ファンアート描いてみた!
当方お絵描き勢ではあるが、薬売りは寄せてける気がしないので猫でファン絵。
猫は好きだ。今も二匹飼ってる。
モノノ怪が化猫で始まり化猫で終わるシリーズっていうのも最高にツボなので、
それぞれの化猫で陰陽の対極になるっぽく描いてみた。
花嫁タマキとネコは作中でひたすら可哀想なので、そういうの二次創作では昇華したくなるよね~。ニコニコにしといたよ!
さて、前回の記事はその化猫の解釈、
猫を意味するマオという名がついてる理由、
復讐を25年も待っていた謎を解くべく書いてみた。
で、続けて海坊主も見てみた。
だってDVD持ってるもんね。オーディオコメンタリーも聞けるもんね。デュフフ
化猫で登場した女中カヨが再登場し、
「坂井家の化猫騒動」として前作が仄めかされる。
だからっていうか海坊主は、化猫を見てるか見てないかで全然見方が違ってくるのだ。
化猫の内容がまるごとミスリードになる。驚嘆せよ。
既読者は化猫騒動の目撃者であるカヨと同じ目線、同じ疑いを抱きながら見ることになる。
化猫では25年、海坊主では50年とちょうど倍の年月だが、
年老いた男が振り返り語る若き日のあやまちが、
とんでもない美化された大嘘なんじゃないのか。
死人に口なしというが、死んだ女性サイドには全く違う言い分が、異なることの有様があるのではないか、という疑問がちらつくのだ。
それだけ前作のインパクト凄かったからな。
一見して物静かな隠居、しかし家人を諫める言葉には道理と威厳があって、
この人はマトモそうだなーと思ったジイさまが、アレだった。
初見の印象を裏切られたぶん、過剰に警戒してしまうのだ。
しおらしく罪を告白する僧も、どうせまた最後には大噓つきの醜悪をぶちまけてくるのでは、と。
いやー、まんまとミスリードにひっかかり、
気持ちよく騙されるのがまた一興ですなあ~。
海坊主は、まあ今でいうところの
「推しのためなら死ねる」が、ガチのリアルだった女子だな。
しゅきぴ彼ピに貢ぐために体をはる系。地雷系。ぴえん。
おヨウの衣装はリボンやリンゴのいかにも少女なモチーフだったが、
クロミとMCMリュックとモンエナピンクに脳内換装しても違和感なしww
黒髪ロングにぱっつん前髪てのがまたww
ほんと十代の女子ってそういう危うい心理あるよなあと思った。
好きな人が世界の全部で、そのために自分をすり減らして堕ちて死にたい、みたいな。
破滅願望でもあるし、自己犠牲には酔える快楽と中毒性がある。
単に世界が狭いだけでもあるんだけど、箱庭には箱庭の退廃の耽美があるわけで。
で、まあ。
好きな人と兄妹だから結ばれず、それでも尽くすためなら死ねると、
兄の身代わりに、人身御供となって海に流された妹がいて、
妹おヨウは一応心残りなく死んだのに、
兄の僧のほうが妄執を拗らせてしまった。
その妄執がアヤカシを呼び、50年かけて海を魔境にした。
っていう話だったわけだが。
しかし、妙にリアルな男女関係というか、
ぴえん女子が尽くしがちな男、
ホストやバーテンや地下アイドル、
女から搾取するのに慣れた男、女が金にみえてる男。
なんでかそーゆー男にばっかりハマってちゃ報われるはずもなかろうけども。
僧の兄も「死にたくねえ、いい暮らししてえんだよ、こいつぁバカだ、なんだ金か?金ならねーぞ。」
っていう見事にそーゆークズ男な内面だったなw
しかし顔が良くて中身クズで、なぜか女に尽くされる、そういうタイプの男が、
女を踏み台にしたことを思い悩んで、50年も経って弔いにくるなんてことあるもんかねえ。色子ぽい弟子を連れてるあたり性懲りもねえなって感じしかせんのよ。
