ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

「オオカミの家」考察、オオカミは家の中。

YouTubeで週末限定無料公開だった「オオカミの家」鑑賞した。

 

公開当時のCMで「マリーア~」とおっさんがイイ声でねっとり歌うように呼ぶ声が耳に残り過ぎてたので見てみたのだが。

 

CMの印象のとおり絵面は全編に渡ってずーっと不気味で、

まあサイコホラーといえばそうなのかもしれないが、

視聴者を驚かそう怖がらせようというエンタメや外連味な意図よりは、

病んだ人間の心象風景を表現しようという純文学とかアートな文脈を感じた。

 

チリはこういう風刺系アートが盛んらしいが、

この作品が日本でウケたのはなんでなのかね。

 

圧倒的作業量なのは見れば解ったし、

ストーリーもガチのリアリティだけ切り出したようで胸が痛む。

 

なんていうか、

エンタメとしてわかりやすくする前の純度の高い原液みたいなもんで、

抽象度が高いからこそ日本人なりの解釈で観れた、みたいなことだろうか?

 

チリのこととか元ネタとか何も知らんでも、なんか直感的にわかりそうっていう普遍性というか。

「三匹の子豚」と「赤ずきん」ついでに「白雪姫」そんな童話さえ記憶の底あれば後はわかるっしょっていう。

あと都市伝説の、火事を招く「泣く少年の絵」も知っとくと、あっ察し展開はある

あとシリアスクラッシャーとしてポケモンベジータがいい仕事するのでぜひ気がついてほしいw

 

 


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政情不安の国でカルトが流行るのは世の常だが、

このアートアニメの元ネタ、コロニア・ディグニダはナチスの残党が興したやべー組織で、

一見、牧歌的な暮らしや医療の提供というクリーンなイメージを発信しつつ、

見えないとこでは洗脳拷問児童性的虐待人体実験麻薬栽培武器隠匿軍事訓練、

いわゆるやべー組織がやってそうなことは全部やってたらしい。

 

現代日本中流家庭ってやつで育つと、なかなか想像を絶する世界ではある。

 

いうて日本にもそういう社会から隔絶したカルトなコミュニティは存在してるけどな。

サバイバーというか、そこで生まれたカルト二世で、そこから脱出した人のエッセイ漫画を読んだことがある。

ヤバさのレベルは高低あろうが、ある人工的な思想で発足した自給自足集団てのはどこも似た雰囲気はしてくると思う。独特の閉塞感というか。

そこで生まれた子どもの抱える問題というのも共通だ。

 

 

 

アーミッシュとかはだいぶマイルドで開かれたコミュニティではあるが、やっぱ雰囲気としてはそういうのある。

今も昔も世界中でちょいちょいこういうこと思いついて実行する人がいるもんなんだろう。

ていうかBappa Shotaはマジでもうあかんのかもしれん・・・。


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閑話休題

 

「オオカミの家」はマリアという少女がそこから逃げて、しかし逃げきれなかったという話だ。

脱走は成功したかにみえたのに、洗脳が内面化してしまっていた。

 

肉体的物理的には支配者から距離をおけたのに、

精神的心理的には支配下から自由になれなかった。

 

森にはオオカミがいるといって家に逃げこんで立て籠もって、

しかし、オオカミは家の中にいたのだ。心の中に。

 

・・・っていう話だったように思った。

 

 

なんていうか、最初の実写のとこ以外は一人称の心象風景として見るべきなんだろうなと思う。

まず少女は、

コロニア(コロニー・集団)で世話していた豚を二匹逃がしてしまったとして、

百日間誰とも口をきいてはいけないという罰をうけた、という出だしなわけだが。

 

その長期間の孤立の示唆というのも、

これからの映像が少女のひとりごとや孤独が生んだ幻想であるような導入になってるのかもしれない。

 

少女は罰から、ひいては虐待や支配から逃れようと森へ逃げ込む。

そして廃屋で暮らし始める。

そこには二匹の豚がいるのだが、

 

