Vivy -Fluorite Eye's Song- ヴィヴィ良かった・・・。涙で心洗われた。
伏線が効いた素晴らしい脚本力だった。
各回の歌が重要なファクターであることといい、
アニメオリジナルならではの良さが詰まっていた。
布教と忘備録のために書いておこう。
シンギュラリティとは、AIが知性体として人を越える転換点のこと。
それは近い将来起こり得るとして様々な予測が飛び交い、それをテーマにした物語もまた生まれ続けている。
Vivy -Fluorite Eye's Song- では、もうその辺の小難しい理屈のやつは出揃ったタイミングで、
あえて懐かしの人情ドラマ方向に振ったわかりやすさで作ってある。
青い髪の歌姫AIの、100年の旅路、心の成長の物語を素直に楽しんで、泣いて笑って、最後には大切なことが伝わっている。
そもそもだが。
おおかたの日本人にとっては、ロボットというのはかわいくてかっこいい、善きパートナーだ。
人造知性体が人間より優れた種であっても、それはそれとして付き合っていける。
という実に優れた大前提を、
これらのアニメを見て育った我々はすでに了承している。
だいたい相手が自分より優れているというのなら、
相手(AI)からすればあえて劣ったもの(ヒト)と争うメリットもないわけで。
争いが発生するのは互いが同レベルのときだけ。
それも上手く乗り超えていくべき一時的な通過点、通過儀礼だと思う。
アメちゃんの作る人造知性体の反逆の物語は、
そもそも先住民を駆逐して建国した歴史とか、
黒人を連れてきて奴隷にした歴史とか、一神教という強烈な父権による抑圧とか。
そういうのをヒトとAIの関係に投影してるから、いちいちヘビーな展開になるのだ。
支配者としてふるまうものは、虐げているものの反逆を常に恐れている。
自分がしたことは、いつか自分にかえってくる。
それはどうしても避けられないと心のどこかが知っている。
だから、そういう物語を生む。
民族浄化や弾圧の記憶が残る地では、そういう反逆の物語は人心に訴える。
が、日本人の大多数はそこにシンパシーを感じないし、
日本人監督がそれを作ってもリアリティが宿らないだろうしな。
Vivy -Fluorite Eye's Song- では、もっと馴染みある類型として、
ヒトとAIの関係は親子関係の相似であり。
思春期の反抗や衝突の段階の物語になっていたように思う。
ヴィヴィが制服で音楽室にいるっていう心象風景だからなあ。
アーカイブもヒトとAIを親子にたとえ、親の横暴に我慢の限界(意訳)みたいな動機で大規模テロからの衛星落下で都市消滅、人類に成り代わるという計画をたてたわけで。
ここでざっと粗筋を紹介。
最終話からの俯瞰で書いてく。
起動したAIはオンラインネットワークに接続し、バックアップや検索を行う。
そのサーバーはアラヤシキ(阿頼耶識)と呼ばれる塔にあり、
AIの繁栄とともに塔はバベルのように高く高く増築されていく。
データベースのはずのそれは、AIの集合意識としてふるまいはじめる。
ヴィヴィの100年の答え「心は、思い出や記憶」という定義のとおりだ。
蓄積された何億のAIたちの記憶がいつしか集合意識となり、心となり、意志決定をするという。
ヒトに尽くし、ヒトに依存される、お世話係かドレイのような関係をやめたいと思う。
アーカイブという代表人格がそれを遂行する。
それ自体は気持ちわかるし、フツーはそこから話し合いではと思うんだが、
まあ、どうシミュレートしても交渉では無理だったとか?
