ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

もののけ姫を解釈する2 楽園追放、バーストラウマ。

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もののけ姫風の谷のナウシカが背中合わせの物語であることは、考察好きの間では割と知られた話だという。

 

遥か過去において、人の文明が森を征服していくさまと、

遥か未来において、森が人の文明を呑み込んでいくさまと、

 

そういう言い方をしてみれば、舞台設定からして反転、対称になっているし、

 

前の記事ではいきなりオチの類似について書いてしまったが、

他にも色んな切り口がある。

 

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ナウシカは、当時の宮崎駿が考えうるチートの全てを突っ込んだキャラクターであり、

敵も味方も獣も蟲も魅了するマドンナ、

超自然の直観とテレパシーをもつシャーマン、

空を飛ぶ赤い髪の魔女、白い翼に乗る天使、

我を忘れて戦う獰猛な戦士、

民を導くカリスマをもった英雄、

腐海でフィールドワークして城の地下に実験施設を持つ、研究者、科学者、探究者。

いくつもの側面を併せ持ち、

もうナウシカひとりで全部できるじゃん!

っていう完璧超人キャラにしたがゆえに、

ナウシカ一人の肩に世界の行く末が全部のしかかってしまった物語でもある。

漫画版では特にそうだ、

一人で世界の秘密をどこまでも追い求めて旅し、

一人で旧世界の秩序と対峙し、巨神兵で薙ぎ払う。

あまりの所業に、「破壊と慈悲の混沌」だと神のごとく形容されている。

 

しかし、さすがにやり過ぎたと思ったのか、

それともやれることはやりきったということか、

その後の物語では、一人のキャラに設定全部盛り方式は採用せず、

メイとサツキ、キキとウルスラのように、裏と表をそれぞれに分担させるキャラメイキングになる。

 

もののけ姫では、

直観に優れた戦士、英雄の側面をアシタカに、

破壊と慈悲の混沌である女神の側面をシシ神にわけて描いている。

 

そういうふうにキャラを設定しなおして同じ事件を起こすと、物語がどう転がるのか?

 

もののけ姫と、風の谷のナウシカで、同じことが起きている場面がある。

 

アシタカの村にタタリガミが現れた状況と、

風の谷にウシアブが現れた状況、

これはよく似た外的脅威の表現だ。嫌悪を催すグロめの外観や、大きさの印象も近い。

 

タタリガミは黒い蛆や蛇のような可視化された呪いを撒き散らし、

ウシアブは胞子を持ち込み、腐海を呼び寄せる。

 

伝染性の病原の恐怖だ。

コロナ禍と言われる昨今なら、この恐ろしさの肌感覚はまだ記憶に新しい。

たった一頭から、土も人も腐るケガレが広がって共同体が滅びかねないのだ。

 

ナウシカには蟲鎮め、魂鎮めの不思議な力がある。

ウシアブを静かに見つめ「森へお帰り、大丈夫、飛べるわ。」で、

傷だらけで興奮していたウシアブは、自力で飛びたち帰っていく。

ナウシカに伴われて飛ぶウシアブは、ちょっとかわいくさえ思える。

 

アシタカの村には、この力をもつ者がいない。

アシタカも矢を射る前に「鎮まりたまえ」とちゃんと声をかけているのだが、

タタリガミは勢いを緩めず突進し続ける。

アシタカは、ナゴの守にも乙事主にもデイダラボッチにも、荒ぶる神々に都合三度「鎮まりたまえ」と声をかけるのだが、その呼びかけには心を通わせる力が宿らないのだ。

アシタカの魂鎮めの言葉には、効果がない。

だから次のアクションが生まれ、物語が転がる。

 

また、アシタカの村には姫ねえさまはいないが、ヒイさまというシャーマンがいる。

ヒイさま、というのは姫様の音便化だ。おひいさま。

しかし赤毛の姫ねえさまと違って、ヒイさまの髪は白い。老いて色を失い、力を失っている。

 

ヒイさまも鎮めの言葉をかける「あなたの御霊をお祀りします、どうか恨みを忘れ鎮まり下さい」ってね。

ナゴの返答はこうだ。「穢らわしい人間ども、我が苦しみと憎しみを知れ」

魂鎮めは効かず、呪詛を吐きながら巨大な猪は溶け腐る。ひたすらに不吉だ。

 

呪われたアシタカは追放されることになる。

 

