ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

もののけ姫を解釈する3 神殺し、花咲か爺さん。

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

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前回の記事で、

ナウシカが聖母の物語、

アシタカの追放が母子の分離に相当すると書いた。

 

母親と自分が一体で不可分の乳幼児期、

母親を他者だと認識する自意識の芽生える幼少期、

 

では次にくる意識の成長の段階は?

反抗期ってやつだ。

 

親と対峙し、親に対して自己を主張し、

そして主張を通して、親よりも自分のほうを優位にしようとする。

 

が、そこで親は子どもの反逆を野放しにすべきではない。

親の威厳を保ちつつ、どの程度子どもの自由意志を尊重するのか、というような、

親子間での綱引き、パワーゲームが、どこのご家庭でも発生するだろう。

 

片方に親、片方に子がのった天秤が、

子どもの方に傾いてしまってはいけない。

王様のような子に、親が仕えてしまうのでは家庭崩壊となる。

 

天秤を自分の方に傾けられない子どもは、どうするべきか。

 

心理学では、人間は精神的な自立への過程で、

通過儀礼として精神的な親殺しを必要とするという。

 

精神的親殺し、つまりそれが 神殺し の意味するところだ。

 

親と子、

自然と人間、

 

大きなものから生まれた小さなもの。

小さなものが育って大きくなっていくときに、

自分を生んだ大きなものと、どういう関係性の変化を経ていくべきか。

 

自然から生まれた人間が、火を得、鉄を得、文明によって勢力を拡大するとき、

母なる自然と、どういう関係性の変化を経ていくべきか、

 

そこに親子の心理学が当てはまるってことは、

 

人間の意識のなかに、親=自然=神、っていう象徴的な相似があるんだよな。

それは、自分という存在を生みだした上位者、というようなイメージの符号だ。

 

 

 

さて、もののけ姫においては、エボシが神殺しの役割を担うキャラクターだ。

 

エボシを考察するとき、苛烈さと慈悲深さのどちらに注目すべきか、みたいな難しさがあるようで、

ある視点を導入すれば、その行動原理は一貫していると解る。

 

ピクシブ百科には、エボシも女衒に売られた娘であり、倭寇頭目だった夫を殺して、明国の石火矢を持ち帰った、とある。

 

神を殺す前に、すでにエボシは集団のリーダーであった夫を殺している。

小さきもの、弱きものが、自分に君臨する上位者、支配者を、

打ち倒し、成り代わっているのだ。

 

内面的な自立ではなく、

天秤を自分の方へ傾けて、力関係を逆転させて、パワーゲームの勝者になっている。

 

エボシがタタラ場を統治するやり方を見ても、この成功体験を原型として繰り返しているように思える。

 

新興勢力のタタラ場と、権力者の朝廷や地侍という関係も小と大の対比だけど、

病の者と、タタラ場の民。

石火矢衆と、タタラ場の民。

女衆と、男衆。

 

自分の統治する集団のなかに二つに分けられる勢力があると、

エボシは必ず、弱者の方に肩入れするというか、

少数派の、軽んじられ虐げられ蔑まれ、撓められた不満の力、悔しさの力、反発力を利用して事を成そうとする。

 

その力を利用するためには、かえって分断を煽るようなことさえ言う。

「侍だけじゃないよ、石火矢衆が敵になるかもしれない。」

「男たちは頼りにならない」ってね。

 

病の者を秘密の庭に匿っているのは慈悲深いけれど、

きっと「皆は恐れて近寄らぬ」という、病への恐怖や差別を是正しようとはしてないと思うぞ。

エボシが、病の者にも手を差し伸べよ、皆で力を合わせよう、と言えば、

それを受け入れる人も多くいたはずだが、そういうことはしていないし、

 

タタラ場の暮らしの様子を見ても、

男衆は男衆でかたまって飯を食い、石火矢衆は石火矢衆でかたまって飯を食っている。

仕事場も別、食卓も別で、

皆で、同じ釜の飯を食うっていう団欒の場を設けていないのだ。

まあ、そこは時代考証的にそうだったのかもしんないけど。

 

しかし普通、善い為政者といえば、

自分の治める集団の中に不和があれば、両者の落としどころを折衝するものではなかろうか?

内部分裂をあえて誘発するエボシのやり方は、乱世の雄、革命家、反逆者。

あるいは植民地支配の方法論、自然を征服するという西洋的な思想に通じている。

 

エボシの最後のセリフは「ここを良い村にしよう」だけど、

それって裏を返せば、今までは、良い村をつくろうなんて、これっぽっっっちも思ってなかったってことじゃないかなー・・・。

猪との戦に連れて行った男衆は、敵もろともに吹っ飛ばす囮にした。

弱い者だけを守り、それ以外は使い捨て上等なのだ。

 

ちなみに、エボシが乱世の将なら、平時のリーダーに相応しいのがおトキさんだ。

普段から女衆をまとめ、甲六を尻に敷きつつも夫婦をやり、籠城の際は病の者とも親しくなっている。

エボシの分断統治を越えて、融和の指針を示していけるキャラに見える。

さすがCV島本須美ナウシカと同じ)だけあるヒロイン、赤い着物は伊達ではない。

 

さらにちなみに、次作の湯バーバではカエル男衆もナメクジ女衆も合わせてまとめることができている。

「女も力を出すんだ、油屋一同、心を合わせて引けやぁ、ソーレ!」という音頭を執る。

リーダーシップが進歩しているのを見ることができるのだ。

 

 

 

 

閑話休題。時を戻そう。

 

人為と、自然。

タタラ場と、太古より神聖不可侵の大森林。

 

これも小と大の対比、か弱い者と、大きくて強い者だ。

だからエボシは、夫殺しの成功体験に従って、森殺し、神殺しをする。

夫を殺して石火矢という強大な力を得たように、

森を切り取って鉄の武器を製造する集落を得たように、

神の首を落とせば、より強い力が手に入ると思っている。

君臨する大きなものを打ち倒し、成り代わろうと行動する。

 

が、冒頭で述べたように、

子どもの反抗期の言いなりになっては、家庭が崩壊するし、

人為が自然を凌駕してうまくいくことなど何もないのだと、現代人はさすがにうすうす肌で感じていることと思う。

 

一昔前のSFが啓蒙した、科学の栄光の世界観では、いつか人類は地球のメカニズム、生命のメカニズムを解き明かし、

ピカピカの白銀の宇宙船に、コンパクトに再現した生態系や人造生命を積み込んで、宇宙開拓時代へ船出するのだと、無邪気に信じていたけども。

 

コールドスリープテラフォーミング、バイオスフィア、クローン、いつの間にか色褪せた言葉になったものだよ。(遠い目)

 

今のまま進んでも、人が母なる自然の神秘のわざを会得することはできなくて、

人が、理性が、科学が、文明が、顕なるものが。

自然を切り取って征服していく方法論の限界は既に見えていて、

 

宮崎駿の世界観では、コナンでもナウシカでもラピュタでも、

いつも愚かな人類の超文明は滅びていて、自然へ回帰することが肯定的に描かれる。

 

もののけ姫でもそうだ。

エボシが神域で石火矢をぶっぱなしたところで、

親には親の、神には神の、器の大きさ、懐の深さがあると、子に覚らせるターンになる。

 

そこで、シシ神だ。

前の記事で、シシ神という名は四足獣の姿のことを指した敬称だと書いたが、

 

昼の姿をみると、獣の体に、赤いお面をつけているようにも見える。

横顔を見ると、その鼻面は獣にしては短い。猿か人のようだ。

目は白目部分が大きくて、それは人間に特有の特徴だ。

ま、アニメや漫画では動物でもそういう目の表現になることが多い。

感情表現が描きやすく読み取りやすいから。

進化の過程で人類が視覚によるコミュニケーションに特化して獲得した形質だもの。

モロの目も人間の目だ。言語を操る狼(オオカミ=大神)、獣以上の存在であるという表現だろう。

ヤックルの目は獣の目と、ちゃんと描きわけられている。

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そして夜の姿をみると、直立二足歩行の人間の体に、鼻面の長い獣の顔、というシルエットをしている。

 

昼は人面獣身、夜は獣面人身、

つまり獣達の神でもあり、人類の神でもあるんだと思われる。

夜と昼、獣と人、自然と人為、生と死、二項対立のどちらもを併せ持つ神。

 

まあ、産みだすことと死んだものをひきとることは、どちらも大地母神のお仕事だし、

夜の方が本体と真名であるように見えるので、どちらかというと女神的であるとする。

 

デイダラボッチというのは、日本神話に編纂されなかった、民話伝承の創世神だ。

原初の巨人神話というのは世界中に類型がある。

ユミル(北欧神話)、タイタン(ギリシャ神話)、盤古(中国神話)、

プルシャ、ヒラニヤガルバ(インド神話)、マンザシリ(モンゴル神話)、タネマフタ(マオリ神話) などなど。

原初の巨人の体が大地に山に、目が月や太陽に、足跡が湖に、髪が植物や動物になって、世界が今のような姿になった、と古代の人達は皆そのように口伝した。

 

その体を世界そのものに変えた原初の巨人は、したがってその後、人間の目に映ることはないのだが。

 

太陽の、理性の、人の顕在意識の、顕なる世界の眠るとき、

 

夜の闇の、夢の、無意識の、密なる世界のとき、

そこには去ったはずの神々が息づいているらしい。

 

デイダラボッチが倒れ、山々に新芽が芽吹いた時、

甲六が「シシ神は花咲か爺さんだったのか・・・」と口にするが、

 

花咲か爺さんというのは、

白い犬が人に恵みをもたらしてくれる物語だ。

モロ一族が白い山犬なのもこれがイメージの元だろう。

 

この場合の意味するところを解釈すると、

 

白い犬は、何度も人に殺されるが、その度に姿を変えて恵みをもたらしてくれる「何か」の象徴となる。

 

「ここ掘れワンワン」で、穴を掘ると宝が出る。

鍬、鉄器を大地に突き立てて耕すと、恵みを得られる。

 

犬を殺し、埋めると大木になる。

弓や罠で獣を獲り刃物で解体すると、肉や毛皮を得られる。

 

大木を臼にするとモチが湧く。

斧やノミ、鉄器で木を削れば、道具を得られる。

 

臼を燃やした灰が花を咲かせる。

火によって、鉄器によって、

人間は自然からなにかを切り取り、自分達に利するものに加工する。

 

地母神の体を、鉄や火で殺すたび、生活が豊かになる。そういうことだ。

 

「シシ神は死にはしないよ、生と死の両方もっているものだから」とアシタカは言うけど、

 

花咲か爺さん、ということは、

原初の巨人デイダラボッチは、何度でも死ぬほどに、形を変えて恵みになってくれるもの、ということではないかな。

 

神聖不可侵の大森林は、神殺しを、人の開拓を受けて、暮らすための恵みを得ていける里山に変わっていった。

 

 

しかし、灰が花になった、その後はどうなるんだろうね?

