はてブロからメールが来て気がついた。
そうかブログ開設して一年書いていたのか・・・。
時が経つのが早すぎて怖い。
記念日に書くべきこと・・・、
初心に戻って何か書くっていってもなー。
そもそもが5ちゃんのスレッドの延長ではじめたブログだ。
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1533929590/l50
まだ過去スレ見れるな。2018/8/11から、アニメや漫画について思ったことを書きはじめて、スレは今4つめがのんびり進行中。
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1566495487/l50
今見ると色々恥ずかしいような、何も変わっていないようなw
怠け者の自分が時々飽きつつも書き続けられたのは、やっぱり面白いと言ってくれる人がいて励みになったからだ。
月並みだが真実だと身を以て知った。ありがとうございました。
自分独りで完結したい、完成したいと願っても、まあそれはなかなか。
人間という器が基本的にそういうつくりじゃないんだな。
周囲の人間関係と、家系と、民族と、国家と、大きな総体の一部であることは変えられなくて、
持って生まれた性質と、育った環境と、受け取ってきたことと、選んできたことと、積み重なって、アイデンティティが形成されている。
天気の子で須賀が「大人になると大事なものの順番を入れ替えられなくなる」と言ってたけど、そうだ。
成長して、できることが増えて、見識が広がって、欲したものを獲得して、思い出ができて、世界が広がるほどに、
いつの間にか、なぜか、できないことも多くなっていくんだよな。
昨日の繰り返しの今日を選ぶことしかできなくなる。
積み重ねてきたもの、得てきたものを失うことを恐れるからだ。守りに入る。
生きるということは変わっていくことなのに、
捨てられない思い込みでがんじがらめになることは、苦しい。
だから時々、壊してみること、手放してみること、新しくしてみることが必要になる。
須賀が窓を開けて、部屋を水浸しにしたのは、多分、リセットするためだ。
死んだ妻のものと、娘のものを全部そのままにして、思い出にどっぷり浸って暮らしているから、変われなくて苦しむ。
幸せだったころのことを思い出して辛くなる、過去をリピートして今を生きられなくなってしまう。
だから、すべてを水に流すために、窓を開けた。
荒療治だけど、それで新しいオフィスを借りて従業員を雇うことができる。新しい循環を始められる。
ま、それはひとつの比喩だ。なにも部屋を水浸しにしなくても、
自分の内にある、自分を苦しめる思い込みを手放すことはできる。
親に教わったこと、教師に言われたこと、恋人に言われたこと、
傷ついたこと、許せないこと、失敗したこと、成功したこと、
常識、信条、理想、正義、階級、劣等感、ジェンダー、喪失の痛み、なにかを愛したこと。
数限りなくある、「こうあるべきだ」という思い込みのすべて、
かつて大事だった手放したくない想いであっても、
繰り返し自分を縛るものになり果ててしまった過去のすべて、記憶すべてを、来たところに還す。
それで今を生きることができるようになる。自由と自在の境地へ至り、
いつでも新しいインスピレーションのままに心と体が動くようになる。
・・・っていう話を、まじで延々としている。
今回はそこのところ、もう少し順を追って書いておこう。
自分なりの瞑想導入の忘備録だ。
まず場を整える。慣れればいつでもどこでも瞬間的にできるようになるはずだが、
まずは、そう。それなりにセッティングがあるといい。
整えた場は、意識を変性させる装置の役割がある。
鳥居や注連縄をくぐれば神域となるように、
講堂や教室に入れば学びの気持ちとなるように、
壇上や舞台に上れば違う自分を演じることができるように、
祭りの会場やライブハウスに入れば非日常を体験する高揚があるように、
普段の自分、感情の浮き沈みに苦しみ惑う自分自身から、遠ざかる場というものを用意する。
昨今の自粛続きで、子どものいる家庭で室内にテントを張り、一人になって気持ちを落ち着ける場所にするっていうアイデアがあるらしいけど、素晴らしいと思う。
ひと昔の家なら仏間とか縁側の廊下とか、階段下とか物置部屋とか、押し入れの布団の上とか、
子どもが一人になれる、秘密基地にできる、あまり使われてない場所っていくらでもあったものだけど。
今時の家はコンパクトかつ機能的で、デッドスペース、余白の場所、あそびの場所がないっちゃないからなあ。
子どもにも、大人にも、そういう場所はあったほうがいい。マイ・サンクチュアリだ。
自分は主に風呂がその場所。あとは猫部屋もそう。
スマホを持ち込まない、暗くて狭めの空間だ。風呂は水に満ちているのもいい。
