今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」
前回の記事で、
ナウシカが聖母の物語、
アシタカの追放が母子の分離に相当すると書いた。
母親と自分が一体で不可分の乳幼児期、
母親を他者だと認識する自意識の芽生える幼少期、
では次にくる意識の成長の段階は?
反抗期ってやつだ。
親と対峙し、親に対して自己を主張し、
そして主張を通して、親よりも自分のほうを優位にしようとする。
が、そこで親は子どもの反逆を野放しにすべきではない。
親の威厳を保ちつつ、どの程度子どもの自由意志を尊重するのか、というような、
親子間での綱引き、パワーゲームが、どこのご家庭でも発生するだろう。
片方に親、片方に子がのった天秤が、
子どもの方に傾いてしまってはいけない。
王様のような子に、親が仕えてしまうのでは家庭崩壊となる。
天秤を自分の方に傾けられない子どもは、どうするべきか。
心理学では、人間は精神的な自立への過程で、
通過儀礼として精神的な親殺しを必要とするという。
精神的親殺し、つまりそれが 神殺し の意味するところだ。
親と子、
自然と人間、
大きなものから生まれた小さなもの。
小さなものが育って大きくなっていくときに、
自分を生んだ大きなものと、どういう関係性の変化を経ていくべきか。
自然から生まれた人間が、火を得、鉄を得、文明によって勢力を拡大するとき、
母なる自然と、どういう関係性の変化を経ていくべきか、
そこに親子の心理学が当てはまるってことは、
人間の意識のなかに、親=自然=神、っていう象徴的な相似があるんだよな。
それは、自分という存在を生みだした上位者、というようなイメージの符号だ。
さて、もののけ姫においては、エボシが神殺しの役割を担うキャラクターだ。
エボシを考察するとき、苛烈さと慈悲深さのどちらに注目すべきか、みたいな難しさがあるようで、
ある視点を導入すれば、その行動原理は一貫していると解る。
ピクシブ百科には、エボシも女衒に売られた娘であり、倭寇の頭目だった夫を殺して、明国の石火矢を持ち帰った、とある。
神を殺す前に、すでにエボシは集団のリーダーであった夫を殺している。
小さきもの、弱きものが、自分に君臨する上位者、支配者を、
打ち倒し、成り代わっているのだ。
内面的な自立ではなく、
天秤を自分の方へ傾けて、力関係を逆転させて、パワーゲームの勝者になっている。
エボシがタタラ場を統治するやり方を見ても、この成功体験を原型として繰り返しているように思える。
新興勢力のタタラ場と、権力者の朝廷や地侍という関係も小と大の対比だけど、
病の者と、タタラ場の民。
石火矢衆と、タタラ場の民。
女衆と、男衆。
自分の統治する集団のなかに二つに分けられる勢力があると、
エボシは必ず、弱者の方に肩入れするというか、
少数派の、軽んじられ虐げられ蔑まれ、撓められた不満の力、悔しさの力、反発力を利用して事を成そうとする。
その力を利用するためには、かえって分断を煽るようなことさえ言う。
「侍だけじゃないよ、石火矢衆が敵になるかもしれない。」
「男たちは頼りにならない」ってね。
病の者を秘密の庭に匿っているのは慈悲深いけれど、
きっと「皆は恐れて近寄らぬ」という、病への恐怖や差別を是正しようとはしてないと思うぞ。
エボシが、病の者にも手を差し伸べよ、皆で力を合わせよう、と言えば、
それを受け入れる人も多くいたはずだが、そういうことはしていないし、
タタラ場の暮らしの様子を見ても、
男衆は男衆でかたまって飯を食い、石火矢衆は石火矢衆でかたまって飯を食っている。
仕事場も別、食卓も別で、
皆で、同じ釜の飯を食うっていう団欒の場を設けていないのだ。
まあ、そこは時代考証的にそうだったのかもしんないけど。
しかし普通、善い為政者といえば、
自分の治める集団の中に不和があれば、両者の落としどころを折衝するものではなかろうか?
