ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

宮崎駿作品を通して解釈する3 成長していく主人公像。

 

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赤毛の魔女ほど込み入った設定ではないけど、

男の主人公も全作品を通して見るとなんとなく変遷がある。

パズーはどうしてああも身体能力が高いのか、という疑問から仮説にしてみた。

 

魔女宅で登場する女性たちが、女の一生の各ステージを象徴していたのと見方は一緒だ。

 

 

主人公達は、全員でひとつの道を歩いている。

ひとりの人間として精神的に成長していっている。そんな感じだ。

 

まず、アスベル、パズー、カンタ、トンボ、

前半の全員に共通するのは飛行機械いじりだ。
アスベルは工房都市ペジテの少年、メーヴェを修理できる。
パズーは飛行機を作ってる。鳥を模した小さな飛行機を飛ばす。
カンタも縁側で飛行機のオモチャを作ってる。
トンボもプロペラ付き自転車、エンディングで人力飛行機に乗ってる。

 

宮崎駿は 飛ぶ ということに格別の想いを抱いてるけど、
飛ぶ力、魔法をもっているのは、いつも女性だ。
男の子達は、魔法でなく機械の力、科学のアプローチで飛ぼうとする。
それは象徴的に符号する。
女性性は受け入れるもの、感覚の力、右脳的なもの、魔法で、
男性性は積み上げていくもの、理知の力、左脳的なもの、科学っていうかね。

 

でも、男の子達がその機械で、一人で颯爽と空を飛べるかっていうとなかなか厳しい。

 

アスベルも飛行機を失って腐海を迷ってるとこで出会う。ナウシカメーヴェに乗せてもらう。
パズーも凧にはシータと一緒に乗ってる。
カンタは、サツキが黒髪だ、魔女ではない。
トンボはエンディングで飛んでる。側にキキがいるけど。

 

延々と少年達が作ってた飛ぶ機械の蓄積があって、魔女達に飛ぶ感覚を教えてもらって、
やっとトンボで飛行機が完成したから、
紅の豚飛行艇乗り、パイロットの物語ができるのかもしれない。
まぁ、それもフィオのフォローがあるけど。

 

で、もののけ姫、アシタカでは空は飛ばない。
魔法なし、魔女なしで、どこまでやれるかアシタカは足掻き通す。

で、アカジシと一緒に駆けめぐり、シシ神にはなにかを授けてもらったようにも見える。

少女ではなく、赤い毛並みの獣や神と。

より近く、より高みの存在と交流し、より深くなにかを得ているのかもしれない。

 

するとハク、ハウルでは、飛行機なしで飛ぶことができるようになっている。

ハクは竜、少年像が神性を得ている。男の子が魔法を体得している。

…が、まだ女主人、母性による支配がある。

 

そうすけでは船だ。ポニョが魔法で大きくした船で航海する。

 

次郎では、また飛行機。
次郎は夢の中で、一人乗りの飛行機に乗って飛ぶんだけど、そびえるモノリスのような飛行機に砲弾を落とされて、落ちる。

 


アスベル、パズー、カンタ、トンボ、ポルコ、アシタカ、そうすけ、次郎。

割と、順番に精神的に成長していってるみたいにも見えるんだよなぁ。

 

アスベルは完璧なナウシカの背を見ている。母に庇護されている幼児期的だとする。

いやアスベルもかっこいいけども。

ナウシカでは主人公ナウシカが常に物語を動かしていて、それ以外の全員が、聖母で英雄の彼女の背中を見ているだけ、仰ぎ見ているだけ感があるような気もね?みんな「姫様、姫様~」っていうさあ。

子どもにとってカーチャンが世界のすべてっていう時期があるよね。

 

パズーのあの身体能力の高さは、少年期の万能感そのもののような気がする。
小学校低学年くらいの、なんでもできそうな無敵の気持ちのまま、パズーはなんでもできるというか。

公園で初めて会った誰かともすぐ仲良くなって、川でも廃墟でも、なんでもない場所でも毎日が大冒険だ。

 

カンタで初恋、小学校の中学年くらいか。

気になる子に素直になれないお年頃だ。

だんだんと社交性、他者との関係性、友人や異性との関係が重要になってくる。

いつもの人達、いつもの場所、子どもなりのテリトリーが定まってくる。

 

トンボは友人に囲まれている。 魔女子さんをナンパするのも余裕の社交性を身につけているw
飛行クラブで、みんなで協力して飛行機を作ってるらしい。そういう絵はないけど。

集団の力で何か作るというのは今までより一段階進んでる。

パズーは一人で飛行機作ってたからなあ・・・。

できる気がするのは分かるが、実際に独学だけでそれができるかどうかはちょっと疑問が残るw

 

ポルコでは、フィオとピッコロ社の女性達が工場でてきぱきと分担して作業する場面があって飛行艇が作られる。高度な技能職、プロのお仕事だ。
ポルコは、戦争に参加しないアウトローだ。賞金稼ぎも海賊も、カタギではない。

紅の豚は、戦争という国家の一大事に、成人男性としての責任、国民の義務ってやつを果たさないで遊んでる男達の物語、という見方もできるw
つまり、まあ反抗期。あるいはモラトリアムだな。成長の段階として見るなら。

 

アシタカは異邦人だ。

故郷を離れて、共同体の構成員ではないが、でもそれを獲得しようとしてる。出来ることを探している。
それを、家を出て、社会に自分の居場所を探そうとしてる、 と見立てるなら学校を卒業して仕事をはじめるくらいかな。

 

ハクでブラック企業に勤めてしまって病むw
名前を取り戻して「話をつけて弟子を辞める」と宣言する。

 

