田舎のおばあちゃんというものは、杖代わりにカートを押して歩いているものだが。
今日見かけたおばあちゃんは、
この寒いのに割烹着だけで上着もなしに、
日に焼けた顔で、縮んだように小柄で、
キャリーにでっかい大根やら白菜を載せてちょぼちょぼ歩いていた。
目が合ったらこちらに寄ってきて、野菜をくれると言うではないか。
畑で大きくなり過ぎたのか、出荷調整なのか、捨てるばかりでもったいないからと。
ちっちゃいおばあちゃんがえっちらおっちら運んできたデカ野菜。
なかなか味わい深いギャップ萌えを感じ、萌えたならお布施したくなるオタ気質と、
タダでものを貰うなどありえぬ1種気質で小銭を出そうとすると、
いらない、そんなものを貰ってはもう来れなくなるから。という。
お裾分けであって、物売りや押し売りにきたと思われたら心外なのか、これは失礼した、と思って、
代わりに小分けの袋菓子を出した。
お気持ちとお気持ちの交換なら良かろうと思ったのだ。
1種って多分、貸し借りみたいになるのがヤなんだよねえ。
一方的な施しとかボランティアみたいな発想に馴染まない。
イーブンで公平じゃないと落ち着かない、みたいなとこある。
おばあちゃんのほうは、本当に何の対価も望まず、ただいつもそうするように近所に野菜を配って歩いていたので、
自分がどうしても袋菓子を受け取って欲しくて引っ込めないでいると、
たいへん恐縮されて、押し戴くように、拝むようにして、
ありがとうと受け取ってくれた。小さな袋菓子がさも有難い宝物であるかのように。
ええ・・・、なんかメッチャ癒されたんだけど・・・・。
ハートがウォーミングなんだけど・・・・。なにこれ推せる・・・。
自分の祖母は父方も母方も亡くなったので、
知らぬ間におばあちゃんという生き物が発するなにがしかの成分に飢えていたのかもしれない。
おばあちゃんかわいいよおばあちゃん。
なんていうか、お地蔵様みたいだったな。
即身仏に成りかけてるとでもいうかww
枯れて縮んで、上手に水分が抜けて干し柿のような、自然な老いのさま。
畑の実り恵みをうち捨てては置けないさま。
一銭の見返りも求めず、惜しみなく与えて歩くさま。
しわの中に目が埋もれるような笑顔。
尊いか。語彙が死ぬわ。
ああいうふうに惜しみなく、余分なものを手放しながら老いていくと、
最期は何も持たずにさっぱりと、気持ちよく死ねるんじゃないかなあ。
自分はあんまり人に憧れない性質で、「あの人みたいになりたい」と思うことは無かったのだが、
今日のおばあちゃんとの一期一会に、老境の理想をみたかもしれない。
もらった大根は、包丁を入れるとあらぬ方向に割れたw
破裂寸前ってことだったのかな。流通には耐えられなかったのだろうが、
みそ汁が甘~くなって、味は良かった。
っていうかデカ過ぎて明日も明後日も大根祭りだなこりゃ。何味で煮よう。
しかしなにか今日は、大根より袋菓子より、
形のないありがたいものをお裾分けしてもらったように思う。
イーブンになどなりようもない、小賢しさの及ぶべくもない、
素晴らしいものに触れさせてもらったような。
なんだろうなあ。おばあちゃんの人生の 徳 みたいなものかな。
僧になるより、学者になるより、財を成し名を成すより、悟りの成就は各々の道の先にある。
農家のおばあちゃんでいいのだ。そこにも無為自然の至高の人生が在り得る。
体癖でいうと、あのおばあちゃんは9種やろなー。
小さく縮む老い方、というのは骨盤を閉じる力のあらわれだ。
ちっさくても身体は野生的で頑丈。割烹着で2月の外を歩きまわるほどに。
生殖器型だから面倒見がいい、地域の人に食べ物を配って歩くとき、力が出て、人生が笑顔が輝く。
基本排他的なはずなのによく自分に声かけてきたなあ。何度か挨拶とかしてご近所認定されてたということか。
謝礼を断るかたくなさも10種というより9種的。自分が引かなかったから受け取ってくれたけど。
今度があったら、も少しおばあちゃん向けの菓子を考えておこう。
今週のお題「自分に贈りたいもの」