ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

沖縄久高島巡礼忘備録

はいさーい。

 

ちょっと沖縄行ってきたからその話しようかね!

 

このブログで旅行記を書くのは初めてだけど、カテゴリとしては

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としておこう。

 

沖縄はスピリチュアル界隈でも人気のスポットだし。

美ら海水族館とか観光地も抑えつつ、メインは聖地といわれる島に行くことだったのだ。

 

そこは久高島という。

 

沖縄で聖地とかパワスポというと、斎場御嶽せーふぁうたき)が有名だが、

その御嶽の巨石を潜った先に海を臨む場があり、

ニライカナイ常世・神世)としてウートート(礼拝)する先にある島、それが久高島だという。

 

ここね。斎場御嶽から海を見た先の小さい島。

レンタル自転車で一周するのに2時間程度、住人は200人ほどの小さな島に二泊三日してきた。

 

まず、斎場御嶽とこの島には以前に一度行ったことがあった。

 

自分史的に病みがMAXだった10年くらい前、

怪しいスピ団体のツアーに誘われて行ったのだ。

界隈で有名なユタとかノロ(シャーマン)だというオバーに案内してもらう感じのやつ。

いやほんと、あの時は救われた過ぎて藁でも壺でも掴むカモであった・・・。

 

当時の印象としては、島は しにジョートー 最高に美しくて素晴らしいと思ったが、

その真栄田苗という人の言うことは不愉快で、

ツアーだから勝手な行動は慎んで大人しくついていくが、

いつかきっと自分で自由にこの島を探索したろーと思ったのだった。

 

まあ、どう不快だったかってえと、

「酒飲んで禁足地に入って騒いだウェーイが事故って狂った」(意訳)

「島から何ひとつ持ち出してはならないのに、

白砂を敷き詰めたくて船何隻ぶんも持っていったから城は燃えた」

みたいな呪われ脅かし話をえんえんとね・・・。

 

いや、こっちの人柄見て話してくんねーかな~。

こちとらどう見ても人畜無害で優等生タイプの文化系モヤシじゃん?

そんなフラーどもと一緒にされましても。

オカルトは好物だしルールも守るが、

人を恐怖でコントロールしようというのは好かん。

 

てか、このなにもかもあけっぴろげの島にいる神様は、

絶対にケチでも祟り呪い系の手合いでもありえねー

と、口には出せない違和感にイライラしにわじわじーしていた。

 

そーいや、禁を犯した報いについての話か、

後は彼女が海亀とかの動物を式のように使役できるというパフォーマンスで、

島の神様の由来や性質や神と人とのイイ関係とはみたいな徳の高い話は全然無かったっけな・・・。

それは見えない世界に関わる者としてはランク低め。

 

まあまあ、というわけで、

 

10年越しの念願叶えて、今回は一人旅をしてきたのだ。

 

10年の間にどうにかメンヘラから脱することができたが、その契機はあの島にもあったように思う。

 

 

あの浜の砂、

真っ白でふかふかのシャラシャラで、

埋もれた裸足から淀んだ病みが抜けていく気がした。

 

地平まで遠く続き、足が深く沈む底知れない砂、

ふと、あまりに白いそれは砂でなくて、

みんな砕けた珊瑚が積もったものだと気がついた。

ひとつ拾ったその形はまるで骨のようだ。

洗骨、というイメージが湧く。

何千何万年の幾星霜、これまでもこれからも碧の波が骨を洗い清め続ける浜。

こうまで静謐で美しい死の世界があるのか、

 

 

と衝撃と伴にその世界観が自分の内に灼きつくのを感じた。

 

常世の島からリアルの生活に帰って、死にたいことがある度に(割と毎晩w)

どう死にたいか想像して、あの浜で洗われる骨になる最期を思うと少しだけ安らかになって泣き寝入りできたのだった。

 

 

 

んで、

 

ずっとそんな妄想をしていたせいか、

あるいはダン飯アニメ12話のせいかw

ふとこんな遊び、あるいはマジナイを思いついた。

 