まあ、他人じゃなくて妹だから、そこは縁を忘れられるものでもないだろうけど。
ただ、前回の化猫で、奥座敷の荘厳過ぎる装飾が一種の魔法陣なのではないか、
あの部屋こそがアヤカシなのではないか、と思ったのは、
海坊主を見ていたせいでもあるんだよなー。
海坊主では、空中に目が現れたり、鎖のような魚のような船幽霊が飛び交ったり、
なにもないところからモノノ怪がでてくるから、空間そのものがモノノ怪のようだっていう印象をもつのだ。
アヤカシの海、という魔境のような空間が意志や指向性を持つ。
あるいはアヤカシ達の視点から考える、という発想があると、
エピローグの解釈が少し変わる。
僧と虚船、ペアで半身の妄執が退魔の剣で斬られ、海坊主は祓われるのに、
船に乗り合わせた人斬り侍と妖刀というペアが、次のモノノ怪に成る。という展開。
それは、アヤカシの海というモノノ怪が、核の代替わりを行ったのかなー、みたいな、そういう見方だ。
アヤカシの海が、アヤカシの集まる場としてのホメオスタシスをもっていたから、
50年の節目に、古い核の主と、新しい核の候補者を、呼び寄せたのでは?
彼らは自発的に行動したようで、実は「呼ばれた」っていうやつだったのでは。
「迎え、誘う声こそ恐るるべし」と、薬売りが言っていたのはそういうことかもな、と思うのだ。
船の乗客たちを迎え誘っている声の主は、アヤカシの海さんですよね。
海座頭だけどういう繋がりで出てくるのかピンとこないのも、それで腑に落ちるんだよな。
空中の右目や影の魚、鎖のような船幽霊は、僧の心象とリンクしてるからわかるけど、海座頭は僧の心のどういう部分の表現なのかわからない。
海座頭はアヤカシの海という場から、代替わりの儀式の執行者として登場したのかな、と思えば。
アヤカシもなー、
八百万もいるとなれば弱いものもいるわけで。というか大半はザコなんだろうな。
それを倒して名を上げようとする行者や、捕まえて見世物にしようという商人がいる。
それら外敵はたいへんな脅威だ。だから群れて生存を有利にしようとする。
そこに、「激しい人の情念がアヤカシと結び付くとどうなるか。もはや封印の呪符など効かぬ魔羅の鬼。」という言。
あー、
逆にアレか。
人の妄執を取り込むことは、アヤカシ達にとっては強くなって大きくなって、人に脅かされずに済むようになるっていう側面もあるんじゃあないのか・・・?
その生存戦略に気がついたから、
積極的に情念の強い人間を誘い込もうとするようになったのでは・・・。
結局、また人間が諸悪の根源でアヤカシかわいそうなのか・・・。
まあ、薬売りが居合わせてるから、
新しい海坊主(海侍?)も退魔されちゃうんだろうけど。
つか、そうそう。
それよりなにより当ブログ的に注目なのはだ。
海座頭に問われ、薬売りが答えたあれ。
「私が本当に恐ろしいこと、それは……この世の果てには、形も真も理もない世界がただ存在しているということを知るのが、恐い。」
えっ。
なにそれすごい。
この世の果てには、形も真も理もない世界がただ存在している。
だと・・・?
それは、恐いことでは無いはずだ。
理、心のありさまが無い、ということは、
恐い、ということも、そこには存在しない。
有限の世界の果てを越えて至る、無限。
それは涅槃、あるいは空(くう)というのだ。
薬売りスゲーこと言うなぁ。
それは海座頭の幻覚でいいから是非味わってみたい感覚だ。
それは究極の瞑想の境地そのものと言っていい。
幻覚攻撃を利用して見たいものを見てみるとか、さすが策士よのう。
饅頭コワイの本質を見事に応用しているw