ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

六時間耐久歌舞伎・風の谷のナウシカ を解釈する。

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新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』ブルーレイ・DVD 予告編

 

年始にBSプレミアムで放送してたのを録画。ようやく視聴完了した。

六時間っていうと、まあアニメだと一期十二話ぶんくらいのボリュームではあるけど、

なんせ根が田舎者だから歌舞伎なんて通しで見たのは初めて・・・、いや。

現代歌舞伎はワンピースとか初音ミクとかサブカルチャーからも題材をとってて、

千本桜をニコニコで見たことあったな、そういえば。面白かった。

それで原作が至上という色眼鏡をかけて見るってことはなかったのかも。

 

良く出来ていたと思う。原作リスペクトは感じた。

あとめっちゃお金かかってそうで贅沢だった。景気がいい、気前がいいって感じがして良かったわ。

 

しかし六時間は長かった・・・。

なんていうか、その六時間もの長丁場に付き合ううちに、

客席と舞台のあいだに連帯感とか一体感が生まれるというか。

鑑賞時間の長さに耐えた、役者もだけど自分もよく頑張った!

っていう、やりきった気持ちが上乗せされての評価になるね。

体育祭の後みたいな気持ち。順位はともかく楽しかった的な。

 

それで長さも負担だったけど、内容の重さ暗さも負担だったわい。

原作のヘビーさがそのままっていうか、まあ原作準拠ではあるけども。

 

アニメ映画だと、

空を飛び景色が流れていく爽快感や、音楽の勇壮さ、テトのかわいさなど、

ストレスに耐えるための清涼剤が置かれてる補給地点があるのだが、

 

そのどれも歌舞伎だと不得意な表現だったんだな。

宙釣りメーヴェで飛ぶのは一回やったけど、テトやトリウマなどの動物の表現は癒しになるレベルではない。

 

代わりに、歌舞伎の得意な演出がどんどん出てきた。

舞台でだばだば水を流して殺陣とか、照明で胞子を表現するとか、舞台が回転するとか、髪をぶん回す連獅子とか、

なにしろ六時間の長丁場をもたせるんだから、出し惜しみなしの見本市っつーか、

飽きてきたころに程よく派手な見所が来て、そこはおもてなし感が行き届いてた。

 

背景の絵がほぼ使いまわしなしだったのも慄いた。何十枚描いたん。

まあ、絵のクオリティはジブリと比べるのは酷だったけど、手数はすごい。

いや、うーん、そこはも少し枚数を絞ってでもクオリティ上げたほうが良かったかもな。いくつか良い絵もあったけど。

ナウシカの世界観は独特だから、風景の絵こそ主役みたいなとこあるし。

そこは観客が映画のイメージで脳内補正かけて見るしかないっていう。

 

特に良かったのは、豪華絢爛な衣装や、舞のパートかな。

 

背景絵やハリボテの王蟲は、それだけではやっぱりイマイチ感情移入できなかったので、

王蟲の精として子役に真っ白な衣装を着せて舞わせたのは、いいアイデアだったと思う。

歌舞伎ならではの表現で王蟲の心を表現してみせた。

 

ナウシカも同様で、ナウシカって、等身大の人間というよりは一種の観念的な理想像みたいなキャラなので、演じるのが難しいっていうか、

高尚なセリフは喋れば喋るほどボロが出るっていうか、エラソーでキッツ、みたいな感じがしてくるので、

そこで舞で心を表現するならば、研鑽を積んだ芸にはセリフ以上の情報量がこもる。

「悲しい」と口に出すより、後ろを向いて背と首を傾けるだけで表現する悲しみのほうが、ずっと高度で心に迫る表現になる。

舞と歌でなら、白鷺にも藤の精にもなれるわけで。なら女神とも聖母ともなれようというもの。

 

ナウシカの舞は大海嘯の一場しかなかったが、後半でもどっかで舞って欲しかったなー。

ラストあたりでは原作の情報量を消化するので手一杯のように見えた。

 

まるまる引用しちゃうけど、この原作でのやりとり。

 

ナウシカ

「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている」
「その朝が来るなら私達はその朝にむかって生きよう」


「私達は血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えてとぶ鳥だ!!」

 

「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」
「だが、お前は変われない。組み込まれた予定があるだけだ。死を否定しているから。」

墓所の主
「これは旧世界のための墓標であり、同時に新しい世界への希望なのだ」
「清浄な世界が回復した人間を元に戻す技術もここに記されている」
「交代はゆるやかに行われるはずだ」
「永い浄化の時は過ぎ去り、人類はおだやかな種族として新たな世界の一部となるだろう」
「私達の知性も技術も役目もおえて、人間にもっとも大切なものは音楽と詩になろう」

ナウシカ
「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない」
「その人たちはなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそ生命だということに」
「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから・・」
「だからこそ、苦界にあっても喜びやかがやきもあるのに」

墓所の主
「私は、暗黒の中の唯一残された光だ」
「娘よ。お前は再生への努力を放棄して人類を滅びるに任せるというのか?」

ナウシカ
「その問いは滑稽だ。私達は腐海と共に生きてきたのだ。亡びはすでに私達のくらしの一部になっている」

墓所の主
「生まれる子はますます少なく石化の業病から逃れられぬ。お前たちに未来はない」
「人類はわたしなしには亡びる。お前たちはその朝をこえることはできない」

ナウシカ
「それはこの星が決めること」

墓所の主
「それは虚無だ!!」

ナウシカ
王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた」

墓所の主
「お前は危険な闇だ。生命は光だ!!」

ナウシカ
「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」
「すべては闇から生まれ闇に帰る。お前たちも闇に帰るが良い!!」

墓所の主
「お前は悪魔として記憶されることになるぞ。希望の光を破壊した張本人として!!」

ナウシカ
「かまわぬ。そなたが光なら、光など要らぬ」
「巨大な墓や下僕などなくとも私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる」
「私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」

 

これ漫画だと、

そこまで読んできたヘビーさをぶつけられる直接対決のカタルシスがあって、

心に焼き付いて人生観を変えかねない名言しかない場面なんだけど。

これをセリフでただ喋られてもな・・・ってなっちゃった。

ここのところこそ、なによりも舞と歌とで表現するべきだったでしょ。

 

科学の栄光と永遠を啓蒙する墓所の主と、観客に、

論破して攻撃してみせるのではなくて、

舞と歌とで 無常観 を伝えられてたらなあ。

それこそ歌舞伎の真骨頂だったりしないのか。

 

兵どもが夢の跡、盛者必衰、生々流転、夢幻泡影。

 

どれほどの過去も、失われ忘れられるからこそ、今に生きられる。

 

今日枯れる花があるから、明日咲く花に会える。(SKYHI)

 

こういうのは、ある境地、心の在り方なので、言葉ではなかなか沁みないんだよな。

詩や歌や舞や物語、芸術に昇華することで、観る者をそこへ導いてくれるものになる。

 

なるのにな~。

 

まあ、この後に、巨神兵VS墓所の主を連獅子でやるっていうのも、派手なバトル描写になってエンタメ的には正解だったと思うけど。

 

ナウシカのテーマの深さに肉薄するなら、ほんとそこをさ・・・。

 

ていうか、テーマの深さを表現するというなら、アスベルとナウシカが落ちる腐海の底。清らかな砂と水だけのあの場所がさ。

自分が最も注目するのは、あのすべてが尽きて終わる、静かな場所。

青き清浄の地が、なぜ心でしか行けない場所だと言われるのか、そのあたりなんだけども。

映画のエンドカットで、ナウシカのゴーグルがあってチコの実が芽吹いている、あれが最重要なんだけど。

ま、そこはいずれ自分で書かないとな。 

 

 

いや、まあ、うん。

衣装はほんとに凝ってて凄かった。特筆すべき素晴らしさだった。

歌舞伎といえばの「ぶっ返り」で衣装が変わるとかだけでなく、

お幾ら万円かかっているのやら、場面によって次々に細かく衣装や鬘が変わっていく。

歌舞伎では、それが心情や内面や色んなことの表現になってるんだな。

服や髪を変えることで何かが変わったことを表現するのは、アニメでも見慣れた手法だ。

 

これがテレビの芝居だったら、カメラが寄って役者は顔の表情で表現すればいいけど、

歌舞伎だとそれじゃ客席の後ろの人が良く見えないわけで。

派手な衣装、大げさな隈取メイクや独特の語り口調も、遠くからの鑑賞に耐えるための工夫で、

芝居小屋という空間に最適化して進化していった表現なんだろう。

 

いやむしろ着膨れた衣装や過剰な化粧こそが主役であり、

中の人はそれを最大限に活かすための黒子(くろこ)に徹するみたいな美学があって、

それはとても日本人的な発想だなと思った。

 

道具が主役というか、人が道具に沿って技を磨く、という発想は、

例えば日本刀だ。

日本刀は美しく切れ味は鋭いが、横からの力に弱く、折れやすい。

そこで刀を頑丈にしようとは思わず、

人が正しく構え、正しく振る技を身につけることを善しとする。

そのために毎日でも何年でも修行をする。

非合理的な発想といえばその通り。

 

歌舞伎の体の動かし方も、まず衣装ありきだなって見てて思ったんだよ。

ただ立つときも腕を左右に開いてるのは、袖の柄までよく見せ、着物の形を美しく見せるためみたいだし。

 

これがバレエだったら、バレリーナの肉体美を最大限強調してるところで、

歌舞伎は主体が人間の肉体じゃなくて衣裳の美なんだなって。

もし衣裳ナシで歌舞伎の所作を見たら、随分不自然というか意味不明だろうな。

 

日本刀てか、単に着物の話でもそうか。

着物ってのは、基本的に反物一枚を直線だけで切り分けて作る。

「着物 裁ち方」とかでググればわかるけど、一枚の布をまったく無駄なく使って作る。

その代わり着てみれば、あちこち窮屈というか、着物に合った所作が要求される。

 

洋服は、思った通りに動ける。

その代わり布は人体に合わせて様々な曲線で裁断されるので、再利用できない形の端材が多く出る。

 

服でも刀でも一事が万事っていうか、モノとヒトのどっちが主でどっちが従なのか。

日本ではモノの都合、道具の都合のほうに人が合わせていく、そのために様々な作法を編み出していくっていう精神性がある。

 

己を虚しくし、優れた道具と一体になる道を極める。

その技が確かなら、16歳の少女という型に、四十代の男性が入ることもできる。

 

摩訶不思議、東洋の神秘。

 

・・・いやごめん、頑張って擁護したけど正直言っていい?

テレビのアップで見ると、やっぱちょっと無理めな感じはしたかも・・・。お肌の張り的に・・・。

そこはクシャナのほうがセーフだったわ。

まあそもそもナウシカの尾形菊之助ありきの企画だったので、そこはね。

 

配役に関しては、クシャナ、ミト爺、道化とか、いかにもって感じで良かった。

 

もう一人の主人公であるクシャナの、骨肉の争いのスキャンダラスは古典にもよくあるモチーフで、歌舞伎役者の本領発揮って感じだった。

兄達に嵌められたと思っていたけど、自分を亡きものにしようとした主犯は父だったと知ったときの感情の動き、

親兄弟と殺し合う覚悟を決めた矢先、兄の一人があっさり死んで虚脱して、

争い自体が虚しくなって、ナウシカのところへ駆けつけると、

そこでは父王が死にかけていて、まあ和解っていうか、王位を譲渡されるという流れ。

 

その辺は間違いないクオリティだった。

 

蟲使いとか道化とか、滑稽とか狂言回しのキャラも歌舞伎のなかに蓄積があったっぽくて見応えあった。

道化は原作よりだいぶ扱いが良かったんじゃね。

 

ヴ王のビジュアルが随分美化というか、いわゆる殿とか武将的になっていたのは、

どっちかっていうと原作の醜さのほうが色々拗らせてる結果なのでオーライで。

庭の主を角髷の平安風にしたのも意外にアリだった。

 

そしてアスベルと巨神兵、皇弟ミラルパと皇兄ナムリスが兼ね役だったのが自分的にはニヤリとした。

確かにそのキャラは同じものの裏表だ。同じ人物が演じて相応しい。

 

キャラクターの解釈に関してはさすがにプロだったな。

 

ただ王蟲とかヘビケラとか腐海とか、テトやカイに獣達、メーヴェガンシップ、人以外のものの描写は、いかに宮崎駿が図抜けた天才かってことを再確認することになったという・・・。

 

 