いくらでも落ちている丸い珊瑚をひとつ見つけて、

それを自分の頭蓋骨と見立てる。

 

骨盤、脊椎、腕の骨、足の骨、肋骨、目玉、歯・・・、

思いつくままにそれに似た珊瑚を拾っていく。

たまに内臓みたいなグロめの色形の珊瑚もあるので、それも拾う。

 

波打ち際には、波の来たとおりに珊瑚や漂流物が線状に溜まっているのだが、

そこは火葬場で骨を拾うあの台車の様子に似ていると見立てる。

細かい骨が散乱して適当に補完が効くところに、集めた珊瑚を並べていく。

 

するとこのように、なんとなくソレっぽくなる。

もちろんマルシルのようには詳しくはないがwまあ見立てだから!

魔術は意識の技術なので、高度にできるならそのほうがイイけども。

 

つまり、類感呪術による生前葬だな。

 

自分はこの浜で波に骨を洗われる死を切望しているのだが、

今時分当然そんなケガレを持ち込むことはできないわけで、

こういう形でそれを叶えたわけだ。

これなら浜にあるものを集めて並べただけ。

すぐ風や波に散らされていくし、誰にも怒られる謂れはないもんね。

葬式らしく花でも供えたいと思ったが、花を手折るのはためらわれたので、

シーグラスを飾っておいた。

 

花は浜辺にも結構いろいろ咲いてた。

というか、開けて明るいビーチ(常世)に行くためには防風林でもある鬱蒼と暗い緑のトンネルを通る必要があるのも対比や舞台装置として意味深だ。

緑のトンネルの内と外では風も湿度も光もまるで違っていて

違う世界に来たか生まれたかような感覚を誘導してくれるのだ。

意識を変性させる仕掛けが人為でなく自然にできあがっちゃってるのがスゲーわ。

 

しかし珊瑚もそうだがシーグラスもいくらでも落ちていた。

普通のビーチではこんなには落ちてないから、

やっぱ聖地のルールを守って誰も持ち帰ってないんだと思う。感心感心。

 

 

で、

三日目の早朝にコレを思いついて遊んでいたのだが、

雲が厚くてご来光を拝むのは諦めてたとこに日が差してきたよね・・・。

 

わーい完全にお迎えきたわ~。

 

いやー、善く死んだ。

 

これで一回死んだ気持ちで、

要らない思い込みや、病むこと痛いこと悲しいこと苦しいこと、

ずっといつもここで粉々になるまで洗われているんだという気持ちで、

 

新しい生、新しい一日、新しい今を、

そこに在るがままの世界と響き合って生きられるよね。

 

っていう、死と再生の儀式になったと思うのだ。

 

みんな真似していいよ☆ 

 

 

さて、

これはまだまだ本題ではなく、

いわば神社の手水場で手と口を洗うような行為だ。

神様に会いに行く前には、俗世のケガレを落とすべし。

 

久高島にはクボー御嶽という立ち入り禁止の場所があって、

くだんのオバーは入っちゃいけない場所の入り口の前に全員を立たせて例の祟り話をえんえん聞かせてくれたのだが、(校長の長話のダル感)

 

後に自称霊感のある知り合いにその話をして島の航空写真を見せると、

そこに神様いないよ」と言うのだ。

もっと島のまんなかあたりにいる」と。

 

 

は?

・・・マ?

いや、自分はわからないことは否定しない主義だ。

わからないことは保留して、検証するか考察する。

 

クボー御嶽というのは住民が祭りを行う場所だという。

広場、前座敷、つまり拝殿であり、本殿ではない?