 

殺す度に変身し、恵みをもたらしてくれた母なる自然も無尽蔵ではない。

 

大森林を里山にし、里山を田畑にし、田畑を宅地にし、

宅地をビル街へ、華やかな摩天楼へと変えてしまったら・・・、もう、その先がない。

 

地球は無辺でなく球体なのだ、作ったもの壊したもの捨てたもの、巡り巡っていつか自分達に帰ってくることが分かった。

 

それが、神殺しの限界、自然を征服するという思想と方法論の限界だと思う。

 

次作の千と千尋の神隠しには、川の主が竜として登場するが、

あれも神殺しだ。竜の体である川に刃物を入れ、様々な土木の技で治水してきた。川底を掘り、土を積み、流れを変え、暗渠を作り、ダムを作った。

そうして思いのままに竜を殺しながら、水の恵みを得てきたけど。

 

だが利水も行き過ぎて環境破壊になった例も、近代では枚挙に暇がない。

諫早湾干拓問題とか、消えたアラル海とか。

最近だと、三峡ダムが崩壊すればどれほどの被害になるかってことが話題になったっけ。

1980年代にはダム建設反対運動とかのムーブメントがあって、

むやみにコンクリで固めればいいってもんじゃくて、

自然は密接に関わり合う複雑系なんだから、その在り方に沿った開発でなくては長持ちしないことが分かってきた。

もののけ姫は1997年、ちょうど転換期に、宮崎駿年代から発せられたメッセージだったんだよな。

 

もののけ姫、神殺しの物語は、反抗期の段階の物語であり、

親、自然、上位者、支配者、君臨する者を、本当の意味で越えていくには、

自由と自在の境地へ至るためには、

 

自身の内面にある、それらの像(イメージ)と向き合い、それを幻と看破しなくてはならない。

 

エボシとシシ神は、まだ、

親を殺そうとする子と、それでも子を包み込み、糧を与えていく親の姿。

その相似形だ。

 

精神的な成長のテーマは次作へと持ち越され、

坊と湯バーバ、毒親のスポイルから家出、

ハクと湯バーバ、ブラック企業に辞表提出決意、

マルクルと疑似家族、で健全な家庭での育てなおし、

ハウルとサリマンで、ようやっと精神的な自立の物語になっている。

 

順当に、実に丁寧に、関係性の段階を描き積み上げていくのだ。

 

 

 

 

 

・・・、しかし、象徴的類似を突き詰めるなら、実のところ。

 

エボシは夫殺しではなく、父親殺しの原体験をもっているべきだった。

 

が、宮崎駿にはそれは決して描き得ないものなのだ。今のところ。

 

風立ちぬまで行っても、父権の像に撃ち落とされているからな・・・。

 

父権、父権に対峙する息子、長たるもののあるべき姿、みたいなものが描けないっていうのは、

もののけ姫でも見てとれる。

 

次の記事は、乙事主の話題から入ろう。

 

 

前回の記事

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 新海誠は神殺しの先の段階を描けている。

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近代的な発展を支えた思想、自然を征服する一神教的な思想、父なる神の庇護と支配の表裏に興味を持ったなら、

自分的には小室直樹の本がお勧めだ。

目から鱗がボロボロ落ちてキモチイイ~ってなる。今までの世界観が根本からぐらぐらする知的快楽。

 

 

 

ハウルの記事。もう少し推敲したいところだ。

ハウルのテーマこそ、自分の書きたいものと合致しているので、

もののけ姫の記事は実はちょっと書いてて重く苦しい。

 

母なるもの自然と、父なるもの理想、その相克ではなくて、

両者の統合によるシフトアップについて、止揚して、0と無限と共振して、次元が上昇する素晴らしさについてこそ、ずっと想いを馳せていたいものだ。

 

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 ピクシブ百科の記事。

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エボシが金屋子神、製鉄の神が元ネタていう考察があるけど、金屋子神は犬と仲悪いのでwそうかもなって気もするwww

もののけ姫を解釈する2 楽園追放、バーストラウマ。

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もののけ姫風の谷のナウシカが背中合わせの物語であることは、考察好きの間では割と知られた話だという。

 

遥か過去において、人の文明が森を征服していくさまと、

遥か未来において、森が人の文明を呑み込んでいくさまと、

 

そういう言い方をしてみれば、舞台設定からして反転、対称になっているし、

 

前の記事ではいきなりオチの類似について書いてしまったが、

他にも色んな切り口がある。

 

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ナウシカは、当時の宮崎駿が考えうるチートの全てを突っ込んだキャラクターであり、

敵も味方も獣も蟲も魅了するマドンナ、

超自然の直観とテレパシーをもつシャーマン、

空を飛ぶ赤い髪の魔女、白い翼に乗る天使、

我を忘れて戦う獰猛な戦士、

民を導くカリスマをもった英雄、

腐海でフィールドワークして城の地下に実験施設を持つ、研究者、科学者、探究者。

いくつもの側面を併せ持ち、

もうナウシカひとりで全部できるじゃん!

っていう完璧超人キャラにしたがゆえに、

ナウシカ一人の肩に世界の行く末が全部のしかかってしまった物語でもある。

漫画版では特にそうだ、

一人で世界の秘密をどこまでも追い求めて旅し、

一人で旧世界の秩序と対峙し、巨神兵で薙ぎ払う。

あまりの所業に、「破壊と慈悲の混沌」だと神のごとく形容されている。

 

しかし、さすがにやり過ぎたと思ったのか、

それともやれることはやりきったということか、

その後の物語では、一人のキャラに設定全部盛り方式は採用せず、

メイとサツキ、キキとウルスラのように、裏と表をそれぞれに分担させるキャラメイキングになる。

 

もののけ姫では、

直観に優れた戦士、英雄の側面をアシタカに、

破壊と慈悲の混沌である女神の側面をシシ神にわけて描いている。

 

そういうふうにキャラを設定しなおして同じ事件を起こすと、物語がどう転がるのか?

 

もののけ姫と、風の谷のナウシカで、同じことが起きている場面がある。

 

アシタカの村にタタリガミが現れた状況と、

風の谷にウシアブが現れた状況、

これはよく似た外的脅威の表現だ。嫌悪を催すグロめの外観や、大きさの印象も近い。

 

タタリガミは黒い蛆や蛇のような可視化された呪いを撒き散らし、

ウシアブは胞子を持ち込み、腐海を呼び寄せる。

 

伝染性の病原の恐怖だ。

コロナ禍と言われる昨今なら、この恐ろしさの肌感覚はまだ記憶に新しい。

たった一頭から、土も人も腐るケガレが広がって共同体が滅びかねないのだ。

 

ナウシカには蟲鎮め、魂鎮めの不思議な力がある。

ウシアブを静かに見つめ「森へお帰り、大丈夫、飛べるわ。」で、

傷だらけで興奮していたウシアブは、自力で飛びたち帰っていく。

ナウシカに伴われて飛ぶウシアブは、ちょっとかわいくさえ思える。

 

アシタカの村には、この力をもつ者がいない。

アシタカも矢を射る前に「鎮まりたまえ」とちゃんと声をかけているのだが、

タタリガミは勢いを緩めず突進し続ける。

アシタカは、ナゴの守にも乙事主にもデイダラボッチにも、荒ぶる神々に都合三度「鎮まりたまえ」と声をかけるのだが、その呼びかけには心を通わせる力が宿らないのだ。

アシタカの魂鎮めの言葉には、効果がない。

だから次のアクションが生まれ、物語が転がる。

 

また、アシタカの村には姫ねえさまはいないが、ヒイさまというシャーマンがいる。

ヒイさま、というのは姫様の音便化だ。おひいさま。

しかし赤毛の姫ねえさまと違って、ヒイさまの髪は白い。老いて色を失い、力を失っている。

 

ヒイさまも鎮めの言葉をかける「あなたの御霊をお祀りします、どうか恨みを忘れ鎮まり下さい」ってね。

ナゴの返答はこうだ。「穢らわしい人間ども、我が苦しみと憎しみを知れ」

魂鎮めは効かず、呪詛を吐きながら巨大な猪は溶け腐る。ひたすらに不吉だ。

 

呪われたアシタカは追放されることになる。

 

ナゴの守の呪いは、放っておけば血縁の濃い集落を七代祟り抜いただろう。

村ごと滅びかねないから、感染者を切り離すしかなかったのだ。

 

 

 

もし、物語の最後にアシタカが村へ帰れば、

族長になるべき若者がその地位に相応しい実力をつけて帰還する、貴種漂流譚という類型になっただろうが、

アシタカはタタラ場で生きるという。

 

となると、これは型としては楽園追放かなって感じがするんだよなあ。

 

楽園追放、あるいは失楽園、聖書の有名なエピソードだ。

神の楽園、エデンで生まれたアダムとイヴが、蛇に唆されて知恵の実を口にし、放逐される。

放逐された世界には、楽園にはなかったあらゆる苦しみが渦巻いている。

 

村を出たアシタカもすぐにそれを知る、

人里に下りるやいなや侍を二人殺すことになり、憎しみの連鎖の業(ごう)に巻き込まれる。

ジコ坊もそれを教えてくれる。

「人心の乱れること麻の如しだ」

「洪水か地滑りか、さぞたくさん死んだろうに。

 戦、行き倒れ、病に飢え、人界は恨みを呑んで死んだ亡者でひしめいとる。

 祟りと言うなら、この世は祟りそのものよ」

 

東の果ての、いにしえの民の暮らし、

連綿と自然と調和して続いていた世界からは考えられないほど、

放逐された先の世界は苦しみと憎しみに満ちていると、落差、対比が描写されるのだ。

 

楽園追放は、人心に訴える寓意に満ちた物語だ。

踏襲、引用、オマージュ、パロディ、数えきれないほどある。

Apple社のロゴだって知恵の実なのだ。毎日でも目に入る。

 

楽園追放を、バーストラウマの物語と解釈することもできる。

Birth trauma、出生時心的外傷。

それは全人類が共感できる、普遍的なテーマと言えるだろう。

人は一人の例外もなく、母から生まれるのだから。

母の胎内というのは、いわば楽園だ。

 

エデンには暑さ寒さもなく、他者もおらず恥という概念もなかったので、衣服というものもなかった。飢えるということもなかった。

 

胎内もそうだ。寒くも暑くもない、いつも暖かく快く胎児は裸で、

臍の緒から酸素と栄養が届き、空腹を感じることも、呼吸をする必要さえない。

 

なにより胎児は未だこの世の苦しみの全てを知る前であり、

感じているのはただただ、すべてを過不足なく与えてくれる母体との一体感、

小さな細胞から自分の体がぐんぐんと組みあがっていくという素晴らしい奇跡。

これ以上ない神人合一の安らぎと自己実現の歓びのなかで微睡む、まさに楽園の心地。

 

そこから出産となると、母子ともに死の危険すらあるクライシスになる。

陣痛を経て狭い産道を潜る、潜れなければ死ぬ。(今は医療が発達してるけど)

臍の緒を断ち切られ、まず呼吸をしなくてはいけない、できなければ苦しい、死ぬ。

腹が減る、喉が渇く、空腹は苦しく、母乳を飲まなくては死ぬ。

暑かったり寒かったりする不快を知り、暑さ寒さが過ぎれば死ぬ。

母乳の時期を過ぎれば、動物でも植物でも自分と同じように生きるものを殺して食べて生きていく、という業(ごう)の環に加わるより他にない。

 

楽園だった胎内世界から出てくれば、この世は不快と苦しみと死の危険の連続なのだ。

 

誰もが忘れてしまう幼い頃、胎内と外界、二つの世界を経験したこと。

その際のあまりの落差、変化によって受けたショックをバーストラウマと言う。

 