まあ、歌舞伎って根っこがエンターテイメントなんだよな。サブカルと相性がいいのもそういうとこだ。

既知のストーリーで気楽に演出を楽しむのがいい。

テーマを深めるというか、高度な精神性を求めるなら、能のほうがいいんだろう。

 能とか歌舞伎よりもっと途中で寝たことしかないけどw

 

www.kabuki-bito.jp

何度も言うけど衣裳は良かったので、画像のある記事のリンクを。

ミラルパの幽鬼バージョンとか、タタリガミみたいな駿チックな模様がマジ原作リスペクト。

 

 

 

 そういえば、いつかこの歌舞伎の制作秘話的ドキュメンタリーを見たんだけど。

ナウシカの尾形菊之助がカツラについて試行錯誤してて、

姫風とか町娘風とか、原作通りの短髪かとか。

で、結局歌舞伎の常設にはない明るめの栗色にしたところ、それらしくなったと。

 

 うん、そらそーだろうね。やっぱちゃんと見るとそうなるよねって思った。

 

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天気の子を解釈する6 地上波初放送よかおめ 

 

風たちの声 (Movie edit) 映画『天気の子』主題歌(バック演奏編)

 

天気の子、1/3、21時からテレ朝で放送。

地上波で初視聴の人がうらやましー。

記憶消してもう一回新鮮な気持ちで観たいなあ。

 

過去記事まとめとく。

 

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小説もDVD周回もしちゃってもう書くだけ書いたけど、

また地上波勢の感想から新しい視点が得られたらいいな。

 

水没でなくコロナでだが、世界は一変したもんな。

当時とは違う見方になるとしたら、どこだろ。

 

そういえば、晴れ女じゃなくてアマビエっていうおまじないが生まれたね。

まじないっていうか、願掛けの対象かな。

「晴れますように」が「疫病が収まりますように」くらいの、

本気度は人によってまちまちの、でも誰もがその存在を認知しているジンクス。

 

効果のほどはどうだろう。雨が晴れたら見りゃわかるけど、

アマビエビフォーアフターを観測するには、比較用に世界がもうひとついるなw

ただ、グッズやアイコンの経済効果もそれなりにあったし、

日本はハグキス文化がなく手洗いや風呂や、室内で靴を脱ぐ習慣、夏の湿気に合わせて通気のいい家屋をつくる文化があったりして、その辺の事情の相乗効果が感染予防になってる幸運はあると思う。

そもそも、病はワクチンや魔除けじゃなくて生活習慣から治していくものだと思うぞ。

 

みんなのアマビエ

アマビエ グッズ 厄除けお札 置物 日本製 木札

 

 

人は気軽に願いをかける。

世界には努力ではどうにもならないことが多すぎるから。

 

でも、タダで誰かが願い叶えてくれることはない。

神社で願掛けしたら、お礼参りに行かないといけないし、

願いを叶える悪魔や精霊は、古今東西必ず代償を要求してくる。

 

「願う」ということ自体が、目には見えなくても世界へ働きかける力だ。

不特定多数の心から同じベクトルを収束させる、というのは、

実はとても強力なエネルギー源を発生させている。

 

力やエネルギー、それそのものには善悪はない。

それをどう使うか、という心の在り方が問われるだけだ。

 

野菜を切るのは良い包丁、人を斬るのは悪い包丁、ではなくて、

包丁は単に道具であり、使う人の目的次第なのと一緒。

 

私達は、気軽に願を掛けて、それを忘れてしまうほど心の力に無関心だけど。

 

その力を把握し、律することができたら、

本当は、何だってできる。

 

空を晴れさせることも、病を掃うことも、

もっと想像できるだけ、もっと素晴らしいことができる。

 

願掛けの対象を生み出すより、

想像力の果てまで精一杯、眩しい未来を思い描くところから始められたら、ずっといい。

 

 

 

追記!

 

天気の子を初視聴した方が記事を書いてくれた。

 

bashar8698.livedoor.blog

 

ので、何かもう少し書けそうな気がしてきた。

 

神話的原型の話でいくと、

冥界や黄泉から妻を奪還するとなるとバッドエンドだが、

祟りなす神や魔物から生贄を奪還して妻にする話、というのがある。

 

クシナダヒメとスサノオアンドロメダペルセウス、聖ゲオルギウスの竜退治などだ。

 

この場合だと遠く隔たった世界へ渡るという感じではない。

アンドロメダが鎖で繋がれてる海や、竜の住処の森か荒野かなどは人のテリトリーの外、という意味で異界っちゃ異界だけど。

人と荒神のテリトリーが近く、せめぎ合っている感じだろうか。

 

天気の子では数ヶ月間雨が降り続いている。

前作君の名はでも雨が降り、山頂の磐座一帯を水で満たすことで、

普段は聖域ではあっても現世だった場所が、幽世と繋がる場となった。

水で満たし、霧で満たすことで世界の境界は曖昧になる。

異界は水と音の世界、現世は空気と光の世界だ。

 

雨もまた、天から降って地へ至るもの。多少意味は弱くても、

エンジェルラダーや迎え火の煙、硝煙と同じに、天と地を繋げるものだ。

 

天気の子では、舞台設定から現世と幽世の距離は限りなく接近し、重ねられていた。

いくつかのきっかけで容易に行き来できたのにはそういう仕掛けもある。

それは数百年昔、優れたシャーマンが築いたであろう呪的治水システムだったわけだが。

ノーメンテによるガタがきていた、とも思える。貯水量に限界がきて溢れてる感がある。

環境改善のため生み出された点では腐海と似てるけど、

異なるのは、生態系ほど完成された循環ではなかったってことだ。

こないだまでの三峡ダムみたいなもんww

 

さて、日本神話のクシナダヒメとスサノオだが、

帆高の元ネタにスサノオがあるのは前記事参照なんだけど、

陽菜とクシナダヒメを結ぶネタがあるかな?と思ったところ、

晴れ女は稲荷系とか、陽菜の目がきゅっと吊り上がったツリ目、狐目で、

クシナダヒメは、櫛稲田姫奇稲田姫稲、稲荷。米や稲作関連のイメージはあるかもな。

お願いサンダーも稲妻、雷で清められた土地ではよく稲が育つという伝承がある。

狐はネズミを捕る、お米の守り神。

ヤマタノオロチ斐伊川の神格化、それが姫を食うってのはつまり、

川の氾濫によって流されてしまう田や稲がクシナダヒメってことだ。

 

しかし、クシナダヒメもアンドロメダも竜に差し出された娘も、みんなお姫様なんだな。

クシナダヒメの親はテナヅチアシナヅチというが、手を撫で、足を撫で、と可愛がって育てたという意味でもあるという。

ツチ、は蛇のことでもあって、それもネズミを捕る田の守り神だ。

 

陽菜は、とてもお姫様とはいえない。安アパートで、歳を偽ってバイトして体まで売りそうになって、誰からも世話されない。

陽菜は漢字をみればアマテラスとの関係を見て取れるが、

ひな、という音は、

雛、ひよこ、幼いもの。一人前でないもの。

鄙、ひなびた。都から離れて文化の至らない地、いやしい。

ひな人形、人のケガレを移して川へ流すもの、身代わり、形代。

 

とまあ、散々な意味ではある。が、全て当てはまってもいるっていう新海誠の名付けの巧さよw

 

周囲から様々な恩恵を受け、蝶よ花よと育つ美しいお姫様は、有事には最も価値の高い生贄でもあり、

お姫様自身にも「今まで良くしてもらったのだから、恩を返さなくては」という心理が生じるだろう。

 

でも陽菜は、共同体に返すべき恩なんかないと言えば、ない。

すでに母親を犠牲に取られているし、そこからは弟と二人ギリギリのサバイバルをしている。

今まで誰か助けてくれたか?どれだけ搾取すれば気が済む?自分が逃げて、それで東京が水没しようが自業自得だ。知ったことか。

と自分だったら言っちゃう境遇だと思う。そもそも生贄が人選ミスってんだよなー。

 

そして、スサノオペルセウスとゲオルギウスにも共通項がある。

通りがかりの異邦人。共同体のルールも存続も知ったこっちゃない立場ってことだ。

むしろマレビトに望まれるのは良くも悪くも変化をもたらすこと、新しい波を呼ぶことだろう。

 

島から来た家出少年は、生贄は取り戻すが、

神話の英雄たちのように竜を倒すことがないので、荒神の祟りは共同体を襲うと。

 

そのように等価交換が成り立ってるというか、そんだけの話なんだけど。

 

戦わない、受け取らない、エスケープする、敵前逃亡するっていう選択肢は斬新過ぎるっていうか、

この手の少年少女が見るべき物語の基本ルールから逸脱しているので、心理的抵抗も生じる。

 

「守るべきものに責任を負い、戦う力を得る。壁を乗り越える。」

これが大人になる過程で獲得すべき是であり、

幾多の冒険も試練もそのためにこそ綴られてきたわけだからな。

逃げたのではイニシエーションにならない。

共同体に貢献しないと、成人、構成員としては認められない。

 

ここは善悪や是否の二元論ではなく、複雑さに耐えないといけないところだと思う。

 

なんでもかんでも守り続け、維持し続け、伝え続けていこうとすれば、

人はすぐ容量オーバーになる。ルーチンは手抜きを生む。

権力は必ず腐敗し、閉じた系は血が濃くなって奇形を生む。

システムは細分化複雑化して鈍重になり、あらゆる物体は風化していく。

 

人知で成し得る盤石など無い。

常に変化する世界には、適者生存の理があるだけだ。

複雑系の世界で最適解は流動する。

 

壊れるべくして壊れていくもの、それは役目を終えたものなのだと、ただ手放すこと。

 

少しずつ壊して、代謝していくこと。破壊を内包すること。

異なるものを受け入れ、新しいものを生んでいくことで、総体は健やかさを保つ。

 

創造と維持だけでなく、破壊や否定もまた貢献なのだ。

開発されつくして、閉塞・衰退していく日本を見て育った世代ならではの感性だとも思う。

 

しかし、何が守るべきもので、何が破棄すべきものか。

環の内側でその庇護と支配を享受しながらそれを判断するのは難しいだろうね。

 

須賀の言うように、うすうす知っていたけど、知らないフリをして、決定的なことになるまで動けない。

共同体の、総体の、民族の、コミュニティの、無意識で共有される総意。無言の同調圧力

ユニットである自分たちが、それとは異なる視点を手に入れる方法。

 

まあ、行動するなら家出、旅に出てみるのが一番だろうけど。

ステイホームでもできる。そういつものメソッドでだ。

 

陽菜の祈りのイメージも使える。あれだけ幻想的な空を描く新海誠のインスピレーションの感覚を言語化したもの。

そこらのスピリチュアリストの誘導より、その優れた美的感覚こそが、至るべき場所へ至る確かな道すじだ。

 

深く息を吸い、目を瞑る。

雨と風は私の肌にぶつかり、髪を揺らす。

世界と私は隔てられていることを、肌がはっきりと教えてくれる。

私は頭の中でゆっくり数を数える、いち、に、さん、し、

すると考えている場所、脳のありかがくっきりと際立つ。

その数字たちを私は全身に散らしていく。赤い熱い血に混ぜて数字が頭から体じゅうに流れていくのをイメージする。

思考と、感情が、まざっていく。

私は爪先で考えることができるようになる。

私は頭で感じることができるようになる。

次第に、不思議な一体感が全身に満ちてくる。

私の境界が世界に溶け出していく。

自分は風であり水であり、雨は思考であり心である、私は祈りであり木霊であり、私は私を囲む空気であり。

奇妙な幸せと切なさが全身に広がっていく。

 

っていう。

思考と感情が混ざっていく、というのはとても興味深い表現だ。

思考は左脳、感情は右脳、陽と陰が巡り、止揚している。

次のくだりで、肉体は陽で、精神は陰、それも反転し止揚する。

プラスとマイナスが釣り合って、0になる。静寂になる。無辺の霧になる。

観測し得る有限を心で捉え、ひっくりかえすと、無限、空(くう)へ至る。

 

その感覚を得たら、そこでもう一度手放してみるのだ。自分のすべてを。

 

手に入れてきたすべて、同意してきたものすべて、苦しいものすべて、愛しいものすべて。

恐れも、記憶も、望みも、心も、形も、名も、わざも。

その命、その魂の源泉ギリギリまですべてを手放してみる。

恐れずにいられたら、その最後の光さえ閉じてみる。

 

そこまで出来れば、もはや共同体の一部であることもただ手放して眺めることが可能だ。

安らぎと静けさそのものになって眺めれば、

あー、なんか別に全部ぶっ壊れてもどってことねーんだなっていう、達観を得ることができる。

明日人類が愚かさ故に滅びようとも、自分の今日を生きることができる。

 