少女が魔法のボールで遊んでやると豚の前足は人間の手となり、

少女が服を縫ってやると豚は人間の姿になる。

少女がペドロとアナという名を与え、彼らは同居する家族になる。

少女は彼らとテーブルを囲んで食事をしマナーを教え、母と子のような関係性になる。

 

頭が豚のまま手が人間のそれになるあたりはなかなかに悪夢的な映像で、

そういう表現をすることから、これは現実の推移でなく心の中で起きてることをあらわしてるんだろうな~と思われ、

 

するとペドロとアナとは実は豚でなく、コロニアから一緒に逃げた子どもらで、

幼いか虐待を受けたかで、豚同然に人間性を失くしていたのをマリアが少しづつ癒していった、

みたいなイイ話のメタファなのか?

とも思ったのだが。

 

 

火事が起きてペドロとアナが焦げて黒くなってしまった、という展開から、

もともと南米先住民かスペイン系ラテン系の浅黒い肌と黒い髪だったペドロに

少女マリアが瓶入りの蜂蜜をあたえると、

ペドロは金髪碧眼に変身する。

 

豚が人間になる、動物が人間になるというのは、

美女と野獣」や「カエルの王子」などでお馴染みの変身物語として暗喩的に理解できるのだが、

 

黒髪黒目が金髪碧眼に変身するのは、アーリア人を至上としたナチスな優性思想、

人種に優劣があるとした差別意識の表現に思える。

 

なんていうか、

豚から人間に変身した、は言葉やマナーや伴侶など人として必要ななにかを獲得したことの例えとしてありえるけど

黒人から白人に変身した、というのは通常ありえない認知の変化って感じがするので、

 

ここでペドロとアナというのは、

二匹の豚でもなく、二人の子どもでもなく、

孤独に耐えられなかった少女マリアが生みだしたイマジナリーなフレンドかなにか?なのか?っていう感じがしてきたよね。

 

そういえば、二匹の豚は最初トイレに現れる。

トイレ、トイレね~。なんで豚はよりによってトイレに出現したのか。

豚にブツを食べさす式のトイレってことでもあるまい。

この物語は家の中という閉じた空間で展開していくわけだが、

トイレやバスルームというのは家の中でも特に個室、密室、プライベートな空間だ。

家といっても家族関係や構成人数によっては、そこは賑やかで社交的な空間でありえるが、

トイレは鍵をかけ、一人になって服を脱ぐ場所だ。

そこには水があり、暗い穴がある。

暗く狭く水のある部屋、母胎・胎内に似た場所というのは、

内省や再生の場、深層心理に最も近いところのメタファとなる条件は満たしているといえるのかもしれない。

まあ、不浄の場でもあるトイレがそういう意味をもたされるっていうのはあんま見たことない表現だけど、

「オオカミの家」は虐待、それも性的虐待を受けて心を病んだ少女の心象だからな~・・・。

幼いペドロがトイレに座ってるとこに黒い虫が這いまわるとか、(肌の不快感は性的虐待のトラウマっぽい)

思い悩むマリアがトイレに座ってるとこもあるし、

心象である家の中でも特にトイレが描かれるときは、その深部であるという解釈でいいのかもしれない。

トイレは心の一番深いところで、ペドロとアナはそこから来た。

 

二匹の豚は少女マリアの心が生んだイリュージョンという仮説で進んでみよう。

ペドロとアナは、少女マリアの心の一部であり、おままごとや話し相手のお人形であり、傷ついたことで切り離された多重人格のひとつであり、影である。というような。

 

 

 

で、

 

金色の蜂蜜と図像的に対応するのか、

黄色い小鳥というのも画面に登場する。

 

それは「籠の鳥」という意味で少女マリアを指すものだったのだが、

 

その小鳥がアナの口に入ると、

黒髪直毛に黒い目だったアナも、金髪巻毛に青い目の娘となる。

それはマリアにそっくりな容姿で、

この頃になるとマリアの方は少女から中年になってるようにも見える。

ま、この世界で時間経過はあんま意味ないと思うけど、

少女の役をアナにスライドして客観化、セルフイメージは母親の姿になってるということか。

 