それが楽園追放の物語に潜む暗喩、人心を惹きつけてやまない普遍的な元型だ。 

 

楽園追放は、原罪、という実にしょーもない思い込みの出典の物語でもあるけど、

神に見放された恐怖というのは、記憶の底の、母胎と切り離された痛みと符合して結びつき、根深いものになっているように思う。

 

ああ、でも、聖書の神といえばヤハウェ、契約の神であり男性的な印象をお持ちではないかと思う。

白い服、白い髭の老人みたいな、よくある神様のイラスト的なイメージのアレだ。

しかし、

そもそも、楽園と知恵の実の物語はシュメールの古い神話のものだった、と

神話研究者、我が心の師匠ジョーゼフ・キャンベルの著作に記述がある。

女神の楽園で、女神が人に知の象徴の果実を授ける神話だったのを、

一神教が布教の過程で取り込んだ。

楽園はヤハウェのものであり、土着の女神は悪魔の蛇だと貶め、役をすり替えたのだ、と。

 

・・・ま、日本人にはあまりピンとこないかもしれないが。

布教の過程、民族の勢力拡大の過程で、勝者が敗者の文化を改竄して取り込むのは、よくあることだ。

キリスト教でもソロモンの72柱の悪魔はみんな元は土着の神や精霊だし、

仏教の天部は元はヒンドゥーの神々だし、

日本でも弥生人の神話体系に、縄文の神々が国津神として併呑されていった痕跡がある。前者の総本山が伊勢、後者が出雲で祀られている。

 

・・・めっちゃ早口で言ってそうな情報量になってしまったw

閑話休題

 

そもそも遥か古代、祝福と誕生の物語があった。

それが裏切りと追放の物語に読み変えられていた。

人類の深層意識には、大地母神からの分離、契約や秩序の父なる神の台頭、という転換点があったということが、未だ深く、痛みと共に刻まれている、という話。

 

ナウシカが、古い古い神話の元型に則った、すべてを導く聖母の物語だったとすれば、

アシタカの追放という導入部分は、母子の分離という次の段階を描いている。

 

 

さて、楽園追放のキーアイテムといえば知恵の実だが。

 

知恵の実とは、

神と人が一者・一体、分かたれない同一であり調和であった世界に、

自と他という二者、主体と客体、正と負、善と悪、陰と陽、男と女、人為と自然、

あらゆる二項対立とその関係性を生じさせた認識、その象徴だ。

 

知恵の実を食べたイヴは、アダムを異性と認識し、裸でいることを恥じた。 

それはつまり、母の前で裸を恥じる赤子はいなくて、

はだかんぼが恥ずかしくなるのは、まあ個人差があるだろうが、

自意識の芽生え、母を他者と認識するところから生じる気持ちと行動だといえば解りやすいだろうか?

 

 

もののけ姫の物語でいうと、

ナゴの守の「我が苦しみと憎しみを知れ」という言霊が知恵の実に該当するだろう。

 

呪いと言えば呪いだが、

思い知れ、とは言い換えれば、自分の気持ちを解ってほしい、ということでもある。

知れ、というのは依頼であり懇願であり、託された使命でもある。

 

アシタカは呪われて追放された、という解釈もできるけど、

アシタカは遺志を託されて旅立った、と解釈しても意外と成り立つ、よく出来た話なのだ。

 

生まれてきた世界、外の世界にあるものが苦しみや憎しみや呪いだけなのかどうか、

 

自我、という視点から見る世界が、修羅の庭なのか、楽園なのか。

 

知恵の実が、この世界に生まれてきたことが、人に与えられた呪いなのか、祝福なのか。

 

それを見極め、決めるのは、誰でもない己自身の心だ。

 

そのために、曇りなき眼が要る。

 

先入観、期待、恐れ、欲、甘え、嘲り、あらゆる認知のバイアスを努めて排し、

明鏡止水とした自分の心に、あるがままの世界の姿を写そうと試みることだ。

 

外の世界に出たアシタカは、

エボシに会い、エボシの秘密の庭に招かれ、エボシの心を知り、

シシ神に会い、シシ神の池で傷を癒され、シシ神の心を知った。

 

それはどちらも本当はナゴの守がすべきだったけれど、できなかったことだ。

 

ナゴの目と心は、敵への憎しみと、神への誤解で曇っていた。

 

エボシが「愚かな猪め、呪うなら私を呪えばいいものを」と言うけど、

それは実にまったく仰る通りで、

ナゴの守は、タタリガミ化というバーサクのパワーを手に入れたなら、死なばもろともにエボシに突っ込めば良かったのだ。

エボシが怖いなら、タタラ場に突っ込んで呪いを撒き散らしてもよかった。(よくはないけど。)

勝てないまでも痛み分けにできる機があったんだけど。

 

土地神だったナゴの守は、守るべき土地を守れず、知るべきことを知ろうとせず、敵を恐れ、死を恐れ、逃げた。

 

逃げて逃げて、地の果てまで逃げた先で、自分に「鎮まり給え」と声をかけ、穢れた身に矢を射かけることを厭わなかった青年を見つけた。

 

自らが持つべきで持てなかった、敬虔さと勇敢さを持った者に、自分が出来なかったことをして欲しいと思ったかもしんないよね。

 

アシタカの腕には、タタリガミの呪いが、ナゴの守の想いがくっついている。

背後霊というか守護霊というか持ち霊というか、

シャーマンキングのオーバーソウルみたいな状態っぽくみえる。

矢を射る時、ゴンザの刀を曲げた時、十人ががりで開ける大門をひとりで開けた時、

アシタカの意志に反応して、呪いが、ナゴが常ならぬ力を貸してくれているのだ。

代わりに浸食が進むけど。

 

エボシがナゴのことを口にした時と、シシ神の姿を見た時、右腕は勝手に暴れ出す。

そこにはナゴの守の、無念というか悔恨というか未練というか、そういうものがある。

 

アシタカがしたことを、ナゴはみんな見ていたはずだ。

すべてが終わった時、右腕の呪いは痕だけ残して消えている。

 

それはシシ神の血が万病を癒した、というよりは、

憑いてきてたナゴの守の無念が晴れたんだ、という解釈をしたいと思う。

 

アシタカは呪いを解いた。

「我が苦しみと憎しみを知れ」という呪いと懇願の表裏一体の想いを託され、

ナゴの守が死に至った経緯を知り、敵の心を知り、神の心に触れた。

 

 

他者だと思っていたものの心を深く理解することができれば、憎しみも期待も恐れも拠り所をなくす。

憎しみでも恐れでも、あらゆるネガティブな想念の本質は、愛から遠ざかること、不理解や分断にある。

それはやっぱり、幻だ。

 

敵もなく、神もなく、己もないという、

すべてが一体の調和の感覚、楽園の感覚を、

曇りなき眼で見つめ、知ることによって、再び取り戻していくことができる。

 

託された呪いも懇願も果たされた。

知の芽生えより分断され、知の成熟により統合へ向かっていくという、

人の認識の、知恵の実の禍福を知り、

「この世は祟りそのものよ」とまで言わしめる原罪の呪縛を解く。

誕生の痛み、分離の痛みを手繰り寄せて癒す。

 

するとどうなるかっていうと、

軽くなった自分の心で、そこにある世界をただ見ることができるようになる。

絶対者に追放された先の世界を、己の心で再び楽園に変えることができるんだよな。

 

どこででも、自分のいる場所を楽園に変えて生きていける。

 

与えられたものを越えて変わることのできる力、それが心だ。

 

 

 

「いつも何度でも」はもののけ姫にインスピレーションを受けた歌という情報をもらったけど、http://www.tapthepop.net/extra/56735

 

まさにそんな感じ、心も体も曇りなく、ゼロにすることを体得したなら、

海の彼方に探さなくても、楽園はここにあったと気がつくことができる。

 


いつも何度でも / 木村弓

 

まあ。

もののけ姫は登場人物が多く勢力図も複雑なので、見逃しがちだけど、

ナゴとアシタカだけに注目してみても面白いよっていう話。 

何度か見てるとナゴにも萌えがあると思えてくるw

 

エボシの心と、シシ神の心、その辺が具体的にどういうものかってことは次の記事で詳しくしていきたい。

楽園追放、母子の分離を描いたから、

次は神殺し、反抗期の段階を描くことになるのだ。

 

 

inspiration.hateblo.jp

 

 

 

 

 失楽園ってーと古いドラマの印象が強い(歳がバレるw)ので、

楽園追放という言い方にした。。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B1%E6%A5%BD%E5%9C%92

 

貴種漂流譚

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A#:~:text=%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A%EF%BC%88%E3%81%8D%E3%81%97%E3%82%85,%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%9F%E3%82%93%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%82%82%E3%80%82

 

女神=母=森=夜=自然、この辺の象徴的類似を直感的に理解できるような記事がそのうち書ければなーと思ってる。

ジョーゼフ・キャンベルの世界観を知ると、象徴、暗喩、解釈、そういうものの見方が身につくけど、

翻訳だからか、ちょっと上級者向けの文体なんだよな。

対談形式の「神話の力」が思わぬ流れで色んな話が読めて面白い、と思う。

自分的には棺桶に入れたい本10選に入る名著。

 

 

 想文」

もののけ姫を解釈する1 真ヒロインは誰か?

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もののけ姫はなにしろトピックが大量なので、記事を小分けにのんびり書いていきたい。

 

もののけ姫風の谷のナウシカが劇場公開されているが、意味深なチョイスだと思う。

この二つの物語はどういうわけか対照になっているので、比較してみるとすごく面白いのだ。

 

まず、とっつきやすい導入として、

もののけ姫の物語の、真のヒロインは誰だと思うだろうか?

 

サンか、エボシか、カヤか、おトキさんか。

 

それぞれに魅力ある女性達ではあるんだけど、

 

彼女たちはみんな黒髪だ。

宮崎駿のよく描く、魔法を持った赤い髪の女性がいない。

ナウシカのような、不思議な力で不可能と思えることを成し遂げてしまう女性がいない。

 

inspiration.hateblo.jp

 

魔女の不在、それがもののけ姫を見ていて苦しいところでもある。

ナウシカのような、女神と英雄の超自然の力、空飛ぶ魔法、魂鎮めの力、それ無しで、果たしてどこまでやれるのかっていう。

宮崎駿がそれまでの得意技のすべてを封印して挑んでみた作品なんじゃないかなあ。

ついでに言うと、空想機械も幼女もマスコットも出てこないというのも縛りプレイっぽい。

 

それでそれらの力を持ちえないアシタカは、あがいてあがいて足掻き抜くことになってしまうのでは、と思えてならない。

 

しかし、女性という姿形じゃなくて、

赤毛、オレンジやニンジン色の髪色、という特徴に注目するとだ。

 

ヤックルと、シシ神が、

ナウシカ・ドーラ・メイ・ウルスラ・フィオの髪と同じ系統の色であることに気がつく。手綱や面の色も赤だ。

宮崎駿の世界観で、この配色には共通する意味がある。

西洋の古い偏見では、赤毛は魔女の証なのだ。

 

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ヤックルは、アカシシという獣でありながら、人間のアシタカにものすごく献身的に寄り添ってくれる。

獣の範疇を超えた知性を感じる、心が通じ合った良きパートナーだ。

それは異種族、異形と交情し、自分と異なる世界のものを受け入れる、女性性の神格化された力、陰陽の陰の象徴する力、聖杯の原理でもある。

えー、つまり特長からいうと、ヤックルは赤毛の魔女といえる条件を満たしているんだな。

お魚なのに人間に恋するポニョと一緒だ。

また、もののけ姫では空を飛ぶ表現が出てこないが、

ヤックルに乗って森を野を駆ける場面の爽快感は、

メーヴェ飛行艇に乗って空を飛ぶ高揚感に通じるものがある。

ポルコの赤い飛行艇が、もののけ姫では赤いシシになるのだ。

 

角の立派さからすると♂なんだけど。そこはスルーで!

