルナが世話焼きな態度をとることもほぼなくなった。
そういや、そうだ。幾原監督の作品ではそういう周囲の大人的な人や普通の友人との関係性っていうのが希薄だ。
「限られた特別な関係」ってやつがクローズアップされる。
それはもう密接で蜜月な、友情以上恋以上に募って拗れた感情のボルテージが特徴だ。
意外とその辺てニッチなジャンルかもしれない。
キャッキャウフフしてる百合モノとは微妙に系統が違う、
潔癖で排他的で思いつめやすい少女同士の感性の世界というか。
思いつくのはポーの一族とか、CLAMPの聖伝とかそんな感じかな。思い出のマーニーとか。
視聴者の少女が、無印のころは家庭に帰属する意識の幼稚園生や小学生低学年で、
そのまま育って、特別な親友をつくりたがる十代の中高生でSを見ることになってたら、そりゃドハマりするのも頷けますなww
ウラヌスとネプチューンにしろ、ちびうさとほたるにしろ、二人だけの世界をつくるあの感じがストライクでしょう。
ヒロイズムからアドレセンスへ、
セーラームーンもどうしたわけか、
視聴者層の成長と共に、テーマの対象年齢が上がっている。
それが飽きられず支持され続けた要因のひとつなのかもしれない。