ナゴの守の呪いは、放っておけば血縁の濃い集落を七代祟り抜いただろう。

村ごと滅びかねないから、感染者を切り離すしかなかったのだ。

 

 

 

もし、物語の最後にアシタカが村へ帰れば、

族長になるべき若者がその地位に相応しい実力をつけて帰還する、貴種漂流譚という類型になっただろうが、

アシタカはタタラ場で生きるという。

 

となると、これは型としては楽園追放かなって感じがするんだよなあ。

 

楽園追放、あるいは失楽園、聖書の有名なエピソードだ。

神の楽園、エデンで生まれたアダムとイヴが、蛇に唆されて知恵の実を口にし、放逐される。

放逐された世界には、楽園にはなかったあらゆる苦しみが渦巻いている。

 

村を出たアシタカもすぐにそれを知る、

人里に下りるやいなや侍を二人殺すことになり、憎しみの連鎖の業(ごう)に巻き込まれる。

ジコ坊もそれを教えてくれる。

「人心の乱れること麻の如しだ」

「洪水か地滑りか、さぞたくさん死んだろうに。

 戦、行き倒れ、病に飢え、人界は恨みを呑んで死んだ亡者でひしめいとる。

 祟りと言うなら、この世は祟りそのものよ」

 

東の果ての、いにしえの民の暮らし、

連綿と自然と調和して続いていた世界からは考えられないほど、

放逐された先の世界は苦しみと憎しみに満ちていると、落差、対比が描写されるのだ。

 

楽園追放は、人心に訴える寓意に満ちた物語だ。

踏襲、引用、オマージュ、パロディ、数えきれないほどある。

Apple社のロゴだって知恵の実なのだ。毎日でも目に入る。

 

楽園追放を、バーストラウマの物語と解釈することもできる。

Birth trauma、出生時心的外傷。

それは全人類が共感できる、普遍的なテーマと言えるだろう。

人は一人の例外もなく、母から生まれるのだから。

 

母の胎内というのは、いわば楽園だ。

 

エデンには暑さ寒さもなく、他者もおらず恥という概念もなかったので、衣服というものもなかった。飢えるということもなかった。

 

胎内もそうだ。寒くも暑くもない、いつも暖かく快く胎児は裸で、

臍の緒から酸素と栄養が届き、空腹を感じることも、呼吸をする必要さえない。

 

なにより胎児は未だこの世の苦しみの全てを知る前であり、

感じているのはただただ、すべてを過不足なく与えてくれる母体との一体感、

小さな細胞から自分の体がぐんぐんと組みあがっていくという素晴らしい奇跡。

これ以上ない神人合一の安らぎと自己実現の歓びのなかで微睡む、まさに楽園の心地。

 

そこから出産となると、母子ともに死の危険すらあるクライシスになる。

陣痛を経て狭い産道をくぐる、くぐれなければ死ぬ。(今は医療が発達してるけど)

臍の緒を断ち切られ、まず呼吸をしなくてはいけない、できなければ苦しい、死ぬ。

腹が減る、喉が渇く、空腹は苦しく、母乳を飲まなくては死ぬ。

暑かったり寒かったりする不快を知り、暑さ寒さが過ぎれば死ぬ。

母乳の時期を過ぎれば、動物でも植物でも自分と同じように生きるものを殺して食べて生きていく、という業(ごう)の環に加わるより他にない。

 

楽園だった胎内世界から出てくれば、この世は不快と苦しみと死の危険の連続なのだ。

 

誰もが忘れてしまう幼い頃、胎内と外界、二つの世界を経験したこと。

その際のあまりの落差、変化によって受けたショックをバーストラウマと言う。

 

それが楽園追放の物語に潜む暗喩、人心を惹きつけてやまない普遍的な元型だ。 

 

楽園追放は、原罪、という実にしょーもない思い込みの出典の物語でもあるけど、

神に見放された恐怖というのは、記憶の底の、母胎と切り離された痛みと符合して結びつき、根深いものになっているように思う。

 

ああ、でも、聖書の神といえばヤハウェ、契約の神であり男性的な印象をお持ちではないかと思う。

白い服、白い髭の老人みたいな、よくある神様のイラスト的なイメージのアレだ。

しかし、

そもそも、楽園と知恵の実の物語はシュメールの古い神話のものだった、と

神話研究者、我が心の師匠ジョーゼフ・キャンベルの著作に記述がある。

女神の楽園で、女神が人に知の象徴の果実を授ける神話だったのを、

一神教が布教の過程で取り込んだ。

楽園はヤハウェのものであり、土着の女神は悪魔の蛇だと貶め、役をすり替えたのだ、と。

 

