ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

モノノ怪・座敷童・のっぺらぼう・鵺 の考察まとめ

週末のYouTubeで劇場版唐傘の応援にモノノ怪一挙公開やってて、

また当ブログにもたくさんの人が考察を読みに来てくださった模様。

あざ~す。

 

 

 

 

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一番読まれてるのは~ayakasi~の化猫の記事だ。
まあなんならグーグル検索で「ayakasi 化猫 考察」とかで調べるとトップにウチの記事が出るからね。素直にドヤりたい ٩( ''ω'' )و ドヤドヤァ

 

いや考察記事なんて人の褌で相撲をとってんだから謙虚とリスペクトを失くしたら終わりですね、あいすみません。

 

さて、

ところで、座敷童・のっぺらぼう・鵺 については記事にしてなかったので、

1500pv記念に書いておこうかなと。

今回の公開でまた観た記憶が消えないうちに( ..)φメモメモ

 

 

 

 

・座敷童

 

正直に言うと、自分はこの話が一番キッツい・・・。

DVDもこれだけは買ってないほど。

ぐるぐるぐるぐるは好きなんだけど、

堕胎や嬰児殺しは自分のなかでタブー度合いが高いんだろうな~。

宿の女将が赤い帯を手繰ってって引き裂くところがマジで見てられない・・・。

堪忍してつかーさい・・・。

 

 

それはそれとして。

何度か見ると、黄色の座敷童が志乃のお腹の子なんだと気がつくよね。

 

まず黄色ってのが志乃の金髪と同じ色だし、安産お守りの人形(さるぼぼ)も黄色だ。

黄色の子だけは「あっち行こう」と廊下の気配やヤバイ部屋から志乃を遠ざけようという様子を見せたり

「自分の部屋へお帰り」と言われると消えたりする(部屋=腹の中へ帰った)

黄色の座敷童が最初に登場した場面からして、その赤い褌は志乃の腹の下に繋がっている。

何度も出てくる赤い帯は臍帯や産道のメタファだ。

青緑の座敷童が女郎に受胎したらしき場面ではよく見ると血管らしきものが描きこまれている。

ぐるぐるぐるぐるも胎児に臍の緒が絡まっちゃうことがあるアレのイメージ。

 

志乃が座敷童たちを憐れんで「みんな私のやや子だから、産んであげる」とかムチャを言うから、黄色いだるま(腹の中の実子)にはヒビが入る、出血する。

腹にモノノ怪を受け入れたら、中の子が死ぬ。まあそらそうだろうなっていう話だ。

薬売りも「言わんこっちゃない」みたいな顔しとる。

 

しかしそこで黄色い子と志乃の会話イベントが発生して「こちらこそ選んでくれてありがとう」と改めて自分の子を選び慈しむ。

黄色以外の座敷童たちもその母子の姿を見て無念や情念が晴れたのか、

或いはその成り立ちからして出産を妨げる行為は誰にもさせないし自らも出来ないということか、

薬売りの退魔の剣を笑って受け入れる。

 

座敷童が斬られ、最後の場面の様子や安産のお守りが手元に戻っていることから、志乃の腹の子は無事だった、という解釈でいいだろう。

 

薬売りと志乃が壁の絵、描かれた女性の腹を撫でるがその裏には堕胎された子らが弔われているわけで、慰霊の優しいエンドでもある。

 

 

いやしかし。

いやしかしそもそも女将は妊娠した女性をなんでわざわざあの部屋に、

乱暴なやり方で堕胎して胎児を火葬して骨壺か棺桶代わりのだるまを壁に仕舞ってあるなんていう、

ヤッッバイいわくつきの部屋に案内したんだぜ・・・?

徳次が「俺の部屋に泊めるという手もあった」と言ってたのに(それはそれで貞操がやばい気がするが)

そして薬売りに「上がられちゃ困りますよ」と語気を強めて牽制をかましたのも、なんでなんだぜ・・・?

なーんで黄色いだるまが、「あなたの?」「うん」って、まだ腹の中にいる子のものだっていう認識なんだぜ・・・?

 

 

女将の言う事には一理はある。

志乃に男を見る目がなく意地になってて考えなしってのはその通りそういう側面もあるし、

食うに困ると判っているのに産むべきでないというのは一定の理解を得られる考えではあるだろう。

女将は経営者でもあるから、従業員が年単位で働けなくなるのも当然看過はできなかっただろう。

堕胎した子らの供養や慰めのために座敷の内装を整えたというのもまるきりの嘘ではないかもしれない。

 

 

女将が、従業員でもない初対面の妊婦にするつもりだったことは、まるで見当違いのお節介で殺人未遂もいいとこだ。

 

過去の因果応報と併せ、処されるも止む無し! 残当!!

 

 

いやー、しかしそうなると女将の理(動機)はなんなんだろうね?

黄色いだるまが余ってたとこにちょうどいい中身が来たぜ!みたいな?

慰霊にしては華美に飾った座敷の壁にだるま=骨壺を並べてんのは、

実は戦利品をコレクションでもしてる的な猟奇趣味だったのだろうか??フルカラーをコンプしたかったの??

フツー女郎の堕胎といえば鬼灯(ホオズキ)だろうが、そういうのは無しで殴って引っ張り出すみたいな乱暴な方法だったのは、ひょっとしてそういう趣味でしたか?とか。

フツーに考えて供養するっつーなら寺に預けるべきところを、なんで座敷を飾るかねっていうね。ちゃんと供養されてねえからモノノ怪になっちまったんじゃありませんかね。

いやもう、本編だけでもお腹いっぱいなのにそんな怖い考察に導く伏線はいらんのよ・・・。あーまじで座敷童はこーわーいー。一番怖い(自分比)

 

 

 

モノノ怪 参之巻 「のっぺらぼう」 [DVD]

・のっぺらぼう

 

そしてこれは自分比で一番しゅき!

己の内面の痛みと向き合い、精神的自立に至る物語だから!!

あと、CV桑島法子のお蝶さんの演技が光るよね~。

「かか様聞いて・・・」からの「バッカみたい」吐き捨てっぷりの温度差で風邪ひきそうwwwへっくしww

モノノ怪の女性陣の演技はどれも秀逸に尽きるが、お蝶さんに主演女優賞を贈呈したい。

次点で女将の残酷な演技か、いや水江奥方の錯乱っぷりも捨てがたいが。

演技というか女の情念の発露そのものなのではと思うほどのリアルみ。

 

CV緑川光の狐面の男もビジュがよき。薬売りの貴重なチャンバラシーンも眼福。

 

しかし実のところ登場人物は薬売りとお蝶さんだけ、舞台はあの狭い台所だけっていう、最もクローズドでミニマムな話でもあるよなあ。

狭い牢も、梅林も、祝言の間も、生家も、処刑場も、罪状を言い渡す声も仮面の男も祝言の仮面達も屏風絵の夫や姑達や母上様も。

場面も人物もなんもかもみーんなお蝶さんの心象風景やペルソナや記憶の再生でしかないし、

薬売りの最後の「しかし、誰もいない」に含むものがなぁ。

あの屏風の人達や、お蝶さんも、もうとっくの昔にいなくなってて。

お蝶さんの心や情念だけがモノノ怪と一緒になってあの台所に縛られていたのでは・・・みたいな。

いやどっちかな~。お蝶さんはクソみたいな義実家を捨てて自分の幸せを見つけに行きました、でもいいような気はするか。

実は皆死んでましたエンドは鵺でやったし、お蝶さんは生存ルートで暫定としておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~~~

あかん眠い。

記事作成中だけど、PV伸び続けてるからいったんアップしてもいいだろうか。

ごめんねまた来てね_(:3 」∠)_

 

 

 

劇場版モノノ怪・唐傘 観てきた!

劇場版モノノ怪唐傘!観てきた!

 

全ネタバレ注意で感想書いてくけどいいかな!?

 

っていうかまず!

 

三部作なのかよ!!

 

この世界観をこのクオリティであと2回観れるってマジか!神か!いやモノノ怪か!

 

マジかぁー٩( ''ω'' )و

 

しかし、10年越しでいきなり劇場三部作とは強気だなぁ〜

 

ファンとしては嬉しみしかない。

DVD予約はまだか。

 

で、まず一本目ということになった今回の唐傘だが。

 

それなりの鬱展開を覚悟して行ったけど、見心地はかなりライトだったな。

百合は尊かった…。

女の友情が嫉妬で壊れていくのを見せられるのではヒヤヒヤしたけど、

結果としてアサちゃんもカメちゃんも良い子だった。

カメちゃんは異例のスピード出世をしていくアサちゃんに対して

「アサちゃんみたいにはできない」とは思うものの、そこから嫉妬を拗らせたりはしない。

最初の目標がキレイな服を着て天子様にお近づきになって・・・と御中臈になることだからな。

手に職つけて、職位で出世していきたいアサとは欲しいものが違う。

 

玉の輿のお嫁さんになりたい系の女子と、バリバリキャリアウーマン志向の女子では競合が発生しない的なことでもあるか。

 

カメとアサが大奥に奉公に上がるところから物語が始まるわけだが、

少女が目にする初めての大奥、というシチュエーションは視聴者としてもたいへん見やすく入りやすい導入だった。

ここからあと2回、大奥あるいは城中の話になっていく導入としても考えられているんだろう。

今回ほとんど出番のなかった登場人物たちの紹介の回でもあったと。

 

大奥に奉公する最初の儀式として、それまで大事にしてきたものを井戸に捨てさせる、

意味としては過去の自分や個人であることを捨て大奥の歯車となる、てことらしいが、

 

捨てられたもの、奉公にあがる時まで持ってきた大事なものというのが、

それぞれ、万華鏡、毬、人形、など、少女の玩具的なものであったのは興味深い。

少女の感性と決別し、成人となって職業婦人か天子の妻かの役に入るための儀式であると思わせるよな。

カメが捨てた 櫛 というのは大人の女性でも使うアイテムでありアサに受け継がれることになったわけだが。

 

結局、アサは井戸に何も捨ててないし、そもそも大事なものが何かっていう質問にも「秘密」で通したな~。

手荷物も少なくそれまでの人生には捨てたいものしかないと言ってたから、多分カメとの友情とか、形の無いものが大事なものだった的なことだろうか?

