当方、白状しますと美術の大学で西洋画専攻してました。
最近のブルーピリオドが心に刺さり過ぎる。共感性羞恥でのたうち回る。
特に今月の、どこの大学でも手ぐすねひいてる系のカリスマに心酔しかけてる八虎まじ最大のピンチ。
あれぞ10種体癖って感じ。こわ~。お館様や・・・。
まあ、痛い目にもあってこその成長ではあるけれど。
しかし、カリスマというか教祖というか主宰者というか、
ああいう求心力のある人物がターゲットを引きこむ手管が、
「私はあなたのことをよく解ってますよ」というのがリアルで凄みだ。
しかも、絵を描く人間の、絵の方を見てそれを言うからなあ~。
悩める画学生なんてイチコロやであんなん。承認欲求こじらせてるからな!
加えてボディタッチとかまじ魔性のテクニック。
でも、主人公があれで転んで信者になるとしたら、
それは彼の自己肯定感の足りなさを突かれたということであり、
しかし、それは、そもそも西洋画の哲学と、日本人の性質との齟齬の問題でもある、とも思う。
これは、自分が10年油絵やって、そこからまた10年油絵以外の素材で絵をやって思うようになったことなんだけど。
えーと。
ブルーピリオド読んでてすごくつらさが解るのが、
大学が、教授が、課題ごとに事あるごとに、
「この絵はなにを表現していますか」「あなたの主張は何ですか」「あなたはどんな人間ですか」「あなたはどう考えますか」みたいな、表現者としての、
確固たる自我の確立と証明を求めてくるのだ。
講評で、描いたものの横に立って、場にいる全員にプレゼンをする、
その慣習が、その行動様式が、そういう精神性に基づいたものであり、圧を発信している。
動機の言語化と絵との整合性を求められ、
なんとなく、みたいなことをモニョモニョ言ってちゃいけん空気。
まずこれが大半の日本人にとって苦手なことだと思う。挫折して自信を無くす。
西洋人はディベートをすることも自分の意見を持つことも教育の理念に組み込まれてるけど、
日本の教育は元が軍隊式で、能力は平均に、全体が号令どうりに動くよう教育する。
どっちの教育にも是非はあるだろうけど、
日本人は、そもそもの性質として自己主張が強いことを良しとしない。
協調を、付和雷同を、和を以て貴しとなす。なのだ。
そんなゴリゴリに訴えたい価値ある確固たる自我なんかねぇよ。
ケースバイケースで空気読んでなんとなくのライブ感で当意即妙に生きてんだよ。
自然と自分が地続きで曖昧のアニミズムで神々八百万の世界観の民には、
デカルトやコギトエルゴスムみたいな、どこまでいっても自然と自己が分離・対峙・対立する構造の、一神教的な発想に馴染まないのだ。
まずそこ。
で、そういう精神性で長い時間をかけて改良されてきた道具は、その精神性を写し、宿しているのだ。
考えてみたら当たり前だけど。
油絵、というのは、ものすごく可塑性が高い画材だ。
表現の幅が広く、自由度が高く、
人の、思った通りに描ける画材。
取ったりつけたり重ねたり描きこんだり、バランスを見ながらずっと何十時間でも作業できる。
思い通りにできる、脳内を再現できる、ということが、
逆に、
どんだけの青写真を持ってるか、どんだけの思想を持ってるか、どんだけの精細さを持ってるか、ということを問うてくるのだ。それはもう厳正に厳密にだ。
西洋人は、そういう精査に耐えうるというか、
そもそも「どこまで思い通りにできるか」っていう、
まあ言ったら、思想で自然を征服する発想で、道具もそれに沿って発達してきた。
解るかなあ。
そうだ、服で例えてみれば解りやすいだろうか。
洋服、というのは人体の都合に合わせて布を裁断する。
とても動きやすいけれど、
曲線が多く、布の端切れがたくさん出る。
例えばこんなん。
和服はこう。
反物を直線だけで切って、一枚の着物に仕立てる。
端切れも出ないし、布の性質に合った裁断でほつれも少ないが、
動きにくい。
・・・というか、服に合わせて、人のほうが動き方を習得していく、という行動様式が生まれる。
日本人、あるいは東洋の精神性の本質はここにあると思う。
モノありきで人が合わせていく時、最大のパフォーマンスを発揮する。
西洋人の精神性が、人ありきでモノをそれに合わせていくことであり、
油絵は、そのために発達してきた歴史ある道具。
さて。
猿真似の得意な日本人だけど。
道具だけ輸入してもうまくいかないことがあるのは、そういうことなんじゃないかねえ。
道具が内包している思想を除くことはできず、
使ううちに行動様式から思想が浸食してくるのだ。
身体感覚が及ぼす思考への影響は気がつきにくく、また抗いがたい。
着物から洋装に、草履から靴に、道具を変えたことで、日本人の歩き方が変わってしまってるのも地味~に弊害らしいよ。
筆ひとつとってみてもなー。
油絵の、豚毛の筆はどんどんすり減る消耗品だ。
一方で、書道の筆なんか数万数十万して、十年でも使えたりするものがある。
虚心坦懐の己を預けるには、道具も正しい道理を導くものでなくてはならない。
着物でも刀や刃物でも筆でも、なんでも。
一見して使いにくい道具が要求する正しい動きがあり、その要求のままに行えた時、力は要らない。
自然体でありながら、最大効率の力や機能美、理の美を体現できている。
日本ではそういうコンセプトで道具を発達させてきた。
包丁だって、正しい動きを要求する道具じゃん?