 

確かに、神が鎮座する本殿の上で踊る輩はいない。

神の前に設えた舞台で、神をもてなし言祝ぐために祈り踊るものだろう。

 

ちなみに、岡本太郎の著作にはこの御嶽を撮った写真がある。

岡本太郎が訪れた当時は開けっ放しだったところ、

その後マナーありえん輩が湧いたせいでの出禁なのだ。

そこは自然のままに、森に囲まれた広場に石が置いてある。

そういう場所だ。

 

そういう在り方は島の各所に見ることができる。

 

ビーチへ向かうトンネルの途中にも脇道に石が積んであった。

サイクリングのマップにない獣道のような茂みの先にも、

人が出入りしてわずかに草や木を整え、石が置いてある場所がある。

 

島の信仰とはそのように素朴で原始的で、だからこそ最も根元的にパワフルなのだと岡本太郎は感嘆しているのだが。

 

そう、その本を読んでいたから自分も気がついた。

集落を沖縄本島を見ても、本土とは景色が違う。

お地蔵さまも道祖神も鳥居も、ひとつもない。

あるのは石敢當とシーサー。言葉は通じても文化圏は違う。

日本の常識を外して観察しなくては、聖地のサインがわからない。

 

いや、日本に限らず世界のどこでも、

パワースポットがあれば大抵人間は壁と屋根で覆って供物を捧げはじめる。

神殿やら教会やらの建築や鳥居や門などの境界を設けて、聖と俗を切り離す。

下々の者を遠ざけて権力や神職がパワスポを独占している、という言い方もできる。

 

しかしこのささやかな島では海が境界となり、不届き者も権力者も住み着きはしなかった。

だからすべてがそのまま、太古の様式のまま、万人に開け放してある。

 

そこは何気なくそこにあって、いっさい隠されてはいない。

ただ文字で示されてもいない。

人工物の境界で区切られてもいないが、看板や標識も無い。

そういう場所だった。

 

 

 

 

この広場とこの石、ここが島の中心だ。

きっとこの星の中心のひとつでもある。

 

自分の心身でこの場所を大事だと思えて良かった。

 

立ち入りも祈りも写真もブログも、何も禁止されたとは思わなかった。

位の高い神様ほど何も禁じたりしなくなる。

愛そのものに近くなり、ただ許されて在るというありがたさばかり。

脱帽して一礼して入って、20分ばかり忘我に瞑想して、写真を撮って一礼して出た。

 

祈りっつーても、なにかお願いしたわけではない。

逆だ。

ああしたいこうなってほしい、という願いだが我欲だか洗脳だかわかんない想念、そういうものをぜんぶキレイさっぱりにして、

空っぽになってこの場と響き合って天と地を繋ぐただのアンテナになろう、とかそういう感じだ。

何事も無心になれたときこそ全てと調和して最も善く行えるのだ。

 

空より高く海より深く 星々より遠く魂の始まりより古く

身もなく心もなく 名もなくわざもない

色即是空 空即是色 皆空

 

 

 

 

 

 

・・・で、

あとは、集落に近いビーチでぼ~っとしていた。

新しく生まれたんだからいわば産湯に浸かった気分。

やっぱトランスしたあとは着地も大事だからね。

チューニング最高感度のまま俗世の毒電波浴びたらバグるからw整理体操的な。

小さい浜だけど、メーギ浜が一番おだやかで優しくて和む浜だったな~。

穏やかだからそこに人が住もうと思ったんだな。受け入れられてる感じする。

青みがかった岩や、砂に赤い珊瑚が混じっているのも美しかった。

 

 

ああ、この浜で夕日を撮ろうと思ったんだけど曇ってて、

でも埠頭で歌うギター野郎がいたんだよな。

独りで海に向かってギターを鳴らし、

「たりないものは何も無い、大事なものはみんなここに在る。」

と歌う彼に、

まったく正しくこの島のシャーマンの系譜は継がれている気がして嬉しくなった。

拍手して手を振ったよ、そのとおりだと自分も思うよ。

自然と人との交歓と調和、ちむじゅらさんよー

 

 

龍だオーブだアセンションだとキャッキャする界隈を釣ってツアーして、

世界中の人々の健康を祈るなんて大仰な人ではちゃーならんと思ったけど、

なんくるないさ

 

 

ていうかまあ、それもまた縁だわけよ。

いちゃりばちょーでーゆいまーる

誰しも必要があるからそこに遣わされているんだはず。

 