 

ヤックルかわいいよヤックル!

 

自分的最萌シーンは、戦場で再開したモロの子と挨拶するところ。

異種仲良し動画ほんと尊い

 

ちなみにシシ、というのは獣という意味だ。

猪、鹿、獅子、四肢、四つ足の動物全般をなんとなく指してる大和言葉

 

そしてシシ神、意味するところは獣の姿の神。

おそらくそれは仮の名、敬称であって、本来の姿と名がデイダラボッチの方だろう。

 

獣たちの神、という意味ではないはずだ。

獣たちの親玉だ、とか、なぜ人間を癒すのだ、とか、

甲六やイノシシ達はそういう勘違いをしていたわけだが、

モロによると「命を奪いもし、与えもする」生死を司る神、

また大地を動かす巨人デイダラボッチは創世神話級の神だ。

その神格、その心のスケールは自然の運行そのものであり、産土神や人間のレベルにはない。

故に、シシ神は一言も言葉を発することがない神として描かれる。

 

で、そのシシ神をまずはどう解釈するかっていうと、

 

風の谷のナウシカもののけ姫から、自然と人間の対立、という構図を抜き出してみる。

広がりゆく腐海と、それに侵される人間の居住地、

神聖不可侵の太古の森と、それを切り拓いて糧にする人間達。

風の谷のナウシカでは自然サイドが領土を拡張し、もののけ姫では人間サイドが領土を拡張していく。

 

物語の中で、優勢が劣勢の世界をまさに滅ぼさんとするとき、融和の使者が現れる。

 

怒れる王蟲の群れ、大海嘯が風の谷を飲み込もうとしたとき、

ナウシカが現れて、一度死ぬ。

 

神殺しの混成部隊が、神域の森まで踏み込み、石火矢で穢す。

シシ神の首が落ち、山も森も枯れ果てる。

朝日が射し、夜の神デイダラボッチが倒れる。

シシ神も、一度死ぬ。

 

それから、ナウシカ王蟲達によって蘇生される。

王蟲の群れの目、ナウシカの衣の色がからへ変わる。

 

倒れたシシ神から吹いた風が、また山々に命を芽生えさせる。

赤茶けた山が青々とした新緑に染まっていく。

 

このオチの構造が相似になってるのが解るだろうか。

 

自然界か人間界か、対立するふたつの世界が一方を滅ぼし飲み込もうとするとき、

滅びゆく側から女性性の神性を備えた存在が現れて、すべてをその身に引き受けて死ぬ。

それによって争いが鎮まる。

 

そして彼女達の復活と変身の意味するところは、

今までと少し違う、新しい循環の始まりなんだろうなあっていう。

 

ナウシカもののけ姫は、反転した同じオチで締められている。

まあ、得意技をぜんぶ封印して挑んで、もがきぬいて辿り着いた結末だ。

手クセでなんとなく、なんてはずもない。

絶対に譲れない作家性の根幹がそこだったってことなんだと思う。

 

母なる自然への崇敬と、女性性の神性への賛美、

なんて言い方でまとめちゃうとあまりに簡単だけど、そんな感じだろうか。

 

 

 

さて、冒頭の問いに戻って、真ヒロインは誰か?

 

シシ神は、ナウシカと同じ、対立する世界を融和させる女神だった。

 

シシ神も角の立派さからすると♂なんだけど。そこはスルーで女神と類推する。

夜に真の姿となる闇の神、月の神、生と死、破壊と慈悲の混沌の神、森や自然の神、大地母神、となればそれは自然発生的には女神であるはずなのだ。

男神であれば、太陽神、天空神、光、火、戦、契約、秩序や文明や理知といった属性になるだろう。その辺はまた詳しく。

 

つまり、真ヒロインはシシ神でファイナルアンサー・・・、

 

いや、ヤックルも捨てがたいんだよなあ。

 

サムネに貼った、サンは森で、アシタカはタタラ場で、と別れて帰る場面なんだけどさ、

 

カヤともサンとも結ばれないアシタカで、色々もの寂しい結末のようだけど、

 

ヤックルだけは最初から最後まで、アシタカに寄り添っていることにお気づきだろうか・・・?

 

ヤックルの役どころは相棒ではなく、正妻ポジションだったのではないだろうか・・・?

 

ロリコンを封印したと思ったら、ケモナー癖が出てきてしまったという、

いやはや、実に業の深い話。

 

第1話 ミセス・ハドソン人質事件の巻

ドーバー海峡の大空中戦!

 

宮崎駿監督回もある名探偵ホームズより麗しくも有能なケモノヒロイン、ハドソン婦人。

 

そういえば、モロと乙事主が恋仲だったのかもという話がある。

宮崎駿の演技指導で漏れた裏設定だという。

山犬と猪が恋仲、というのもどういう気持ちで聞けばいいのか分かんないけども。

 

モロは人間の娘を我が子同然に慈しむこともできるわけで。

 

異種仲良しは尊い

種の垣根を越えて通じる愛にグッとくるのに、野暮な理由付けはいらない。愛はすべてを超えるのだ。

 

アカジシ、シシ神、ケモノがヒロイン、アリだと思います。

 

健気で勇敢で賢いヤックルにこそ、ベストオブジブリヒロインの称号をあげたい。

 

 

神話学や象徴学的に真面目に書くのか、

オタク的にふざけて書くのかテンションの定まらぬまま、

次の記事へ。

 

 

inspiration.hateblo.jp

 

 

 

もののけ姫の話題は当時不思議ネットでまとめてもらいました。

http://world-fusigi.net/archives/9253921.html

元スレでは87コメあたりから。

http://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1539542998/

聲の形を解釈する。父性の機能不全。

映画『聲の形』DVD

 

哀悼。

 

金曜ロードショーで見たのでちょっと感想の覚書。

 

キャラクターの描写だけでここまで仕上げてくるクオリティには感心した。

モヤモヤイライラハラハラしつつ、最後まで見ることができた。

 

自分はファンタジーやオカルトやSFが好みなので、

こういう青春群像劇みたいなものは得手でなく、

京アニ作品も色々つまんではみたものの、最後まで視聴できたのはミステリ仕立ての氷菓だけだった。

氷菓は好きすぎてDVD持ってるけど。

 

聲の形の原作漫画も、読み切り版が話題だったとき読んで、

一巻試し読みくらいはしたが、それもギブアップ。

同作者の不滅のあなたへも4巻の先を買ってない。

マルドゥックスクランブルは、冲方丁の原作が好き。

 

聲の形原作では、人間の心の醜さの描写が、あるある過ぎてウマ過ぎてエグ過ぎて、とても見ちゃいられなかったが、

映画では不快な部分をうまく回想などにまとめつつ、心情の成り行きとしても過不足ない、見やすい構成だったと思う。

映画なんだから、90分だけ耐えればオチまで辿り着くという見通しがあったのが良かった。24話あったら挫折してた。

 

ネットの感想を流し見すると、

「いじめられていたヒロインが、なぜいじめっ子を好きになるのか理解不能」とあったけど、

まあ、確かにあれが自分の話だったら例え土下座されても引くだけで、絶対許さない自信はあるww

 

でも、この作品はキャラクター造形のクオリティ、心情の描写だけで物語を転がしてるようなもの。

見れば見るほど、色々と読み取れる材料はある。

 

いじめっ子の主人公の家庭環境をみると、

職場兼自宅の美容室を経営する母親、

姉、姉の娘。姉の夫はブラジル人でほぼ不在。父親もいない。

 

・・・圧倒的に女が強い家系ですよこれは。

 

こういう環境で育つ弟キャラは、女の機微を読んで立ち回るのがすごく巧くなる、いや、ならざるを得ないwww生死に関わるwww

カーチャンは優しい人だけど、

あの距離感の家で5、6歳も年の離れた姉というのはな~、弟なんぞ奴隷かオモチャ扱いの予感。

女というイキモノは理不尽で機嫌を損ねるとひたすら面倒だと骨身に沁みついてそう。

姉が不自然なほど登場しないので、逆に勘ぐりの余地がww

折木奉太郎と姉の関係性で脳内再生しちゃう。

 

で、まあ。

主人公は粗野でもあるけど、女性の機嫌や周囲の空気を読んでもいる。

 

隣の席の女の子に、黒髪ロングの気の強い美少女、スクールカーストのクイーンがいる。

彼女が転校生に不満を感じてるとか、

男の担任教師にイチャモンつけられてイラっとする、

主人公はそういう雰囲気の悪化を敏感に察知して、茶化して場を和ませる。

先回りしてクイーンの居心地よい環境作りに励む。

 

まあ、その茶化し方が、耳の聞こえない転校生のモノマネっていうのがな・・・。

そのウケた空気が、転校生イジリをエンターテイメントとして肯定し、

だんだんいじめにエスカレートしていってしまうんだけど。

 

主人公があの顔で女性にモテているのは、

家庭環境による性格形成にあると思う。

ノート、パン、傘や靴、ポーチ、相手が喜ぶちょっとしたものに、よく気がつく実にマメな男なのだ。

 

人の気持ちに聡い人に惹かれるのは、コミュニケーションに難を抱える女の子として無理もないことだと思う。

 

っていうか、

自分の上位に君臨する女性の望むままに振る舞い、彼女達に逆らえない。

という言い方をしてみれば、

主人公とヒロインは同じ問題を抱えてて、シンパシーを感じる余地がある。

同病相憐れむ。互いの人知れぬ苦悩や奮闘を感じ、励みにすることができる。

 

ヒロイン、難聴の転校生の少女には、表情が固くてヤバげな母親がいる。

 

自分の子をいじめられたからって、ピアスを耳ごと引きちぎる、ビンタする。

他人に暴力を振るう親が、自分の子供に手をあげてないわけないと思うんだよなあ。暴力へのリミッターが甘い人だ。

かと思えば、自分の子が他人を傷つけたら、病院のロビーで号泣からの土下座。

この母はヤバイ。キてる。危うい。

公衆の面前での土下座とかさ・・・。

された方は堪んないよね。目立つし、恥ずかしいし、こっちが悪者みたいだし、場を収めるために、許しますからと言うしかなくなる。

頭を下げつつ、相手の選択肢を奪う。謝罪にみえて実のところ脅迫だよな。

 

まあ、なんの事情か母子家庭で、上の娘は難聴、下の娘は俺女不登校となれば、

子育てのうまくいかなさに追い詰められる気持ちも想像はつかんでもない。

「ちゃんとしなくては」とか「ちゃんとできるはず」みたいな、こうあるべきだという正しさにガッチガチに縛られてるんだと思う。

正しさを振りかざして他者を攻撃し、

自分が正しくなかった時は、返す刀で過剰に自分を責めてみせる。

カワイソぶって結局は自分の要求を呑ませようとする。

 

こういう抑圧のなかで育てられると、子どもはどうしようもなく、病む。

母の望むイイ子でいなくては、母がマジでなにをするかわからないのだ。

自分が殺されるかもしれないし、母が誰かを殺すかもしれないし、母が死ぬかもしれない、そのくらいの恐怖と緊張を常に強いられる。家庭に安心感がない。

 

子どもというのは、幼いうちは庇護者である親を憎まない。どんな親でも愛し愛されようとする。同化しようとする。それが子供の生存本能なんだよな。

だから、イイ子でいられないのは、自分が悪いんだと責めるメンタリティを形成し、それは人格の基本に深く根差すものになる。

 

主人公とヒロインは、よく似た問題を抱え、あれもそれもこれも自分が悪いんだと責め苛み、二人とも自殺するまでに自分を追い詰めてしまう。

 

笑おうとして口の端が緊張した作り笑顔を浮かべてしまい、

察し力高めの主人公にさえ何考えてんのかわかんないと言われてしまうヒロインの内面は、そんな感じだろうか?