脇しめて引くように切らないとスッと切れないわけで、そういう感覚をどこまでも延長してくような感性なのだ。
己を虚しくし、道具と一体になることを良しとしてきた。
虚心坦懐と、確固たる自我の確立。
洋の東西で精神の発達の方向性が逆なのだ。
その極致には通づるところがあるんだけど、
これはよくよく明らかにしとかないと教わる方は混乱する。
明治以来、こういう問題をなんとなくなあなあにしたまま、
今でもギリシャ彫刻の石膏像を木炭デッサンして、そのままの流れで油絵の具を使いはじめることで、
西洋式の絵画にまつわる行動様式が、日本の若者に何を要求してるのか。
それが苦しくて、絵が苦しいものだと思ってしまった人がどれだけいたことか。
ほんと、教授って大学で何やってんだろね?何の対価に給料貰ってんの?
根本的な齟齬の問題を何十年ほったらかしてんのやら。
そりゃ油絵の業界が老害ばっかで先細りになるのなんか、当たり前じゃねって気がしてきたわ・・・。
まあ、個人の裁量で生徒を導くいい先生はたくさんいるけどね。
根本的に構造が致命的。
それを放置で、対処療法だけしてもね・・・、
苦しい延命にしかならんよね・・・。
はあ~。
若者の才能がもったいない・・・。人的資源がもったいない・・・。
自分の青春は・・・、まあ、アレはアレでいいか。過ちもまた糧になったってことで。
そうだな、改めて日本画や水墨、禅画の良さを再発見するというのもいいだろうが、
まあ、例えばアニメとか、
リミテッドアニメーションのような、制約の多さのなかで出来ることを模索してたら、謎の高クオリティに昇華されてく、みたいな。
大半の日本的気質の絵描きには、そういうのが向いてるのだろう。
CGやお絵描きソフトはどうなんかなあ。
あれは油絵よりもっともっと人の思い通りだからなあ~。
レイヤーごとに操作とか[Ctrl]+[Z]とか便利すぎるが。
まあ、難しく考えず、萌えや娯楽を是とする土壌なだけマシだな。浮世絵みたいな気楽さの文化。
思想とか高尚さとか関係ないのだ。
声高な自己主張や意表を突く発想がアートなんじゃない。
至福を追求する魂の輝きが、アートの本質。
とかなんとか、飲みながらアツく語って八虎の怪しいサークル加入を引き留めてえええー!!!
ってなった今月のブルーピリオドだった。
いや、あの主宰も悪い人ではないかもというか、しかし悪気がないことこそタチ悪いというか。
悩む人の弱さをついて支配とか、自分が一番嫌いなやつだから、過剰反応で筆がノッたよねwww一気に書いたわww
5種体癖の矢虎は確かに、じっとして考えるばかりでは不安が増大するだけ。
フッ軽で、人と関わって、行動しながら考えるほうがいい。
・・・あ、そっか。
ていうか5種なら損切りも逃げ足も早いじゃん。
反権威集団という視点から、芸大や画壇の歪さを相対化できたら、
用済みで離脱でオッケーだな。ヨシ!
油絵も色んな表現ができる技法だから、
自分に向く制約を課せば日本人気質でも楽しめる素材だと思うし、
そういう人もたくさん見てきた。
そもそも日本人離れした精神性の人もたくさんいるわけで。
だから、まあ。ほんとのところは。
すべてのものは、いいもわるいもなくただそこに在って、
心がそこになにを感じるかってことなんだよなあ。
不安も、悩む心もあるがままに、それを頼りに進んで行ければ素晴らしい。
不調和のサインである痛みは、同じものと引き合う。
似たもの同士が出会って共鳴と表出が起きた時が、互いにその問題を越えていくチャンスなんだろう。
我々はいつかもっと大きな調和に至ると知りつつ。
今はまだ未熟故に、各々で。
己の道を往こう。
洋服と和服のたとえは既出。