グランドエスケープだ。運命の向こうへ至って、そこから自分で始める。

何度でも新しい自分になって、新しいインスピレーションを受け取る。

守ろうとか、背負おうとか、戦おうとか、気張ることはない。

そうすべきなら、心と体はすでに動いているから、それに委ねればいいだけだ。


【歌詞付き】グランドエスケープ/feat.三浦透子/RADWIMPS Grand Escape "Weathering With You"

 

書いてて思ったけど、そういやここんとこのゲームだとさ。

逃げて隠れて、敵を倒すよりとにかく謎を解いて進むっていうシステムあるよね。

ICOあたりからそういうパターンが生まれた気がする。

ていうか新海誠100パーICO好きだわ、おねショタだし。

その辺の感覚を下地に持ってると、帆高の行動原理に馴染みがあるというか。違和感が少ないかも。

敵を倒すのはクリア条件じゃないっていう。

 

 

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

 

アクダマドライブを解釈する。サイバーパンクの極み。

あけましておめでとうございます。

今年もボチボチよろしくお願いします。

 

家で過ごせと煩く言われる昨今、ブログ始めてて良かったんだろうなと思う。

出掛けなくても一人でもできる趣味だ。

インスタ・FB・Twitterとかは向いてなくて辞めてしまった。

他人の記事が目に付き過ぎ、気になり過ぎちゃうのだ。

掲示板も良かったけど、ブログの距離感も割と快適。

ブログ文化も隆盛の時期からは随分廃れたらしいが、

それでもネットコミュニティが多様性を維持していること自体が望ましいと思う。

多様性を保持するのはコストがかかるしエラーも生まれるが、変化に強くなる。

全てが不確かなこの地上において、それは生存戦略の王道だ。

みんなちがって、みんないい。

 

さて、去年から書きかけの記事でアレだけど。

 

アクダマドライブ 第4巻(初回限定版) [Blu-ray]

 


TVアニメ「アクダマドライブ」PV第2弾

 

なんとなく見はじめたんだけど、思いのほか面白くなっていったアニメだった。

ブレードランナー攻殻機動隊を彷彿とさせる、正統派サイバーパンクを突き詰め、やりきっていた。

こういうの久々で嬉しみ~。

 

書き割りを動かすような独特のカッコイイ演出。

各々の美学や信念をもつキャラクター、

シナリオの伏線回収のキモチよさ、12話完結のちょうどいいボリューム。

 

2020年の自分的ベストアニメはアクダマドライブか、羅小黒戦記だなー。

甲乙つけがたくて対照的な良作が終盤に来て良かった。

デカダンスとか映像研もよかったけど。

 

 

羅小黒戦記でもなにか記事を書きたいな。原作のウェブアニメの方も消化したし。

 

さて、アクダマドライブはアニメオリジナルということで、メディアミックスとかの宣伝が足りないというか、

完成度の高さのわりに話題になってないのがとてもモッタイナイ。

色調が暗いのが見づらいっちゃ見づらいけど、それ言ったら鬼滅も呪術廻戦もそれだしなー。

ポスト鬼滅として宣伝されてる呪術廻戦より、アクダマドライブのほうが自分的には断然おススメしたい作品だ。

 

しかし、所感を記事にしようとすると難しいなこれ。

折角アニメオリジナルのストーリーなんだし、まずはネタバレなしで見てほしい作品なのだ。

鬼滅に呪術、進撃やFateと同路線というか、

ネームドのキャラが容赦なく死んでいく緊張感が、次の回を早く見たいっていうモチベになるやつだから。

推しが来週死ぬかも、この作者は主人公すら殺しそうなんですけどっていう心臓に悪いスリルが大事なやつだから。

 

ネタバレなしで言える範囲だと、

ダンガンロンパに似てるってのは見始めてすぐ判った。

まずキャラクターデザインの独特の絵柄が同じだ。

ダンガンロンパシナリオライターとキャラデザイナーのタッグで制作したらしい。

 

ダンガンロンパ ダイカットスクイーズ モノクマ デレ顔ver.

邪悪なドラ〇もんw(CV大沢のぶよ)モノクマ校長のインパクトで、

ダンロンは当時それなりに流行ったような覚えがある。

 

終末戦争後の荒廃した世界や、人物を肩書で呼ぶスタイル、

書き割りを動かす独特のおしおきシーンの美術など、

人目を惹く奇抜さのエッセンスが、アクダマドライブに受け継がれている。

 

なんとなく画面を眺めてるだけで面白いんだよなあ~。

演劇の内容のまえに、まず舞台美術が一種のアートの域までいってるというか。

まどマギのイヌカレー空間や、少女革命ウテナ化物語みたいに、人物のいない背景絵を見ただけで、

「あーあのアニメか」って見分けられるまで雰囲気を作り込んでる。

 


ダンガンロンパ アニメ版 おしおきシーン集

 

 

あと声優のチョイスもみんなスゲー良かった。

白髪の老婦人の局長がCV榊原良子ってそれPSYCHO-PASSじゃないですか。

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PSYCHO-PASSと同じく、合理的で非情で底知れない感じの女ボスが、

中身がシビュラの局長とは違って、だんだん色んな面を露呈させていくのが、なんだかとてもワクワクしたwww

PSYCHO-PASSの局長はどこまで行っても超然としたポーズを崩さないからな~。

知らずに溜まっていたそのフラストレーションをこのボスが解消してくれたw

そうそう、榊原良子のそんな演技がすっごく聞きたかったんですよ!っていうカタルシスがあったw

「なにィ!」とか「バカな!どうなっている!?」とか。

「我々が正義であるためには悪が必要なのだ」とか「失態続きで我々にはもう後がない」とか「この愚民どもめ!」とか。

悪役が歯噛みしてるとマジざまーってか、ほんっとスカッとするね。大事だね。

 

そういえばCV櫻井孝宏で白髪のナイフ使いの快楽殺人犯というキャラも登場する。

いやそれもう槙島聖護ですよね。PSYCHO-PASSが生んだ悪のカリスマですよね。

PSYCHO-PASS 槙島聖護 コースター

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アクダマの彼は、槙島聖護よりテンション高め知能低めのゴキゲンな青年なのだが、

ごく純粋に己の望むところに忠実であり、それが偶々反社会行為であっただけ、という点でとてもマキシマム的であり、好きなキャラクターだった。

そのように生まれたから、そのように生きる、というストレートさは見ていてこころよい。本能のまま生きる動物を見て癒されるのに近い。ありのままなのだ。

いや、ガチの殺人鬼なんだけどね。なかなかに熱演のスプラッタでホラーだったけどね。

 

今期は憂国のモリアーティという、これまた槙島聖護にそっっくりな顔の犯罪コンサルタントを主人公とするアニメがあったのだが、

PSYCHO-PASSと制作会社が一緒なので作画スタッフが同じなのかも)

憂国のモリアーティ 1 (特装限定版) [DVD]

 

こちらの主人公にはあまり惹かれなかった。

それはやや動機が鬱屈してるというか、

自分達に優しくなかった世界が憎いだけなのを、身分ガーとか差別ガーとか皆で掲げる大義名分にすり換えているからだ。

「自分はなにも悪くない、あいつらが悪いんだ!」という主張は、率直にダサい。

自分の問題を社会の問題にしてしまう人、個人的なトラウマを外界に投影して闘争を始めてしまう人は、とてもタチが悪い。

自分の問題を癒さない限り、いつまでも救われない戦いに身を投じ続ける修羅になる。

リアルにいる彼らは、時に高潔な理想に殉じる活動家に見えるが、そういう人に巻き込まれてはいけないのだ(自戒)。

 

あとCVだと黒沢ともよが主人公なのだが、アニメ的な癖のない普通っぽい演技が一般人っていうキャラに合ってて良かったな。

ジャイアンのCV木村昴スネ夫ポジションなのも後で気がついてクスッとした。

 

彼らの意識が作中で変化していく過程がとても良く出来ていた。

 

じゃ、ここからはもう最終話までの全ネタバレ有りで書いてく。

 

 

 

 

アクダマドライブを全話視聴してなにより非凡だったと感動したのは、

 

主人公さえ最終話で死ぬところだ。

 

アクダマドライブの主人公の死に方はあらゆる意味で実に見事だった。

主人公がアレをやったのは初めて見たような気がする。

 

やっぱりアニメって、主人公は死なないという大前提とか安心感とか、暗黙の了解をもって見てるもんな。

 

死闘の末の生死不明エンドとかならパターンとしてあるけども。

 

鬼滅の刃も相当ヒヤヒヤしたが、主人公はどうにか生存エンドを掴むことができた。

 

あのワニやきのこでさえ、主人公というのは安易には殺せない。

物語を牽引してきた人物への愛着、読者の共感と期待が乗っかっているのを裏切れない、という圧が生まれる。

 

そこをクリアするために、アクダマドライブはサイバーパンクであること、

パンク、反社会的、反抗する者が主題であることが巧い仕掛けだった。

 

彼らは推定懲役何百年とか、そもそも死刑クラスの犯罪者なので、道中で死んでも一種の因果応報の納得感がある。

倫理に背くものは、倫理に守られない。支配と庇護の表裏一体から逸脱している人種だ。

 

アクダマの主人公、一般人/詐欺師は、最初はよくいる巻き込まれ型の主人公で、

飽きるほど見たヒロインの典型で、善人でお節介でかわいいだけの役立たず。

周りのキャラの異常性を引き立たせる、普通の基準値や解説役としてのキャラだった。

 

中盤で彼女は「命あっての人生ですよ!死んじゃったら意味ないじゃないですか!」と主張する。

無謀な望みに挑もうとするハッカーを引き留めようとしてのセリフだが、

まさか、この脳死で聞き流しそうに耳慣れた優等生的説教が、

最終話の伏線になるとは恐れ入った。

 

一般人だった彼女が、なぜ詐欺師として死を選ぶまでに心が変わったのか。

 

常識優先では守れないものを愛してしまった。

 

社会に守られる側だったのが、自分が何かを守る側になったとき、

 

ただ規範に従う優等生であるだけではきりぬけられない状況など、いくらでもある。

 

でもそれは、もっとも本質的な幸せを見つけたってことのはずだ。

自分の命より大事と思えるものを見つけられるかどうか、己の使命を見出せるかどうかっていうのは、

人生においてなかなかレベルの高いテーマよな。

子どもっていうのは本能的に守るべきものってことで、そこを引き出してくれ易い。

 

守ると決意したもののため、詐欺師となった彼女は、

戦闘力皆無でありながら、どのアクダマより甚大な被害をもたらす凶悪な才能を開花させることになった。

詐欺師、というよりはアジテーター・扇動者みたいな才能だと思う。

ネットの書き込みひとつから暴動が勃発したのはその才能の萌芽で伏線で、

若い女性であることも、ジャンヌ・ダルクやジョージ・フロイドのように、祭りの神輿に掲げられやすいことの説得力になった。

計算というより、なんとなくの天然でやるところがガチっぽくて恐ろしい。

周囲の空気を変える力、時代の雰囲気や潮目を掴む直観や才能ってそういうものだろうな。

ハッカーのチートありきだけど、それにしても天性のカリスマだ。

殺人鬼が執着していた天使の輪というのはそういうものだったのかも、と納得できた。 

 

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火刑台上のジャンヌ・ダルク

 

何万人を巻き込むことも厭わない、自分の愛しいものが最優先。

名実ともにアクダマになった彼女はその罪の十字架を背負って死ぬ。

その死を以て発動する最悪のトラップを仕掛けて。

 

「死んだら負けですよ!」と言ってた人が、

自らの死を用いて勝利への活路を拓く展開、激アツ。

 

すごい大悪党の一生を見たって気がする。

 

そこまで信念を貫かれると、善より悪よりまずその意志の力に敬服する。

 

ていうか、物語が進行するにつれ善悪などの社会通念の欺瞞が暴露されていくのがサイバーパンクの醍醐味であり、

アクダマもそのお約束に則って、

司法取引的に犯罪歴を抹消したり、政治的判断で誰彼となく処刑対象に設定できたりで、

秩序を預かるものが市民を守ることをやめ、街は混乱と破壊の渦中となる。

 

正義のシンボルの通天閣は荷電粒子砲で折れ傾き、その上をアクダマのバイクが駆けていく。

 

かくて登場人物ほぼ全滅エンドという稀に見る悲愴な結末へ至るのだが。

 