・・・ま、日本人にはあまりピンとこないかもしれないが。

布教の過程、民族の勢力拡大の過程で、勝者が敗者の文化を改竄して取り込むのは、よくあることだ。

キリスト教でもソロモンの72柱の悪魔はみんな元は土着の神や精霊だし、

仏教の天部は元はヒンドゥーの神々だし、

日本でも弥生人の神話体系に、縄文の神々が国津神として併呑されていった痕跡がある。前者の総本山が伊勢、後者が出雲で祀られている。

 

・・・めっちゃ早口で言ってそうな情報量になってしまったw

閑話休題

 

そもそも遥か古代、祝福と誕生の物語があった。

それが裏切りと追放の物語に読み変えられていた。

人類の深層意識には、大地母神からの分離、契約や秩序の父なる神の台頭、という転換点があったということが、未だ深く、痛みと共に刻まれている、という話。

 

ナウシカが、古い古い神話の元型に則った、すべてを導く聖母の物語だったとすれば、

アシタカの追放という導入部分は、母子の分離という次の段階を描いている。

 

 

さて、楽園追放のキーアイテムといえば知恵の実だが。

 

知恵の実とは、

神と人が一者・一体、分かたれない同一であり調和であった世界に、

自と他という二者、主体と客体、正と負、善と悪、陰と陽、男と女、人為と自然、

あらゆる二項対立とその関係性を生じさせた認識、その象徴だ。

 

知恵の実を食べたイヴは、アダムを異性と認識し、裸でいることを恥じた。 

それはつまり、母の前で裸を恥じる赤子はいなくて、

はだかんぼが恥ずかしくなるのは、まあ個人差があるだろうが、

自意識の芽生え、母を他者と認識するところから生じる気持ちと行動だといえば解りやすいだろうか?

 

 

もののけ姫の物語でいうと、

ナゴの守の「我が苦しみと憎しみを知れ」という言霊が知恵の実に該当するだろう。

 

呪いと言えば呪いだが、

思い知れ、とは言い換えれば、自分の気持ちを解ってほしい、ということでもある。

知れ、というのは依頼であり懇願であり、託された使命でもある。

 

アシタカは呪われて追放された、という解釈もできるけど、

アシタカは遺志を託されて旅立った、と解釈しても意外と成り立つ、よく出来た話なのだ。

 

生まれてきた世界、外の世界にあるものが苦しみや憎しみや呪いだけなのかどうか、

 

自我、という視点から見る世界が、修羅の庭なのか、楽園なのか。

 

知恵の実が、この世界に生まれてきたことが、人に与えられた呪いなのか、祝福なのか。

 

それを見極め、決めるのは、誰でもない己自身の心だ。

 

そのために、曇りなき眼が要る。

 

先入観、期待、恐れ、欲、甘え、嘲り、あらゆる認知のバイアスを努めて排し、

明鏡止水とした自分の心に、あるがままの世界の姿を写そうと試みることだ。

 

外の世界に出たアシタカは、

エボシに会い、エボシの秘密の庭に招かれ、エボシの心を知り、

シシ神に会い、シシ神の池で傷を癒され、シシ神の心を知った。

 

それはどちらも本当はナゴの守がすべきだったけれど、できなかったことだ。

 

ナゴの目と心は、敵への憎しみと、神への誤解で曇っていた。

 

エボシが「愚かな猪め、呪うなら私を呪えばいいものを」と言うけど、

それは実にまったく仰る通りで、

ナゴの守は、タタリガミ化というバーサクのパワーを手に入れたなら、死なばもろともにエボシに突っ込めば良かったのだ。

エボシが怖いなら、タタラ場に突っ込んで呪いを撒き散らしてもよかった。(よくはないけど。)

勝てないまでも痛み分けにできる機があったんだけど。

 

土地神だったナゴの守は、守るべき土地を守れず、知るべきことを知ろうとせず、敵を恐れ、死を恐れ、逃げた。

 

逃げて逃げて、地の果てまで逃げた先で、自分に「鎮まり給え」と声をかけ、穢れた身に矢を射かけることを厭わなかった青年を見つけた。

 

