「ワクチンを打たない理由」という記事を書いての所感。
なんならもともと空気は読むし、先生の覚えめでたく内申を稼ごうというタイプだ。
十五年前だったら、率先して接種して「若いのに偉いわね~」「感心ね~」とか褒められようと目論んだだろう。
かえすがえすもしみじみあほだったが、
もうそれはそういう気質なので、
ワクチン接種で集団免疫獲得!
という一億総火の玉ムーブに水を差すことを言うのも正直億劫だったのだが。
まあ、ごく個人的な病み経験を語り口に、
弱者の立場から発言するなら叩かれまいという趨勢を視野に入れた打算と、
むしろワンチャン炎上商法狙ってレスバで勝つイメトレまでしてから、
公開するボタンをクリックした。
どこまでも性根が姑息で我ながらアレだが。
結果、アクセス数は増減せず、スターはやや多め、新規読者数名、ということに。
ビビり損で良かった。
まー、初見で五千字越える記事を読もうって人は全体の1割くらいというしな。
ひとまず、言いたいこと言っても大丈夫だったよ!という安心を伝えたい。
打つも打たないも自由と言いつつ、集団免疫のためにはより多数が打つべきと、
ひしひし感じる同調圧力にNOと言っても袋叩きにはされてないし、
反ワク頭おかのレッテルをわざわざ貼りにくる人もいなかった。
まあニラヲチ対象にされてそうではあるwwせいぜい楽しく踊るわw
ともあれ世の中進んでて良かった。多様性の尊重すばらしい。
まー、水を差したってほどでもないだろうけどね。
この記事読んで接種をやめました、みたいな人がいるとは思ってない。
ただ、接種するにしろ、しないにしろ、
「その選択を後悔のないものにするためには。」
ということが言いたいのだ。
感染か副反応副作用か、何を選んでもリスクはあるだろう。
誰を、何を信じるか、
空気か、データか、御用学者か、政治家か、コミニュティか、隠された真実とやらか、科学か医学か、親か神か。
どれにしろ、「信じる」という言葉には、
自分で確かめられないものを、疑わない。真と思い込む。というニュアンスがある。
だから、自分は「信じる」という言葉を使うときはものすごく気を付ける。
というか、なんなら嫌いな言葉だ。
思考停止の言葉、自在であるはずの認識を阻害する言葉だとさえ思う。
信じるから、裏切られるのだ。 それは必然ですらある。
感じたことに従えば、裏切られたと思わないで済む。
禍でも福でも自分で選んだこととして、諦めもつく。
この高度情報化社会、ググるでも本屋に行くでも、情報はいくらでも手に入る。
ワクチンを打つべき理由も、
ワクチンを打つべきでない理由も、
色んな人が色んな事を言い、紙束にすれば堆く塔になるほどの情報がある。
かえって情報があり過ぎて、何を信じるべきか分からなくなる。
もはやメディアリテラシーがどうのって問題じゃないくらいの、情報の量と更新速度だ。
追いつけないし、追うだけでキャパオーバーして考えてる余裕がなくなる。
それなりに活字慣れした自分でも、もう読む気がしないのだから、
世の中の8割はソース読んでねーだろって思ってる。
でも、それでいいんじゃないか?
ゴミ情報で脳を埋めてどうする? 勘が働かなくなるだけだ。
もうF5アタックに等しいだろこんなん。
好き勝手なことを言っていた誰も彼もが、どうせ言いっぱなしだ。(自分含め)
問題が起きたあとで責任をとろうなんてやつはいないし、贖えるような規模でもない。
ここまで混迷を極めると、
リテラシー(情報を読み解く力)じゃなくて、生き方。
どんな世界観で生きてるかを問われてるんじゃないか。と思う。
ここんとこずっとオリンピックの延期と開催で、
運営のダメっぷりがこれでもかってくらい露呈してるけど。
自分は、かえって僥倖だったのかもしれないと思う。
スパコン「富岳」で試算して大丈夫でした~、なんてデータの使い方をする人達が、
ワクチン接種で集団免疫で勝つる、と言うのを信じられるのかっていう話だ。
国立競技場の感染リスク スーパーコンピューターで試算し公表 | オリンピック・パラリンピック 大会運営 | NHKニュース
どんだけ結果ありきの試算かと。客観的な観察を基とする科学のマインドへの冒涜では。
あれか、交通やモギリの混雑は入力してないとかか。
対外的な見栄優先で、内部に犠牲を強いる政治への信頼度の低下。
親でも、雇用主でも、IOCでも政府でもなんでも。
属する集団のリーダーが「あ、こいつやべえな」って気がついたら。
どうするか、自分で考える時なのだ。
泥舟だとしても、そこを死に場所と定めて尽くす選択肢もあるだろう。