静かで、ほの明るく、区切られて狭く、温かく、丸く、水に満ちた場、胎内環境に似た場ほど、安らぎを得やすくて、瞑想導入が捗るだろう。
広々して自然がある場所もまた別の意味でいいけどね。サウナとかも悪くない。
あとWi-Fiは切る。ノイズを遠ざける。
軽く体操なんかしてから、姿勢を整える。
立っても座ってもいいけど、背筋が反ってたり曲がっていたりするとうまくない。
まず、まっすぐに、正しい位置に人体を保持できる人って意外と少ないんだ。
すぐ足を組んだり、どこかに寄っかかったり、頬杖ついたり、スマホ見る前傾姿勢になってて、
自分の体の正中のバランスを意識したことすらなかったりする。
ま、意識してないだけ、使ってないだけだから、訓練すれば出来るようになるだろう。
右手ブラブラさせて、左手ブラブラさせて、両手ブラブラさせて、というふうに、
体の各部位を、左右交互、上下交互、そして両方、全体で動かす、みたいな体操の仕方で、だんだん力を抜いたときに中央値が定まってくる感覚が解ってくる。
まっすぐに姿勢が定まったら、
自分の身体を意識する、自分の精神を意識する。
自分の周囲の空間を意識する、グーグルアースみたいに視点をひいて、
自分がいる地域を意識して、属してる集団を意識して、地球を意識して、銀河を意識する。
神々のいる世界を意識して、
物質世界と精神世界を越えて、
宇宙を運行する様々な法則を越える、そう意識する。
こんな感じが参考になる。
どんどん大きくフォーカスしてもいいし、
どんどん小さくフォーカスする方法もある。
身体は臓器の集合であり、臓器は細胞の集合であり、細胞はミトコンドリアとか細胞核とかゴルジ体とかこまごましたものの集まりであり、細胞核のなかのDNAはタンパク質の分子の集合であり、分子は原子の集合で、原子は原子核と電子で構成されていて、
観測し得る最小単位は量子になり、粒の性質と波の性質になる。
自分が意識し得る、認識し得る、観測し得るすべてを心で捉えたら、
その有限の世界をひっくりかえす。
ネガとポジを入れ替えるようにして、有限を内包する、無限について想う。
すべてが果てるところ、時間も空間も、形も意味も指向性も尽き果てて、粒と波は釣り合って鎮まり、どこまでも凪いでいる。
0の、無限の、愛の世界、色即是空の世界、大日如来の世界、アルケーの世界、創造神が「光あれ」とコマンドする前の世界。
観測の視点すら持てず、言葉では切り取れない世界。
上も下もない霧の中のような、朝靄のような、静かな湖面のような、そんな感じだろうか。
それを感じている状態をつくる。
脳波を計れば、シータ波が出てる状態だろう。瞑想の成功だ。
その状態に至ることが、いつでもできるように日々訓練する。
一回に20分くらいが集中の限界かなー。
それ以上ハマるときは、ビタミンとかミネラルとか水分糖分とか、脳に適度な補給をする。
あとはその日ごとにクリーニングすべきテーマ、リリースすべきテーマを持って入るといい。
苦しいこと、辛いこと、ムカついたこと、許せないこと、
頭のなかをぐるぐるしてたうるさいやつを、短いキーワードにまとめておいて、
瞑想状態に入れたところで、そいつを取り出し、ほどく。ひっくりかえす。そうイメージする。
もつれた想いがほどけて、許され、溶け消えるのを観測する。
何日か、何ヶ月か、表層の問題を手放し続けるうちに、自分でも気がついていなかった根っこの問題が浮かんでくるだろう。
ま、だいたいは幼少期に親からインストールした行動様式とか抑圧、身近な人の喪失とか、そういうことじゃないかな。
普段は忘れてたこと、見ないようにしていたことがほとんどだ。
手放す準備なしに見ないようにしていたものを見ようとすると、強烈な抵抗が起きるので、その人なりのタイミングが整うまで待つことが肝要だ。
見たくない聞きたくない、認めたくない痛みに触れたくないという抵抗はマジで強烈で、
怒り、拒否し、どんな無茶な理屈でもこねくり出して、心を閉ざし、目を潰し耳を潰す。そういう厄介なことが起きるので、
ほんっと待つのが肝要で寛容。(自戒のため二回言いました。)
ま、一生待ってもその時が来なかったりするんだろうけどね・・・。
それもまた善哉。
たった百年で死に変わり生まれ変わりするサイクルの短さは、変われなくなることを強制的に変えてくれる親切な設計だ。
リセットして来世でやりなおしてくれいww
しかしまあ、仏教だと輪廻転生からの解脱、生きて死んで六道をぐるぐる巡るサイクルから解き放たれること、悟って涅槃へ至ることが目標なわけだからして。
いつかは悟らないといけないなら、
いつでも悟りを開いていいわけで。
今、この時、涅槃へ至ってもいい、
二千年も前からお釈迦さまはそうしなさいよと勧めてくれていたわけで。
つーか二千年も先延ばしにしてたんだから、そろそろ人類まとめて悟るべきじゃね?