自らが持つべきで持てなかった、敬虔さと勇敢さを持った者に、自分が出来なかったことをして欲しいと思ったかもしんないよね。

 

アシタカの腕には、タタリガミの呪いが、ナゴの守の想いがくっついている。

背後霊というか守護霊というか持ち霊というか、

シャーマンキングのオーバーソウルみたいな状態っぽくみえる。

矢を射る時、ゴンザの刀を曲げた時、十人ががりで開ける大門をひとりで開けた時、

アシタカの意志に反応して、呪いが、ナゴが常ならぬ力を貸してくれているのだ。

代わりに浸食が進むけど。

 

エボシがナゴのことを口にした時と、シシ神の姿を見た時、右腕は勝手に暴れ出す。

そこにはナゴの守の、無念というか悔恨というか未練というか、そういうものがある。

 

アシタカがしたことを、ナゴはみんな見ていたはずだ。

すべてが終わった時、右腕の呪いは痕だけ残して消えている。

 

それはシシ神の血が万病を癒した、というよりは、

憑いてきてたナゴの守の無念が晴れたんだ、という解釈をしたいと思う。

 

アシタカは呪いを解いた。

「我が苦しみと憎しみを知れ」という呪いと懇願の表裏一体の想いを託され、

ナゴの守が死に至った経緯を知り、敵の心を知り、神の心に触れた。

 

 

他者だと思っていたものの心を深く理解することができれば、憎しみも期待も恐れも拠り所をなくす。

憎しみでも恐れでも、あらゆるネガティブな想念の本質は、愛から遠ざかること、不理解や分断にある。

それはやっぱり、幻だ。

 

敵もなく、神もなく、己もないという、

すべてが一体の調和の感覚、楽園の感覚を、

曇りなき眼で見つめ、知ることによって、再び取り戻していくことができる。

 

託された呪いも懇願も果たされた。

知の芽生えより分断され、知の成熟により統合へ向かっていくという、

人の認識の、知恵の実の禍福を知り、

「この世は祟りそのものよ」とまで言わしめる原罪の呪縛を解く。

誕生の痛み、分離の痛みを手繰り寄せて癒す。

 

するとどうなるかっていうと、

軽くなった自分の心で、そこにある世界をただ見ることができるようになる。

絶対者に追放された先の世界を、己の心で再び楽園に変えることができるんだよな。

 

どこででも、自分のいる場所を楽園に変えて生きていける。

 

与えられたものを越えて変わることのできる力、それが心だ。

 

 

 

「いつも何度でも」はもののけ姫にインスピレーションを受けた歌という情報をもらったけど、http://www.tapthepop.net/extra/56735

 

まさにそんな感じ、心も体も曇りなく、ゼロにすることを体得したなら、

海の彼方に探さなくても、楽園はここにあったと気がつくことができる。

 


いつも何度でも / 木村弓

 

まあ。

もののけ姫は登場人物が多く勢力図も複雑なので、見逃しがちだけど、

ナゴとアシタカだけに注目してみても面白いよっていう話。 

何度か見てるとナゴにも萌えがあると思えてくるw

 

エボシの心と、シシ神の心、その辺が具体的にどういうものかってことは次の記事で詳しくしていきたい。

楽園追放、母子の分離を描いたから、

次は神殺し、反抗期の段階を描くことになるのだ。

 

 

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 失楽園ってーと古いドラマの印象が強い(歳がバレるw)ので、

楽園追放という言い方にした。。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B1%E6%A5%BD%E5%9C%92

 

貴種漂流譚

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A#:~:text=%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A%EF%BC%88%E3%81%8D%E3%81%97%E3%82%85,%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%9F%E3%82%93%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%82%82%E3%80%82

 

inspiration.hateblo.jp

 

 

 

 

女神=母=森=夜=自然、この辺の象徴的類似を直感的に理解できるような記事がそのうち書ければなーと思ってる。

ジョーゼフ・キャンベルの世界観を知ると、象徴、暗喩、解釈、そういうものの見方が身につくけど、

翻訳だからか、ちょっと上級者向けの文体なんだよな。

対談形式の「神話の力」が思わぬ流れで色んな話が読めて面白い、と思う。

自分的には棺桶に入れたい本10選に入る名著。

 

 

 

 想文」