母の望むとおりの顔、どんな時もありがとうとごめんなさいの、鉄壁の良い子の仮面だ。

まあ敢えてそこの描写はない構成なので、想像するしかないんだけど。

 

いやでもさ、中学校でもいじめられてた主人公と違って、

ヒロインのいじめは五ヶ月で終わった。

再会した元同級生たちとの関係が壊れても、死ぬまでのダメージではない気がするんだよな。

手話教室とか自分の学校のコミュニティだってあるわけで。

だから、それは切っ掛けで、

本当のところでヒロインを追い詰めていたものは、積もり積もった家庭の歪さのほうじゃないのかな・・・。

 

家族を愛してる人は、自宅マンションのベランダから自殺はしないと思うんだよねえ。

 

家族がそこに住めなくなっちゃうもの。せめて屋上に行く。

ヒロインが自宅で自殺を決行したのは、母親への当てつけと憎しみもあったのではなかろうか。

妹もグロ写真を家中に貼るのはやり過ぎだよ。自殺抑止じゃなくて脅迫になってるのは、あの母にしてあの娘ありだよ…。

姉を慕ってるのはかわいいんだけど、ベッタリ依存気味でウザいっちゃウザそうな。

 

言うことができなかった己の苦しみを思い知らせたいというのは、自殺者志願者あるあるだ。

ずっと嫌だった、ずっと苦しかった、お前達のせいだ!と訴える、最後に残された自己表現の手段なんだよな。それはよく知ってる。

 

 で、そこに主人公が来て助けてくれて、それは良かった。

そこが物語のクライマックスだったな。そのころには感情移入できてて、めっちゃ主人公に「うおお!早く早く!」って手に汗握ってたわ。

 

なんとか自殺は思いとどまって、

皆どこかしらダメなところを晒し合ったところで、

皆でもう一度やりなおせばいいんだよっていう雰囲気で映画は終わって、

 

それはそれで、納得できるラストだったと思うけど。

 

これほんとは、問題の根本を解決しようと思ったら、

父性の欠如をなんとかしないといけないんじゃないかな・・・。

 

母親、クイーン・ビー、

タロットの女帝のような象徴としての母性や女性性、

その独裁と暴走を制御するなら、まずは同格のパートナー、父性が必要だ。

 

ウチは父権優位の家庭だったが、父親がヒートアップしたときは、母親が「まあまあ」とかなんとか宥めてフォローしていたような。

男女逆でも同じことだし、あるいは女性が父役をやってもいい。

西宮家にはもののわかった祖母がいたので、それが幸いだったっぽくはある。

安全地帯である祖母の死も、ヒロインを追い詰めたんだな。

まあ、要はバランスなんだけど、

 

しかしこの作品に登場する父性となると、あのムナクソ悪い担任教師だけなんだよね・・・。

 

小学校の教室で起きたいざこざの責任は、その場を率いるべき存在、教師にあると思う。

これがまたびっくりするほどのクズで、しかし思い起こせばああいう教師っていたよなーっていう記憶がチラホラあるのが、ほんとこの国の闇。

 

転校生というのはただでさえアウェーなのに、更に難聴というハンデがあるのでは、

クラスに馴染むのに相当のハードルの高さがある。自分には到底無理ゲーだ。

あの母親が、ウチの子はちゃんとできますっつってゴリ推したのが目に浮かぶが、

そもそも、そういう生徒が編入してくるときは、ベテランの先生のいるクラスに預けるとか配慮があって欲しいところ。

 

しかし、あの教師は誰に対しても何のフォローもしない。

手話を教えにきた先生が、クイーンの女性徒に反発を受けて、

(えーっと、どうしましょう・・・?)と目で助けを求める場面で、下を向いて無視する。

無視、何もしない。放置。子どもを導かない教育しない、そんな教師。

 

転校生を、お調子者とクイーンの前の席に座らせるというのは最悪の配置だ。

生贄、獣の前にご馳走をぶらさげているのに等しい。

席替えをして、転校生は教師の目の届く最前列に座らせて、大人しい生徒で周りを固めるだけでも、だいぶマシだったろうに、そんなことさえしない。

 

で、いじめ問題が外部に漏れ、表面化したところで今度は主犯のお調子者だけを血祭にあげて終わらせる。

 

いじめのターゲットがお調子者にスライドし、転校生はまた転校していく。

 

周囲の空気を読むのに特化した主人公は、自分をいじめる空気にも逆らえない。

反撃したり誰かに訴えたりして、流れを変える力がない。

そのうち周囲が自分を責めるとおりに、自分でも自分を責めはじめる。

察し力が裏目に出てしまう。

 

これが中学生や高校生だったら、黒髪のクイーンの方が教師より発言権が強いこともあったろうけど、小学生だったからなー。

壊された補聴器のお金を誰が払うかっていうこともあったし。母子家庭にならそれも押し付けやすい。そういうとこは計算してキレてそうあの教師。

っていうか、誰も彼も打算的過ぎて人間不信になりそうw

いや、その打算が分かるってことは自分の心にも同じものがあるってことで、もうこっちまで自分を嫌いになりそうw鬱アニメww

 

まあなんだ。

 

人間の感情の動き、心の機微を濃やかに汲み取ることができるのが、

右脳的、女性的、母親の役割的なものだとしたら、

 

人間がどう在るべきかっていう理想、指針を示して集団を導くのが、

左脳的、男性的、父親の役割的なものだ。

 

聲の形は、原作も映画も前者の価値観に寄り過ぎてんだよな。

作者女性だし、京アニも女性の多いスタジオだった。

 

だから、

ああ、そういうことってあるよねっていう共感を呼ぶ描写はめちゃくちゃ細かくて可愛らしくて巧いんだけど、

死の危機をくぐり抜けて尚、人の生きるべき指針みたいなものが示されることはない。

 

今後会う人達や社会のなかに、父権を見出し、更に精神的親殺しを越えていかないといけない。

主人公達の苦難は、多分まだ続くし、

 

作者たちが今後描いていくことになる課題も、この作品の中にあると思う。

京アニが日常系以上の作品を描いていくなら必要な転換点だったはずだ。

一話だけ見たヴァイオレット・エヴァーガーデンを改めて見る気になったなー。

あれはなんか、そういう父親的な人を亡くした主人公の話だったわけで。

 

聲の形のなかだけで言うなら、即金で即、全面謝罪に行ったあの美容室経営のカーチャンの双肩にかかってるものは大きいな。

子どもに人としての指針を示し得たのは、あの美容師なのに根元が黒い金髪のかわいいカーチャンだけだったわ。

彼女の双肩に、主人公と西宮家母娘の精神的成長がかかっていると言っても過言ではないと思う。

 

聲の形、結構面白かった。

 

 

 

 

 

氷菓マジお買い得。繰り返し観たい心地よさの作品。

 

 

追記

 

 万が一、誰かに土下座されて許しを請われるような恐ろしいシチュエーションに出くわしたら、

とりあえず一目散に逃げるか、場所を変えようと言えるようでありたい。

子どもまで土下座してくるとかいう地獄絵図を、京アニ絵で見てしまった衝撃よ。

 

妹も、裸足で家出してるのは母とのいざこざなんだろうし、母親と合わないとホント家が安住の場でなくなっちゃうんだよな…。

 

あとヒロイン役の早見沙織の演技力が地味に凄過ぎた。難しい役だけど絶妙だったと思う。

 

映画の最初と最後の演出で、暗転の中にピンホールのように光が浮かんで、それがだんだん大きくなって風景になるっていう、トンネルをくぐるようなイメージと、

コトコトとピアノの内部の機構が動く音まで撮ったBGMがある。

ピアノの中に潜りこんで聞くような音なんだと音響監督のインタビューがあったけど、

暗い洞穴に篭もるような、それは相まって胎内を思わせるような演出だったと思う。

水や川の場面も多い。

生まれ変わりの意味もあるし、母性の印象が作品を貫いてもいるな、と思った。

 


映画「聲の形」公開記念特番 ~映画「聲の形」ができるまで~ ロングバージョン

17分くらいから牛尾音響監督のインタビュー。

 

あと、

原作漫画だと、再会した同級生達はみんなで映画づくりとかしてるらしく、

映画よりコミュニティとして強固だったっぽい。

映画では、そこの説得力を持たせる尺がなかったから、

家族関係の方により注目してしまったのかも。

…まぁ、それはそれで成立してた。

 

セーラームーンを解釈する。目を逸らすから恐れは怪物になる。

1000ピース ジグソーパズル 美少女戦士セーラームーン セーラー戦士大集合!(50x75cm)

セーラームーン期間限定無料配信分、完走。

https://www.youtube.com/channel/UC7J1bN5V1kL6xJ42ue_W6Vg

 

いやー、懐かしかったし、今になってまとめて見るから解ることも多かった。

古いアニメの文法も、色褪せないセンスも入り混じっていて面白かった。

水彩の背景の美麗さや、バンクシーンの様式美は今でも何度でも見れるクオリティだ。

 

せっかく見たから、最後に総括としてもう少し書いておこう。

 

ダークキングダム編、魔界樹編、ブラックムーン編、デスバスターズ編と、

敵対組織ごとに区切って考えるんだけど、

やっぱりアニメオリジナルの魔界樹編だけ毛色が違うのでちょっと置いておく。

 

で、ダークキングダム編、ブラックムーン編、デスバスターズ編は、オチの構造がほぼ一緒だった。

 

クインベリル、ワイズマン、ミストレスナインは、巫女や占い師としてデザインされている。

水晶玉で占う仕草が定番だったり、

ミストレスナインはぬいぐるみに囲まれて座ってるけど、依り代、操り人形っていう意味なのかな。

 

彼らはそれぞれ、

クインメタリア、デスファントム、マスターファラオナインティという、

正体不明の闇のような存在に仕える従者であり、それらを地球に呼び出すことを目的にしている。

 