大事なものが無ければ無いと言えばいいのに、秘密っていうからには何かはありそうだし。

 

カメの髪を裁ちバサミで切るという凶行に及んだ淡島が「大事なものを井戸に捨てさせたことを恨んでるんだろう」と言ってたけど、

自己紹介乙の法則で万華鏡を捨てさせられたのをずっと恨んでたのは淡島自身だったんだろうし、

カメの荷物を窓から放り捨てた時に麦島が泣いたのも同じことなのか。

麦島も自分の毬を放り捨てられて傷ついていたことを思い出してしまったと。

 

で、人形を井戸に捨て、自身も井戸に身投げした北川が今回のモノノ怪となったわけだが・・・。

 

わけだが。

 

ここまでのシリーズでモノノ怪の理(ことわり)は大概悲惨だったことからすると、

井戸に大事なものを捨てさせられた恨みっていうのは、そこまで深刻でもないっていうか?

 

いや、形見であるとか思い入れはもちろんそれぞれあるだろうが。

 

モノノ怪が自然発生するほどの要因ではないというべきか、

 

モノノ怪を人為的に発生させているらしき描写があるというべきか。

 

これまでのシリーズでは、復讐であるとか防衛機制であるとかモノノ怪さんサイドのお気持ちというものが、語られないまでも類推できる材料が用意されていたのだが、

 

今回の唐傘では、唐傘さんの目的がなんだったのかというのがイマイチ不鮮明だったような。

 

北川の人形が持っていた傘があり、それが井戸に捨てられモノノ怪の形(かたち)となり、というのはわかるのだが、

人形の傘はモノノ怪に成って何がしたかったんだろう?

 

北川が井戸に身投げをしたのは、まあ鬱というか適応障害というか同期が退職して張り合いがなくなって仕事が合わなくて病んじゃったみたいな感じだったけど。

 

人形を捨てさせたことを恨んでボスの歌山に復讐がしたかったんだろうか?

現世に影響を及ぼす力を得るために同じ痛みをもつ淡島と麦島を喰らって、

それでたしかに歌山はモノノ怪の空間に引き込まれ、急激に老いて生死不明の状態で終わった。

 

でも北川の気持ちがわかるというアサは「北川は誰も恨んでないと思う」と言ってたんだよな~。

 

確かに恨みというにはちと弱いという気がするし、

 

エンディングからの逆算になるが、

井戸の地下には祠があり、その祠に三本の注連縄が巻き付いていた。

三本の注連縄は三本の柱につながり、

その柱には赤い唐傘のような光背を担ぐ菩薩ぽい絵と、赤い肌の男と、緑の服の女の絵がそれぞれ描いてあった。

 

今回の唐傘が薬売りに退魔されたことで注連縄の一本が切れ、

そして次回は「火鼠」というタイトルだったので、赤い肌の男の柱が火鼠に対応するのだろうが。

 

いや、何だアレ・・・。溝呂木とかいう司祭?は何やってんの??

 

井戸の地下に三本の柱、

そして井戸には三方向の鳥居、

そしてその水を汲む桝も三角形だ。

 

大奥の女たちは、三角の桝のフチをなぞる儀式をしてからその水を飲む(臭い)

 

いやそれ何の儀式なの。

説明が何にもないまま2部まで待てとか鬼か?いやモノノ怪か・・・。

 

そのいやに三角がまつわる井戸は「お水さま」というご神体であるらしいが。

 

唐傘は「お水さま」ではないんだよな。傘も水関連のものではあるけど。

唐傘騒動が起こる北川の死、あるいは北川の奉公の始まる時にすでに井戸に大事なものを捨てるという「お水さま」信仰はされてるわけだから。

 

井戸の地下に座敷童に似た人形があったり、こけしの描写の多さ、天子にまだ世継ぎがいないとかの話からも水子供養的なもののようにも思えるが、

 

真ん中の祠が水子関係の「お水さま」だとして、それを唐傘や火鼠やあとひとつのモノノ怪で囲み縛る意味はなんなのだろうか。

 

くそヤバいものを封印しているのだろうか? それとも

くそヤバイものに生贄を捧げて強化しようとしているのだろうか?

 

どっちだ・・・。

 

注連縄でぐるぐるぐるぐる巻きという絵面的にはどっちかってーと封印だろうか。

 

そうね、唐傘、傘は水をはじき防ぐ、濡れないようにするためのもので、

火鼠は火属性、水の反対だ。

そうすっと、緑の女性はなんだろね。

薬売りの退魔の剣には陰陽の思想があるけど、

五行でいうと、土剋水、あるいは水生木という。

水を堰き止めるには土が一番だけど、

次点で木性が水性を漏らす、気を吸い上げて別属性に変化させるという考え方がある。

緑の女性は木に属するモノノ怪だろうか? 

植物っぽい妖怪ってなんだろ?? 木霊? 山童、キジムナー、ドライアド あんまピンとこないか。

 

なんにせよ、水属性に対抗できるモノノ怪で祠(お水さま)を囲むために、

モノノ怪が生まれやすい抑圧的な環境を作ろうとして、少女達に思い入れのあるものを捨てることを強要してましたね?

っていうことではありそうな。

 

ヒトがモノノ怪を生み出して利用するところまで来たか~・・・。

またどうせろくでもないことのためな気はするが。

 

大奥は天子の世継ぎをつくるための場所なんだから、

お水さまを三方からがっちり封印できれば世継ぎを授かるとか?

逆にいうとお水さまは世継ぎを水子にしてしまう祟りなんだろうか。

 

しかし、天子と御中臈のフキもあの水を飲んでるからな・・・。

生贄にすることも役目のうちみたいな大奥の女達だけならまだしも、

天子までヤバそうな臭い水をなぜ飲むのか。いや、こぼしているから実は飲んでいないってことか?

フキは「乾いておりませぬ」と言うのも気になる。フキもお水さまの井戸に何も捨ててないし水も飲んでないのかも?

 

ていうかまず臭い理由も気になるな。

カメのおにぎりを井戸に放るとか、ナマモノを捨ててりゃそら腐るわ衛生観念どうなってんねんと思ったが、

それどころか二か月前にはその井戸に投身自殺した人さえいたわけだからな。

そんな水飲めるか!遺体は回収したんだろうな!?回収されてても飲みたくねえ!!とも思ったが、

 

水死体でなく、あの祠にあるなにかが生臭い異臭の原因という気もする。

水だけでなく、大奥全体に臭そうな茶色いエフェクトが漂ってたし。

水神といえば正体は白蛇かなにかだろうか。祠の周りの壁の絵は鱗や樹皮のようにも見えたけど。

てか、井戸に張った札は反応していないのでお水さまはまだ形を得ていないのかも。

 

とりあえず一回観て気になったのはそんなとこか。

もし2回目行ってなにか気がついたらまたメモしておこう。

 

 

ところで次回、歌山は不在から始まるんだろうか?

そうすると歌山失脚を狙ってた三郎丸はなにをするんだw

アサとのフラグは立つのだろうか。

 

次回のモノノ怪は火鼠だというが、

そういえば水を配っていた双子、溝呂木の娘の顔にあった赤い痕は火傷かなーとおもったんだけどどうなのか。

(登場人物紹介によると化粧とのこと)

溝呂木が煙草(火の気)を扱ってたし、火鼠は溝呂木親子がメインの登場人物になるのかも。

 

 

あ、小説版まだ読んでないんだった。そっちでも何か気がつけばメモしておきたい。

 

 

カメがぴかぴかの櫛を飾って大奥を去るが、

おばあちゃんに貰った少女趣味な櫛を、アサのピカピカの高価そうな櫛と交換して帰ったってことかな。

アサがカメを大奥から出したのは、人を変えてしまう場所である大奥から、友人の純粋さを守ってやりたかったからで、

それは北川も同じだったのかも。それが北川と唐傘の理(ことわり)で動機ってことか。

 

てかそもそも、大奥といえば江戸城なんだろうけど、天子って天皇のことじゃないっけ? 江戸城(東京)にいるのは将軍で、天皇は御所(京都)にいるもんじゃないのか? 将軍を天子と呼んだら天皇に不敬な気もするけど、その辺の時代考証みたいなのはこないだのYouTube特番で自信ありげだったやつかな?

江戸の井戸というと、湧水でなくて多摩川から引いてきた川の水ということもあるのだろうか。とするとそもそも飲用は適さなさそう。

 

そういえばなんで人形は片目だったのか、

蛇の目傘ともいうように傘は目の姿でも描かれた。黒い左目のほうが唐傘だったってことか。

 

平基が最後に持ってた風呂敷包みから髪の毛見えてない??誰の首??という疑問とか、

 

唐傘は三郎丸と平基の部屋を覗いて何をしたかったのか?ただ男がいるのが珍しかった?とか、

 

ていうか、あと2回だけど火鼠と緑の女とお水さまだから、薬売りは3回退魔しないといけないってこと?三匹がかりで封印されてるお水さまかなり強そうだし、これは更なる薬売り達の参戦もありえる・・・?薬売りのチームプレイとか始まったら画面のカオスに耐えられる気がしないwww

 

女たちが三角の桝をなぞって「清めたまえ」と水を飲ませるのは、つまり女たちの中に分散してお水さまを封じている?オエー。

唐傘は女たちから水を絞り出したが、それはそれまで体内に蓄積してきたお水さまだった・・・?

淡島と麦島、井戸に大事なものを捨てたことを軸に凶暴化した女達を標的にしたということは、

お水さまの分身として覚醒した女達がそれ以上暴走するのを止めていた、ということなのかも。それが真か?