でもなんだろうな。

バジリスクとかも全滅エンドだけど、あれは嫌いでアクダマドライブは好きだ。

 

バジリスク~甲賀忍法帖~(1) (ヤングマガジンコミックス)

 

バジリスクの忍達は幕府や族長の命令に従い、その戦いも生死も権力者の掌中のゲームと化していたが、

アクダマドライブのキャラクターたちは、己で定めた人生の指針に従い、生きていた。

無軌道な意志と生死が交錯したことで、権力者はコントロールを失い自滅していった。

 

フムン。

 

やっぱそうよな。

カントウのような姿の見えない支配者がいるとして、どうすればその軛から自由になれるかっつったら、

デモでもテロでも暴露でも武装蜂起でも勧善懲悪でもなくて、

できるだけ多くの人が、真摯に自らの至福を追求すればいい。

結果として支配者は力を失うっていう。

毎度の持論になってしまったけども。

 

そういえば毎回挿入される劇中劇のテレビ番組が、サブリミナルで民衆を洗脳するツールなんだけど、

 

そのキャラクターがウサギとサメなのは、因幡の白兎の神話かな。

ウサギがサメを騙す話だし、プロパガンダを喋らせてハマる。

 

この洗脳メソッドわかりみ深いわ。

毎日毎日毎日毎日テレビで会見してる都知事ウサギチャンに、サメクンが総理みたいに見えてきてアニメ脳がやばたにえん。ぴえん。

 

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あと神話っぽいネタと言えば、

不老不死の少年少女がトンネルをくぐってシコク(四国で死国)へ赴く、というイメージはなかなか象徴的だった。各種演出も意味ありげで最&高。

 

アクダマドライブの世界は、荒廃していて人工物しかないのだが、

シコクへ向かう風景で初めて自然物が描かれる。

一本の立ち枯れた木と、山脈の遠景だ。

 

木の向こうへは少年と少女しか行けない。

その木が、世界と世界の境界点なんだろう。

人工と自然、シャバと黄泉、この世とあの世だ。 

 

終末戦争後も相争う人類の都市は火で焼かれ、停電の闇に包まれ、その上を雪が覆っていく。

、画面を暗転させ、明転させ、旧世界を徹底的にシェイクして破壊して、

男女が新天地へ向かう。

 

楽園追放の逆回しのような印象だ。

 

滴る常春のエデンから、最初の男女は不死を奪われて苦界へ追放された。

 

なら、永遠とも思える苦界の業が終焉となったとき、

再び不死を与えられた男女が向かうのは、始まりの地という気もする。

楽園回帰といったところか。

 

茫として描かれなかったシコクの風景は、

赤、黒、白、ときたら次は青、青き清浄の地。

 

山、空、海、森、鳥獣、自然の調和そのものの世界か、

 

あるいは自然のダイナミズムさえ役目を終えて至る涅槃か。

 

妄想が捗る仕掛けが散りばめられた、いいラストだった。

 

アクダマドライブ、もっと評価されてくれ。

 

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追記、

 

シコクがどんなところなのか、伏線や演出から類推していて、

 

人工と自然っていう対比になってるようだと気がついた。

 

じゃ、空中に砕けたビルの破片が浮いてて、量子コンピュータだかが人々の意識を保存してるっていうカントウの風景は、

 

人工、人為の行きつくところってことであのイメージなのかな。

 

自然を征服し人工物に置き換えていく思想で近代史は発展してきた。

 

周囲の自然物すべてを、思い通りに加工したもので敷き詰めたら、

最後に残った自然物は、ほかならぬ人体、肉体という自然物だったということか。

 

機械の体に入るっていう選択をするSFも多いけど、

肉体であれ義体であれ、物質であることには違いない。

 

攻殻機動隊では義体も使うけど、電脳化で意識をネットワークにするという発想のほうだけ突き詰めると、

意識というソフトさえあれば、身体というハードはいらないってことになるんだろう。

水槽に脳だけ浮いててネットになってるシビュラと同じで、もっというとデータさえあれば、脳というハードさえいらんじゃろっていうw

 

人工と自然という対比は、

精神と物質、ソフトとハードという対比と重なる。

 

人間存在の本質が意識というソフトにだけあり、

寝食や移動コストや寿命、様々な活動限界をもつ肉体というハードは、

ソフトの自由な意思を制限するものだと、

そのように考えれば、行きつくところはアレになると。

 

そんな極端なw

 

しかし、データだけの自己ってのもな。

そもそも自我、自意識の発達は肉体や脳の成長とともにあるものだ。

出来上がったデータをコピーして維持することはできても、

あの量子コンピューター内で意識を発生させて、それを人間としてマトモに育てられるかっていうと無理ゲーなんだろう。

 だから、人間牧場としてカンサイが必要なんだろうね・・・。

シビュラと同じで、時々都合のいい人材をピックアップして加えることで、総体の劣化を防いでいると。

 

選ばれしものだけが行ける死後の世界、という意味でカントウは信仰の対象としてそれらしいw

 

鬼滅の刃を解釈する1 死を肯定する物語。

 

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃、最終巻発売ということで書いておこうかと。

っていうかまた入手困難っぽいなあ。買えるといいけど。

 

まだ映画には行けてないんだけど、コミックはまとめて読み返してみた。

挟まってたオビにアニメ化直前!とあって、

これ買った頃はこんな大ヒットになるとは露ほども思わなかったと感慨深しw

 

しかし、改めて読み返しても、なんでここまでの大ヒットになったのかは謎だ。

キャラの造詣はいいし、人間観察が卓越してる。独特の絵は大正時代っていう雰囲気と合ってて、様々な対比の構図があって、時々ハッとするような優れた言葉がある。

いい物語だとは思うし、アニメの映像美も素晴らしかった。

でも全体として、どうにも暗い話だなと思う。

舞台は主に夜で、隊服も真っ黒で、画面が重い。

アニメ一話の、雪に閉ざされた寒々しさの印象が作品を貫いている気がする。

次々に人が死ぬし、元は人である鬼の首が飛ぶ。

推しが容赦なく死んでいくつらたんの連続で、買ったはいいけどあまり読み返さない漫画だった。

 

この重苦しい漫画がなぜこうも多くの人の心を掴むのか。

ひとつ思ったのは、

最近の災害やコロナ関係のニュースでよく聞くようになった「命を守る行動を」とか、そういうスローガン。

社会が発してるメッセージに対するアンチテーゼなのかもしれない。

 

鬼滅の刃に登場する隊士達は、誰も命を惜しまない。

「命を賭けるなんて最低限の努力」とか、

「何を今さら己の命など惜しもうか」とか、

そんな言葉が頻発する。

 

鬼殺隊の理念は、お館様・産屋敷輝哉の唱える「人の想いは不滅」とか、

炭治郎の言う「託されたものを繋ぐ」とか、そういうところにある。

人と人との関係性の環、コミュニティのなかで継承される精神性、ミーム

個よりも一回り大きなもの、

一族や組織の自我同一性を、個の自我同一性とすることで、個を超えるというか。

 

みんなの繋がりのなかに自分というものがあるから、

自分の肉体が死んでも、

自分の存在は途切れないんだっていうか、

 

そういうロジックで死の恐怖、

つまるところは自己の連続性が断絶するという恐怖を克服して、

理念に殉じる、なにがなんでも使命を果たす。

 

使命、というのは命を使う、と書くけど、

命さえも一種の消耗品として、命以上と定めた価値のために費やすというか。

 

例えば、刀は大事なものだけど、戦ってたら刀が折れるのは仕方ないこと、 

刀を惜しんで戦いに出ないのでは、刀本来の役目が果たせないというか。

 

刀も命も同じで、

命を惜しんでは、生きるべき時に全力で生きられないってことがある。逆説的だけど。

 

武士道とは死ぬことと見つけたり、というか、

死を鴻毛の軽きに比す、というか、

スーサイドアタッククレイジーと言わしめた日本人独特の感性の究極があらわれてるとも思う。

ある大義のために死ねるし、

最終巻で隊員が「みんな一緒だ怖くない」と言って無惨に特攻かます場面があるけど、

みんなで死ねば怖くないの精神、集団での共鳴や同調、付和雷同が個の存続の本能を上回る。

バンザイクリフとか、ああいうことする民族性っていうのは特異なものらしい。

 

無惨が鬼狩りを「異常者の集まりだ」というのは実に最もなツッコミだ。

世界標準のスタンダードはそっちだ。日本でも平時はそう。

 

生きることは善いことで、死ぬこと殺すことは悪いこと。

 

誰だって死にたくはない。

死んだらなんにもならない。というのもよく聞くセリフだ。

自己の保存はあらゆる生命体のもつ根源的な本能で、

どんな生き物も己が生きるため力を尽くす。

 

鬼の始祖、鬼舞辻無惨の目的は「生き延びる」ことに終始する。

卑怯でも憶病でも小物でも敵前逃亡でも、生き残ればよかろうなのだ。

己が生きることにのみ執心する様は、生き意地汚いとか罵倒されるけども。

 

生物の在り方として是なのは、無惨のほうではある。

逃げるのも隠れるのも単に生存戦略であり、そこに貴賤を求めるのは人間だけだ。

 

鬼滅の刃では、生死の善悪が通常と逆転している。

 

主人公の属する善サイドが、殺すことに固執し死に急ぐ、本能にそぐわない行動様式を持っていて、

悪役の動機は、世界征服でも人類滅亡でも殺しの愉悦ですらなく、

ただずっと明日も明後日も自分が自分として生きていたいっていうだけ。

 

 作品の雰囲気の重苦しさは、そういうところにあると思う。

鬼殺隊の理念は生の本能に逆行していて、どうしても暗い。

 

鬼殺隊が政府公認の組織ではないのも、

国ほどの大きな組織にとって、鬼狩りの私怨の論理は不健全であり、是としてはいけないものなんだっていう絶妙なバランス感覚なんじゃないかな。

江戸時代には仇討が公的に認められていたけども。

復讐よりも、再興に注力するほうが、人間全体としての利が大きい。

 

21巻、無限城で炭治郎と無惨が対面する、

勇者が魔王城の最奥に辿り着き、魔王とラストバトルに入る直前の、クライマックスの対話で、

無惨は「しつこい、お前たちは本当にしつこい、飽き飽きする、心底うんざりした。

口を開けば親の仇子の仇、兄弟の仇と馬鹿のひとつ覚え。

お前たちは生き残ったのだからそれで充分だろう。

私に殺されるのは天災に遭ったのと同じと思え。

雨が風が山の噴火や大地の揺れが、どれだけ人を殺そうと天変地異に復讐しようというものはいない。」

 

およそこのような言い分の魔王は見たことがなくて非常に面白かったけどもw

これ実は一理あるな~って納得したんだよなあ。

人間種にも上位の捕食者がいたほうが生態系として健全になるっていう寄生獣の論理を思いだした。

 

腹が減るから食う、それだけなら生物の当然であって、責められないのだ。

人間だって鳥や魚を食べる。それを毎回係累の鳥や魚たちに恨まれ責められ、復讐と言われたらどうしようもないもんな。

 

無惨ひとりが単に生命維持のため捕食する人の数はたかが知れていて、

鬼という種の勢力の拡大をする気もない。

禰豆子を食らって太陽を克服するという目的を果たして、その他の鬼を用済みとして処分するのであれば、

他に大した野心もなさそーな無惨は、

人類全体にとってはほぼ無害な存在になった可能性もあるのではなかろうか?