もののけ姫で女性性の神性、夜の神、自然の神シシ神を描いた後は、

女性性、母性のダークサイドが描かれるようになる。

母は子を慈しみ育むが、それは支配や抑圧と表裏一体だ。

聖母と魔女の表裏一体だ。光を描いた後は、闇を描く。

湯バーバやサリマン、子を捕らえる恐ろしい母を描き、

ドーラの時は「ママ、ママ~」だった男性像は、坊やハウルとなり家出して対決して母を越えていく。

 

ハウルで、母性からの自立だ。

宣言するまでだった「話をつけて弟子を辞める」の意味するところを実行してる。

対峙して、精神的に越える。

 

サリマンは雇い主以上の、後継を求める師だ。 
ブラック企業であれば辞めれば後腐れないけど、
毒っぽい親、過保護な親とかになるとそうそう縁が切れないのが難しいところ。 
もう年齢は人によることになってくるだろうけど、 一人で生活を成り立たせるのに慣れてくるぐらいの年となると20代いっぱいとかはかかるかもね。

 

そうすけは親を名前で呼ぶ。

それは母性から自立したハウルの後だからそういうことになるのかも。

母性、母親と対等以上にまで成長して、「素敵な赤毛ね」と言わしめた作中で最も赤い髪、優れた魔女のポニョと結ばれる。

赤毛ヒロインとのカップル成立は今までの主人公達にはできなかったことだ。

 

で、次郎だが。

風立ちぬからは、女性性・母性の物語から、男性性・父性との物語への転換がある。
次郎の飛行機を落とすモノリスは父権の象徴だ。
風立ちぬ全編を見ても、父権を越えられたかというと…、うーん。
母性ほど鮮やかには越えてないんだなw
大体それらしいんだけど、なんかモニョモニョしたところがあるw

 

風立ちぬの記事も書かないとアレなんだけど、

次郎は玄関を通らず、庭から菜穂子の部屋に入る。これはなんか変なんだ。

 

ソフィとハウル、そうすけとポニョ、二郎と菜穂子。

これらのカップルは結ばれはしたが、そこから、ひとつの新しい家庭として船出まで出来てるかっていうと、ちょいちょい微妙なところがある。

 

宮崎駿自身が、天職で身を立てるまでは良くても、ちょっと家庭における父として、息子を育てる男親としてはアレなんだろうね・・・。

創作物の登場人物は、作者自身の鏡だ。

作者ができないことをキャラにやらせると説得力にならない。なにかが破綻するw

 

次作の主人公でそれを越えられるかどうかだ。
順当に行くなら、家の中心、居間や食卓に両親と子供が揃ってる場面が描かれるかどうか、とか、

息子的存在を育ててる父的な存在が登場するかどうかに期待したいw

 

トトロの父、魔女宅の父のような優しいパパはいわゆる父権的ではない。

もっとこう・・・威厳とリーダーシップのある感じがだな。

ラピュタの親方は割とそれらしいけど、おかみさんの尻に敷かれてる。

なんていうか、夫唱婦随っていうか。陽が動き陰が従う、そういう在り方を描けるだろうか?

 

宮崎駿の主人公像は、聖母に導かれるところから始まって、女性性の力・魔法を得て、母性の試練を越えた。

仰ぎ見ていたものを、同格の伴侶とすることができた。

 

その次は、主人公は、子を得て父親になれるだろうか?

 

あ、ゲド戦記は見てないんだけど、あれって弟子を連れた師匠キャラが出てくるのか。

そういう関係性こそがどうしても描けなかったヤツだ。

 

映画ナウシカのラストでユパとアスベルが共に旅立った、その後の文脈を継ぐキャラが出てこない。

 

ハウルマルクルは師弟関係のはずなんだが、

ハウルマルクルを育ててはいない。

師弟の関係にだけ注目して見ると、交流の描写がほぼ無い

 

マルクルハウルを見て二度「死んじゃったかなぁ」と言う。

弟子が師匠に、息子が父にかける言葉にしては、あまりにもなんつーの?

薄情というか…、情がわくような思い出も思い入れもなかったんだろうな…っていう言葉だ。それを二度言うて。

倒れてるのがソフィだったら「死なないで」と言うだろうに。

 

まあ、天才も人間だからなあ。別に父権を描けなくてもいいとは思う。

今までの名作が色褪せることはない。

 

父権を越える物語が見たければ、それはそれで色々あるしね。

こないだのアニメの手塚治虫原作のどろろはお手本のような出来の良さだった。

キングダムとか進撃の巨人とか、落語心中とか、マギとか、鬼滅の刃とかもいいかもしれない。

魔術士オーフェンとか、それこそゲド戦記(原作)とか。

 

将と兵、魔王と勇者、師弟、父と息子の物語も普遍のものだ。

 

転スラとかオバロとか、主人公が魔王になり、目下に慕われ国を造る、自身が父権を獲得していく物語も流行りだ。

 

 

 

追記。

ポルコとアシタカの間に、耳をすませば天沢聖司を入れても矛盾なく成立したw

 

天沢聖司は、雫と結婚の約束をして、バイオリンの専門学校に留学するという。

 

ジーナを待たせっぱなしのポルコから、ちゃんと将来を約束してる、男の責任感ってやつを発揮してる。

女の子には待っててもらいつつ手に職つけようとするってのは、

反抗期を終えて、真面目に将来設計してる

バイオリンも工房で作ってる。試行錯誤して技能を習得してる。

 

で、実際に社会に出て自分を試すのはアシタカのターンになるわけだ。

 

 

 

 

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