それで瞑想を続けるうちに、自分の中の思い込みを手放すことができてきたら、
もっと色んなものを手放してみる。
有限の事象をほどき、無限へ還す。意識の中でフッと消してみる。
家族や親類を手放してみる。体質や因縁や代々の家系の質、遺伝子や模倣子を手放してみる。
民族集団に属していることを手放してみる。伝統や習俗や民族性、負の歴史を手放してみる。
国家を手放してみる。システム、人種差や言語、宗教や神話を手放してみる。
人類という種を手放し、地球、太陽、銀河、星々の巡りを手放し、時間と空間を手放す。
最後に、やはり観測している自分という視点が残る。それを消してみる。
肉体もなく、記憶もなく、名もなく、命もない。
多分どこかで抵抗があるだろう。
怖いとか死にたくないとか、そんなことできるわけない、していいわけないとか、
恐怖か疑いのどちらかかな。
そしたら、その恐怖や疑いをまた手放す。
怖くなくなるまで、ああそうか大丈夫だ、と思えるまで。
自分の存在の底まで辿りつくと、自分という存在の最初の願い、最初の指向性、魂ってなにかってことになる。
言語化しにくいけど、実にシンプルな指向って感じがするものだ。
生きたい、生き続けたい、認識を広げ、大きなものへ向かいたい。
そんくらいの感じで、何かを目指して駆動している。
スケールの大小はあれど、それがこの有限の世界のすべての存在を保ち、発展させている指向性の感覚でもある。
それが無限からエネルギーを汲みあげている最初の命令、最初の奇跡だ。
その素晴らしさを味わいつつ、やはり手放す。
自分という存在の尽きるところ、宇宙の尽き果てるところが、
恐ろしいところでも寂しいところでもなく、
調和して安らぎに満ちたところであると、そういう感覚を得る。
それが、自分の源泉になる。
いつでも自分のまんなかに、それがあると知る。
汲めども尽きぬ甘露の泉がある。
だからなにも恐れることなく、自在に生きられる。
インスピレーションの訪れるまま、
心の示すままに、
選び、行い、結果を受け止めることができる。
「僕たちは大丈夫だ」って、そういうことなんだよ。
天気の子の小説版には陽菜の祈りの感覚にそれがある。肉体と精神の感覚を入れ替え、自分と世界の境界が溶け、一体になるのなら、それが解る。新海監督はそれを識っている。
別に天気の子だけじゃなくて、古今東西の優れた物語はいつでもそれを示そうとしてて、
物語だけじゃなくて、詩でも音楽でも絵でも、芸術の求めてるところはそういうもので、
芸術だけじゃなくて、武道でもスポーツでも料理でも仕事でもブログでも、どんなものでも自分なりの道として追求していけば、そういう境地を得ていける。
すべては同じところからやってきて、いつか同じ頂へ至る。
すべては虚しい仮の宿で、ゆえにすべては愛しき我が宿だ。
自分はずっと、そういうことを書き続けているつもりだ。
言葉に尽くせないと知りながら、言葉に変えることで少しづつ認識は進む。
誰かが自分もそう思うよって言葉を返してくれることもある。
そういう誰かと一緒に瞑想すると、また効率がハネ上がったりするからな。
脳はひとつでも優秀なユニットだけど、
そもそもネットワークにしてくのが本来の仕様なんだよなあ。
スタンドアローンで使えるのは機能の一部だ。どうもそんな感じ。
もういっそ子どもとか幼児と瞑想するのもアリかもしれんね。
むしろ若い者から真摯に学ばせてもらうべきなのかも。
ま、いつかそんな時が来るまで研鑽を続けよう。
一年でも二年でももっとでも、生きているなら変わり続けることを受け入れないとしゃーない。