人食い熊、シリアルキラーが社会に紛れ込んでる、くらいの脅威度。

もちろん周知されれば放置できる脅威ではないけど、

国全体の行方不明者、自殺者、災害での死者数とは比較にならない、ということではある。

藤の花の香り袋をもつなどの自衛策もあるっちゃあるしな・・・。

 

第一話の家族惨殺で、炭治郎は「熊が出たのか」とか、

過去に人食いの熊が出たのを父親が倒した場面があるけど、

 

もしあれが熊の仕業だったら、それも自然の厳しさのうちとしていくらか諦めもついたわけではある。

鬼だから、無惨だから、元人間の、言葉や心の通じるはずの同族という前提だからこそ、絶対に許せないって気持ちになるんだよなあ。

 

まあ、結局無惨も、群衆に紛れて暮らしていたので、衣や住の面で人間社会のインフラを享受していた。洋装女装着物、幅広いオシャレを楽しんでおられたw

人の社会の輪の内側にいながら、熊や天災のような外部要因として扱われたいというのは、ムシの良すぎる話だな。

インフラを、庇護を享受しながら、社会のルールを守らないというのはナシだ。

 

人類の上位種、捕食者としてのアイデンティティを自覚するなら、人の社会に紛れるのはやめて、野生で独自に暮らすのがスジというものだろう。

 

さて、無惨様を論破してたら話がどんどんズレていくなw

無惨様の話、すごく楽しい~。ネタの尽きない魅力的なキャラだ。

 

しかし無惨は精神的にはすごく幼い相手なので、

終戦の盛り上がりとしてなんていうか、まあその。

炭治郎は優しいというか受け身というか、良くも悪くも相手の出方に合わせていく主人公なので、

成長というか、最も精神的な高尚さに達していたのは猗窩座戦だったと思う。

猗窩座は猗窩座で屈折を抱えた相手だったけど、

至高の領域、無我の境地、道を極めたものがいつも辿り着く同じ場所。

そういうものを志す武人だったので、それにつられて炭治郎もその高み、その境地を得ることができた。

憎しみも怒りもなく、殺気も闘気もない、透き通る世界。

そう表現される、明鏡止水の心。

それが最も自分の心を惹きつけるもので、

もっとそれを見ていたかったし、ラスボス戦でそれ以上の昇華を見られるかとも期待したんだけども。

 

最後の炭治郎VS無惨は、互いの意志、我のぶつけ合いって感じだったように思う。

最終巻の描き足しページを見るまで感想は確定ではないけど。

 

まあ、無惨のクソガキ並みの意識レベルではまだ解らないからしゃーないのかな。

則天去私を体現する人格の縁壱の言葉は、無惨の心に届かなかった。

縁壱を化け物として拒絶してしまった。

ちょっとレベルを落として、炭治郎が絶許ムーブでぶつかったからこそ、無惨にもギリ理解できるものとして伝わった。

千年変わらないクソガキメンタルもようやく変化・成長することができたと言えるのかも。

相手のレベルに合わせて教える、というのは大事なことだなww

 

意識レベル、というのは自分がよく使う考え方で

一次元、水や鉱物、無機物のレベル「存在している」ということを知るレベル。

二次元、植物、原始生物のレベル「個がある、自他がある」ということを知るレベル

三次元、中枢のある生物「自を愛する」を知るレベル

四次元、中枢があり、社会性をもつ生物「他を愛する」を知るレベル

五次元、物質体でなく精神体となる「自他に境はない」を再び知るレベル

六次元、個ではなく、摂理や法のただ運行していくことを知るレベル

そして次元を超えると、至高の、無我の、道の極まり辿り着く、場というか領域というか、空や愛そのものとなる。

 

inspiration.hateblo.jp

 

このマップを使うと、

無惨は四次元の意識のごく初心者だ。

自分よく似てお気に入りだった累(病身、パワハラ体質)を殺されて、下弦の鬼に当たり散らかすあたりからそう判断する。

自分に似た累にだけ同一視に近い共感を感じて特別待遇とし、その他の人や鬼には一切共感していないので、惨く殺してもなんの痛痒もない。

 

共感能力の発達度合いでだいたいマップのどのあたりかの見当がつく。

 

物語中で、最も意識が幼いのは実は無惨ではなく童磨だ。

自分の死、自己の喪失にすら感情が動かないというのは、虫か爬虫類並み。

名前に童、という字がチョイスされているのも興味深い。

 

意識が成長していくにつれ、誰の痛みも我がことのように感じるようになっていく。

 

鬼滅の刃では、一人が痣や透明な境地に目覚めると、“共鳴”とされる現象で、次々とそれがその場の人間に伝播する。

 

基本的にスタンドアローンのはずの脳が、ネットワークでソフトを共有しているようなその感覚、個と全に境がないその感覚が、五次元の意識だ。

 

ただ、どのような能力も諸刃の刃というか、

他者と意識を共有することにもライトサイドとダークサイドがある。

 

普通テレパシー的な能力の副作用は人格汚染として現れることが多いけど、

鬼殺隊のメンバーは死を覚悟することでエゴを越えているのでそこはクリアだ。

 

ただ、炭治郎が先祖伝来の神楽、縁壱との縁、先祖の積んだ恩徳で力を獲得していく一方で、

鬼を世に出した産屋敷一族が代々短命になったり、

鬼と取引する伊黒一族も男児が生まれず、また伊黒小芭内にはその業がのしかかり普通には生きられない、など、

一族、血族、時間も個も超えて深く結びつく集団ゆえのダークサイドも同じだけ描かれるんだよな。

繋がっているということは、誰かのツケを、近しい他から取り立てて帳尻を合わせることも起こってしまう。

そして優しい人、共感能力の発達した人ほど繋がってる誰かの何かを受け取ってしまいやすく、

共感能力が未熟なものほど好き放題に暴れても因果応報も無かったりしてな。

無惨「何百何千という人間を殺しても、この千年なんの天罰もない」っていうw

 

なんかそういう対比が常に徹底してるのがスゴイと思う。

 

柱合会議とパワハラ会議が対比になってて、

お館様と無惨の、父権としての在り方が両面で描かれたり、

 

禰豆子と炭治郎の兄妹の絆も、

ともすれば他者を拒み、残酷な世界を恨んだかもしれなかった裏面の可能性として、

堕姫と妓夫太郎の兄妹が描かれて。

 

縁壱と厳勝の兄弟では、剣技の才と、妻子との暮らし、

互いの欲するものがなんでああも正反対だったのかっていう悲劇だったわけで。

 

どこを抜き出しても興味深い対比の構造が尽きない。

 

ああ、意識の次元でいうと縁壱が最も高くて、

境地について語り、ものごとに対峙した瞬間に正解を直感し、感情の揺らぎに振り回されず、世界をただあるがまま美しいと観じている心はもはや六次元に達してそうで、

それは神様並みってことなんだけど。

 

しかしそういえば鬼滅の刃では、神も仏もない、といった言葉も頻発する。

 

有一郎「どれだけ善良に生きてたって、神様も仏さまも結局助けては下さらないから」

無惨「この千年、神も仏もみたことがない」

童磨「神も仏も存在しない、そんな簡単なことがこの人達は何十年生きてもわからないのだ。」

あと妓夫太郎の「何も与えなかったくせに取り立てやがるのか、許さねえ、俺の妹を元に戻せ、でなけりゃ神も仏もみんな殺してやる」とか。

 

なんかこう、脈絡的にこれはキャラの造詣とかレトリックというよりは、作者の実感なんだろうなって気がする。

5巻の見返しに「人生も努力も基本的に報われない、報われているときは奇跡」と、父親が亡くなってる的なことが書いてあるけども。

初連載でまだ若いだろうに、苦労してそうな。

 

神仏に縋る段階、上位者の庇護を必要とする心の段階を越えると、

人治でなく法治であるこの世界の在り方が見えてくる。

対立物とその止揚は、最も基本的な法だ。

陰陽、男女、天地、光と闇、禍福。

 

生と死もまた然りで、

復讐のため死に急ぐ鬼狩りと、生の意味も忘れただ生きる鬼達とが対峙するとき、

生と死の交錯するところに、

神仏の介在を必要としない、当人にとって本物の救済を見出すことができる。

 

鬼滅では人も鬼も死の瀬戸際で走馬灯を見るのがお約束だが、

それで新たな力のヒントになる記憶や、

忘れていた大切なこと、人格の根幹を成すような記憶を思いだしたりする。

 

人がただ生きていくだけで、辛いことは山ほどある。

でも、みんなそれを見ないフリして生きていくことを覚える。

 

15巻で「何故忘れていた?あのやりとり、大事なことだろう。思いだしたくなかった、涙が止まらなくなるから、思いだすと悲し過ぎて何もできなくなったから」という義勇のモノローグがあるけど。

義勇だけじゃなくて、みんなこういうのがある。

 

向き合うのが辛いことを抑制・抑圧していて、

でもその記憶の負荷は消えたわけじゃないから、

ずっと隠れて脳の作業容量を食い続け、人間存在のパフォーマンスを落としている。

 

ただ安穏と、命を第一に、命を守る行動で、命が大事と生きてると、

そういう向き合いたくなくて棚上げしてるものがどんどん増えて、いっぱいになってしまって、鈍くなって、

だんだん生きてる気がしなくなってくるのだ。

 

なにを求めているのか忘れてしまって、方向オンチの努力を続ける鬼達のようになってしまう。

 

鬼滅は、何度も何度も様々なキャラたちの死の淵が繰り返し描かれる。

繰り返し鮮烈に生の根源へと肉薄する。

 

それこそが、死の気配を遠ざけ、生を至上とする価値観の蔓延した社会が必要とした感覚だったりするのかな。

 

みんな、生に倦んで、死に飢えてるのかもしれない。

 

 

 

現代では、死は病院のなかで迎え、斎場から火葬場が標準で、他者の目に死が触れることがないけども。

それはごくごく最近確立した常識で、時代を遡るほどに、その辺で身近に気軽に人が死んでいた。 

locust0138.hatenablog.com

 

昔、インドに行って「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という名言を残したメメント・モリっていう写真集があったな。

ガンジス川には死体がゴロゴロ転がってるって、今でもそうなんだろうか?

 藤原信也も福岡出身か~。

 

百万回生きた猫っていう絵本が流行ったこともあった。

これも死を肯定する衝撃のラストの物語だ。

 

 

吾峠呼世晴は多分若い女性なんだろうど、

セーラームーン無印の仲間全員死亡エンドとか、

CLAMPの聖伝の仲間全員死亡エンドとか、

なんか若い女性作家ってそういう残酷な美学を描く人がいるよね。

それはまたいつか解釈してみたい、

 

 

 

 鬼滅の刃、やっぱり面白かったよ。

 

 

 

シャドーハウスがアニメ化とのことで再推し。洗脳解除、密かな反逆の物語。

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youngjump.jp

 

シャドーハウス、注目してたからアニメ化の速報ひとまず嬉しい。

 

※ 過去記事にはネタバレが含まれます。

inspiration.hateblo.jp

 

まあ、アニメ化つーても制作会社とか監督とかまだ発表がないので、あまり期待を膨らませ過ぎないようにしよう。時期も未定だ。

物凄く欲を言えば、動画工房とか京アニとかがアニメ化したら相性最強だと思う。

少女を可愛らしく描けるか、ゴシックなディティールをそれらしく描き込めるかどうかで出来が決まる。

基本的に室内で展開する物語なので、その辺の空気感とかも重要だ。

薄暗い洋館なので、舞ってる埃を光らせるあの表現とか存分にやって欲しいところ。

 

では、できるだけネタバレしない方向でシャドーハウスを推す記事が書けるかチャレンジ。

 

まずシャドーハウスには流行り要素と、独創性の両方があるなあ。

 

流行り要素としては、メイドもの、異種カップル、百合ものっていうところが見たまま分かりやすい。

 

エマ(本格メイド)、メイドラゴン(異種百合メイド)、魔法使いの嫁(異種カップル)とつくにの少女(黒い異種とカップル)、亜人ちゃんは語りたい(異種百合要素)、あとまあローゼンメイデン(ゴシックな世界観で赤ドレスヒロイン)とか。

この辺が見れる人にはシャドーハウスもとっつきやすいこと請け合い。

 

ま、メイドは流行りというか、ジャンル的にはわりと確立しきってるところかな。

異種婚系は波がきてるっぽいけど。

 

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影(異種族)の貴族のお嬢様と、天真爛漫なメイド少女がキャッキャウフフしているだけで癒される。心がぴょんぴょんする。

 

で、その異種族の相方の設定がとても独創的だ。

影の貴族というのは、ドラゴンや吸血鬼といった既存のイメージの流用ではない存在になっている。

まず、見た目が真っ黒なシルエットそのものだ。

少女革命ウテナ Complete Blu-ray BOX(初回限定版)

 

少女革命ウテナの影絵少女くらいしか似たものが思い当たらないが、あれとも違う趣きがある。

あのビジュアルに動きと声がついたら、さぞ違和感があって面白いだろうな~。

シルエットだからと3Dモデルなどにせず、ぜひぜひ手描きで細かい芝居をさせて頂きたい。

 

目をきらきらさせるとか、そういう顔の中身の表情なしで、

身振り手振りで芝居をさせるというのは高度な表現になってくるので、アニメーターの観察力や腕の見せ所ということになる。

京アニの得意な表現で、足元だけにカメラを当てて、もじもじさせたり足踏みしたり一歩を踏み出したり、足だけでキャラの心情を表現するやつがあるけど、

影の貴族たちは、ああいう表現の引き出しががあればあるほど活かせる設定だと思う。

いや、期待し過ぎは禁物だけれどもw

洋館や小物は3D使い回せるとこ多いし、人物に絵の枚数があるといいなあ。

 