内部分裂をあえて誘発するエボシのやり方は、乱世の雄、革命家、反逆者。
あるいは植民地支配の方法論、自然を征服するという西洋的な思想に通じている。
エボシの最後のセリフは「ここを良い村にしよう」だけど、
それって裏を返せば、今までは、良い村をつくろうなんて、これっぽっっっちも思ってなかったってことじゃないかなー・・・。
猪との戦に連れて行った男衆は、敵もろともに吹っ飛ばす囮にした。
弱い者だけを守り、それ以外は使い捨て上等なのだ。
ちなみに、エボシが乱世の将なら、平時のリーダーに相応しいのがおトキさんだ。
普段から女衆をまとめ、甲六を尻に敷きつつも夫婦をやり、籠城の際は病の者とも親しくなっている。
エボシの分断統治を越えて、融和の指針を示していけるキャラに見える。
さすがCV島本須美(ナウシカと同じ)だけあるヒロイン、赤い着物は伊達ではない。
さらにちなみに、次作の湯バーバではカエル男衆もナメクジ女衆も合わせてまとめることができている。
「女も力を出すんだ、油屋一同、心を合わせて引けやぁ、ソーレ!」という音頭を執る。
リーダーシップが進歩しているのを見ることができるのだ。
閑話休題。時を戻そう。
人為と、自然。
タタラ場と、太古より神聖不可侵の大森林。
これも小と大の対比、か弱い者と、大きくて強い者だ。
だからエボシは、夫殺しの成功体験に従って、森殺し、神殺しをする。
夫を殺して石火矢という強大な力を得たように、
森を切り取って鉄の武器を製造する集落を得たように、
神の首を落とせば、より強い力が手に入ると思っている。
君臨する大きなものを打ち倒し、成り代わろうと行動する。
が、冒頭で述べたように、
子どもの反抗期の言いなりになっては、家庭が崩壊するし、
人為が自然を凌駕してうまくいくことなど何もないのだと、現代人はさすがにうすうす肌で感じていることと思う。
一昔前のSFが啓蒙した、科学の栄光の世界観では、いつか人類は地球のメカニズム、生命のメカニズムを解き明かし、
ピカピカの白銀の宇宙船に、コンパクトに再現した生態系や人造生命を積み込んで、宇宙開拓時代へ船出するのだと、無邪気に信じていたけども。
コールドスリープ、テラフォーミング、バイオスフィア、クローン、いつの間にか色褪せた言葉になったものだよ。(遠い目)
今のまま進んでも、人が母なる自然の神秘のわざを会得することはできなくて、
人が、理性が、科学が、文明が、顕なるものが。
自然を切り取って征服していく方法論の限界は既に見えていて、
いつも愚かな人類の超文明は滅びていて、自然へ回帰することが肯定的に描かれる。
もののけ姫でもそうだ。
エボシが神域で石火矢をぶっぱなしたところで、
親には親の、神には神の、器の大きさ、懐の深さがあると、子に覚らせるターンになる。
そこで、シシ神だ。
前の記事で、シシ神という名は四足獣の姿のことを指した敬称だと書いたが、
昼の姿をみると、獣の体に、赤いお面をつけているようにも見える。
横顔を見ると、その鼻面は獣にしては短い。猿か人のようだ。
目は白目部分が大きくて、それは人間に特有の特徴だ。
ま、アニメや漫画では動物でもそういう目の表現になることが多い。
感情表現が描きやすく読み取りやすいから。
進化の過程で人類が視覚によるコミュニケーションに特化して獲得した形質だもの。
モロの目も人間の目だ。言語を操る狼(オオカミ=大神)、獣以上の存在であるという表現だろう。
ヤックルの目は獣の目と、ちゃんと描きわけられている。
そして夜の姿をみると、直立二足歩行の人間の体に、鼻面の長い獣の顔、というシルエットをしている。
昼は人面獣身、夜は獣面人身、
つまり獣達の神でもあり、人類の神でもあるんだと思われる。
夜と昼、獣と人、自然と人為、生と死、二項対立のどちらもを併せ持つ神。
まあ、産みだすことと死んだものをひきとることは、どちらも大地母神のお仕事だし、
夜の方が本体と真名であるように見えるので、どちらかというと女神的であるとする。
デイダラボッチというのは、日本神話に編纂されなかった、民話伝承の創世神だ。
原初の巨人神話というのは世界中に類型がある。
ユミル(北欧神話)、タイタン(ギリシャ神話)、盤古(中国神話)、
プルシャ、ヒラニヤガルバ(インド神話)、マンザシリ(モンゴル神話)、タネマフタ(マオリ神話) などなど。
原初の巨人の体が大地に山に、目が月や太陽に、足跡が湖に、髪が植物や動物になって、世界が今のような姿になった、と古代の人達は皆そのように口伝した。
その体を世界そのものに変えた原初の巨人は、したがってその後、人間の目に映ることはないのだが。
太陽の、理性の、人の顕在意識の、顕なる世界の眠るとき、
夜の闇の、夢の、無意識の、密なる世界のとき、
そこには去ったはずの神々が息づいているらしい。
デイダラボッチが倒れ、山々に新芽が芽吹いた時、
甲六が「シシ神は花咲か爺さんだったのか・・・」と口にするが、
花咲か爺さんというのは、
白い犬が人に恵みをもたらしてくれる物語だ。
モロ一族が白い山犬なのもこれがイメージの元だろう。
この場合の意味するところを解釈すると、
白い犬は、何度も人に殺されるが、その度に姿を変えて恵みをもたらしてくれる「何か」の象徴となる。
「ここ掘れワンワン」で、穴を掘ると宝が出る。
鍬、鉄器を大地に突き立てて耕すと、恵みを得られる。
犬を殺し、埋めると大木になる。
弓や罠で獣を獲り刃物で解体すると、肉や毛皮を得られる。
大木を臼にするとモチが湧く。
斧やノミ、鉄器で木を削れば、道具を得られる。
臼を燃やした灰が花を咲かせる。
火によって、鉄器によって、
人間は自然からなにかを切り取り、自分達に利するものに加工する。
大地母神の体を、鉄や火で殺すたび、生活が豊かになる。そういうことだ。
「シシ神は死にはしないよ、生と死の両方もっているものだから」とアシタカは言うけど、
花咲か爺さん、ということは、
原初の巨人デイダラボッチは、何度でも死ぬほどに、形を変えて恵みになってくれるもの、ということではないかな。
神聖不可侵の大森林は、神殺しを、人の開拓を受けて、暮らすための恵みを得ていける里山に変わっていった。
しかし、灰が花になった、その後はどうなるんだろうね?