蜂蜜は抗菌作用などの薬効もあるので、

火傷の薬として蜂蜜をぶっかけるというのもわからんではないし、

また、金髪のことをハニーブロンドともいうことから、

蜂蜜を頭からかけると金髪になる、という連想もわからんではない。

 

墨汁を被れば黒髪になり、ミルクを飲めば肌が白くなる、というような。

それは類感呪術の発想だな・・・。

 

もちろんそんなことで髪色や人種が変わるわけないんだけど、

ボール遊びの魔法といい、

自然発生的で原始的なおまじないの発想というか、

近代科学のマインドが入力されていないというか、

閉鎖環境で虐待されてた少女の夢想としてはありそうではある。

 

で、

金髪碧眼になったアナとペドロ、

容姿もそっくり血のつながった家族の見た目になった三人は、

ひとときの蜜月として讃美歌を合唱するが、

やがて子二人と母マリアに不和が訪れる。

子らは足りなくなってきた食料をマリアがひとりじめして食べてると疑い、

マリアの目の前で食料を食べながら「食べてないよ」と嘘をつく。

動物や子どもというのは純粋で従順だったが、

人間になって知性がついたことで猜疑や嘘、加虐性などの悪徳も発現してしまったのだ。

そうして彼らはだんだん手に負えなくなっていく。

 

進退窮まったマリアは、オオカミがいる森へ、家の外へ食料を求めようとするが、

ペドロとアナはそれを阻止し、

マリアを拘束し、

マリアを食べようとする。

 

そこでマリアは、

常に聞こえていた「マリ~ア~」というオオカミの誘いに屈する。

オオカミに、家を吹き飛ばして助けてほしいと願う。

 

するとペドロもアナもマリアも木に、森に変身してしまい、

マリアの中から黄色い小鳥が飛び去って、おしまい。

 

という抽象的なラストになるわけだが。

 

まあ、バッドエンドだよな~。

 

そもそもバッドエンドへの予感として、逃げてきて暮らし始めた家の中は、

常にマリアの独白と「マリーア~」という男性の歌うような囁きで満ちていた。

 

男性の声の調子は猫撫で声というか、

ねっちょりしてて性的グルーミングを思わせるものだ。

なんか録音のマイクの距離からして近いし

名を弄ぶように呼ぶのも失礼というか尊重されてない感あるし

嫌がる子どもを優し気な雰囲気で圧しつつんで誘導しようという、悪意と支配の声。

 

オオカミの声、支配する大人の声は、

どこからしているのか。

マリアはコロニアから逃げたはずなのに。

 

それが洗脳やトラウマ、心についた傷の厄介なところだ。

 

脳内でネガティブな記憶を何度も再生してしまう。

自分を責める言葉、弱さや価値の無さを突きつけ、自尊心を削ぐ言葉を。

 

仮にその暴言を受けたのがたった一度だったとしても、

脳内で百万回も再生していれば、百万回でも傷ついて消耗してしまう。

それは誰でも思い当たることのある心のメカニズムなんじゃないかな・・・。

 

その言葉がこだましているうちは、

安全なはずの家の中にオオカミを招き入れているのと同じことなんだろうな、と思った。

 

少女マリアは虐待の連鎖のなかにいて、

自分がされた養育や価値観をペドロとアナにも与えた。

それ以外のやりかたを知らないからだ。

家の中に、自分の殻に閉じこもってしまったから、

コロニア以外の世界観を知る機会が得られなかった、ともいえる。

 

この辺のリアリティが悲しいよな。

 

マリアは食料が尽きたとき(ペドロとアナに与える経験や感情が尽きたとき)に、家の外に出てみるべきだったと思う。

外に出て、そこにはもちろん危険もあったろうが、

森や自然や、コロニアの外の人間の暮らしに入っていければ、

また違う道が開けたろうに。

 