 

歌山がなんで急に老いたんだというか、手のシミを気にしてたけどその割に顔は若かったので、つまりモノノ怪的なパワー、大奥の女子達から恨まれても仕方ないような裏技で若作りしていた可能性があるのではとか。

それでモノノ怪を知ってたから、モノノ怪を斬るという薬売りをあっさり信じて通行手形を出したのではとか。

色々疑問もあるが、

全て意味ある描写だと神谷浩史が請けおってくれてたし、考え続けていきたい。

 

そういえばCV神谷の薬売りも割とアリだったわ。

やっぱちょっと性格も違う感じがした。フットワーク軽いというかw

作画パワーが増し増しだから、CV櫻井の独特の間がなくても余裕で画面がサクサクヌルヌル動いて楽しめた。声の良し悪しよりまず目が忙しかった~。

シリーズのセルフオマージュっぽい場面もちょいちょいあって、今のアレの!アレじゃん!うおお!ってなった٩( ''ω'' )و

 

やっぱモノノ怪のビジュアルは唯一無二。

襖絵やら柱絵やら隅々まで眺めたいから画集も欲しい~。

和だけじゃなくて今回はゴーギャン風?の絵もあったね。

海坊主のときもクリムトが使われてたけど、意外と馴染むというかなんというか。

 

小説 劇場版モノノ怪 唐傘 (角川文庫)

 

 

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マトリックス4部作完走感想。英雄は帰還した…のか?

マトリックス初代、リローデッド、レボリューション、レザレクションズを今ごろ一気見した。

 

まあ、感想書くほどでもないかもだが、

初代の記事を書いたから、その思い入れで続きの三作も頑張って見てみたんだよ。

やっぱ初代は今でも素晴らしいしな。

 

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2022の新作レザレクションズは多分劇場まで観にいったらガッカリするやつだったけど、

おうちでの連続視聴だとレボリューションズのビターエンド感のダメージを回復させてくれる意味では良かった。

エピローグとかキアヌいじりとかメタネタ多めのファンムービーとしてありがたい感じのやつだったかと。

 

マトリックスは初代だけで過不足なくテーマが完結してると思うのだが、

 

まず、機械に支配される人類という構造があって、その支配に気がつき精神の自由や自立を得るまでが初代だったなら、

 

リローデッドでは、機械VS人類の対立が激化していくのが主題だった。

機械と人類、どちらが支配の主導権を握るのかという争いがあって、

 

レボリューションズで、主人公ネオが機械と対等の交渉を成功させ、

機械VS人類のパワーゲームは均衡へ至り、それは善かったのだが

 

レボリューションズのラストでヒロインのトリニティ死亡、主人公ネオは生死不明っていう悲劇的な後味の悪さがあって、

 

そこから10年経ってのレザレクションズで、実はトリニティもネオも生きてたんだよ良かったね!

っていう、まあ安易っちゃー安易な救い、ハッピーエンドルートが開示されて良かった。

 

いやしかし、映画という限られた枠のなかで破綻なく複雑な勢力関係を描ききっていて感嘆したわ。

 

まず機械VS人間という単純な二項対立、支配と被支配の関係の構図が示されて、

しかし機械も人間も一枚岩ではなかった。

 

戦時下であっても議会と現場で意見が合わないのは人間あるあるだが、

 

機械の世界のほうでも設計者(アーキテクト)というプログラム人格によるトップダウンのシステムは完璧では無く。

予言者(オラクル)のばーちゃんのように、完璧なシステムは完璧ゆえに脆弱だから、揺らぎや変化を内包すべきという独自の思想で動くプログラム人格や、

エージェントスミスのようにエラーを起こしても消去から逃れ、ウイルスのような致命的な能力を持つ異分子が出現したり。

 

人間も機械も、多数が集まって社会を形成してるとそこに見られる関係性の様相はあんま変わんねーなっつーか。

やっぱりそこは機械を産んだのが人間だから、親と子が似るように人とAIも基本が似てるのかもしれないし。

機械といえどもこの世界で存在を続けるとなると、他の生命体と同じになんらかの法則にのっとって展開せざるをえないのかもしれない。とおもった。

 

レボリューションで登場した少女のプログラム人格(サティ)が成長してネオを守ってくれてたというのもよかったな。

レボリューション単品で見てたらサティのくだりはあんま要らんとこだったんだけど、意味ある伏線回収になってたし、次世代が頼もしいのは後継作で大事な要素だ。

 

 

 

ところで今月、NHK100分de名著っていう番組でジョーゼフ・キャンベルを扱ってくれるのだが、

行きて帰りし物語」「英雄の帰還」というテーマを定義したのは神話に学問体系を導入したキャンベルの仕事でもある。

 

10年前のリローデッドでは、救世主と呼ばれていたネオは機械の世界へ行って融和をもたらして死に、人間の世界(ザイオン)に帰ってこない。

まあ、あっちの文化圏で救世主っていったらキリストで、キリストは十字架にかけられて死ぬところがクライマックスだから、そのオマージュではあるだろうけど。

 

キリストも墓地から復活したんだっていう後世の創作アフターストーリーがあるのは、

キャンベルのいうところの「英雄の帰還」という文脈を人々が必要としたからだろうね。

 

人間の世界と隣接するもう一つの世界、

それは超自然の世界だったり神々の世界だったり死後の世界だったり内面の世界だったり過去や未来の世界だったり剣と魔法の異世界だったり物語によって色々あるわけで、

マトリックスではそれが機械の世界なんだけど。

 

隣接する世界に行ったら、帰ってくるのがやっぱ王道でスタンダードな感じがするよなあと思った。

レザレクションズの前半まではそういう感触の展開だった。

 

最近の日本の物語、特に異世界転生や異世界転移のなろう系の文脈はマジで行きっぱなしで帰ってこない物語で、

もうそれを疑問にさえ思わないとこまできたからな・・・。

キャンベル先生が存命だったら、この類型をどう解釈したんだろうか。

 

いや、うーん、そうねえ。

 

行きて帰りし物語」か

「行きて帰らぬ物語」か。

 

帰ってくる物語、英雄の物語は、少年の通過儀礼の精神的な元型といえるかもしれない。

人は母から生まれ、10年かそこらの間は主に母性によって養育される。

反抗期や第二次成長期があって、肉体や性的な成熟がくると、

少年は母性の統べる世界である家庭から、父性の統べる世界である社会で生きるようになる。

その過渡期の、精神の成熟を辿るのが英雄譚のような物語だ。

母親や家庭の世界から離れて、一人で隣接する世界へ冒険へ赴く。

そこで怪物や魔王のような強大な敵対存在や父性の影的なものと戦って成長する。

そして成果を持ち帰り、冒険で得た仲間や伴侶とともに自分の王国を築く。

 

少年が父親になるための物語。

 

支配と庇護の表裏一体の世界で、庇護されていた少年が、支配する父性へと変容する物語。

それが「行きて帰りし物語」のエッセンスであるなら、

 

「行きて帰らぬ物語」は少女、女性の精神的な元型ってことはないかな~?

だって、女性は結婚したら婚家の一員になってそこを居場所に生きていくっていう行きて帰らぬ人生のパターンがあるじゃん?

 

 

マトリックスレザレクションズでは、

ネオはちょっと情けないいじられキャラ愛されキャラとして描かれてもいる。

それは役者キアヌの味でもあるけど。風呂で頭にアヒルを乗せてたり、トイレでズボンおろしてたり、飛ぶのに失敗したり、ちょいちょいクスッとさせてくるのだ。

で、後半に覚醒したトリニティがガンガンにかっこよーで美味しいところをもっていく。

 

自由と調和の象徴である空を飛ぶ力に目覚め、

ラスボスであったカウンセラーにキックをかまして、

マトリックスを変えていくという今後の方針を宣言するのはネオでなくトリニティだ。

女性に主導権がある展開であること、

これを昨今のジェンダーレス的な風潮に迎合したと見てもいいかもしれないが。

 

だがそもそも、トリニティの宣言はマトリックス初代が示したテーマにそぐわないのでは、と自分は感じた。

 

マトリックスというのは、人間の共同幻想の世界、そのメタファだ。

家庭というマトリックス、社会というマトリックス、金というマトリックス、宗教というマトリックス、価値、ジェンダー、善悪、罪、時間、彼我、

人間は自らが生みだした何重ものマトリックスに囚われ、そこにあるがままの世界との繋がりを失っている。リアルと乖離した妄想の中で、精神の檻の中で生きている。

 

そのマトリックスから覚醒するという初代のテーマを完遂するなら、

機械の見せる夢から覚め、ザイオンという人間の共同体が生むマトリックスからも覚めていくべきだった。

スノーボールアースになってしまった地球という世界と向き合い、どう生きるかを模索していくべきだったと思う。

その方向性も一応示されていた。

アイオという新しい共同体では、人間だけでなく機械知性と共同で滅んだ植物を再生することを試みていたからな。バイオスカイとかいって空を再現するとか、外界を意識しはじめている。

人と機械がどうにか協調しながら、地球にコミットしていく。

幾重にも連なる殻を破るたびに0へ至り、認識の次元を上げていく方へ展開することもできた。

 

日光を利用できなくなった地球で一見すべての動植物は死に絶え、

地上は機械、地下に人間が住んでいるという話だが、

例えば海底には地熱や湧出するガスを利用して生きる生命群がいるだろうし?