この歳までアニメ見てると、たいていの表現はどこかで見た覚えがあると思ってしまうものだけど、

真っ黒の影そのものをキャラクターにするというのは本当に初見の驚きがあったというか、そこだけでも一話を見てみる価値があると思う。

あーその手があったか!って感じ。

 

シャドーハウスというか、作者のソウマトウの持つ “影” というものへのイメージは独創的で、しかしただ奇抜なのではなくて、ある種の普遍性も備えている。

心理学でいうシャドーのようなものだと解釈してもそれなりにいけるような、

ある象徴としての完成度がある気がするんだよなー。

 

シャドーとペルソナ、抑圧している衝動や、拘って前へ進めない記憶、サブ人格、憧れの投影、イマジナリーフレンド、インナーチャイルド、タルパ、ハイヤーセルフ、無意識からのガイド、あるいはスタンド(ジョジョ)的なもの、秘められた異能の力とか、

影の、鏡写しの、もう一人の自分。というような言葉に込められる、あらゆる解釈を当てはめてみていくことができそうな感じがするのだ。

 

精神の形であるスタンドが常時出しっぱなしで、もっと雄弁で、更にはもしスタンドの方が本体、主体になったら?みたいなテーマの転がし方でもあるなー。

 

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そうやって影と少女の主従に、百合以外にも色んな関係性を解釈していくのも楽しいのだが、

 

過酷な現実でクタクタになった心に、少女たちの幸福なやりとりを流し込みたいだけ、っていう需要もあると思う。

けいおんとかゆるゆりとかを脳死で見ていたいという需要だ。誰も傷つかない優しい世界。

 

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そこは残念ながら、シャドーハウスはがっこうぐらしに近いものと思っていただきたい。

百合はガワだけで、中身はサスペンスというか。

まどマギ三話なみに裏切りの構成にするか、一話からフラグだらけにするのかの匙加減もどうなるかってところだなあ。

でもまあ、まどマギは完全オリジナルでネタバレ厳禁の仕込みができたけど、シャドーハウスではそこまでは無理か。

一見、日常系のようでいて、不穏なフラグを立てまくっていく対比が面白くなる要素かな。

 

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シャドーハウスコミック4巻のオビには、白井カイウ約束のネバーランドの作者の推薦文がある。

そう、ここがまさに流行り要素というか、約束のネバーランド進撃の巨人とジャンル的に近い展開になっていくのだ。

ソウマトウって絵は線が細くて女性的だけど、話の構成は男性っぽいんだよな~。

設定厨というか、巨大構想練りがちな感じ。

 

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なんかそういう不穏さというか、異様さというか、違和感がちらほら見え隠れする序盤の雰囲気が、実は一番好きだったかもなあ。

 

アニメで、もう一度新鮮な気持ちで見られると思うと楽しみだ。

 

さて、ネタバレなしでと思ったら、あれに似てるこれに似てるっていう話とか、前記事の繰り返しの内容になっちゃったけど、

ここからは微ネタバレありで、

 

シャドーハウスの、もうひとつ独創的でとても優れているところを挙げられる。 

 

それは 洗脳の解除 というテーマだ。

 

もうそんなの、自分の大好物に決まっているではないか。

あらゆる思い込みから自由になりたくて仕方がないし、そんな物語には親近感と憧れを抱いて、応援したくなる。

 

影の貴族の館は、洗脳と陰謀と、搾取と支配との構造で運営されている。

支配者による情報の統制と、民衆の思考を停止させるための様々なエグい措置がある。

 

それは、毒親とかモラハラ配偶者とかブラック企業とかカルト宗教とか、マスコミとか大本営発表とか世論誘導とか、そういう連中が古くからよく使う方法で、まぁそういう空気や風潮の醸成とでもいうか。

自分達も日々それを目にし、そのなかにどっぷり浸かってもいる、支配者達のメソッド、イメージ戦略、詐術だ。

猫も杓子もコロナコロナって、いい加減なんか変だな、なんか前にもそういうことあったなぁって、なんて気がついてもいいんですよ?

 

ネバランや進撃では、なにか決定的な破壊が起きて、

それまでの日常が崩れ去ることから、否応なしに今まで当たり前と思ってきたことを疑い始めるのだが、

 

シャドーハウスでは、表面上は箱庭の平和を維持しながら、

主人公達だけが、支配のシステムに気がついて抗い始める物語になっている。

水面下の、密かな反逆の物語なのだ。

 

エモい。

 

これエモいよ。少年誌的な心が熱くなるやつだよ。

 

支配者によって隠されている真実を、

観察と思考と直観によって自分たちのものにしていく謎解きの過程とか、

ほんと勇気づけられるものがあるというか。

 

そう、あらゆる真実へ至るのに必要なのは、

 

素直な心と健やかな体、そして何より「知りたい」という希求の意志なんだと思う。

 

自分の心で確かに知った真実、そこへ至る過程で培った自分自身への信頼だけが、

洗脳を許している自分たちの弱さや愚かさ、良い子でいて褒めてもらいたい気持ち、誰かに与えられた指針にすがりたい気持ちを、越えさせてくれる。

 

支配者と対立して勝利するのでは、関係性の逆転にしかならない。

魔王を倒せば、次は勇者が魔王になる。戦乱、革命、平和の三拍子のループになる。

 

だから反逆は、密やかに始めよう。

 

それがこれからの若者のやり方なんだろう。

支配者に表立って逆らってもダメなのだ。

暴露もデモもテロも、どうやっても支配のメソッドの盤上であり、そこで彼らに敵うものではない。

 

まずすべきことは、自分の体を十分に休めること、じっくりと考える時間を持つこと。

自分の能力を知ること、それを磨くこと。

摂取させられているもの、スローガンやキャッチコピー、飲み物食べ物、生活用品のなかに、思考を鈍くするものが混ぜ込まれている。それらを突き止め、除くこと。

 

疲れて、睡眠不足で、日光浴びてなくて、ゴミ情報を繰り返し流し込まれて、過小評価の自分像を刷り込まれて、集会やイベントで高揚させられて、

消化不良で、栄養不足で、騒音や悪臭や強力な電磁波が常に漂って、不安やストレスで、

そんなことの積み重ねで、だんだんと考える力が低下して、身体に備わる直感が鈍くなっているのだ。そのように仕向けられている。

 

少しずつでも自分の心と体を大事に、健やかにしていくこと、

自分を知って仲良くなれたら、それから仲間とも繋がっていくこと。

 

そして何より、希求すること。

 

知りたいことに向かい続け、ノイズを除いていく。

 

自らの身体、自らの内面を通して真実へ至るとき、そこには何者の介入もない。

 

洗脳の余地のない、まっさらな、ものごとのはじまりのインスピレーションを得ることができる。

 

そのようにして、洗脳を解除していく。

与えられたたくさんの、誰かにとって都合のいい、思考パターンとか常識とか信仰とか、別に手放したってどうってことのない、ただの思い込みだったと解る。

インスピレーションの素晴らしさの感覚からすれば、取るに足らない色褪せたものばかりだと解るようになる。

わくわくするもの、ときめくもの、琴線に触れ、心を感動させるもの、それ以外は要らないと思えるようになる。

 

「我らを統率する、我らの王、我らの産み親、我らの偉大な創造主」

すべて幻想だ。破棄して何の問題もない。上位存在の庇護も支配も最早必要ない。

 

自分の心、自分の命、それだけを指針にして生きていける。

自由と責任を引き受け、移ろう世界を楽しみ、生と死の歓びも悲しみもあるがまま慈しむことができる。

 

きっとシャドーハウスの主人公たちはそこへ行きつくだろう。

命題の設定が真なら、解は真へ至る。物語は素晴らしい結末へ辿り着く。

 

影、もう一人の自分を知り、仲良くなるってことは、そのくらい優れたテーマであると思う。

裏と表、陰と陽の止揚、統合、それはすなわち、道に、0に、無限に、空(くう)にいたる神秘のメソッドだ。

 

ま、アニメでは尺が足りないだろうけども、それでも楽しみにしてる。

とにかく少女主従が可愛ければオールオッケーだ。頼むぞ…!

 

 

 

 

 

 

自分は紙のコミックで集めてるけど、電子書籍ならカラー版もいいよね。

 

 

 ヤンジャンアプリとか、電子書籍サイトの試し読みとかも。

www.cmoa.jp

ynjn.jp

 

 前作、ですでに影というものについての独特の世界観がある。

 

 

 

ああ、藤崎竜の短編集にそんな話があったのを思い出した。

主人公の少年の影が薄くなって、影に乗っ取られてしまう話。

影と本体が入れ替わる絵がとても印象的で、シャドーハウスに通じるものがあるな。

コミックまだ持ってたw

後で貼れる画像を探してみよう。

 

三つの灯  ~ある日の夢を解釈する~

 こんな夢を見た。

 

このあたりで一番大きいショッピングモールに買い物に行こうと思って、

メタリックブルーの愛車で高架の道路に乗り入れる。

 

通り慣れた高架道路のはずが、どんどん複雑に巨大になり、

首都高速でもあり得ないような巨大建造物になっていく。

 

重苦しい灰色の道路が上にも下にも入り組んで、

車が連なって流れていくのが小さく見える。

 

いくら車を走らせても、いっこうに目的地に近づいていないのがわかった。

 

f:id:philia0:20200924055157j:plain

 

「これは今日はダメだな、帰ろう。」と思う。

バカげた巨大建築の中には薄暗い立体駐車場があって、そこに車を停める。

明日、車をとりに来ないといけない。

 

階段を下りて、高架の下にある道を歩きはじめる。

そこは舗装された道だったのだが、進むほどにだんだん荒れてくる。

砂利道になり、雑草が膝の高さまで茂ってきた。

 

マダニがいたら嫌だな、と思う。

昔仲良くしていた猫が、ああいう茂みで嫌らしい血豆のような虫をくっつけてきていたものだ。藪漕ぎは避けたい。

 

同じ道を歩いていた誰かが、この先の道というか地理を教えてくれた。

 

高架を挟んで、南は宅地。整備されていて歩きやすい。

北は山と農地が広がっている。

 

家は北にあるのだが、途中まで宅地を歩く方がいいという。

 

それで助言通り、東西に走る高架から左へ曲がり、宅地へ入った。

 

碁盤目状に区画分けされて、確かに歩きやすい。

どの家も小ぎれいで新しそうに見えた。新興住宅地だろうか。

 

整然として生活感のない道を行きながら、少しづつ日が傾いてくる。

用水路に突き当たったところで、渡れるところを探すのが面倒になった。

 

「いいや、私道や農道を突っきって早く帰ろう」

また高架の下を潜り、農地へ出る。

 

まだ青い稲のなかに埋もれるようにもぞもぞ進む。

 

一度振り返ると、存外に高架は遠ざかっていた。

 

車は降りたし、舗装路でもないのに、ずいぶん早く進めるなあ、と

気がついたらその力はもう、自分のものだった。

 

田と田の間の細い畔や、石垣の上、水路の縁、

それどころか稲の上までびゅんびゅんと飛ぶように走ることができる。

 

夕暮れの金色のなか、稲は不思議と染まらずに翡翠のように柔らかく明るく、

かなりの速さがでているのに、葉の一本一本までよく見えた。なんてきれいな道。

 

疲れも息切れもなく、想っただけ力が出てどこまでも進んでいける。

その歓びは何にも代えがたく爽快だった。

風になっている心地とはああいうものだろうか。

 

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まっすぐに家に向かっていると、宵闇の中にぽつんと四角い人工の灯りがある。

田舎に時々ある自販機小屋だ。

飲料のほか、軽食や煙草、エロ本などの自販機をトタンの安っぽい屋根で覆っている。

 

いい気分なのに、進路に目障りなものがあるなと、その屋根をわざと踏みつけて飛び越してやるが、

身体がずいぶん軽かったようで、ペコンと軽薄な感触が足に伝わっただけだった。

 

ほどなく山裾の我が家に着く。空には残照があるが、山はもう黒々とそびえている。

家に入ると、暗い廊下の奥で何かがちらちらと光っている。

 

手に取ってみると置時計だった。

フレームに小鳥や花があしらわれてかわいらしい。祖母の趣味だろうか?