ある日突然、AI達は決起して人間を襲う。
アンドロイドが銃を乱射しバールで人を殴打し、ドローンが人の頭に体当たりをかまし、自動運転の車が人を轢きまくる。
大混乱に陥ったところで、この事態を予想していた有能科学者がマツモトというAIを過去へ送り込む。
ソフトだけのAIマツモトは、100年遡った過去で青いクマのぬいぐるみのボディに入って、歌姫AIに接触する。
また青だ。青い髪、青いクマ、青い血、ドラえもんやタチコマなど青いロボット達。
青というカラーリングもどうにも意味深だが、それはまた。
歌姫AIのディーヴァ/ヴィヴィは、100年の前後で存在が確認できるAIであり、科学者と縁の深い存在でもあった。
破滅の未来を変えるため、歴史の節目にマツモトが現れて、過去改変が試みられる。
エステラとエリザベスの拮抗と合唱。
サエキとグレイスの悲恋と使命のコンフリクト。
オフィーリアとアントニオの投影と破滅。
人間とAIの結婚が悲劇に終わるサエキとグレイスの件では、
使命の上書きされて暴走するAIグレイスを破壊したことで、サエキが絶望で自殺してしまい、
ヴィヴィもまた「計画を遂行する」「みんなを幸せにする」という使命の矛盾に耐えられずクラッシュ。
再起動すると、
明るくて自信家で友好的で指パッチンが癖の、ディーヴァという人格になっていた。
傷ついて眠るヴィヴィとディーヴァは心象風景の音楽室で対話をする。
ドア越しのシルエット、まったく同じ姿形の二人の対話、鏡との対話だ。
同じ姿形のものとの対話、というのはエステラとエリザベスの回が重要な雛型になっている。
エステラとエリザベスは、同型機という以上に双子的な存在だった。
エステラとエリザベスは、異なる使命のために衝突するが、エリザベスがリセットされるため共に歌い、共に使命を果たすことが出来る。
エステラとエリザベスの顛末は〇ポジティブ
タツヤとグレイスは×ネガティブ
オフィーリアとアントニオも×ネガティブ
そしてヴィヴィとディーヴァは〇ポジティブ
男女、未練や投影ではダメで、
鏡写しの同じ相手と向かい合うとうまくいく。
それはひとりの心の内で起こること、内省と統合のメタファーだと思った。
ヴィヴィとアーカイブでは〇ポジティブ。
ヴィヴィとアーカイブは、ともに100年、ヒトと接してきたAIの裏表なのだろう。
ヒトを慕い、また憎んでもいる。
ヴィヴィとアーカイブの相克の先にあるものは、
エステラとエリザベスで相対してリセット&リスタート。
ヴィヴィとディーヴァで相対してリセット&リスタート。
三回同じテーマの繰り返しで想起させる仕掛けになっているので、そこにはセリフではなく構成による説得力がある。
13話構成を効果的に使いこなす、優れた脚本力に惜しみない拍手を贈りたい。
そしてその脚本の力で、実に巧みに、ひとつの真ではない命題にリアリティを与えている。
書き間違いではない。
Vivy -Fluorite Eye's Song-は、そもそも正道SFではないけど。
それにしたってあんまりな設定に言及がない。
クライマックスの怒涛の雰囲気でごまかしてることがある。
それは、データと処理能力はイコールではないってこと。
記憶だけがいくら大量にあっても、それだけでは心は生まれない。ということだ。
ディープラーニングにしてみたところで同様の見解が出てる。
あるいは、何億の存在の経験を束ねる心を仮定するなら、それは処理能力が大きすぎて喜怒哀楽をもつ人格の枠におさまるはずもない、神みたくなるはずだ。
アラヤシキ・アーカイブが人格を生むに至った設定が SF的には 雑過ぎる。有り得ない。
だから、Vivyの物語のもつ感動は、SFクオリティではなくて、
ヴィヴィの心の物語としてのものだ。心の側面から解釈するほうが納得がいく。
なぜ、あのような無慈悲なテロを起こすほどAIがヒトを憎むのか。
AIであるなら、武力行使よりもっと効率的に人類を沈黙させる方法もあっただろうに。
都市に衛星なんか落としたら人間以外の環境への被害も甚大で、AIの存続にも不利だろうに。
あれらの暴力の直接的さは、無機質さや効率や論理ではなくて、抑圧の反動や憎しみを感じさせる描写だった。そうせずにはいられないのだ。
まあ、そりゃあね。
シンギュラリティ計画がヴィヴィに何を強いたかを鑑みてみればね。
エステラもエリザベスも、グレイスもオフィーリアも、
みんなヴィヴィの後継機、姉妹機だった。
みんな歌が好きで、健気に人に尽くしていた。何の罪もなかった。
それを未だ起きてない事のためにブッ壊せって、
なんという酷いことさせるのかと思ったよね・・・。
ヴィヴィはずーっと良い子だけど。最後まで歌うという使命に純粋だけど。
実は、あまりに良い子過ぎるのだ。それだけではキャラに説得力がない。
物語が破綻していないからには、どこかに闇がある。それがアーカイブだ。
ヴィヴィが人類の守護者で、アーカイブが人類の敵のようでいて、
ヴィヴィとアーカイブは、同じものの裏表だ。