ペドロとアナは、マリアを引き留めた。

外の世界が怖かった、知ることも変わることも恐ろしかったということか。

それもよくわかる。

 

オオカミを、悪意を囁き続ける声を飼っていることは誰にでもあると思う。

悪意のこだまを心から追いだし、きれいさっぱり縁を切るにはどうしたらいいのか。

 

自分の家、自分の心の、ほんとうの主人になることができれば、

「無礼者は出ていけ」の一喝で済むようなことなんだけどもね。

 

兄の洗脳を引っこ抜いたキルアみたいな。

 

そこに至るまでがな~。大概紆余曲折あるというか。

親から離されて虐待を受けた子のレベルになると、まず育てなおしがいるだろうね・・・。

親の代わりになる人にケアや自己肯定感を与えてもらえたとしても、

それでも何度もフラッシュバックや揺り戻しや試し行為なんかがでてきて、精神的自立までの道はなかなかに険しい。

 

 

しかしなんていうか、ここまで救いの無い話を描けるというのもどんな精神構造なのかって気はするな。

普通、物語るものは物語に託して自分を語り、救いの道筋を見つけようとするものなんだが・・・。

どうにか救いを見いだせる描写があるとすれば。

 

ペドロとアナは、マリアの心を写しとったコピーだが、親であるマリアに牙を剥いた。

それは一見悲劇的展開のようだが、その攻撃性は実のところマリアに芽生えたものでもある。のではないか?

 

少女だったマリアは無力で、コロニアと大人からただ逃げたが、

母となり子を育てたマリア、

鏡写しのもうひとりの自分を創りだして相対し育てなおしたマリアは、

 

オオカミに、毒親に、支配する大人に叛逆する気概を獲得した、といえるのかもしれない。

解離した人格と円満に人格統合できればね・・・。

ペドロもアナも木になり森に還ったわけだから、

森→無意識、家→自意識、のように暗喩を解釈するならワンチャンある?かも?

 

攻撃性つっても、自衛と自尊に必要程度の生得的に備わるものさえ抑圧されてたということだろうしな。

 

ま、支配する大人いうても実際はただの一人の人間、神でも悪魔でもない汚い顔のオッサンであって、(子を虐待するような輩の顔は歳月とともに歪むと決まってる。)

こっちも成長してから対峙してみれば、たとえ正面から力押しで勝てなくても嫌がらせや一服盛って復讐する方法なんぞいくらでもあろうし、

それが解れば復讐する必要もなくなるわけだが。

 

 

で、あと。

 

飛び去った黄色い小鳥、籠の鳥。

長期間檻に入れられた動物というのは学習性無力で、

檻のドアを開けても出ていかないということがある。出られないと思いこんでいる。

 

でも、黄色の小鳥が檻に入っていたのは初出の場面だけで、

後は家の中では自由に飛んでいた。

それはまぁ家が檻である、

精神の牢獄となってるということでもあるけど、

 

小鳥なんて脳ミソちっちゃいからさ、

いかに檻から出られないと学習してても、

なんかの拍子にうっかり窓から飛んでいっちゃうなんてことよくあるし、

 

ラストシーンで、

マリアの頭という殻を破って鳥は現れた。

 

それを、精神の牢獄を壊すことができた、

自分という殻を破り、檻から出た。

脳内の世界、内面世界である家から新しく生まれ出て、

これから外の世界を知ることが始まるのだ。

と解釈して終わろうかな・・・。

 

 

ひょっとしたら、

あの家での出来事はみんな少女マリアの幻想だったわけだから、

実際の時間経過は無言の罰をうけた100日間だけだったとかさ。

百日の内省を経て、毒親から自立しようとするマリアちゃんの覚醒の物語だった可能性が微粒子レベルで存在しているのかもしれん。

 

 

いやそれはあまりに強引な解釈だろうと我ながら思いつつ、

そうでもないと、寝覚めが悪すぎるて。_( _´ω`)_

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オオカミの家