巫女や祭祀や斎王が仕え、現世と繋げようとするもの、それはいわゆる神様ってことになるだろう。

ひとくちに神様って言っても性格やレベルがある。唯一絶対の創造神や、自然神、鎮護国家の守護神、土地神、産土神、英霊、式神、精霊。

愛そのものの神様も、人格神ではない神様も、荒ぶる神様も、契約を重んじ嫉妬する神様もいる。

神、かみ、上、つまり上位存在ってだけで、みーんなカミサマって呼んじゃうんだな。それが日本語だ。文脈によってどうとでもなり、定義と言えるような語ではないw

 

で、まあ、いわば邪神って感じなんだろうけど、

クインメタリア、デスファントム、ファラオナインティがどんな神なのか性質を観察しようとしても、その描写はほとんどないに等しい。

姿形が描かれず、そのお告げが聞こえるのはクインベリル達のような巫覡だけだ。

その名すら、本編では終盤まで伏せられがちで「我が大いなる支配者」とか言い換えている。

 

名前を呼んではいけないあの人とか、みだりに主の名を唱えてはならない、とかいうのは実に普遍的な発想だ。

名を呼ぶことは使役や存在の掌握に通じるので、上位者は下位存在に名を呼ばれるのを嫌う。

誰だって、目下にいきなり呼び捨てにされたらイラッとするだろうけど、そういう気持ちと基本的には同じかな。

 

セーラームーン達は、ラスボスであるクインメタリア、デスファントム、ファラオナインティに対峙することのないまま、

正体を明らかにし見極めることのないまま、退ける。

 

物語のクライマックスになるのは、

エンディミオン、ブラックレディ、ミストレスナインに憑依されたほたる、

洗脳されて、自分を見失った人に、セーラームーンがひたすら寄り添うことで彼らが自分自身を取り戻すっていう、そういう展開だ。

 

セーラムーンの「あなたと戦いたくないの。私が傍にいる。信じて。目を覚まして。」っていう想いが彼らと通じ合うところが主題で、

 

ラスボスを退けるのは、消化試合って感じだ。

クインベリルはまだ嫉妬と絶望の吐露があったけど、

ワイズマンもミストレスナインも崇拝以外の動機を語らないので、同情とか共感の余地がなかったりする。

まあその辺の魅力はプリンスデマンドと教授で分担してるんだろうけど。

 

武力を高めて勝利することよりも、捨て身の献身が結果として事態を好転させるっていうのが、

女性主人公ならではの解決って感じで、そこは未だにヒーローものとして斬新だと思うし、面白かった。

追い詰められた土壇場で、

少年誌だったら敵との切磋琢磨で新しい能力が開花して逆転ってのが王道だけど。

セーラームーンはどんなピンチの時も捨て身の献身、常にその一択だ。

 

セーラームーンは、戦士というよりプリンセスなんだな。

 

しかし、何度敵を退けても、何度地球を救っても、

次の週には新シリーズが始まって、また新たな敵が現れてしまう展開に、ちょっとツライものを感じた。

週に10話を連続で詰め込んで見たせいも勿論あるけどw

 

なんで何度退けても、また敵が現れるのか。

なんで、繰り返しまた同じ問題が起こるのか、と言ってもいい。

 

ちょっと長く生きてると、そういう事って実はよくある話だと分かってくる。

何度もおんなじよーなダメ男にひっかかる女とか、

どんな仕事をしても同じようなことでモメて仕事が続かない人とか、

何度よせと言っても毒親の元に戻ってしまう搾取子とか。

どんな人を雇っても、育てきれなくて離職率が異常な経営者とか。

 

人生において何度も何度も、似たようなパターンに遭遇する人がいる。

それは、その人自身の内面の問題の顕在化なんだよな。

その人の心にある痛みや恐れが、何度でも同じ状況を引き寄せる。

 

繰り返し引き寄せる問題は、そのスパンが短くなり、内容もエスカレートしがちだ。

 

最初の問題が表面化するのには数年かかっても、次のときには数ヶ月になったりする。

 

なんでなんだろうね?

そういうものだとしか言えない。

 

目を逸らせば逸らすほど、野放しの恐怖は力をつけて膨れ上がり、より厄介な怪物になっていく。

そういう比喩で理解するしかない。

 

セーラームーンの敵対存在が、どんどん力を増していくのもそういうことの比喩なんでないのかな。

クインメタリアを退けても、もっと強いデスファントムになって戻ってくる。

デスファントムを退けても、もっと強いファラオナインティになって戻ってくる。

 

いつかは、目を背けているものに向き合わなくてはならない。

でなければ、圧し潰されてしまうだろう。

 

その正体を見極め、明らかにして受け容れる。それ以外には、ない。

 

セーラームーンでいうと、その次の敵、デッドムーンサーカス編のテーマは、

夢、鏡、だ。

 

そしてクインメタリアのような、今まで謎のままだった最後のボスはネヘレニア、

クインセレニティと対を為す、もう一人の月の女王ということになるらしい。

 

夢や鏡を通じてみる、隠されていた自分自身。

それが根源的な恐怖で覆われてた、問題の正体だ。

 

繰り返し甦る闇の怪物は、戦い続けてたのは、自分が生み出したもう一人の自分、影、シャドー。

 

いつでもそうなんだよな。

自分の住む小さな世界を守りたくて、決して見ないようにしていたもの。

恐ろしくて恐ろしくて堪らなくて、

その姿を見るくらいなら目を潰し、

その名を聞くくらいなら耳を潰し、

それを認識するくらいなら狂ってしまいたいほど、恐れていたもの。

 

それは、明らかにしてみれば、切り離していた自分自身の心の一部に過ぎない。

 

トラウマとか、コンプレックスとか、見捨てられる不安とか、親の言葉とか、身近な人の死、幼いころの心の傷。恐怖。

 

大人になった今の心で向き合うなら、ごく些細な、よくある思い込みと呼べるもの。

ああなんだ、そんなことで苦しんでいたのか、と言えるようなこと。

それを怪物に育ててしまった長い年月があるだけだ。

 

名伏し難い怪物と思っていたもの、恐るべき神の名を白日のもとにし、

恐怖を越えて、切り離していた心を統合するとき、

完全性が成った瞬間の幸福を感じることができる。

自分を愛するってどういうことか解る。次の段階へ進める。

 

 

 

・・・、ま。そんなことを思ったけど、

更に続けてデッドムーンサーカス編を視聴する気力はないかもww

サーカスっぽい演出はすっごく好みだから、今までの内容を忘れないうちに見たくはある。

 

 

あと、やっぱり魔界樹編が想い出補正もあって一番好きだったな~。

エイルの笛の旋律とかすごい覚えてたわ。印象的でいい。

 

https://youtu.be/i3JvYDV9HbQ 11:00からお馴染みの絵面とBGM。

 

エイルとアンは、なんの裏も含みも無くて楽しく見られるんだよな~。

 

人間を襲う動機に複雑なものがない。

腹が減ったからそこにあるものを食うという、単純で明快な真理があるだけだww

 

腹が減ってる時は危険だが、満腹すれば襲ってこないだろう相手とは、

話し合いの余地、関係性を構築する余地がある。

大型犬や肉食獣、捕食者になり得る者ともある種の緊張を保ちつつ、仲良くなれることがある。

エイルとアンは友達になりたい感じがするんだよな。嫉妬漫才のノリが懐かしくて微笑ましいし。

 

人間のエナジーを捕食するエイルとアンは、人間よりも上位の種族ってことになるんだろう。

実際、たった二人と木が一本で生態系が完結してて装備もなしに宇宙空間を旅できるとか、

生命体、知性体として相当にレベル高い。神かよ。

 

ラストバトルでも、セーラー戦士たちが束になっても、たったの一撃も入れられなかった強キャラ感も良かった。

 

ただ、エイルとアンは種としてのポテンシャルが高くても、精神的に幼いんだよな。

誰にも教育されることなく育ってしまった事情がある。

それで人間の学校にも通ってみたのかと思うと、そういう素直な好奇心や向学心を備えていること自体がやっぱりレベル高い。

 

学生生活のなかで、セーラー戦士たちとの関りのなかで、愛とはなにかを理解するにつれ、

魔界樹との交信もできるようになっていく。

 

魔界樹っていうか、世界樹みたいな存在なんだろうな。

扶桑とかユグドラシルとか、一本で生態系のすべてを内包している、世界そのものの象徴としての樹木だ。水彩の絵もスゲー妖しくて美しい。

 

テレパシーというのは高次元の能力だ。

エゴを越えられない三次元付近の意識で使うと、深刻な精神汚染になるので目覚めないほうがいい力だ。

 

資源を奪い合うとか、

そもそも相手と自分が隔たっている、相手を手に入れるとか所有するとか「愛とは奪うもの」という意識の次元では、

魔界樹のテレパシーを受信できず、

 

相手と自分という二項対立を越えて、自他に境はないと悟る、梵我一如とか、無償の愛を理解できると、

意識は五次元あたりなので、魔界樹のテレパシーを受信できるようになり、

 

そうすると、魔界樹の蓄えた知を共有して、知性体として一気に成長する。

 

エナジーを採取する必要、食事の必要もなくなり、ただ愛だけをエネルギー源として生きていけるようになる。

 

そう、愛っていうのは抽象的な感情とかじゃなくて、

無限から有限にエネルギーを引き出す感覚そのものなんだよな。本質的には。

存在してるってことと、愛を感じてるってことは、どっちもレトリックでありイコールだ。

愛だけで肉体を維持することも、エイルとアンほど進んだ存在なら可能かもしんない。

精神体というなら、もっと容易だ。

 

それで地球にも人間にも用がなくなって去る、という最終話の流れも完璧過ぎて。

 

いや~、物心つくかつかないか、みたいな時期にこのアニメ見てて良かったな。

意味はわからなくても、どこか心に残るっていうか。

 

いや、むしろ「この世界は物質である」という強固な思い込みに同意する前の、

ごく幼いころのほうが、意味は解っていたかもしれない。


世界樹、世界そのものと同期することで、自分が何者であるかを知る。全ての始まりと終わりを知る。

それが科学的追求だけでは及ばない、本当の智慧への至り方というものだ。

 

 

 

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 世界樹のウィキ

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%A8%B9#:~:text=%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%A8%B9%EF%BC%88%E3%81%9B%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%85,%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%98%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82

 

追記。 

自分自身の恐怖をまっすぐ見ようとすると危ないので、

変わりたいと願う時は、しかるべき瞑想法を以てするべし。

自分を俯瞰すること、自分を大きくすること、自分を空にすること、

そういうふうにエゴをクリアにしてから見ると、恐怖を迂回して問題の根をみることができるよ!

