体癖の記事が増えてきて、各種について書いたことが雑多な感じになってきたので、一度まとめておきたい。
体癖について情報を増やしていくことは簡単だけど、
だんだん枝葉末節の言葉に溺れて本質を見失う、ってことが起きるかなと。
どの分野でもありがちなことだ。
細分化して専門化して高度化して、そのうち全体を包括することができなくなるっていう。
その点、体癖メソッドはものすごシンプルな本質が明示されている。
迷ったらいつでも立ち戻ることのできる根拠。
それは腰椎にある。
その人が身体を操作するのに、主に何番めを使ってるかっていう偏り。
それが根本だ。そこからすべてが派生していく。
よく使う動きのパターンによって特定の部位が発達し、
体格が形成され、特有の仕草になり、心にも思考にも影響を与えていく。
そういう連鎖になっていく、ということ。
なーんか、マザーテレサの名言みたいだね~。
思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。
っていう。いわく至言だけど、
思考があって行動がある、という順序は絶対ではない。
精神と肉体では、確かに精神が陽であり先にあるものだけど、
肉体もまた、常に精神に影響を与えてる。
考えていたよりもずっとずっと、肉体の在り方は心の在り方を決めている。
だから、この名言の一方通行感を、より正確に相関を表わすものにするなら、
腰椎に気をつけなさい、それはいつか体癖になるから、
体癖に気をつけなさい、それはいつか思考になるから。
と、枕に付け足してみたい。
ほんと、知れば見えてくることばかりで、世界ってワンダー。
いやはや。
人間を分類する方法は世に数多あり、
ネットでチャートしてあなたは何々型ですよ、等お手軽診断ができるとつい試してみるのだけど、
割と当てはまるなぁ、面白いなぁ、と思って深く学ぼうとしても、
「なぜ、そのようになるのか」という知的追求に答えてくれるメソッドは少ない。
古い占術の焼き直しとか、創設者の臨床経験とか勘っていうブラックボックスで突き当たってしまいがち。
体癖メソッドも最初は、開祖の野口晴哉の天与の勘から始まったという。
彼は、病んだ人のどこに手を触れるべきか、ということが感じられた。
触れて愉気する、互いの気の交流のなかで、不調が整っていくことが起きたと。
それだけでも腕のいい治療師としてやっていくことはできたろうけど、
野口晴哉は、自分がなんとなく、でも繰り返し確実にできることを、
「なぜ、それが出来るのか」という発想で追求していける人だった。
臨床を続けながら、自分の技を分析して解体して、
体重配分計を用いてエビデンスを示して、
自ら執筆して明文化までしてみせた。
これマジ半端なく偉大よな~。
世の中、名人とか天才とか聖人とか伝説とか呼ばれる人がいても、
自分ができることを説明できない人のほうが多いものだ。
そうなると、そのメソッドは死とともに失われてしまう。
野口晴哉には、優れた治療師の直観と、優れた科学者のマインド、
ふたつの天賦があったというべきか。
物書きとしてはちょっとクセというかアクというか、口が悪いけどもw
そして、直感と論理、右脳と左脳、魔法と科学、肉体と精神、
人間に備わる陰陽の双翼が調和して羽ばたくと、どこまででも高く飛べる。
空の果てよりも高く、海の底よりも深く、星々より神々より遠く。
この有限の世界の在り方のすべてを、心で越えると、
そこにはいつも、同じものがある。
古い智慧、神話の原初、優れた詩歌、密教の到達、達人の境地、至高の領域。
それらはみな、同じものについて語るのだ。
それはどうしても言葉には尽くせないものなんだけど。
野口晴哉は、それを 天心 と呼んだ。
なかなかにうつくしい言葉で、とても気に入っている。
この頂きを示しているからこそ、体癖は学ぶに値する道だと確信する。
0 とか 空(くう) とか 無限 とか 創造の領域 とか
アルケー とか 愛 とか 魂 とか 混沌 とか 道(タオ)とか偉大な沈黙とか宇宙精神とか。
同じものを示す言葉は色々あって、それぞれの文化的背景やニュアンスがあるけども。
天心のニュアンスは 無我 とか 虚心坦懐 とか 融通無碍 に近いだろうか。
そこへ繋がっていくため、インスピレーションを受け取るための、心の状態をあらわす言葉だね。
野口晴哉の10代の時の詩に、その意味するところがあらわれている。
「我あり、我は宇宙の中心なり。我にいのち宿る。
いのちは無始より来りて無終に至る。
我を通じて無限に拡がり、我を貫いて無窮に繋がる。
いのちは絶対無限なれば、我も亦 絶対無限なり。
我動けば宇宙動き、宇宙動けば我亦動く。
我と宇宙は渾一不二。一体 にして一心なり。
円融無瞬にして已でに生死を離る。況んや老病をや。
我今いのち を得て悠久無限の心境に安住す。
行往坐臥、狂うことなく冒さることなし。
この心、金剛不壊にして永遠に破ることなし。 ウーム、大丈夫。」
ちょっと中二病的なカタさ、語の仰々しさがあって、
最後にふざけることでバランスをとってるっていう感じ、青さがあるけども、
素晴らしい詩だ。
この詩の指し示すところに100%同意したい。
この詩を一言に還元すると 天心 というわけだろう。
中二病ってか、10代ってのはこういうインスピを受け取れる時期なんだけど、
その後受験やらなんやらで社会に適応というか、常識に矯正されちゃうんだよね・・・。
それで病む。進んだ魂の者ほど苦しむ。自死したり、社畜化したりする。
そうして、それを手放して抜け出そうとすると年単位の時間がかかる。
・・・っていうのは自分語りだけど、