転職か起業か、さくっと離脱と自立を試みる選択肢もある。
どれが己を生かす道なのか、気配で嗅ぎとるしかない。
まあ、周囲がどうするか伺ってから、というのも選択肢ではあるのか。
じゃ、それもいいけど。
あ、でもリーダーに正気に戻って欲しいと期待するのは無駄だ。
下位の者が上位の者を変えるとすれば、それは使役であり下剋上であり。
その場合は自分が新たなリーダーとなる器と覚悟がいるというもの。
どの選択であれ、淘汰される時になって誰かを恨まなくていいように、
どこかで「自分で決めた」という意識をもつことだ。
いやそれよりなにより、一番お勧めしたいのは、
思い込みを手放し、自分の勘を陶冶してくこと。
インスピレーションを確かなものにしていくこと。
心身には本来、生きていくために必要なすべてが備わっている。
予知に近い直観さえも、必要なときには訪れている。
予兆とか、虫の知らせとか、 理性と思考で否定してしまえばそれまでだけど。
何かがヤバイとこにいると、身体は勝手に緊張する。
それを感じとって逃げられるかどうかで生死が決まることもある。
でも、ずーっと緊張する状況に身を置いてると、異常に慣れて勘は鈍っていく。
コロナ禍で、世の中は戦犯を探してピリピリ緊張してる。
なにかセルフケアのメソッドを修得してないと、
どんどん心身が鈍っていくばかりだ。
まず、Wi-Fiを切って、布団乾燥機をかけて、
裸足で散歩してきてから、風呂にはいろう。
瞑想をしよう。
心と体を、くつろげ、やすらげ、整えること。
空に、0に至ること。
そうすれば、どうすべきかは、おのずとわかるだろう。
生きるってどういうことか、感じられれば迷わない。
砂漠に隠された井戸のように、
夜空に開いた小さな穴、星のように、
水や光に似た命が、とめどなく湧いている源泉がある。
命の湧く通路の向こうを覗いてみる。
井戸の向こう、夜空の向こうを。
そこには渇望していたすべてがある。
満たされることができる。
もはや信じるべき何か誰かを探す必要などない。
求めるものは外ではなく、今ここにある。
過去記事でも割と一貫性というか、ブレてないとは思う。
まあ、ワクチン接種してもそれはそれ。
そうなったらくよくよしないことだ。ストレスが一番身体に良くない。
そしたらもう反ワク情報は見ないほうがいい。
心身が健やかなら、毒は代謝する。未知の毒でも。
即死じゃなければ可能性はある。
命は、命のちからで生きている。
それに委ねることを学ぶ機になるかもしんないし。
ちゃんと食べて寝て、まずは自分を愛して世話をする。
なにがあっても粛々とできることをしていくのだ。
もーコロナとワクチンの記事終わりー。
ここは物語を解釈するブログだ。あと体癖。
ああ、しかし体癖というなら、
世の中全体を俯瞰して、信じるに値するものがなくてもヘーキでいられる、
というのは実に1種体癖ぽい見解だ。
2種なら、規範やマニュアルが混迷ではどうしようもないし、
3種も、権威ある誰かに決めてもらいたいだろう。
4種は、誰よりも空気を読むし、自分で決めろと言われるのが苦手だ。
5種は、リスクとリターンを冷徹に見きわめることができる。ほっといて大丈夫。
6種は、非日常が得意で不安にも慣れがある、この状況でも元気だろう。
ただ一番ヤバイとこにあえて突っ込むタイプでもある。
7種は、陰謀論や政府や何かにものすご憤ってるかもな。怒りで力が出る。
8種は、全部我慢して黙々と働いてそう。
9種は、思い込んだことを曲げられないから、どうかな。
従来派か革新派か、両極端になりそう。
10種は、コロナ禍であぶれた人のためにNPOとかボランティアとか始めてそう。
4種傾向の人が一番ツラそうな時勢だなあ。
歌とか詩とか、なにか表現することをもつといいらしいよ。日記とか。
それかいっそパンデミックものの映画とか見て、思いっきり不安を共鳴させて涙で排出するとスッキリする、ということらしい。
まあ。
体癖がなんであれ、天心へ至ることはできる。大丈夫。
反ワクチン派を分析した記事がコメ含め面白かった。
あなたの反ワクチンはどこから?
https://anond.hatelabo.jp/20210710045115
自分はオーガニックとややスピかな。
ほーんと、ワクチンなんて不自然なもの、身体に入れる気が知れないね。
全頭一斉投薬すればいいなんてブロイラーみたいな思想にも戦略にも頷けない。
他者を愛し、公共に尽くしたい気持ちもそれなりにあるけど、
自分のためにならないことが、誰かのためになるわけもないのだ。