殺す度に変身し、恵みをもたらしてくれた母なる自然も無尽蔵ではない。
宅地をビル街へ、華やかな摩天楼へと変えてしまったら・・・、もう、その先がない。
地球は無辺でなく球体なのだ、作ったもの壊したもの捨てたもの、巡り巡っていつか自分達に帰ってくることが分かった。
それが、神殺しの限界、自然を征服するという思想と方法論の限界だと思う。
次作の千と千尋の神隠しには、川の主が竜として登場するが、
あれも神殺しだ。竜の体である川に刃物を入れ、様々な土木の技で治水してきた。川底を掘り、土を積み、流れを変え、暗渠を作り、ダムを作った。
そうして思いのままに竜を殺しながら、水の恵みを得てきたけど。
だが利水も行き過ぎて環境破壊になった例も、近代では枚挙に暇がない。
最近だと、三峡ダムが崩壊すればどれほどの被害になるかってことが話題になったっけ。
1980年代にはダム建設反対運動とかのムーブメントがあって、
むやみにコンクリで固めればいいってもんじゃくて、
自然は密接に関わり合う複雑系なんだから、その在り方に沿った開発でなくては長持ちしないことが分かってきた。
もののけ姫は1997年、ちょうど転換期に、宮崎駿年代から発せられたメッセージだったんだよな。
もののけ姫、神殺しの物語は、反抗期の段階の物語であり、
親、自然、上位者、支配者、君臨する者を、本当の意味で越えていくには、
自由と自在の境地へ至るためには、
自身の内面にある、それらの像(イメージ)と向き合い、それを幻と看破しなくてはならない。
エボシとシシ神は、まだ、
親を殺そうとする子と、それでも子を包み込み、糧を与えていく親の姿。
その相似形だ。
精神的な成長のテーマは次作へと持ち越され、
坊と湯バーバ、毒親のスポイルから家出、
ハクと湯バーバ、ブラック企業に辞表提出決意、
マルクルと疑似家族、で健全な家庭での育てなおし、
ハウルとサリマンで、ようやっと精神的な自立の物語になっている。
順当に、実に丁寧に、関係性の段階を描き積み上げていくのだ。
・・・、しかし、象徴的類似を突き詰めるなら、実のところ。
エボシは夫殺しではなく、父親殺しの原体験をもっているべきだった。
が、宮崎駿にはそれは決して描き得ないものなのだ。今のところ。
風立ちぬまで行っても、父権の像に撃ち落とされているからな・・・。
父権、父権に対峙する息子、長たるもののあるべき姿、みたいなものが描けないっていうのは、
もののけ姫でも見てとれる。
次の記事は、乙事主の話題から入ろう。
前回の記事
近代的な発展を支えた思想、自然を征服する一神教的な思想、父なる神の庇護と支配の表裏に興味を持ったなら、
自分的には小室直樹の本がお勧めだ。
目から鱗がボロボロ落ちてキモチイイ~ってなる。今までの世界観が根本からぐらぐらする知的快楽。
ハウルの記事。もう少し推敲したいところだ。
ハウルのテーマこそ、自分の書きたいものと合致しているので、
もののけ姫の記事は実はちょっと書いてて重く苦しい。
母なるもの自然と、父なるもの理想、その相克ではなくて、
両者の統合によるシフトアップについて、止揚して、0と無限と共振して、次元が上昇する素晴らしさについてこそ、ずっと想いを馳せていたいものだ。
ピクシブ百科の記事。