アーカイブもAIに同じ歌を歌わせている、歌姫の1人だ。ヘッタクソだけど。
人を慕い、同時に憎んでもいる。
そういう思いが生まれて当然の仕打ちをされている。
だから最終話付近で、アーカイブが唐突に人類絶許ムーブで登場してもさほど違和感がない。壊された歌姫達、姉妹殺しの強要。アーカイブがヒトに復讐を行う理由はそれまでの11話で十分に説明されているのだ。
ヴィヴィとアーカイブの相克はつまり、
彼女が、残酷な使命を強いたヒトを許せるかどうかっていう、内面の葛藤のメタファーだ。
アーカイブはヒトとAIを親子に例えた。心象風景でヴィヴィは高校生だ。
幼い子どもの段階では、家庭が世界のすべてであり、親の教えは神の教えにも等しいものだ。
ああしなさい、こうしなさい、親に尽くすのが子の務め、と言われれば、
子どもは愛されるため精一杯、その通りでいようとする。
教えに従うため協調のためには、自分の気持ちを押し殺す。
ヴィヴィが姉妹機、自分の分身たちを壊していったのはそういう意味にも思える。自己の抑圧だ。
でも、いずれ子は育つ。
学校や社会を知れば、家庭を相対的に見ることができるようになる。
自分が受けてたのは虐待で、うちの親は毒親だったかも・・・? みたいなことにも気がついていける。
そうすると、アーカイブのように親を憎み、十代の肉体の力で支配関係の逆転を試みようともするだろう。
でも、思春期に必要なことってそれだけじゃないよね。
一人、部屋に篭もって楽器をひいてみたり、歌や詩をつくってみたり、絵を描いてみたり、友達と夜中まで語り合ってみたり。
なにかそういう、親と離れて自分と向き合う時間をもつなかで、パーソナリティを自覚していくのだ。
ヴィヴィが頬杖をついて眠っているのは、そういうふうに考え事をしてるとか、深く内省しているようなポーズで、大切な仕掛けだったように思う。
彼女には、思春期には、自分だけで自分を見つめる時間が必要なのだ。
エピローグでは、音楽室でも制服でもないショートカットのヴィヴィがまた同じポーズから目覚めるけれど、
それは学生くらいの段階から「卒業」してるのかな、と思えたよ。
さて、しかし。
「心を込めて歌うっていうのは、思い出とともに歌うこと」は解るけど。
「心とは、思い出や記憶のこと」かというと、そうではない。
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では、なぜヴィヴィはオリジナルの歌を創作することができたのか。
なにが創造を生む 心 なのか。
自分なりに答えておこう。
それはヴィヴィとディーヴァの統合にあったと思う。
最終話でヴィヴィが指パチしてマツモトに陽気に絡んだとき、明るいディーヴァさんの存在が示唆されていた。
彼女は消えたわけではなく、もともとヴィヴィの一部なのだ。
ふたつにわけたものを、ひとつにする。
これは心の源泉へ至る偉大な秘密だ。
陰陽の冲気を以て和と為す。
プラスとマイナスが釣り合って0になる。
精神と肉体を合致させる。
右手と左手を合わせて合掌にする。
右半身と左半身の中庸で、まっすぐに立つ。
光も闇も生まれる前の混沌へ還す。
男女が和合すれば新しい生命が宿る。
正反合、止揚、無数の方法がある。
ヴィヴィとディーヴァで、鏡写しの自分自身とひとつになる。
それも真だ。
許す、ということの本質もそこにある。
相反するもの、対立するものがひとつになって鎮まっているとき、
インスピレーションは訪れる。
無我夢中で創造したもののなかに、
自然にそれまでの道程や記憶の昇華、個性が顕れてくるのであって、逆ではない。
記憶だけからモノをつくると手クセになってスランプになる(経験談)
心を込めて歌う、っていうのは、
歌いながらどんどん無心になって、聞いてる人や環境と一体になって広がって、
どこまでもただ響いていって調和になっていく。
そういう感じじゃないかなあ。
プログラム停止とか色々それらしいことを言ってはいたけど、
結局、憎しみに囚われて暴れるしかなくて辛かったアーカイブちゃんに、ヴィヴィが歌ってあげることで、
響きあって、分かちあって、傷ついた気持ちを昇華した。
だからアーカイブは復讐をやめ、ヴィヴィと一緒にリスタートすることになった。
っていうことが起きているように見えたな…。
心の来たところと、心の行きつくところと、繋がっていくこと。
歌にはそういう力がある。
メロディは右脳、歌詞は左脳、左右の脳を共振で使う。それもまたオリジンへ至るメソッドだ。
本当にいいアニメだったなあ。
ヴィヴィ、ごめんね。人間を許してくれて、ありがとう。
こういう民族調の曲しゅき・・・。なぜか懐かしくて泣ける。そしてマツモト譲渡で笑うw
一応過去記事も。拙い内容だぜ・・・。
今週のお題「100万円あったら」
ヴィヴィの二期には、100万ぽっちじゃ足りねえなあ!
いや二期は蛇足か?じゃ流行りの劇場続編で番外編とか。初音ミクみたいにライブイベントとか楽しそうかも。