集落の猫は野良気質というか人に慣れない感じだったが、

サイクリングロードの東屋にいたこの子はデレデレで猫欲も満足(*´з`)まやーちむがなさん

 

 

 

でーじイイ旅だったさー。

予報雨だらけでヤべーと思ったけど、

行ってみたら晴れたし、なんなら丁度よく曇って暑すぎなかったし。

いっぺーにふぇーでーびたん。

 

 

 

あ、もしこのブログ見て行きたくなった人がいるかもであれば、

注意点も書いておきましょうね〜。

 

島は海に囲まれてまず湿度パねぇから。

つか4月でもすでに夏だったから。

ウグイスがフーフイチョセミジージーグヮーが合奏するカオスだったから。

フツーに蚊にくわれるから長ズボン推奨で。

あと帽子と、日よけに持っていったタオルが蚊除けによかった。

靴をマリンシューズという選択にしてみたんだけど、それは一長一短だったかな~。

歩くのをサポートする機能はないし泥がしみるし小石がハマりこむけど、

濡れても履いてるうちにすぐ乾くのは快適だった。ビーサンの最上位互換って感じかな。

安かったのも良かったし。

 

えーとあと、島について自転車借りるのはマストだな。

歩きでも行けますなんていうけど、道中は景色おもんないし時間もったいないから。

 

日中の暑い時間よりサンライズとサンセットをおすすめしたいが、

島には民宿と交流館しかないからな。

風呂無しシャワーのみが地味にツラなのでそこはよく考えて。

食事も島に食堂が一軒なので、普通においしくはあるがグルメに期待とかしないように。

イラブー汁はまあ・・・、精がつくのはわかるけど一回食べたらもういいかな・・・。

現代人のよわよわのアゴではいつまでも嚙み切れなくてさー、ぐにぐにしてて、・・・うん。

そんでペットボトルとかゴミは持ち帰りで。島に焼却場がないから本島に運んで処理してるんだってさ。

 

 

 

自分が素晴らしいと思った場所はここ。

鏡も勾玉も剣も仏像も、いかにもありがたい御本尊はなーんも置かれて無いここで何を感じるか、

なにも感じないかは貴方次第だが、

 

当ブログ読者、ジブリ育ちであれば緑のトンネルを抜けるだけでそこは異世界なのだと心のどこかが囁いてくれるはずだ。

ふらっと足が向き、ここなんとなくエモいと思えて帰れたら、それが最高。

 

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沖縄方言はだいだいこれで学んだ。

ネイティブからしたら間違いなく恥ずかしいハシャギっぷりでサーセン

 

 

 

 

追記のいらん考察。

 

しかし拝殿が立ち入り禁止で、本殿が全開放とはなぁ〜。

本末転倒のようで、もののわからん人々にはちょうどいい目眩しなのかも。

誰だって閉じられた金庫の中にこそお宝があると想像を逞しくする。

そして部屋のまんなかにポンと置いてあるものが最も価値あることに気づかないっていうね。

まぁまぁ、別に島はどこでも聖地であることには違いなし。いいわな。

 

それにしても、ほんとに草木を整え石を置くだけの、

子どもが遊びでもつくりそうな素朴な祭場であった。

 

それでいて集落の伝統建築は、小さな平家の家と祭壇が双子のように建っているもので、

暮らす事と祈る事の比重がほぼ同じであることを視覚的に感じさせたし、

住民の墓も本島と同じくシーミー(宴会)ができるスペースつきのイカツい立派なものが、

みんな海の方を向いて建てられているという厳粛なものだった。

ささやかな農業と漁業と観光と、現金収入に乏しいことは想像に難くない島で、信仰まわりにはがっつりコストがかかっている。

 

だからやっぱり、あえてそのままなんだろうな。

囲い閉ざせば滞るとか不敬にあたるとか、

最も神聖なところは、すでに完成されているから、できるだけ手を加えないとか、

そんな感覚かなぁ。

ちゅらかーぎー(美人)に余計な化粧はいらない、髪だけ梳いてすっぴんが一番。みたいな?

 

 

今週のお題「外でしたいこと」