ライトをつけっぱなしにしてしょうがないな、と裏のスイッチを手探りして消す。

違うスイッチにも触ってしまったのか、

ピヨ、と小鳥の鳴き声がした。

 

時計を置き、

 

体がいつもの家の間取りを覚えているままに、自室のドアを開ける。

 

すると、夢の底が抜けて、目が覚めたのだ。

 

 

 

 

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・・・・、いや、当方はアニメ漫画等の解釈ブログなのだが、

元スレッドではもっといい加減に思いつくままに話を広げている。

金ローだしジブリを解説したい。千と千尋、ポニョ、ラピュタ

夢が得意な人がいて、そんな話題にもなる。

それと最近、こういう興味深いブログを紹介された。

ameblo.jp

あと平積みにされていた夏目漱石夢十夜の文庫を、装丁に釣られて買ったのだった。

 

で、まあ、それらに分かりやすく影響を受けて書いてみたというわけw

 

 

さて、

夢の話というのはとりとめのないものだが、

象徴、解釈、心理学、その辺の心得があれば、まるで違うものが見えてくるだろう。

 

夢も物語と同じ要領で解釈できる、と自分は思っている。

 

夢、というのは無意識からのメッセージ。

個の顕在意識から集合的無意識へ繋がっていくものでもある。

 

この夢には、どんな意味を見出せばいいのだろうか?

 

まず、風景というか地理のイメージがはっきりしている。

ちょっと図を描いてみたが俯瞰だとこんな感じだ。

 

 

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これは割とそのまま自分が育った地方のイメージではある。

北に山があって、ずっと農地が続く田舎で、

東西にバイパスが通って、その先にイオンモールがある。

 

が、象徴的に解釈しても、これは符号するものの多い地形だ。

風水とか陰陽道でいうと、北に山岳、南に湖沼、東に大きな道、西に河川があるのが四神相応の地。

風水という、世界が運行する法則の縮図の地であり、世界そのものの類似形、相似形の都市を築けば、永くその恩恵を受けられるとして、

京都はこの通りの地を選んで遷都されたという。一種の類感呪術だな。

田と宅地で碁盤目状になっていたのも京都っぽいw

 

陰陽でいうと、北は陰、南は陽だ。

山や農地、自然の土地と、

宅地、人為の土地が、高架の道路を挟んで対比になっている。

 

 

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無意識と顕在意識も陰陽の対比でみることができる。

 

陰方向へ、北へ、自然へ、山へ、家へ向かうというのは、無意識や集合的無意識、密なるものの底へ深く潜っていこうとしているってことだ。

北の果ての全ての記憶が眠る川、アートハランに向かうエルサみたいなことかな。

 

この夢では、その途中に三度ほど顕なるもの、陽なるものがハードルとして現れる。

 

最初は郊外型ショッピングモール。

東、太陽の出る方角に、あらゆるものの手に入る文明の集積地。

夢が得意な人に言わせると「既製品を売るところ」という解釈だった。

 

確かに。

かつて自分の人生は、既製品を求めて敷かれたレールの上を走っていた。

要領だけで勉強して、そこそこの進学校に通い、ちょっと良さげな大学を出て、

後は就職して結婚して子ども設けて家建てて、みたいなステレオタイプの通りだろうかと思っていた。

が、それはあえなく躓いた。病んで仕事を辞めたし、いい加減いい歳だが結婚もしてない。

既製品の人生は、もはや手の届かぬものとなった。

ショッピングモールに辿りつけなさそうっていうのは、そういうことだw

 

農地を進むとき、次は自販機小屋が現れる。

これも既製品を売るところだ。モールからはずいぶんスケールダウンしているが、

道の先にある、人工の灯の集合という点でも相似になっている。

これを踏んでやろう、というのは手に入らなかったものを貶めようという、「酸っぱいブドウ」みたいな認知の歪みだ。

まあ・・・、結婚は情弱!人生の墓場!とか言いたくなるのが持たざる者の哀れさですわwww

 

ここをクリアするところからは実際の夢でなく創作なのだが、

三度目は、廊下の奥に光る置き時計だ。

モールより自販機より更に小さい、人工の灯。

人工物だが、小鳥や花という意匠は自然に近づいてはいる。

祖母の家には、時々マイセンの置物があった、

幼いころ、騒がしくて散らかった自宅より、古くて広くて行き届いた祖母の家が好きだったっけ。

 

それで、その灯りを消す、というのは、

どうも、世界と世界の境界の最後のトンネルに赴くとき、

灯りを持つのは宜しくないようなので、そのようにした。

 

例というか、

マッチ売りの少女は祖母の幻を見て召される。

イザナギは櫛に火を灯して怪物になった妻を見る。

落語の死神、あるいはグリムの死神の名付け親、

赤い蝋燭と人魚、小泉八雲の貉・・・。

こないだ再放送で見た、世にも奇妙な物語「ソロキャンプ」

 

なんか、暗闇で小さな火を灯すと、

人はあまり良くない幻覚を見る、みたいな話が多くない?

大概バッドエンドというか。

丁火(マッチ・蝋燭・焚火のような火)は古今東西死亡フラグというか。

 

そう思って宮崎駿作品で見ても、

ハウルの動く城で、

ソフィが蝋燭を持って、ハウルの部屋の暗いトンネルを進むと、怪物になったハウルを見て、アプローチにも失敗する。

二度目のチャレンジで、壊れた城のドアの向こうの暗闇へ赴くときは照明の灯りをもっていない。(指輪の光はあくまで羅針とする)

ポニョにも蝋燭が出てくるけど、オモチャの船の動力として使う。

替えの蝋燭も貰うけど、それに火をつけずにポニョは眠る。

船で、海上と水没した森を抜けた後、人→両性類→お魚と反復説を逆回しにする胎内回帰のトンネル、暗闇のポータルは何も持たないで通るのだ。

 

宮崎駿も、なんか蝋燭という象徴の扱いに、古典に共通のルールを適用してる気がしてくる。

 

しかし、なぜ小さな火を灯すことが死亡フラグになるのだろうか。

 

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ラ・トゥールの絵を見ると、蝋燭の火があることで、かえって闇の深さがひきたつようだ。

 

実際、辺りが真っ暗なとき、人体は瞳孔を開いてわずかな光を集めようとする。闇に目が慣れる、ということがある。

しかしそこで小さな灯りをつけると、瞳孔が絞れなくなる。

辺りを照らすには満たない、かえって闇を深くする火、

目眩まし、目暗増しの火、ということがある。

その闇の中に見る怪物は、多分どんなものより恐ろしい、己の内にある恐怖の投影ってことになるんだろう。

マッチ売りの少女のように願望の投影を見ることもあろうが、結末の不幸さからして、やはり幻覚に心を奪われるべきではないのだろう。

 

火は陽。人為は陽。

陰の方向へ、闇の方向へ、水底より深く落ちて、世界の殻を突破しようとするなら、

反属性のもので身を守ろうとせず、ただただ闇と一体化してその恩恵を受けとるほうがいいのかもしれない。

 

この夢に出てくるのは、水や海でなくて山だが。

女性性、太母ということならどちらも象徴的に近似だ。

海も母、山の神も女、大地は母神。

 

山裾の家に入り廊下を進むということは、大地母神への胎内回帰でもあるので、祖母という連想を入れておいた。母を産んだ母、辿れば人類の原初の母へと繋がっていく。

 

そして陰陽、北南、灯と山、文明と自然、男性性と女性性、

と対比がくれば白と黒、昼と夜もそうだ。

 

北へ向かうほどに日が暮れ、文明や顕なる意識は鳴りを潜めていく、

山は真っ黒にそびえて現れる。

 

 

ちなみにイザナギは火をつけたことで嫁奪還ミッションに失敗するが、

竪琴を持ったオルフェウスは嫁に会うところまではうまくいく。

その次の段取りで、振り返ってはいけないというルールを守れないのだが。

 

しかし、竪琴、音のでるもの。

ソナーは灯よりもマジックアイテムとしてアリなのかもしれない。

と、思ったので置時計は鳴き声がする仕様とした。

 

人は、生まれる前から耳は聞こえていて、

死ぬ時も耳は最後まで聞こえている、という話がある。

 

現世は太陽の世界で、人の情報入力の七割は視覚によるというが、

 

生の前、死の後の世界、異界は水の世界で、音の世界だ。

 

聴覚を使うなら、耳を澄ますなら、闇の中でも惑うことはない。

 

生まれてくる時、死んでいく時のように、何も持たずに、

胎道のような、三途の川のような境界の象徴を通る。ドアでもいい。

手探りでドアを開ける。

 

すると、夢の底が抜ける。世界の端っこまで行って境界を越える。

 

無限そのものへ至り、そこから今までいた有限の世界を眺める。

 

夢幻泡影、この世界は夢、幻、幻燈機。

観測する無数の意識が細い光となって差し込み、映し出されるホログラムのようだ。

 

すべては虚しき仮の宿であり、ゆえにすべては愛しい我が宿だった、と解る。

 

すると目覚めた人、覚者(ブッダ)と呼ばれることが、あるのだろう。

 

「夢の底を抜いて、目を覚ませ。」

 

と、いつでも、誰にでも、心の静寂に耳をすませば、そう語りかけるものがある。

 

 

 

 

 

 

本文よりの解釈の方が長ったらしいマッチポンプになったけどw

まあ、いつもどこかでそんなことを考えながら物語を鑑賞し、

その知見を盛り込みつつ自分で物語を創作してみるのも面白かった。

 

 


ところで、ロウソクや灯火でものごとが好転する物語に心当たりがあれば、どうぞどなたでも教えて頂けますようお願い申し上げます。

このテーマはまだ追求していきたいなと。

 クリスマスキャロルがちょっとそういう話な気もしてる。




 

 名前考え中さん、慈雨さん、漱石先生ありがとうございました。

 

 

こんな夢を見た、という出だしはこれのパクリ オマージュだ。

 

夏目漱石夢十夜スゲー色んな装丁があってたのちいwww

近藤ようこの絵、漫画、けっこう好きで一時期ハマってたけど、どれがどの話だったかな・・・。妖しさと上品と素朴のちょうどいいバランス。

 

 

 

 

待って、朗読CDつきのやつ、宮野真守てww

こないだ見た焼きそばタイムリープ思い出してわろてまうやろww


長回しSFドラマ『U.F.O.たべタイムリープ』 |日清焼そばU.F.O.

 

映像作品のユメ十夜も見たことある。それぞれに趣向があって、小劇場的で面白かった。

第七夜は天野喜孝の絵のCGアニメ。

 

 

もののけ姫を解釈する3 神殺し、花咲か爺さん。

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

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前回の記事で、

ナウシカが聖母の物語、

アシタカの追放が母子の分離に相当すると書いた。

 

母親と自分が一体で不可分の乳幼児期、

母親を他者だと認識する自意識の芽生える幼少期、

 

では次にくる意識の成長の段階は?

反抗期ってやつだ。

 

親と対峙し、親に対して自己を主張し、

そして主張を通して、親よりも自分のほうを優位にしようとする。

 

が、そこで親は子どもの反逆を野放しにすべきではない。

親の威厳を保ちつつ、どの程度子どもの自由意志を尊重するのか、というような、

親子間での綱引き、パワーゲームが、どこのご家庭でも発生するだろう。

 

片方に親、片方に子がのった天秤が、

子どもの方に傾いてしまってはいけない。

王様のような子に、親が仕えてしまうのでは家庭崩壊となる。

 

天秤を自分の方に傾けられない子どもは、どうするべきか。

 

心理学では、人間は精神的な自立への過程で、

通過儀礼として精神的な親殺しを必要とするという。

 

精神的親殺し、つまりそれが 神殺し の意味するところだ。

 

親と子、

自然と人間、

 

大きなものから生まれた小さなもの。

小さなものが育って大きくなっていくときに、

自分を生んだ大きなものと、どういう関係性の変化を経ていくべきか。

 

自然から生まれた人間が、火を得、鉄を得、文明によって勢力を拡大するとき、

母なる自然と、どういう関係性の変化を経ていくべきか、

 

そこに親子の心理学が当てはまるってことは、

 

人間の意識のなかに、親=自然=神、っていう象徴的な相似があるんだよな。

それは、自分という存在を生みだした上位者、というようなイメージの符号だ。

 

 

 

さて、もののけ姫においては、エボシが神殺しの役割を担うキャラクターだ。

 

エボシを考察するとき、苛烈さと慈悲深さのどちらに注目すべきか、みたいな難しさがあるようで、

ある視点を導入すれば、その行動原理は一貫していると解る。

 

ピクシブ百科には、エボシも女衒に売られた娘であり、倭寇頭目だった夫を殺して、明国の石火矢を持ち帰った、とある。

 

神を殺す前に、すでにエボシは集団のリーダーであった夫を殺している。

小さきもの、弱きものが、自分に君臨する上位者、支配者を、

打ち倒し、成り代わっているのだ。

 

内面的な自立ではなく、

天秤を自分の方へ傾けて、力関係を逆転させて、パワーゲームの勝者になっている。

 

エボシがタタラ場を統治するやり方を見ても、この成功体験を原型として繰り返しているように思える。

 

新興勢力のタタラ場と、権力者の朝廷や地侍という関係も小と大の対比だけど、

病の者と、タタラ場の民。

石火矢衆と、タタラ場の民。

女衆と、男衆。

 

自分の統治する集団のなかに二つに分けられる勢力があると、

エボシは必ず、弱者の方に肩入れするというか、

少数派の、軽んじられ虐げられ蔑まれ、撓められた不満の力、悔しさの力、反発力を利用して事を成そうとする。

 

その力を利用するためには、かえって分断を煽るようなことさえ言う。

「侍だけじゃないよ、石火矢衆が敵になるかもしれない。」

「男たちは頼りにならない」ってね。

 

病の者を秘密の庭に匿っているのは慈悲深いけれど、

きっと「皆は恐れて近寄らぬ」という、病への恐怖や差別を是正しようとはしてないと思うぞ。

エボシが、病の者にも手を差し伸べよ、皆で力を合わせよう、と言えば、

それを受け入れる人も多くいたはずだが、そういうことはしていないし、

 

タタラ場の暮らしの様子を見ても、

男衆は男衆でかたまって飯を食い、石火矢衆は石火矢衆でかたまって飯を食っている。

仕事場も別、食卓も別で、

皆で、同じ釜の飯を食うっていう団欒の場を設けていないのだ。

まあ、そこは時代考証的にそうだったのかもしんないけど。

 

しかし普通、善い為政者といえば、

自分の治める集団の中に不和があれば、両者の落としどころを折衝するものではなかろうか?