雷雲を晴らす方法を模索するとか、雲の上の日光を利用できる立地を探すか作るかとか。

寒冷地に適応する動植物を生みだすとか。

機械VS人間のクソほど不毛な争いが終わって、両種族の共同歩調が見込めるなら色々できることがあるはずなのだ。

 

トリニティが示した方向性、

マトリックスという夢に戻って無双するというのはちょっと・・・。

孵化したヒヨコは卵には戻るべきでないし、

サナギから蝶へと羽化したなら、幼虫達の世界でドヤるべきでない、とでもいうのか。

 

マトリックスから覚めたくない羊のような愚民(Sheepleシープル)を啓蒙するというのも、まあ、そういう人がいてもいいのかもしれんけども・・・。

多分それはバッドエンドになる命題設定な気がするのだ。

 

かもめのジョナサン」で有名なリチャード・バックの傑作「イリュージョン」ではそのルートが思考実験されている。

まるきりネオのような能力に覚醒し、空を飛び、病も飢えも癒し、物質世界の手順を越えて思い描くだけであらゆることを可能にする救世主がいて。

彼は見込みのある若者に救世主になれる心の在り様のレッスンをはじめるのだが。

その要諦は自分で自分の殻を破って自由な認識に目覚めていくことにあるのに、

ちょっと力を使うと、いつでもどこにでもいる羊のような人々(Sheepleシープル)たちが他力本願に「お助け下さいお救い下さい」と群がってきて縋ってきてしまう。

「誰だってこれが出来ることに気がついてほしい、レッスンならするから」というスタンスの救世主は、寄りかかりたいばっかりで自助努力の発想の無いSheepleがキリなく押し寄せるのにイヤになってしまって去る。

みたいな話だ。

 

トリニティはね、そりゃネオよりは面倒見がいいキャラだとは思う。

子育てもしてたし、キャリー・アン・モスの2種体癖は目下に優しい。名前も父と子と精霊との三位一体を意味する。仲間と思う人々と共に歩みたいという気質ではありそうだ。

 

ネオは、ザイオンの人々に救世主かと問われると、いつも「さあ・・・わからないけど」という曖昧なリアクションをする。

「っしゃ!俺が救世してやっから皆ついてきな!」みたいなムーブは一度もしたことがない。

それはネオ、キアヌの1種体癖らしい態度だ。

自主自律孤高、ソロ活最高っていう気質なんだよな。群れの序列を厭う。

親分子分みたいな関係性に馴染まない。他人に頼り頼られることに快が無い。

ただ、ノウハウを言語化してカリキュラムを組むとか教師のようなことは得意だ。

だから多分、人々がネオを「我々を救ってほしい」という期待の目で見ると彼はメンドクセー知らねーしと感じてのらりくらりと引いてしまうのだが、

人々が自ら成長したいという自主性をもって「空を飛ぶってどうやるんだ?俺もやりたい」とか「マトリックスから覚醒するコツを教えてくれよ」というのなら、活き活きペラペラと話し始めた可能性があるw

 

マトリックス初代でも最後のセリフはこうだったではないか。

 

 

そこは、規則も支配も、境界線もない世界だ。
a world without rules and controls, without borders or boundaries.

そこではすべてが可能だ。
A world where anything is possible.

これから先はお前たち次第だ。
Where we go from there is a choice I leave to you.

 

これから先はお前たち次第だ、と。

 

手本は見せたから、後は自分でやってみなと言うのだ。

 

そこには「お前たちにならきっと出来る」という信頼も込められているわけで。

 

やっぱそうだよな。

 

マトリックス(夢)は変えるものではなく、覚めるべきものなのだと思う。

 

 

 

トリニティの宣言「マトリックスを変える」というのは、

再び夢の世界で無双して、Sheepleの皆さんの目が覚めるまで何度でもパフォーマンスしてあげますよなんてのは、初代のテーマとはそぐわない世話焼きな態度だし、

冒険に赴いた異世界で役割をみつけて居着いてしまう「行きて帰らぬ物語」の類型になる。

それは女性であるトリニティが主役の位置についたことで導かれた展開であり、

今の時代の感性に沿う優しさの展開でもあるだろう。

 

いやそうするとどうなるのかなあ~。

まあ、確かにSheepleが目覚めたがらないのは何も愚かさ幼さや傷ついた心のためだけではなく、

「お前は無力で無能なのだから、指導者のやることに従っていればいいのだ」的な抑圧のメッセージを支配者サイドが発信して洗脳しているせいでもあるし、

酒やクスリやパチやガチャで脳を安易な刺激の中毒にしたり、

粗悪な飲食物や科学物質を蔓延させることで身体機能を低下させたり、

そういう何重ものトラップを日常に潜ませているせいでもある。

 

そういうものを排除していくだけで自然に覚醒する人もいるだろうな。

人間は健康であればそれだけで心身ともに成長を指向するのが本来なんだから。

 

トリニティも間違ってはいないのかな・・・。

そうかもな。

きっと監督のウォシャウスキー姉妹はマトリックス初代をリリースしたとき、

きっとこのメッセージを受け取って多くの人が覚醒し、世界は劇的に変わると思ったんじゃないだろうか。

しかし公開されてから25年経って、アメリカや世界情勢がより良くなったかってーと・・・、いや・・・、うん・・・。

もっと手厚いケアが要るということか。

それもわかる。

 

わかるけど、

 

 

やっぱ自分は初代が至高派かな~。

手取り足取りイチから十まで教えてもらうより、

「君にはできる」と信じて委ねてほしい派だから。

誰もが、まず自分自身の世界を救える救世主だと識っているから。

 

 

 

4部作完走したけど、やっぱ1で完成してたっていう。

ま、映画あるあるだよね~・・・。

 

全作とおしてスタイリッシュな映像は良かったし、観て後悔したってほどではないけど。

 

っていうか、初代以降のモーフィアスが全然いいとこ無いのがな~。

ネオを信頼して導く素晴らしいメンターであり名言メーカーであり、スゲー良かったのに。

ネオが目覚めた以降のリローデッドとレボリューションズでは民衆を煽るアジテーターだったし。

熱弁で他者を煽るのも6種体癖らしさであるけど、それ自分が一番キライなやつ~。

まあサングラス黒コートに日本刀アクションは中二心に刺さったけど~。

 

レザレクションズのモーフィアスはローレンスフィッシュバーンじゃなかったしな。

あれは何?ネオが作ったプログラムがモーフィアスと名乗ってるだけで別人ってことなのか。

制作側もこれ以上フィッシュバーンのモーフィアスにさせるべきことが無いと思ったのかね・・・、まぁ、それはそう。

 

あと、

いつか黒猫を飼ったらデジャヴっていう名前をつけたいなと思いました。 ٩( ''ω'' )و

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キャンベルの著作はどれもオススメ。

だが訳がカタくて読みにくいこともあるので、

そういう時は!まずYouTubeでキャンベル先生が話している動画を見て!

この品の良い老紳士の喋りのフィーリングをつかむ!

キャンベル先生の言葉選びやお人柄を脳内再生できるようになってから本を読むと!

内容が脳に染み入ってくるようになるんじゃないかと!٩( ''ω'' )و同担歓迎!


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モノノ怪劇場版「大奥」を観る心得

週末はYouTubeモノノ怪公式無料でしたね。

当ブログの考察記事にも1000人以上の人が読みにきてくれたようで、ありがとうございました。

 

素直に嬉しい!٩( ''ω'' )و

せっかくだからもうすこし何か書きたくなった!

 

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っつか、この特報よ。10種体癖はこれだからwww

薬売りさんが最大で64人いるとかそんな絵面はカオスが過ぎるだろwwww

 

この監督の10種体癖の世界観というのは遠心的で茫洋。

ある真実を直観して紡ぐカッコよさは他の追随を許さないけど、

広がり過ぎて収集つかないとか、ついていけないレベルになることもしばしば

 

64人wwwだめだおもしろすぎるwwww

 

しかしまあ、今回は声優が交替するという一悶着があったわけだが、

このCV神谷浩史の薬売りはCV櫻井孝宏の薬売りとは別個体ということで公式見解も落ち着くわけだな~。

 

すると、化猫(坂井家)と海坊主の薬売りはチヨとの絡み方からして同一人物だけど、

時代がとんで大正の化猫の、ちょっと色味が違う気もする薬売りは子孫ないし一族の誰かであり、別の人ではあるってことか~。

 

いや、代々受け継がれてる装束とメイクの癖が強すぎるw

色黒白髪バージョンに変身するためには必要なのだろうか。衣装の模様も動くしな。

 

てか神谷浩史の持ってるブ厚い台本や設定資料(ストーリーバイブル)があれば、

考察とかしなくても答えが載ってはいるのかあ~。

正解を知りたいような、自分で考えたいような、悩ましい気持ち。

 

考察必須の込み入ったアニメか。

思えば15年前とか?自分はニコニコ動画でリアルタイムのモノノ怪を視聴していた世代ではあるのだが、

当時は「あれはこういうことかも?」と思っても、ちょっとコメするか人に話すかしては忘れるに任せていた。

5年前からブログを始めて思ったことを書いてまとめとくようになって、

劇場版制作発表からモノノ怪の記事を書いたのは1年前。

 

自分なりに物語を消化するのに10年以上かかってると言っても過言ではないw

10年味わっても飽きない、自分の認識の進歩とともに違う側面を発見できる。

それは優れた普遍性を備える物語といえるな。

 

劇場版「唐傘」もきっと初見では映像の情報量に圧倒されて、

結局何が起きていたのかはわけがわからんという感想になりそうだが、

 

ここまでシリーズを観てきて言える鑑賞のコツはだ。

モノノ怪の視点から考えてみること。

・女性像の在り方

に注目することかな。

 

物語は常に人間サイドの目線から語られて、

モノノ怪視点のモノローグなどが無いことが予想されるが、

 

横暴で理不尽なのは多分また人間のほうで、

モノノ怪はなにかの「摂理」であるらしき一貫性に基づいて行動している可能性が高い。

 

因果応報の復讐、正当防衛、生存戦略防衛機制、自己保存、などなど。

 

そしてアヤカシにとって、人の情念と結びついてモノノ怪へ変化することは、

「符呪など効かぬ魔羅の鬼」となること。

それは実のところパワーアップやランクアップの側面もある話だということ。

ハイリスクハイリターンなんだろうけどな。ケ(病)の状態でもあるわけでその因縁に縛られてどこにも行けなくなってしまう。バーサク的な?