 

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セーラームーンを解釈する。Sは幾原邦彦監督の元型。

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YouTubeで期間限定無料配信のセーラムーン視聴を続けているのだが、

https://www.youtube.com/channel/UC7J1bN5V1kL6xJ42ue_W6Vg

Sシリーズに入ってからいまひとつついていけないものを感じていた。

二十年前のTV放送当時もこの辺からは見てなかったので、ノスタルジーがないせいかとも思ったけど、

ミメット登場で色々腑に落ちたので覚え書きしておく。

 

敵幹部ミメットの声は特徴的で、少女革命ウテナの「かしらかしら、ご存じかしら~?」の影絵少女を思い出した。(CVかないみか

 

そうか、そういえば、ダイモーンの生成場面とか独特の様式美に拘る演出や音の使い方、随所にウテナみが出てきたなーとは思っていたけど、

セーラームーンSはストーリーの構成もすごく幾原邦彦っぽいんだ。

 

今までのダークキングダム編・魔界樹編・ブラックムーン編では、

敵の目的や組織の命令系統がすごく明快だった。

 

クイン・ベリルがトップで、数名の幹部と各回妖魔。

プリンス・デマンドがトップで、幹部と部下と各回ドロイド。

王を唆す黒幕にクインメタリアとワイズマン。

 

黒幕と、王様と、将軍と、兵隊。

 

見たまんまの支配のヒエラルキーに、

目的はシンプルに世界征服だ。

 

エイルとアンなんかもっとシンプルだ。毎回カーディアンを召喚する。

術者と式神っていう関係性に、目的は捕食。

 

子供でもわかるし、途中から見始めてもすぐに理解できるテンプレだった。

今北産業どころか二行で済んだじゃねーかwww魔界樹編ほんとすきwww

 

ところがSに入ってから一気にその辺がややこしくなる。

敵ボスは白衣のマッドサイエンティスト風で、その秘書や生徒風の人物が、実験体(ダイモーン)を使って襲ってくる。

白衣の教授は、女王や王子のような悪のカリスマ感がない。

ミメットは命令に従うのなんてやめちゃおっかな~と発想する。

今までの敵幹部はみんなトップを畏怖し粛清を恐れていたものだけど、デスバスターズは恐怖政治ではない組織らしい。

 

更に、ウラヌスとネプチューンという共闘を拒むセーラー戦士が登場して、

セーラーチームと三つ巴になる。

三つ巴だけでもまぁまぁややこしいのに、

敵の目的もややこしい、というかよく分からないのだ。

 

セーラーチームではマーズが不吉な予知夢を見ているだけで、

ウラヌスとネプチューンはその予知夢の危機「沈黙」がやってくるから、

対抗策として聖杯を、その聖杯を召喚するために三つのタリスマンを、そのタリスマンを探すために、ピュアな心の持ち主を探しているという。

この説明がもうややこしいww

 

白衣の科学者たちも聖杯を探しているし、その聖杯を使って「沈黙」のメシア(救世主)を・・・?

 

と、30話も費やしながらにして、

いまだに肝心な敵の動機や目的がなんだかよく分からないのだ。

なんだかよく分からないけど、世界を「沈黙」が覆うとか言われると不吉っぽいし危機っぽいし、

毎度その辺の人間を襲ってくるから、そこは正義の味方として見逃さず成敗しているという、場当たり的対処の連続だったのだ。30話も。

 

今までの単純明快な対立構造を見ていたノリでSを見ていたので、

いくら見ても知りたいことが明かされないというフラストレーションを溜めていた。

 

が、そうか。これが幾原邦彦作品であるなら、

その謎が解明されるのを期待してはいけないんだろうな。

 

少女革命ウテナでも、輪るピングドラムでもそういえばそうだった。

ユリ熊嵐やさらざんまいもそんなんだった。

 

「世界の果て」「ディオスの力」とか「生存戦略」「こどもブロイラー」みたいな、

未だにすぐ思い出せる、とってもキャッチーで意味ありげなキーワードを常にチラつかせながら引っ張り、

 

アニメらしからぬ電波ソングで決闘場へ向かうシーンや、

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」一連のシーンみたいな、

意味はわかんないんだけど、センスのカタマリっていうか、

ものすごく独特でカッコよくて目が離せないバンクシーンをつくりだして、

毎週毎週それを流して、一種のお約束にするんだよな。

いや意味はわかんないんだけど。(二回言う)

変身とかの販促でもないのに、バンクシステムをここまで様式美として昇華するのかっていう、幾原監督の作家性だ。

 https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF 

 ダイモーンのバンクもその初期型ってことなんだろう、今見ればテイストに同じものがある。

 

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毎週見てるのに、ちっとも謎の解明は進まないお預け状態だというのに。

でもカッコいいアレを見たいからとりあえず見ちゃう、みたいな習慣性を誘発させてくるんだよね・・・、幾原監督って・・・。

飽きないようにバンクシーンがちょこちょこアップデートされてって、

見てるうちに脳がパブロフの犬化してくというか、中毒性が高いというか。

もう意味とかいいからとにかくアレを・・・アレをくれよぉ!ってなっちゃう映像ドラッグっつーかww

よく考えたらコワいんですけどww

 

そして結局最後まで見ても、「世界の果て」「ディオスの力」「ピングドラム」「こどもブロイラー」などなどの、思わせぶりなキーワードの数々がなんだったのかは明確に説明されることはないのだ。

 

だから視聴者はそれらの考察で盛り上がるんだよな~。

あれはこういうことの象徴だったんじゃないか、って。

 

幾原作品でそういう設定の投げっぱなしが批判されることはない。

物語はだいたい、キャラクターの心情の面では盛り上がっていって、試練を越え、ちゃんと決着がついて終わるから、そういう意味で満足できるようになっている。

 

俯瞰して見ると、幾原作品のテーマはだいたい身近な人間関係のゴタゴタや、思春期的なコンプレックスなんだよな。

世界観としてはいつも狭く閉じた世界を描いていると思う。

教師の登場しない学園だったり、モブがピクトグラムだったりして、人間関係が閉鎖的で濃い。

大人や第三者の介入を拒否する、耽美で少女的な世界だ。

 

つまり、世界の危機とかそういうスケールの大きい風なことを言ってるのは、

思わせぶりなだけの舞台装置というか、視聴者を引っ張るエサっていうか、

あるいは内面的、精神的、主観的な意味での危機だったりっていうか。

いや、まあ。解釈によって自分の内面に答えを見る人もいるだろうから、問いかけとしてはアリだと思うけど。

 

だから、何が言いたいかっていうと、

セーラームーンSでは「沈黙」とか「沈黙のメシア」がなんなのか、みたいな答えが開示されると期待して見てはいけないってこと、

デスバスターズは思わせぶりなだけで、止むに止まれぬ事情とか、悪に堕ちた悲哀とか苦悩とかは特になくて、地球に漫才しにきた愉快で迷惑な人達ってこと。


過去シリーズのような、普通の人々の日常を守る、地球を背負って守る、みたいなスケールの大きな使命感の感性は幾原監督の得手ではないのだ。

 

そういうヒロイズムを求めないで、

耽美さと、独特の様式美と、漫才と、キャラクターの心情の成り行きに注目すれば面白く見られるはずだ。

ウラヌスとネプチューンは百合界の元祖カリスマだというし、そういうところが見所なんだよな。

そこの関係にいまひとつ萌えないまま見ていたから辛かった・・・。

ウテナとアンシーは好きなんだけどな~。

 

まあ、幾原邦彦のその後の作品を見て、今改めてセーラームーンSを見たから分かったことがあったっていう。

オタク道も長く続けてこそ見えてくる文脈があるということか。

リアルタイム視聴していた子どもの頃から、思えば遠くに来たものだ。

 

 いつか少女革命ウテナピングドラムの記事も・・・、いや見なおすと長いからな・・・。

 

 

 

そういや、Sは家族や学校の場面がほぼなくなったよな。

セーラー戦士が増えたからそういう人物まで描くヒマがないし、

受験生ということでレイちゃん家で勉強会ばかりなのも、設定的におかしくはないけど。

ハルナ先生やなるちゃんみたいな普通の同級生、育子ママや生意気な弟、娘に甘いパパ。

無印のころはそういう人達との日常と、変身戦士の非日常の対比が見所だった。

Sではセーラームーンにも戦士としての自覚(あるいは母としての内面)ってやつが確立されてしまって、

ルナが世話焼きな態度をとることもほぼなくなった。

 

そういや、そうだ。幾原監督の作品ではそういう周囲の大人的な人や普通の友人との関係性っていうのが希薄だ。

「限られた特別な関係」ってやつがクローズアップされる。

それはもう密接で蜜月な、友情以上恋以上に募って拗れた感情のボルテージが特徴だ。

 

意外とその辺てニッチなジャンルかもしれない。

キャッキャウフフしてる百合モノとは微妙に系統が違う、

潔癖で排他的で思いつめやすい少女同士の感性の世界というか。

思いつくのはポーの一族とか、CLAMPの聖伝とかそんな感じかな。思い出のマーニーとか。

 

視聴者の少女が、無印のころは家庭に帰属する意識の幼稚園生や小学生低学年で、

そのまま育って、特別な親友をつくりたがる十代の中高生でSを見ることになってたら、そりゃドハマりするのも頷けますなww

ウラヌスとネプチューンにしろ、ちびうさとほたるにしろ、二人だけの世界をつくるあの感じがストライクでしょう。

 

ヒロイズムからアドレセンスへ、

セーラームーンもどうしたわけか、

視聴者層の成長と共に、テーマの対象年齢が上がっている。

それが飽きられず支持され続けた要因のひとつなのかもしれない。

 

 

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紅の豚を解釈する。モラトリアムの物語

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さて、紅の豚だけど。

ジブリランキングがあるとラピュタ千と千尋が票を集め、紅の豚は不人気の部類になりがち。

「飛ばねえ豚はただの豚だ」という意味はよくわからないけどカッコいい名台詞だけが有名だwww

筋書きを覚えていない人も多そうなのでざっと説明しつつ解釈してみよう。

 

豚の姿の飛行艇乗り、ポルコ・ロッソ(イタリア語で赤い豚)は、

元軍人でアドリア海のエースと呼ばれた腕利きのパイロットだけど、

物語開始時では既に除隊してフリーの賞金稼ぎをしている。

空賊マンマユート団やアメリカの飛行艇乗りカーチスとの空中戦が物語の見所だが、

 

そもそもなぜ、ポルコが豚の顔をしているのかは明確に説明されない。

ポルコはもともと人間だ、当たり前だけど。本名はマルコ・パゴット。

黒髪ヒロインのジーナが「どうしたらあなたにかけられた魔法が解けるのかしらね」というので、

魔法かなにかで豚になったらしきことはうかがえる。

 

回想で多くの戦友を失い、たった独りあの世とこの世の境のような場所、雲の平原から帰ってくる描写があるので、トラウマによる何かなのかな?くらいに思っていたな昔は。

 

しかし、後の作品、ハウルの動く城を見ると更なる解釈の材料が落ちている。

変身というテーマの扱い方において、ハウルの動く城紅の豚の後継作、といえるかもしれない。

 

 

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ソフィも老婆に変身する魔法をかけられる。

 

だがその老婆の姿でいることは、実はソフィにとって良い事尽くめだ。

ソフィでない老婆であれば、長女だから継がなくてはいけなかった家を出ていくことが出来る。

ソフィでない老婆であれば、人気の妹と地味な自分を比較する「私は美しくない」というコンプレックスと無縁でいられる。

ソフィでない老婆であれば、多少図々しくなって、押しかけ女房 掃除婦としてふるまえる。

 

自分でない自分になりきることで、

見たくないものを見ない、やりたくないことをやらない、という現実逃避をすることができる。

変身は、心情や内面のあらわれとして描かれているのだ。

 

マルコ・パゴットも、ポルコ・ロッソになることで、

成人男性から豚野郎になることで、何かから無意識に逃避している、と仮定する。

 

ポルコは、何から逃げているのか、何に気がつかないフリをしているのか。

 

銀行員「国債などお求めになって民族に貢献されては」

ポルコ「そういうことはな、人間どうしでやんな。」

 

ポルコ「豚に国も法律もねえよ。」

 

フェラーリン「冒険飛行家の時代は終わったんだ、国家とか民族とかくだらないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ」

ポルコ「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ。」

 

カーチス「ジーナはな、おめえが来るのをずーっと待ってんだよ!」

ポルコ「デマとばしやがって」

 

ジーナ、戦争、国家、民族・・・、

 

愛する女性、国家の有事、

そういうものに対して、成人男性の果たすべき責任。

 

そういうものから逃げている、ということもできるのではないだろうか。

だから「怠惰で破廉恥な豚でいる罪」という言葉が出る。

自分が現実逃避しているという罪悪感、卑下される存在である自覚とかが、心のどこかにはあるということか、

あるいはまあ、

面倒なことをやらなくちゃならない、それが人として当然だからっていうなら、俺はいっそ人間じゃなくて豚でいいよ。という開き直りや投げやりでもある。

 

いや、まあ。

国が戦争をおっぱじめたからと言って、盲目にそれに従うことを推奨するわけではないよ?