内部分裂をあえて誘発するエボシのやり方は、乱世の雄、革命家、反逆者。

あるいは植民地支配の方法論、自然を征服するという西洋的な思想に通じている。

 

エボシの最後のセリフは「ここを良い村にしよう」だけど、

それって裏を返せば、今までは、良い村をつくろうなんて、これっぽっっっちも思ってなかったってことじゃないかなー・・・。

猪との戦に連れて行った男衆は、敵もろともに吹っ飛ばす囮にした。

弱い者だけを守り、それ以外は使い捨て上等なのだ。

 

ちなみに、エボシが乱世の将なら、平時のリーダーに相応しいのがおトキさんだ。

普段から女衆をまとめ、甲六を尻に敷きつつも夫婦をやり、籠城の際は病の者とも親しくなっている。

エボシの分断統治を越えて、融和の指針を示していけるキャラに見える。

さすがCV島本須美ナウシカと同じ)だけあるヒロイン、赤い着物は伊達ではない。

 

さらにちなみに、次作の湯バーバではカエル男衆もナメクジ女衆も合わせてまとめることができている。

「女も力を出すんだ、油屋一同、心を合わせて引けやぁ、ソーレ!」という音頭を執る。

リーダーシップが進歩しているのを見ることができるのだ。

 

 

 

 

閑話休題。時を戻そう。

 

人為と、自然。

タタラ場と、太古より神聖不可侵の大森林。

 

これも小と大の対比、か弱い者と、大きくて強い者だ。

だからエボシは、夫殺しの成功体験に従って、森殺し、神殺しをする。

夫を殺して石火矢という強大な力を得たように、

森を切り取って鉄の武器を製造する集落を得たように、

神の首を落とせば、より強い力が手に入ると思っている。

君臨する大きなものを打ち倒し、成り代わろうと行動する。

 

が、冒頭で述べたように、

子どもの反抗期の言いなりになっては、家庭が崩壊するし、

人為が自然を凌駕してうまくいくことなど何もないのだと、現代人はさすがにうすうす肌で感じていることと思う。

 

一昔前のSFが啓蒙した、科学の栄光の世界観では、いつか人類は地球のメカニズム、生命のメカニズムを解き明かし、

ピカピカの白銀の宇宙船に、コンパクトに再現した生態系や人造生命を積み込んで、宇宙開拓時代へ船出するのだと、無邪気に信じていたけども。

 

コールドスリープテラフォーミング、バイオスフィア、クローン、いつの間にか色褪せた言葉になったものだよ。(遠い目)

 

今のまま進んでも、人が母なる自然の神秘のわざを会得することはできなくて、

人が、理性が、科学が、文明が、顕なるものが。

自然を切り取って征服していく方法論の限界は既に見えていて、

 

宮崎駿の世界観では、コナンでもナウシカでもラピュタでも、

いつも愚かな人類の超文明は滅びていて、自然へ回帰することが肯定的に描かれる。

 

もののけ姫でもそうだ。

エボシが神域で石火矢をぶっぱなしたところで、

親には親の、神には神の、器の大きさ、懐の深さがあると、子に覚らせるターンになる。

 

そこで、シシ神だ。

前の記事で、シシ神という名は四足獣の姿のことを指した敬称だと書いたが、

 

昼の姿をみると、獣の体に、赤いお面をつけているようにも見える。

横顔を見ると、その鼻面は獣にしては短い。猿か人のようだ。

目は白目部分が大きくて、それは人間に特有の特徴だ。

ま、アニメや漫画では動物でもそういう目の表現になることが多い。

感情表現が描きやすく読み取りやすいから。

進化の過程で人類が視覚によるコミュニケーションに特化して獲得した形質だもの。

モロの目も人間の目だ。言語を操る狼(オオカミ=大神)、獣以上の存在であるという表現だろう。

ヤックルの目は獣の目と、ちゃんと描きわけられている。

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そして夜の姿をみると、直立二足歩行の人間の体に、鼻面の長い獣の顔、というシルエットをしている。

 

昼は人面獣身、夜は獣面人身、

つまり獣達の神でもあり、人類の神でもあるんだと思われる。

夜と昼、獣と人、自然と人為、生と死、二項対立のどちらもを併せ持つ神。

 

まあ、産みだすことと死んだものをひきとることは、どちらも大地母神のお仕事だし、

夜の方が本体と真名であるように見えるので、どちらかというと女神的であるとする。

 

デイダラボッチというのは、日本神話に編纂されなかった、民話伝承の創世神だ。

原初の巨人神話というのは世界中に類型がある。

ユミル(北欧神話)、タイタン(ギリシャ神話)、盤古(中国神話)、

プルシャ、ヒラニヤガルバ(インド神話)、マンザシリ(モンゴル神話)、タネマフタ(マオリ神話) などなど。

原初の巨人の体が大地に山に、目が月や太陽に、足跡が湖に、髪が植物や動物になって、世界が今のような姿になった、と古代の人達は皆そのように口伝した。

 

その体を世界そのものに変えた原初の巨人は、したがってその後、人間の目に映ることはないのだが。

 

太陽の、理性の、人の顕在意識の、顕なる世界の眠るとき、

 

夜の闇の、夢の、無意識の、密なる世界のとき、

そこには去ったはずの神々が息づいているらしい。

 

デイダラボッチが倒れ、山々に新芽が芽吹いた時、

甲六が「シシ神は花咲か爺さんだったのか・・・」と口にするが、

 

花咲か爺さんというのは、

白い犬が人に恵みをもたらしてくれる物語だ。

モロ一族が白い山犬なのもこれがイメージの元だろう。

 

この場合の意味するところを解釈すると、

 

白い犬は、何度も人に殺されるが、その度に姿を変えて恵みをもたらしてくれる「何か」の象徴となる。

 

「ここ掘れワンワン」で、穴を掘ると宝が出る。

鍬、鉄器を大地に突き立てて耕すと、恵みを得られる。

 

犬を殺し、埋めると大木になる。

弓や罠で獣を獲り刃物で解体すると、肉や毛皮を得られる。

 

大木を臼にするとモチが湧く。

斧やノミ、鉄器で木を削れば、道具を得られる。

 

臼を燃やした灰が花を咲かせる。

火によって、鉄器によって、

人間は自然からなにかを切り取り、自分達に利するものに加工する。

 

地母神の体を、鉄や火で殺すたび、生活が豊かになる。そういうことだ。

 

「シシ神は死にはしないよ、生と死の両方もっているものだから」とアシタカは言うけど、

 

花咲か爺さん、ということは、

原初の巨人デイダラボッチは、何度でも死ぬほどに、形を変えて恵みになってくれるもの、ということではないかな。

 

神聖不可侵の大森林は、神殺しを、人の開拓を受けて、暮らすための恵みを得ていける里山に変わっていった。

 

 

しかし、灰が花になった、その後はどうなるんだろうね?

 

殺す度に変身し、恵みをもたらしてくれた母なる自然も無尽蔵ではない。

 

大森林を里山にし、里山を田畑にし、田畑を宅地にし、

宅地をビル街へ、華やかな摩天楼へと変えてしまったら・・・、もう、その先がない。

 

地球は無辺でなく球体なのだ、作ったもの壊したもの捨てたもの、巡り巡っていつか自分達に帰ってくることが分かった。

 

それが、神殺しの限界、自然を征服するという思想と方法論の限界だと思う。

 

次作の千と千尋の神隠しには、川の主が竜として登場するが、

あれも神殺しだ。竜の体である川に刃物を入れ、様々な土木の技で治水してきた。川底を掘り、土を積み、流れを変え、暗渠を作り、ダムを作った。

そうして思いのままに竜を殺しながら、水の恵みを得てきたけど。

 

だが利水も行き過ぎて環境破壊になった例も、近代では枚挙に暇がない。

諫早湾干拓問題とか、消えたアラル海とか。

最近だと、三峡ダムが崩壊すればどれほどの被害になるかってことが話題になったっけ。

1980年代にはダム建設反対運動とかのムーブメントがあって、

むやみにコンクリで固めればいいってもんじゃくて、

自然は密接に関わり合う複雑系なんだから、その在り方に沿った開発でなくては長持ちしないことが分かってきた。

もののけ姫は1997年、ちょうど転換期に、宮崎駿年代から発せられたメッセージだったんだよな。

 

もののけ姫、神殺しの物語は、反抗期の段階の物語であり、

親、自然、上位者、支配者、君臨する者を、本当の意味で越えていくには、

自由と自在の境地へ至るためには、

 

自身の内面にある、それらの像(イメージ)と向き合い、それを幻と看破しなくてはならない。

 

エボシとシシ神は、まだ、

親を殺そうとする子と、それでも子を包み込み、糧を与えていく親の姿。

その相似形だ。

 

精神的な成長のテーマは次作へと持ち越され、

坊と湯バーバ、毒親のスポイルから家出、

ハクと湯バーバ、ブラック企業に辞表提出決意、

マルクルと疑似家族、で健全な家庭での育てなおし、

ハウルとサリマンで、ようやっと精神的な自立の物語になっている。

 

順当に、実に丁寧に、関係性の段階を描き積み上げていくのだ。

 

 

 

 

 

・・・、しかし、象徴的類似を突き詰めるなら、実のところ。

 

エボシは夫殺しではなく、父親殺しの原体験をもっているべきだった。

 

が、宮崎駿にはそれは決して描き得ないものなのだ。今のところ。

 

風立ちぬまで行っても、父権の像に撃ち落とされているからな・・・。

 

父権、父権に対峙する息子、長たるもののあるべき姿、みたいなものが描けないっていうのは、

もののけ姫でも見てとれる。

 

次の記事は、乙事主の話題から入ろう。

 

 

前回の記事

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 新海誠は神殺しの先の段階を描けている。

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近代的な発展を支えた思想、自然を征服する一神教的な思想、父なる神の庇護と支配の表裏に興味を持ったなら、

自分的には小室直樹の本がお勧めだ。

目から鱗がボロボロ落ちてキモチイイ~ってなる。今までの世界観が根本からぐらぐらする知的快楽。

 

 

 

ハウルの記事。もう少し推敲したいところだ。

ハウルのテーマこそ、自分の書きたいものと合致しているので、

もののけ姫の記事は実はちょっと書いてて重く苦しい。

 

母なるもの自然と、父なるもの理想、その相克ではなくて、

両者の統合によるシフトアップについて、止揚して、0と無限と共振して、次元が上昇する素晴らしさについてこそ、ずっと想いを馳せていたいものだ。

 

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 ピクシブ百科の記事。

dic.pixiv.net

 

エボシが金屋子神、製鉄の神が元ネタていう考察があるけど、金屋子神は犬と仲悪いのでwそうかもなって気もするwww