 

 

で、一作目の化猫からの女性像の変遷も頭に入れておくべきだろう。

 

花嫁タマキは

家長制度、父権の強い社会において周囲に従うしかない弱い存在だった。

 

志乃は母親

夫や家の助けが期待できなくても子を産み育てようという気概をもつ。

(それが実際にできるかどうかはまた別の話)

 

お庸はぴえん女子

推しのためなら死ねるガチ勢。盲目的に自分を捧げ尽くしてしまう破滅型。

 

お蝶は精神的自立

親の条件愛と抑圧に気がつき、どうとでも生きていけるという自分自身への信頼や尊厳を回復する。

 

鵺は魔性

ここまでの女性像が抑圧される側だった反動か、鵺は男達を捕えて支配する女だ。

 

節子は男勝り

男社会のなかで頭角をあらわす有能であり、かつ女としても最先端のモダンガール。

(代わりに女中のような旧態依然の女性を見下している)

 

と。

 

タマキによく似た節子が、タマキのような男に従う女性像を見下しているというのが、

なんともわかりみがあり味わい深いところだ。

成長したことで過去の自分が黒歴史になってる的な。

 

タマキは猫に「お逃げ」と言う。

それはぐう聖ともいえるが、

復讐を思いつきさえしなかったとも、家長制度父権社会に疑問をもつことさえない段階だったとも言える。

支配と庇護をただ享受する、それは子どもの在り方だな。

 

志乃はある意味反抗期。

母は強しとも言うがそれはそれとして、

夫も家もなくてもやっていけらあ!は実際には無理ゲーというもの。

ほんとのほんとに自立した大人であれば、どうにか共同体と協調するかイニシアティブをとっちゃうとか。

意地だけでアテもなく家を飛び出しちゃうのはまだ反抗期的な若者の印象だ。

まあ、そこから良い人達に出会える可能性も全然あるしいいんだけど。

 

お庸も思春期的な不安定さだ。

クズに尽くしがちな女子というのは自己評価の低さや基本的な安心感に欠けている。

しかし「そういうものと思った」で理不尽をスルーしたり耐えてしまう自己犠牲的な感性というのは、子育てするにあたって必要なものでもあり、

ある程度本能的に組み込まれているものといえるのかもしれない。

年頃の女性によく見られる心理ではある。

 

ま、そういうふうに女性心理が段階的に進んでいくのを観ることもできるわけだが、

 

その視点でいうと、「大奥」というのは女の園

女が圧倒的多数の、女の社会になるわけだ。

 

ここまでずっと家長制度や父権社会のなかでの女性を描いてきたから、

その大前提が逆転している舞台設定であると予想される。

 

女社会のなかで少数派である男性がどういう圧をかけられているのか、気になるところだ。

鵺でも男たちを支配する女ではあったわけだが、

鵺の動機は観測されることが必要という自己保存であってごくシンプルというか、心理面での複雑さは無かったから、

そこのテーマを改めて深堀りできる余地は十分ある。

 

女が主体の社会ね。フムン。

 

今現在、女性の社会進出がどーのとか、ミサンドリーミソジニーがどーとか、そういうムーブメントもあるけども。

 

そもそも、封建時代以前の話をすると女系社会や母権制のほうが世界的にメインストリームだったっていう話はある。

 

ja.wikipedia.org

 

NHKの「光る君」やアニメ「平家物語」など、

物語の舞台としてもよく使われる平安時代の描写を思い出してみれば、

男が女の家に通って、そこの家に婿入りするという制度になっているわけで。

 

あるいは、神代の物語まで遡ってみても、

豊葦原中津国の最高神天照大神、女神だ。

女神を頂点としたヒエラルキーがある。

男性は月であり弟なのだ。

太陽神、昼の顕なる世界の神が女性で姉でアマテラス。

月や黄泉、夜の陰なる世界の神が男性で弟でツクヨミスサノオっていう。

 

だからまあ、母権社会を描き得る風土というか下地というか精神性というか、

そういうものはあるんだよねっていう。

 

まあ、そんなとこまで時代を遡らないで、あくまで江戸時代の話だからな。

封建社会のなかの女権組織であり、天子(男)を頂点にしたハーレムなので、

実権を持ってるのが男であるのか女になるのかは見てみないとわかんないけど。

 

ここまでのモノノ怪の語り口のなかでは、

女性は常に男系社会によって抑圧される存在だった。

 

腕力でも権力でも男に敵わないから、

女は魔の力に親しみそれを行使してきた。

 

その女性像が、

男女の力関係が拮抗した節子の次の段階、圧倒的多数派の権力を手にしたとき、

 

いったい何をやらかしてしまうのか。

 

もう想像するだけでうすら怖ェ~。

 

絶対暴走するに一票いれとくわ。

 

 

 

 

 

 

小説版が先行発売!

いや、しかしネタバレなく劇場版が観たい気がするな。

一回劇場版見に行ってから、小説読んで、それからまた劇場に周回に行くか・・・。

 

 


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お、チヨとカヨの声優ゆかな出演してるやん。薬売りとわちゃわちゃしてほしい~。

 


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平安時代の物語。悠木碧の歌唱力にビビるw

 

 

平安時代の物語なら陰陽師が推し!

式神!鬼!百鬼夜行!陰陽五行のオカルト必殺技!そんなんが大好物!

光源氏モチーフはメロドラマ過ぎてあんまし好きくない。

 

あ、でもこれは恋愛がテーマなんだけど平安の風俗に親しむ漫画として好き。

 

ていうかよく考えたら時代劇とか歴史モノはあんま詳しくなかったわごめん。

大奥つーたらコレが有名よなーくらい。

 

あ、でも水木しげるの今昔物語はめっちゃ繰り返し読んだわ。

これ読んだ後だと原典もけっこう楽しめるw

 

けっこう色んな漫画の元ネタの話があって面白いのだ。

 

 

10種体癖の世界観つーと、最近では転スラかな~ていう過去記事

 

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小説 劇場版モノノ怪 唐傘 (角川文庫)

リミナルスペースを解釈する。

ハローmyワールド٩( ''ω'' )و

 

ところでこないだ

8番出口というゲームが流行ったのをご存じだろうか?

 

贔屓のユーチューバーもやってたし、

知らない誰かがやってるのを見ても楽しめる良いゲームだった。

操作感によっては3D酔いするけどw

 

 


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で、このゲームの舞台の話がしたい。

地下鉄の通路。

全国各都市どこも似たような雰囲気の人工的構造物。

現代人の誰もが思い浮かべることができる普遍的な空間。

 

こういうのを示す概念に リミナルスペース というネットミームがある。

 

リミナルスペース - Wikipedia

リミナルスペース (Liminal Space) とは、インターネット上で、簡素で不気味、超現実的な空間をいうインターネット・ミーム

もとは建築用語で、廊下、階段、ロビーなどの、移動のために使われる人工的構造物のことを指す

 

The Backrooms - Wikipedia

クリーピーパスタの有名作であり、これが元ネタのイメージに近い作品。


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派生したイメージも色々あって、ゲームの舞台としても相性が良い。

 

とても興味深い概念だと思う。

 

そしてゲームをやらない人でも、リミナルスペースの概念は直観的に理解できるところだ。

 

例えば、7月DVD発売のジブリアニメ「君たちはどう生きるか」にもこういった場面がある。

異様に巨大な和風屋敷の薄暗い廊下を進む場面とか。

千と千尋の神隠しの、油屋の廊下にもそういう印象がある。

オシラサマとエレベータで別れて湯バーバに会いに行くまでの、豪華な壺とか並んでる薄暗い廊下とかね。

 

なにか恐ろしいものと邂逅してしまいそうな、不安な感じの通路。

 

 


www.youtube.com

 

 

やや悪夢よりの夢で見るような景色。

どこまでも終わらないがらんとした回廊。

 

たとえば

 

地下鉄の通路

夜の空港

都市高速道路

商店街のアーケード

マンモス団地

休日のオフィスビル

増改築したホテルや旅館とか

地下水道や炭坑とかは…ちと趣きが違うか?

まあ抽象的なとこだとそんなもんで、具体的な有名どころだと

九龍城

https://youtu.be/No_vQ8FiQiw?si=FUPYK3FlOEsk9922

ウィンチェスターミステリーハウス 

https://youtu.be/Padm4JItZPw?si=nP3r76v_O57-rMw1

パリの地下迷宮

https://youtu.be/z1jIEuYr1JM?si=-n8pMJKVCgtRuIcd

とか? そゆの好きだから他に知ってたら教えて♡

 

 

共通するイメージとしては

広大な迷路的構造物で、同じような景色が続いて、

照明が白々しいとか薄暗い感じで、

どことなく使い込まれてるとか古ぼけてるとかで、

誰かいるはずの場所なのに、でも全然人がいないような、

入り口も出口もわからずさまよいつづけてしまう、

そんな場所。

 

 

自分も時々そういう景色を夢に見る。

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www.youtube.com 8:30秒くらいからの発言。

 

そういうリミナルな夢を見ることにどのくらいの人が「あるある、わかる~」と言ってくれるものなのだろうか。

 

ユーチューバーがバブル建築のクソデカ閑散駅に行って「俺ここ多分夢で来たわ」と呟いた気持ちがわかりまくりんぐだったのだが。

 

なんかもう初見のリアルのほうに「夢で見たことあるやつ」っていう奇妙な既視感を覚えるっていうねwww

 

 

さて

リミナルスペースのイメージをなんとなくご理解いただけただろうか。

 

ところで、

君たちはどう生きるか」の廊下の先には7人の蠢く老婆、

千と千尋の神隠しの廊下の先には湯バーバがいるわけだが。

 

 

このリミナルスペースなる概念を愛する人々の間には、

そこになんらかの怪物がいるべき派と、いないべき派がいるらしい。

 

諸兄はどっち派を支持されるだろうか?