野口晴哉は、震災があってチフスが流行る時代に愉気のメソッドに目覚めたこともあり、
この境地を失うことなく、時間をムダにすることなく、自らの至福を追求し、道を成していくことができたんだろう。
この素晴らしいメソッド、整体界隈で継承されるだけでなく、もっと広く実践されていくべき。
自粛でセルフケアを学ぶ時期の今こそまさに体癖メソッドが必要。ありがとう野口晴哉先生。
ただまあ、体癖メソッドの修得のためには、
座学だけじゃなくて臨床的な勘がいるっちゃいる。
自分はそれなりにデッサンをやってたのが良かったと思う。
人体を、表面だけでなく、骨格や筋肉、量感、重心、動き、らしさ、なんかを観察して、手でキャンバスに出力していくことの積み重ねがあって、
それが体癖わかるのに使えてる感ある。
人を診る、となると医師免許やらなんやらってことになるけど。
絵を描いたり像を作ったりしながら観察することや、
武道やダンスなどでも相手を視て、自分の身体感覚を養うこと、
「隙あり!」に斬りこむ感覚や、相手と呼吸を合わせて踊りはじめる感覚。
教師のように多くの人にコミットすることなんかでも、
この種の感覚は身につくと思う。
まあ、生まれつき才能で解る人もいるかもね。
そうだ。
鬼滅の刃で、継国縁壱は幼少期から人体の内部でなにが起きているか観る感覚を持っていたっけ。
漫画では人体が透けて見えるという表現になるけれど、
実際には目で見るっていうよりは、手や体で察知して動いてく、みたいな感覚かな。
ここが弱い、とか、ここが調和でない、とか、どこに緊張と弛緩があるのか。
なんとなく、でも間違いなくそうだと感じられる、磨いて確かなものにしていける感覚。
炭治郎にも岩柱にも見えるし、そして「わかってる人」をよく観察すると、格段に早くその感覚を掴むこともできる。
脳の共振機能を使って見取り稽古すると、なんでも早く修得できる。
オンラインでアプリをダウンロードすれば、イチから組むより早いのと一緒だ。
習うのが巧い人は、みんな無意識にそうやってるものだ。
そして、
縁壱の語る境地、道を究めるものが辿り着くいつも同じところ、というのがまさに天心と同じことだ。
縁壱は、もとは4種体癖の傾向がありそうだけど、
ものごとに対峙した瞬間、最適解を直感し、その場で技が完成して、その通りに体が動く、
というのは、もはや体癖を超越している。
それはクセのないまっさらな、どのように動いても最大の力が出る心身ということだもの。
それが日の呼吸の意味するところだろう。
体癖があるってことは、ついつい、クセのとおりに動いてしまうってことでもある。
5種なら逃げるし、8種なら受けて耐える、咄嗟の時にはいつも使う得意技が出る、そうでないと力が出ない、ということだ。
それが派生の呼吸だ。自意識や作為や筋肉の付き方や歪み、体に染みついた癖によって、ある型にハマってしまう。
しかし、最も本質的には。
複雑系であらわれる事象には、インスピレーションで応えていくしかない。
思考していては遅いし、クセでは最適解でないことがある。
ポルコは「いいパイロットの条件はインスピレーションだ」と言ったけど、そう。
飛行艇を操縦しながらちんたら考えていたら事故って落ちる。クセどおり動いても間違っていれば事故って落ちる。
試合や舞台で相手とセッションしながらちんたら考えていたら、音楽や流れに乗り遅れるのだ。
誰だって、ほんとうはその感覚を知っている。
ゾーンに入る、とかいうのもそんなことだろう。
時間を忘れ、我を忘れ、
それしかない、という最適手を閃き打ち続けていく感覚。
それを知って、求めていく人だけが、一流とか達人とかプロとか、アーティストの域に至れる。
スカッとやりきった充足を味わい、より良く生を成就できる。
体癖という偏りを整えて手放し、天心へ至るってことの意義はそういうことのように思う。
そもそも10種類の体癖を生じている腰椎は、
誰でもその身に一揃い備えているもの。
人間本来の性能が十全に発揮されているときがあるとすれば、
それは、そのすべてが活性して調和しているときのはずなのだ。
いやまあ、
「中庸は大事だけど、偏らなくては進めない」ということはあって、
あまりにも天心そのものだと、もはや何も望むことのない涅槃、満ち足りて自ら動くことがないってことはあるかもなので、
推進力としての偏りがあることは、人間として生まれた前提であって大事なことだけども。
だからまー、
偏ることと、調和すること、それを繰り返していくってことかなー。
何かを手に入れていくってことと、拘っているものを手放していくことの双翼。
天秤を傾けることと、釣り合って値が0になって、正反合すること。
空即是色 と 色即是空 の表裏一体を紡いでいくということ。
そこへ至る道は、いつも万人に開かれている。
いつでも、今でも、気がついて、始めていい。
体癖
参考文献はこちら。
体癖という方法論、分類法だけでなく、
Amazonじゃなくて公式に著書がある。ガチりたい人は通販で。
もっと流行って廉価版とか文庫版とかでるといいよなー。
今週のお題「575」ここで一句お願いします、というはてなのお題。
つい引用ばかりしてしまうのだが、
一応、自分でもそれを示す言葉を詩ってみたことはある。
すべては虚しい仮の宿、ゆえにすべては愛しき我が宿
っていうプロフのやつだ。
色即是空 空即是色 の意訳みたいなもので、
夢幻泡影ってことだね。無限に至り、有限を眺めている。
あらためてみると1種体癖みがあるなー。
前半が結論で、俯瞰的なんだけど、ちょっと情に欠ける。
だから後半で、足りないフィーリングを補うという。