でもそこに住む以上、無関係ではいられなくなる。そういうものだ。

 

ポルコの飛行艇を新造するミラノのピッコロ社では、工場長のおやじ以外、男性が一人もいない。

息子たちはみんな出稼ぎへ出たと言って、親族の女性が何十人も集まって飛行艇を製造するんだが、

その女性達がよく見ると、ちらほら黒いワンピースを着ている。

それは多分、喪服ってことだ。

全員ではないかもしれないが、出稼ぎの夫達というのは、徴兵されて戦死していることを伺わせる。

ジーナも夫を戦争で失っている。

 

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赤紙が来て、それを拒否すれば家族に累が及ぶなら、行きたくなくても行かないわけにはな・・・。

非国民と言われて石を投げられたら、一族郎党そこに住めなくなるわけで。

誰しも人間関係や社会のなかで、しがらみを分け合って生きている。

 

あくまでも戦争への参加を拒否するなら、ポルコのように独りきりで入り江の秘密基地で暮らすみたいな、社会自体に参加しないスタンスが必要になる。

 

それは空賊たちもそうだ。

紅の豚に登場する男たちは、いい歳こいて揃いも揃って国家の有事に参加せずブラブラしている男達で、

マンマユート(ママ助けて)という名で、「みんないい子ね」「ボクひとりで行くのね」とジーナにあしらわれる、一人前の甲斐性があるとは見做されない男達なのだ。

 

カッコよく言えばアナーキーアウトローなんだろうけど。

カッコわるく言えば、頼りにならない半人前のとっちゃん坊や達たちであり、

 

より正確に言うなら、これは成人の手前のモラトリアム(猶予期間)の比喩の物語なんだと思う。

 

大学生くらいのイメージかな。

 親元を離れつつも経済的にはまだまだ親がかりで、

貧乏だけど気楽。周りもそんな連中ばかりでお金がないことすらちょっと楽しい。

安くて嵩のあるものばかり食べて、風呂も洗濯もロクにしない自堕落な生活をして、

講義をサボって朝まで麻雀とか、朝まで酒呑んで議論とか、学業という義務はギリギリまでやらないで、バカバカしいことに情熱を傾ける。

もうすぐ、いつか、社会に出て働かないといけないのは分かっている。

楽しく遊んでいる女の子と、結婚のことなんかもそのうち真面目に考えなくてはいけない。

プレッシャーはうすうす、あるいはひしひし感じていて、

あれもこれもいつかは向き合わなくては先へ進めないと知っているけど、

束の間の準備期間、猶予期間を与えられている。

自由と放埓の日々を満喫している。

 

「さらばアドリア海の自由と放埓の日々よ」というセリフがあるけど、

気楽なドタバタ劇に、戦争や不況や空軍みたいな外圧が不穏な影を落としているのは、

社会や責任との関りをいつまでもは先延ばしにできない、という肌感覚の表現なんだと思う。

 

ポルコにかけられた魔法を解く方法は、

フィオのキスでもあるけど、意味するところはモラトリアムからの卒業、バカ騒ぎの解散だ。

待たせていた女性と結婚して、定住して定職につく。収まるところに収まったのを匂わせてハッピーエンドとなる。

 

そしてエンディングの「時には昔の話を」では、ノスタルジーが前面にでている。

少し昔の話をしようか、通い慣れた馴染みのあの店、コーヒーを一杯で一日。

小さな下宿屋に幾人も押しかけ、朝まで騒いで眠った。

嵐のように毎日が燃えていた、息がきれるまで走った、そうだね。


時には昔の話を 加藤登紀子 紅の豚

 

二十代のモラトリアムを懐古する、気楽だった若かりし頃を懐かしむ。

 

とまあ、紅の豚はそういう物語なので、

意味が分かって楽しめるのが二十代後半以降ってことになるんだよな~。

ジブリアニメの主な視聴層、ちびっ子と感性が噛み合わないので、不人気がちなのは致し方ない。

ある意味で自由が失われる話なので、カタルシスにも欠けるし。

でも今頃ちょうどジブリ世代がおっさんになってきているので、再評価される時期ってことがあるかもしれないな。ひょっとしたら。

 

 

豚男は宮崎駿の自画像でもある。

飛行艇で儲けた稼ぎを、ぜーんぶ次の新しい飛行艇に注ぎ込んで、

ハイスぺック、ハイクオリティを求めるうちにどんどん予算がオーバーしちゃって、

借金を返すためにお祭り騒ぎの博打大会を開催する。

っていうくだりを見ていると、アニメ映画作りの現場、興行の雰囲気がまさにそうなんだろうなと思うw

前作の儲けを全部つっこんで、次作を更なる大作にする。

でもアニメ作りなんて博打もいいとこだ。大金がかかるのだけは確定で、ヒットするかどうかは時の運次第。

今ではジブリ宮崎駿も不動のブランドだけど、紅の豚当時の興行成績ではそれほど売れてなかった作品もあったわけで。

 

 

 

後はまあ、

紅の豚でも、赤毛ヒロインと黒髪ヒロインの対比が登場する。

冒頭で誘拐されるスイミングクラブの幼女達と、フィオが赤毛ヒロイン。

女性性の魔力を備えていて、空を飛ぶ、異種と交流する、そういうことができる。

豚になったポルコとパートナーになり、飛行機をつくり、空賊連中を惹きつけ丸め込めるカリスマがある。

黒髪ヒロインはジーナ、彼女は陸で待つ女だ。

人間に戻ったマルコのパートナーは彼女だ。

 

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それと、ジーナとカーチスが花園の庭で会話をする場面があるが、

 

バカっぽい男がやってきて、座っている上品な女性に紙片を渡して、植物に囲まれた場所で話す、

というイメージはハウルの動く城にも登場する。

これはセルフオマージュだと思われる。

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ハリウッドスターから大統領になる!と息巻くカーチスは、

ハウルの動く城で、国王陛下になっている。頬の張った輪郭が同じで、声優も同じ大塚明夫だ。

 

紅の豚では当て馬ポジションで、ジーナにもフィオにもフラれ、借金の肩代わりをするという、気の毒な目にばかり遭っていたカーチスがここでいくらか救済されているように思える。王様になれて良かったねカーチス。

 

ジーナは「あなたのそういうバカっぽいところ好きよ」と言うけど、

サリマンも意外と傀儡の国王を軽蔑とかはしてなくて、可愛いと思っているのかもしれない。

 

紅の豚のネタはそんなもんかな。

では、毎度のまとめに入ろう。これを書きたいがためのブログなのだ。

 

個人的に紅の豚で一番好きなのは、

フィオ「いいパイロットの条件を教えて、経験?」

ポルコ「いや、インスピレーションだ」

っていうところだ。わかりみ過ぎてニヤニヤしちゃう。

 

飛行艇で空中戦をやるようなパイロットに必要なもの。

エンジン、機体のコンディション、自分よりも大きな力を乗りこなし、

一瞬の判断ミスが死に直結するシチュエーション、その連続を生き延びるために、

人間の持ち得るどんな能力が磨かれるのかってことだ。

 

決して間違えない直観の力。

それしかないという正解を、一瞬にして閃き、その通りに体が動く。

 

そういう力だ。その感覚を想像するとワクワクする。

 

そういうのって後から考えても、どうして自分がそういう行動をとったか言語化できなかったりするんだよね。

なんとなく、でも絶対そうだと思った。っていう感じになる。

理性も知性も感情も超えた、脳全体がシンクロする時にだけ発揮される力、世界と調和する力、それが脳の本質、生命体の本質の能力だと思う。

 

宮崎駿アニメの主人公には割とこの能力が標準搭載されている。

ハッとした顔になったら、次の瞬間には最適行動をとっている。

その感覚を「インスピレーション」と言ってのけたのは紅の豚だけだ。最高。

 

インスピレーションは、ただ待っていても中々やってこない。

だいたいの人は普段、論理か感情か、左脳か右脳かに偏った脳の使い方をしている。

本能か知性か、後脳か前脳かに偏った使い方をしている。

過去の再生に囚われる容量の無駄遣いをしている。

まずそういうガッタガタのアンバランスを、意識して手放すところからはじめるといい。

脳内をお片付けして、フラットなワークスペースをつくるのだ。

それから問いを立てると、正解やインスピが浮かぶ。

そういう風に、インスピの感覚に慣れていける。

 

いや、飛行艇乗りみたいな極限状態に身を置くのもひとつの方法ではあるけど、危ないからなww

まあもうちょっと穏当に、セーリングとかサーフィンとか、パラグライダーとか、自然を相手に身体や機材を操縦していくのは、かなり捗ると思う。

 

空中戦よりも、ポルコが新しい飛行艇で飛び立つ一連のシーンが好きだ。

狭い河川を橋や船をすり抜けながら、新しい翼の使い方を体得して飛び立つ。

自然と、人工の翼と、人間の感覚のギリギリのせめぎいが、飛翔になって実現する。その緊張感が素晴らしい。

飛行機の動きをあんなに生き生きと描いたアニメーションは他にないな~。今はみんなCGになってしもうた。

 

 

 

 

 

宮崎駿よりちょっと時代が下るけど、アニメ漫画界隈の人材の大学生時代っていうとアオイホノオっていう半自伝漫画にその雰囲気がある。

 

 

 

・・・・、そういえば当時「カッコイイとは、こういうことさ」っていう糸井重里のキャッチコピーがついていたらしいが、

なんかこう、複数のヒロインとフラグを立てて、天与の才能があって引く手数多だけど、あえてどこにも属さない一匹狼感がクールっていう設定は、

やれやれ系とかなろう系チート主人公に近いモノがあるよなー。今にして思えば。

中二病にウケるカッコよさであり、さすおにとかイキリトとか揶揄されちゃう感性でもある。一歩間違えば黒歴史の、客観性を欠く万能妄想感なのだ。

腹の突き出た中年ぽい豚の容姿という自虐要素、コミカル要素で、中二妄想っぽさを相殺して嫌味にしないっていうバランス感覚は天才的だと思うけど。

 

それにしても「カッコイイとは、こういうことさ」っていうコピーは、額面通りに受け取っていいものだろうかww

さすがですお兄様wwwwっていう時と同じ煽りのニュアンスでもそのまま通じる気がしてくる。


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