そしてそこにある意味にはどういう違いがあるのだろうか。

 

自分は "The Backrooms (Found Footage)"  の映像でばクリーチャーを邪魔に感じた方だ。

怪物いないべき派に一票。

自分の夢の風景には怪物や追いかけられることへの焦燥や恐怖はあまり無い。

そこに感じているのはどこまで行っても続いているという感覚、狭さが続く閉塞感、明るいところに出たいという欲求。

しかしその建築自体にはどこかしら懐かしみや親しみを覚えている気がする。

 

そして宮崎駿は怪物いるべき派ということなのかもしれないが、

 

そこにはジェネレーションギャップというか、

そこにこそリミナルスペースという概念の新しさがあるような気がする。

 

こういう悪夢的迷宮の神話的元型といえば、

やっぱ、ギリシャ神話のミノタウロスのラビリンスに遡れると思うからな。

 

ja.wikipedia.org

 

このウィキの記事か、ロードエルメロイ2世の事件簿を読めばわかるが、

ラビリンス(迷宮)はメイズ(迷路)とは似て非なるものだ。

 

ラビリンスは道を辿りながら円の中心へ向かっていくものであり、

すべての道を通って中心へ至り、そして同じ道を通って外へ出る。

出口入口は同じでありひとつ。

それは心の中心へ向かっていくための精神的な儀式、瞑想のメソッドだ。

だからそこには怪物がいるということにもなる。

誰しもが心に飼う怪物、それは目を逸らしたい不都合な真実、見ないようにしていた己の姿だ。

内面の調和へ至るなら、その怪物は越えていくことになる。

怪物いるべき派の欲するもの、宮崎駿の創作物にあるのはどちらかというと迷宮(ラビリンス)的なものといえそうだ。

 

ていうか、もしボスや魔王などの対立する異形存在がいたなら、

それはゲームの印象としてはダンジョンって感じがするだろうしな。

リミナルスペースのゲームには色んな違和感の演出はあれどもバトルが無い。

それが新しく開拓されたジャンルとしてのポイントといえるだろう。

 

リミナルスペースのポイントは更に、

入口も出口も無く似たようなところをエンドレスに彷徨わされることにある。

 

迷宮はゴールまで一本道で俯瞰すると秩序ある図形の姿をしているが、

リミナルスペースは高低差も階段でつないでデタラメに構造体をくっつけたような感じがする。

 

秩序と怪物を擁するのが迷宮(ラビリンス)やダンジョンで、

無人で無秩序なのが迷路(メイズ)でリミナルスペース

そんなふうに定義しておこう。

多分この記事は次に書く予定の「君たちはどう生きるか」の解釈に必要になる気がするからな・・・。

 

 

脳みたいな図形の迷宮。

アリの巣みたいな立体迷路

 

 

君たちはどう生きるか」には迷路的なイメージも実は登場した。

不思議の国のアリスのハートの女王の庭をモチーフにしたであろう、生垣の庭園だ。

 

youtu.be

 

なるほど、屋外ではあるが、

四方が高い生垣に囲まれるような庭園も人工物の通路迷宮でありリミナルスペースの感覚に近い。

アリスの映像では灰色に陰鬱な空模様もわかりみがふかい。朝か昼か夕か何時頃なのか見当がつかない感じがする。

 

 

ラビリンス(迷宮)のゴールは心の中心であり、試練として登場する怪物を越えてそこへ到達するのが定型、

最奥にいるボスを倒せばクリアであり外にワープとなるのだが、

 

メイズ(迷路)であるリミナルスペースのクリア条件は。

8番出口やプールなどのゲームや映像作品の文脈を見るに、

「外へ出ること」そのものだ。

いや迷路だから当たり前だけどw

広大でありながら閉鎖的な空間から、

日の当たり風の通るところ、開放的な自然空間へ出ること。

昼の空とか草原とか田園とか人里みたいな景色へ出ること。

「あ~狭苦しかったぁ~」と背伸びしてホッとするような、そういう気持ちがゴールになる傾向のようだ。

 

ふむ。

 

日の当たるところ、そして開放感か。

 

逆にいうとその対比であるリミナルの印象は、

薄暗くて太陽の位置がわからなくて、

そして閉塞感のある空間が続くこと。

 

待て待て、この条件はどこかで聞いたことがあるぞ・・・。

 

 


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この動画めっちゃおもろいんだけど要約すると、

15m級(マンション20階建ての高さ)の大森林に住む民族は時間の概念が発達しない、というものだ。

 

何層にも繫茂する植物は日光を遮り、森の中は昼も夜もなく常に薄暗い。

すると人間は朝起きて昼活動し夜眠るという太陽と同じサイクルのリズムを失う。

眠い時ちょっと寝て起きて、という猫のような細切れ睡眠スタイルになるとか。

また通年で気温が変わらず雨も少なく、変化に乏しいため四季の感覚もなく。

 

そして「緑の地下牢」とまで形容されたように眼前には常に樹木の幹が立ちはだかり、

何重もの柵に遮られた視界はひどく狭い。

すると人間は、遠くのものが小さく見える、という認識を獲得しないという。

遠くまで見渡すこと、遠近感というのは、過去未来の直線的時間感覚の土台なので、

連鎖してその概念も獲得できないのだとか。

 

そうして大森林で暮らす民には、今、という時間感覚以外が希薄になるのだという。

 

ほーん。

 

しかし、

この動画では 熱帯雨林気候が時間の概念を破壊する というタイトルのつけかたをしているが、

 

そもそも類人猿というのはほぼほぼ森林性の動物なんだよな。ヒトの祖先は森にいた。

ヒトだけが平原に進出し直立二足歩行を得る進化をした、という話がある。

 

だから時間の概念というのはサルが日の当たる広いところへ出てきてから獲得したものであって、

ピグミー(南米)はともかくピダハン(アフリカ・人類の発祥地)はそもそも時間を獲得するに至ってなかった可能性も・・・いやいや。

 

いや、

だから大森林(巨大でありながら閉鎖的迷路空間)から平原に進出した人類がよ?

またその平原に穴掘ったり鉄骨やコンクリの資材をこねこね盛り盛りして、

地下駅やらビル群やらの巨大でありながら閉鎖的迷路建築をつくるってのはよ?

 

平原にかつての居住空間である森林を再現しているようで、

そう考えると面白いなあと思ったんだよ。

 

太陽が見えず常に薄明りで時間がわからず、

気温も一定で風も吹かない、

見通しがよくなくて、何かが潜んでいそうで、色んな人が通った気配が残っていて、

既視感のある風景のなかをずっと彷徨うような感覚の場所。

そういう特徴だけ比較すると、

リミナルスペースと林冠級熱帯雨林が意外なほどよく似ているじゃないかと思ったんだ。

 

そういう風にガワを変えてメタファー化するっていうのは夢がよくやるやつだし。

 

大森林と摩天楼が象徴的に同じだとか言ったら自然大好き宮崎駿はブチ切れるかもしらんけどw

 

しかしそうすると、リミナルスペース的作品群や広大で無秩序な通路を彷徨う夢にどことなく感じるエモさ、ノスタルジーな感覚、もっと見たい、こういうのが好きという気持ちもさー。

それは平原の進出する前の、森林にいたサルだったころの感覚が、脳の古い皮質や無意識のどこかに残ってるから感じる欲求なのかもなーって。

 

やや悪夢よりの夢ではあるけど、

自分の夢の舞台は昔よく行った祖母の古い家の廊下や、住んでいた団地の階段室とか、商店街の珍しい建築とかのパーツで再構築されてることもあって、

目を覚ましてから、子どもの頃そういうところを一人でひたすら探検していた感じを思い出せて、なんとも言えない色んな気持ちがするんだよな。

 

子どもってのは目の前のことに全集中で、ヤなことあって泣いてもすぐケロッと笑って遊んでるとかそういうのを、今を生きてる、みたいによくいうけど。

 

さっきの林冠級熱帯雨林の時間の概念のない民族も、そんな鬱蒼としたところに暮らしながらも幸福度を測ってみると現代人より高いってことが言えるらしい。

 

リミナルスペース的な夢っていうのは、

ヒトの祖先が森林にいた頃の、過去未来を憂うことのなかった子どもの頃の、

原始的で幼くて幸福で安寧な、

そういう感覚を、脳の基底核のような古い層が再生することで生まれる夢・・・・

 

だとしたらエモくね?っていう。

 

 

まあ、いつもの適当に思いついたホラ話なんだけど ٩( ''ω'' )و youはどう思う?

 

 

 

結論、

リミナルは森。

 

 

秩序と怪物を擁するのは迷宮(ラビリンス)やダンジョンであり、最奥を目指すもの。

それはをあらわしたメタファー

 

であるなら、

 

無秩序で無人な迷路(メイズ)やリミナルスペースは、外を目指すもので、

類人猿の原風景であるのメタファー

 

であると。

 

まあ因数分解してみるとそうらしいとして、

両者が混在してる場合も多々あるから、その辺はフレキシブルに解釈してこ。

 

 

 

 

 

これオススメの漫画。絵きれいでめっちゃ昭和建築でかつリミナル。いいぞ~

 


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シドニア百景も近未来テイストにリミナルかもな~。

適度にごちゃごちゃしててよき。

景色が主題じゃないけど、弐瓶勉の世界観は引き込まれる。

 

ロードエルメロイ二世の事件簿は厨二展開をオカルト蘊蓄で固めててたのちい ٩( ''ω'' )و

 

 

 

 

https://x.com/jaredpike

Dream Pool - Liminal Space Shorts - YouTube



 

 

 

ああ、ところで多分、リミナルスペース的作品群に恐怖を感じる人は、

自分の心の迷宮(ラビリンス)をクリアする必要がある人かもな。

 

問題があるたび何度でも内面へ向かうということを習慣化すると、

つまり習慣的に迷宮メソッドをクリアしていると、

リミナルスペースから恐怖を感じなくなると思う。

自分がリミナルに恐怖を感じないのは瞑想の習慣があるからだろうな…。

 

 

 

 

 

宝石の国最終話直前ブログ

あー

ユーク「彼のためにできることはもうないの?」

金剛&エンマ「ある」

は、フォスのために脱出艇を用意することだったか~・・・。

 

で、船が蓮の花の形なのはシンシャが作ったことを思わせるんだね。

花を触れるの嬉しくて時間を忘れるって言ってたもんね・・・。

 

そっか・・・。

 

 

comic-days.com

 

 

 

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4/25に最終話が公開されるので、

それまでに今までの話を全部無料公開するという神サービス中の宝石の国

 

なんかもー星の終末の光景の絵が素晴らし過ぎて言葉もない。

独特の画力が極まっている。眼福。天才。

 

しっかし金剛よりエンマより、顔もない石ころや金剛兄のほうがイケメンムーヴ決めてくるのはなんなの。特殊性癖が過ぎる。

最終話付近でようやくお目見えした金剛兄のキャラが意外過ぎたわ。ノリがチャラいww

 

100話以降、人の形をしたキャラが登場しないビジュアルの特異さに目を奪われるが、

フォスって結局どんな形になってもフォスだったよなーって気はしている。

神だという白い羽衣のようなフォルムになっても敬語キャラになっても、

末っ子の甘ったれ気質は実はそのままで、

今まで金剛やカンゴームやエンマに依頼と依存をしてきた行動パターンのまんま、

今度は金剛兄になんとかしてもらっちゃってるだけでは、とは思った。

「僕がどうにかしてやっからよ」なんて頼れる感アピってくれたキャラも初ではあるが・・・。

 

三つ子の魂百話までwなんつて。

 

まあ、滅びへ至るための命題設定として成長しない主人公というのは有り得るのかもな。

っていうか、ずっと成長や進化や何かを獲得することに肯定的じゃない話なのか。うーん。

 

宝石の国で末っ子だったフォスが、紆余曲折の後

岩石の国でも末っ子になってて、

皆から末の弟として愛されている。

動けず話せず一話のフォスよりもっとなんの役にもたたないけども、

「誰からも愛されたい」という望みが、今度こそ叶って良かったね・・・?

 

しかし地球で燃え尽きながら元の姿に戻っていくフォスには涙を禁じ得なかった。

画力の暴力!泣くてそんなん!

 

いやしかしこれはどういう物語だったんだろうなあ。

 

歩いて泣いて笑ってかわいい宝石体だったフォスが、

自分の過ちと真の願いに気がついた結果、

石ころと同じレベルまでグレードダウンしてそれで幸福なのか・・・。

 

速く走れる足も、変形する器用な腕も、賢い頭も、知識も祈りも、万能の神のごとき入滅の力も、

フォスの幸せにはならなかった。

 

役に立つことと、幸せであることはイコールでなかった。

 

石ころのように誰よりも何もできなくても、

皆に愛されているそれこそが幸せ・・・?

 

いやちょっとまだ理解追いつかないかもしれん。

確かに人類の急速な拡大や経済成長や高等教育が幸福とイコールではなく、

むしろ先進国程幸福度低いとか自殺率高いはあるあるだけども。

 

あれか、

すべてを失った時 すべてが解る

っていう感覚だろうか・・・。

 

何もできない胎児であるからこそ、母体と一心同体の感覚。

身もなく心もなく、自我で無くなったとき世界とひとつになれる感覚というのはあるわな。

それはたしかに涅槃な感じかも~。

 

 

ところで、

金剛先生と生徒の宝石達

管理者エンマと月人達

神フォスと石ころ達

そして、金剛兄と石ころ達、

 

いわば指導者とそれを慕う人達という構図が繰り返し登場して、

それはどっちかっていうと父子的な関係性で、

 

で、作中で母子関係っていうと、

アユム博士が女性でありママなんだよな。

金剛兄弟とフォスを産み、送り出す人として描かれる。

 

あとウェントリコスス王も母にカテゴライズしても良さそうではある。

 

すると、父子関係にはとにかく長い時間をかける傾向があって、

母子関係はカーチャンの意志が強くてサクッと進むなーと思った。

 

まあ、ちょっとそんなところも留意しつつ、

 

最終話を楽しみに待つ。

 

 

 

 

 

When all is lost, then all is found

youtu.be

 

 

 

 

 

 

鏡面の波(アニメ盤)TVアニメ『宝石の国』オープニングテーマ

 

 

 

沖縄久高島巡礼忘備録

はいさーい。

 

ちょっと沖縄行ってきたからその話しようかね!

 

このブログで旅行記を書くのは初めてだけど、カテゴリとしては

見えない世界の歩き方 カテゴリーの記事一覧 - ものがたりを解釈する

としておこう。

 

沖縄はスピリチュアル界隈でも人気のスポットだし。

美ら海水族館とか観光地も抑えつつ、メインは聖地といわれる島に行くことだったのだ。

 

そこは久高島という。

 

沖縄で聖地とかパワスポというと、斎場御嶽せーふぁうたき)が有名だが、

その御嶽の巨石を潜った先に海を臨む場があり、

ニライカナイ常世・神世)としてウートート(礼拝)する先にある島、それが久高島だという。

 

ここね。斎場御嶽から海を見た先の小さい島。

レンタル自転車で一周するのに2時間程度、住人は200人ほどの小さな島に二泊三日してきた。

 

まず、斎場御嶽とこの島には以前に一度行ったことがあった。

 

自分史的に病みがMAXだった10年くらい前、

怪しいスピ団体のツアーに誘われて行ったのだ。

界隈で有名なユタとかノロ(シャーマン)だというオバーに案内してもらう感じのやつ。

いやほんと、あの時は救われた過ぎて藁でも壺でも掴むカモであった・・・。

 

当時の印象としては、島は しにジョートー 最高に美しくて素晴らしいと思ったが、

その真栄田苗という人の言うことは不愉快で、

ツアーだから勝手な行動は慎んで大人しくついていくが、

いつかきっと自分で自由にこの島を探索したろーと思ったのだった。

 

まあ、どう不快だったかってえと、

「酒飲んで禁足地に入って騒いだウェーイが事故って狂った」(意訳)

「島から何ひとつ持ち出してはならないのに、

白砂を敷き詰めたくて船何隻ぶんも持っていったから城は燃えた」

みたいな呪われ脅かし話をえんえんとね・・・。

 

いや、こっちの人柄見て話してくんねーかな~。

こちとらどう見ても人畜無害で優等生タイプの文化系モヤシじゃん?

そんなフラーどもと一緒にされましても。

オカルトは好物だしルールも守るが、

人を恐怖でコントロールしようというのは好かん。

 

てか、このなにもかもあけっぴろげの島にいる神様は、

絶対にケチでも祟り呪い系の手合いでもなかろうよ

と、口には出せない違和感にイライラわじわじーしていた。

 

そーいや、禁を犯した報いについての話か、

後は彼女が海亀とかの動物を式のように使役できるというパフォーマンスで、

島の神様の由来や性質や神と人とのイイ関係とはみたいな徳の高い話は全然無かったっけな・・・。

それは見えない世界に関わる者としてはランク低め。

 

まあまあ、というわけで、

 

10年越しの念願叶えて、今回は一人旅をしてきたのだ。

 

10年の間にどうにかメンヘラから脱することができたが、その契機はあの島にもあったように思う。

 

 

あの浜の砂、

真っ白でふかふかのシャラシャラで、

埋もれた裸足から淀んだ病みが抜けていく気がした。

 

地平まで遠く続き、足が深く沈む底知れない砂、

ふと、あまりに白いそれは砂でなくて、

みんな砕けた珊瑚が積もったものだと気がついた。

ひとつ拾ったその形はまるで骨のようだ。

洗骨、というイメージが湧く。

何千何万年の幾星霜、これまでもこれからも碧の波が骨を洗い清め続ける浜。

こうも開けて清々とした死の世界があるのか、

 

 

と衝撃と伴にその世界観が自分の内に灼きつくのを感じた。

 

常世の島からリアルの生活に帰って、死にたいことがある度に(割と毎晩w)

どう死にたいか想像して、あの浜で洗われる骨になる最期を思うと少しだけ安らかになって泣き寝入りできたのだった。

 

 

 

んで、

 

ずっとそんな妄想をしていたせいか、

あるいはダン飯アニメ12話のせいかw

ふとこんな遊び、あるいはマジナイを思いついた。

 



いくらでも落ちている丸い珊瑚をひとつ見つけて、

それを自分の頭蓋骨と見立てる。

 

骨盤、脊椎、腕の骨、足の骨、肋骨、目玉、歯・・・、

思いつくままにそれに似た珊瑚を拾っていく。

たまに内臓みたいなグロめの色形の珊瑚もあるので、それも拾う。

 

波打ち際には、波の来たとおりに珊瑚や漂流物が線状に溜まっているのだが、

そこは火葬場で骨を拾うあの台車の様子に似ていると見立てる。

細かい骨が散乱して適当に補完が効くところに、集めた珊瑚を並べていく。

 

するとこのように、なんとなくソレっぽくなる。

もちろんマルシルのようには詳しくはないがwまあ見立てだから!

魔術は意識の技術なので、高度にできるならそのほうがイイけども。

 

つまり、類感呪術による生前葬だな。

 

自分はこの浜で波に骨を洗われる死を切望しているのだが、

今時分当然そんなケガレを持ち込むことはできないわけで、

こういう形でそれを叶えたわけだ。

これなら浜にあるものを集めて並べただけ。

すぐ風や波に散らされていくし、誰にも怒られる謂れはないもんね。

葬式らしく花でも供えたいと思ったが、花を手折るのはためらわれたので、

シーグラスを飾っておいた。

 

花は浜辺にも結構いろいろ咲いてた。

というか、開けて明るいビーチ(常世)に行くためには防風林でもある鬱蒼と暗い緑のトンネルを通る必要があるのも対比や舞台装置として意味深だ。

緑のトンネルの内と外では風も湿度も光もまるで違っていて

違う世界に来たか生まれたかような感覚を誘導してくれるのだ。

意識を変性させる仕掛けが人為でなく自然にできあがっちゃってるのがスゲー素晴らしい。

 

しかし珊瑚もそうだがシーグラスもいくらでも落ちていた。

普通のビーチではこんなには落ちてないから、

やっぱ聖地のルールを守って誰も持ち帰ってないんだと思う。感心感心。

 

 

で、

三日目の早朝にコレを思いついて遊んでいたのだが、

雲が厚くてご来光を拝むのは諦めてたとこに日が差してきたよね・・・。

 

わーい完全にお迎えきたわ~。

 

いやー、善く死んだ。

 

これで一回死んだ気持ちで、

要らない思い込みや、病むこと痛いこと悲しいこと苦しいこと、

ずっといつもここで粉々になるまで洗われているんだという気持ちで、

 

新しい生、新しい一日、新しい今を、

そこに在るがままの世界と響き合って生きられるよね。

 

っていう、死と再生の儀式になったと思うのだ。

 

みんな真似していいよ☆ 

 

 

さて、

これはまだまだ本題ではなく、

いわば神社の手水場で手と口を洗うような行為だ。

神様に会いに行く前には、俗世のケガレを落とすべし。

 

久高島にはクボー御嶽という立ち入り禁止の場所があって、

くだんのオバーは入っちゃいけない場所の入り口の前に全員を立たせて例の祟り話をえんえん聞かせてくれたのだが、(校長の長話的なダルさ)

 

後に自称霊感のある知り合いにその話をして島の航空写真を見せると、

そこに神様いないよ」と言うのだ。

もっと島のまんなかあたりにいる」と。

 

 

は?

・・・マ?

いや、自分はわからないことは否定しない主義だ。

わからないことは保留して、検証するとか考察するとか。うん。

 

クボー御嶽というのは住民が祭りを行う場所だという。

広場、前座敷、つまり拝殿であり、本殿ではない?

 

確かに、神が鎮座する本殿の上で踊る輩はいない。

神の前に設えた舞台で、神をもてなし言祝ぐために祈り踊るものだろう。

 

ちなみに、岡本太郎の著作にはこの御嶽を撮った写真がある。

岡本太郎が訪れた当時は開けっ放しだったところ、

その後マナーありえん輩が湧いたせいでの出禁なのだ。

そこは自然のままに、森に囲まれた広場に石が置いてある。

そういう場所だ。

 

そういう在り方は島の各所に見ることができる。

 

ビーチへ向かうトンネルの途中にも脇道に石が積んであった。

サイクリングのマップにない獣道のような茂みの先にも、

人が出入りしてわずかに草や木を整え、石が置いてある場所がある。

 

島の信仰とはそのように素朴で原始的で、だからこそ最も根元的にパワフルなのだと岡本太郎は感嘆しているのだが。

 

そう、その本を読んでいたから自分も気がついた。

集落を沖縄本島を見ても、本土とは景色が違う。

お地蔵さまも道祖神も鳥居も、ひとつもない。

あるのは石敢當とシーサー。言葉は通じても文化圏は違う。

日本の常識を外して観察しなくては、聖地のサインがわからない。

 

いや、日本に限らず世界のどこでも、

パワースポットがあれば大抵人間は壁と屋根で覆って供物を捧げはじめる。

神殿やら教会やらの建築や鳥居や門などの境界を設けて、聖と俗を切り離す。

下々の者を遠ざけて権力や神職がパワスポを独占している、という言い方もできる。

 

しかしこのささやかな島では海が境界となり、不届き者も権力者も住み着きはしなかった。

だからすべてがそのまま、太古の様式のまま、万人に開け放してある。

 

そこは何気なくそこにあって、いっさい隠されてはいない。

ただ文字で示されてもいない。

人工物の境界で区切られてもいないが、看板や標識も無い。

そういう場所だった。

 

 

 

 

この広場とこの石、ここが島の中心だ。

きっとこの星の中心のひとつでもある。

 

自分の心身で「あーここかー」と思えて良かった。

 

立ち入りも祈りも写真もブログも、何も禁止されたとは思わなかった。

位の高い神様ほど何も禁じたりしなくなる。

愛そのものに近くなり、ただ許されて在るというありがたさばかり。

脱帽して一礼して入って、20分ばかり忘我に瞑想して、写真を撮って一礼して出た。

 

祈りっつーても、なにかお願いしたわけではない。

逆だ。

ああしたいこうなってほしい、という願いだが我欲だか洗脳だかわかんない想念、そういうものをぜんぶキレイさっぱりにして、

空っぽになってこの場と響き合って天と地を繋ぐただのアンテナにアンプになろう、とかそういう感じだ。

何事も無心になれたときこそ全てと調和して最も善く行えるのだ。

 

空より高く海より深く 星々の尽きるより遠く魂の始まりより古く

身もなく心もなく 名もなくわざもない

色即是空 空即是色 皆空

 

 

 

 

 

 

・・・で、

あとは、集落に近いビーチでぼ~っとしていた。

新しく生まれたんだからいわば産湯に浸かった気分。

やっぱトランスしたあとは着地も大事だからね。

チューニング最高感度のまま俗世の毒電波浴びたらバグるからw整理体操的な。

小さい浜だけど、メーギ浜が一番おだやかで優しくて和む浜だったな~。

穏やかだからそこに人が住もうと思ったんだな。受け入れられてる感じする。

青みがかった岩や、砂に赤い珊瑚が混じっているのも美しかった。

 

 

ああ、この浜で夕日を撮ろうと思ったんだけど曇ってて、

でも埠頭で歌うギター野郎がいたんだよな。

独りで海に向かってギターを鳴らし、

「たりないものは何も無い、大事なものはみんなここに在る。」

と歌う彼に、

まったく正しくこの島のシャーマンの系譜は継がれている気がして嬉しくなった。

拍手して手を振ったよ、そのとおりだと自分も思うよ。

自然と人との交歓と調和、ちむじゅらさんよー

 

 

龍だオーブだアセンションだとキャッキャする界隈を釣ってツアーして、

世界中の人々の健康を祈るなんて大仰な人ではちゃーならんと思ったけど、

なんくるないさ

 

 

ていうかまあ、それもまた縁だわけよ。

いちゃりばちょーでーゆいまーる

誰しも必要があるからそこに遣わされているんだはず。

 

実際のとこ祟り呪いとはいわずとも、

鏡写しの道理とか、オーバーフローとか、覚醒からの過敏とか、なくはないかもしらんので、

注意喚起はあるほうが親切。

 

集落の猫は近寄ると逃げちゃう感じだったが、

サイクリングロードの東屋にいたこの子はデレデレナデナデで猫欲も満足(*´з`)まやーちむがなさん

 

 

 

でーじイイ旅だったさー。

予報雨だらけでヤべーと思ったけど、

行ってみたら晴れたし、なんなら丁度よく曇って暑すぎなかったし。

いっぺーにふぇーでーびたん。

 

 

 

あ、もしこのブログ見て行きたくなった人がいるかもであれば、

注意点も書いておきましょうね〜。

 

島は海に囲まれてまず湿度パねぇから。

つか4月でもすでに夏だったから。

ウグイスがフーフイチョセミジージーグヮーが合奏するカオスだったから。

フツーに蚊にくわれるから長ズボン推奨で。

あと帽子と、日よけに持っていったタオルが蚊除けによかった。

靴をマリンシューズという選択にしてみたんだけど、それは一長一短だったかな~。

歩くのをサポートする機能はないし泥がしみるし小石がハマりこむけど、

濡れても履いてるうちにすぐ乾くのは快適だった。

ビーサンの最上位互換って感じかな。

すっぽ抜けたりしないし安かったのも良かった。

 

ウグイスとセミといえば、なんか森の方でポーポーと誰か笛を吹くような音がしてたけど、あれは本土で聞いたことないやつだったなあ。鳥・・・かな?

 

えーとあと、島について自転車借りるのはマストだな。

歩きでも行けますなんていうけど、道中は景色おもんないし時間もったいないから。

 

日中の暑い時間よりサンライズとサンセットをおすすめしたいが、

島には民宿と交流館しかないからな。

風呂無しシャワーのみが地味にツラなのでそこはよく考えて。

食事も島に食堂が一軒なので、普通においしくはあるがグルメに期待とかしないように。

イラブー汁はまあ・・・、精がつくのはわかるけど一回食べたらもういいかな・・・。

現代人のよわよわのアゴではいつまでも嚙み切れなくてさー、ぐにぐにしてて、・・・うん。

そんでペットボトルとかゴミは持ち帰りで。島に焼却場がないから本島に運んで処理してるんだってさ。

 

 

 

自分が素晴らしいと思った場所はここ。

鏡も勾玉も剣も仏像も、いかにもありがたい御本尊はなーんも置かれて無いここで何を感じるか、

なにも感じないかは貴方次第だが、

 

当ブログ読者、ジブリ育ちであれば緑のトンネルを抜けるだけでそこは異世界なのだと心のどこかが囁いてくれるはずだ。

ふらっと足が向き、ここなんとなくエモいと思えて帰れたら、それが最高。

 

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沖縄方言はだいだいこれで学んだ。

ネイティブからしたら間違いなく恥ずかしいハシャギっぷりでサーセン

 

 

追記。

自称霊感のある知り合い(自称前世ムーの神官w)に

これらの写真を見せたらば「ここだね」というお墨付きが出ましたww

マジかwwwあざすwww

 

 

追記のいらん考察。

 

しかし拝殿が立ち入り禁止で、本殿が全開放とはなぁ〜。

本末転倒のようで、もののわからん人々にはちょうどいい目眩しなのかも。

誰だって閉じられた金庫の中にこそお宝があると想像を逞しくする。

そして部屋のまんなかにポンと置いてあるものが最も価値あることに気づかないっていうね。

まぁまぁ、別に島はどこでも聖地であることには違いなし。いいわな。

 

それにしても、ほんとに草木を整え石を置くだけの、

子どもが遊びでもつくりそうな素朴な祭場であった。

 

それでいて集落の伝統建築は、小さな平家の家と祭壇が双子のように建っているもので、

暮らす事と祈る事の比重がほぼ同じであることを視覚的に感じさせたし、

住民の墓も本島と同じくシーミー(宴会)ができるスペースつきの立派なものが、

みんな海の方を向いて建てられているという厳粛なものだった。

ささやかな農業と漁業と観光と、現金収入に乏しいことは想像に難くない島で、信仰まわりにはがっつりコストがかかっている。

 

だからやっぱり、あえてそのままなんだろうな。

囲い閉ざせば滞るとか不敬にあたるとか、

最も神聖なところは、すでに完成されているから、できるだけ手を加えないとか、

そんな感覚かなぁ。

ちゅらかーぎー(美人)に余計な化粧はいらない、髪だけ梳いてすっぴんが一番。みたいな?

 

 

今週のお題「外でしたいこと」