今回はネタバレ有りで。
そういえばタイトルの「漂流団地」のは見たままわかるけど、
雨を告げる、ってのはどういう意味が込められてんのかなあ。
まず漂流団地だけだとアレだ、
これ系の作品の金字塔、楳図かずおの漂流教室と色々紛らわしいから、
なにかサブタイトル的に文字数増やして差別化したかったのかと思うけど。
作中で確かに、雨は重要だ。
大雨に呑まれることで少年少女は神隠しに遭い、この世ならざる経験をする。
漂流中も他の建造物と邂逅するときは必ず雲や雨や嵐を伴う。
雨や霧や川や橋や鏡のようなものは、異世界への境界にはお約束の表現ではある。
水は異界、
そのメタファーをざっくり解釈すると、
人類は皆かつて胎児であり、母の胎内、羊水に満ちたところで発生し、
その水中の世界から、この空気中の世界へ産まれてきたという原体験をもつ。
水中の世界は、生前の世界であり、
生以外の世界ということは死の世界であるともいえる。
此岸と彼岸ということだが、
岸、という言葉がそもそも水に隔てられた此方と彼方ということだ。
世界の境めには水が在る。三途の川とかステュクスとかな。
リアルの地理で考えても川を挟んで高地では暮らし向きが豊かなのに、
低地では湿気やら洪水被害やらで貧民の住むところになりがちで、
川一本隔てて街の雰囲気や方言や文化が違うってことは割とあるあるで、
肌感覚としても頷けるところだ。
お堀の向こうは城で、こっちは下町だったりとかね。
また原初の生命は海で発生し、永い年月をかけて陸上へ進出してきたわけで、
海は全生命の郷愁、過去の世界であるとか、
あるいは、羊水の成分は海水とよく似ていて人は体内に海をもつわけでもあり、
それは女性や母に限ったことではなく
胎内という閉じた空間で羊水に浮かぶ胎児と、
頭蓋という閉じた空間で脳漿に浮かぶ脳は、象徴的にイコールでもある。
水に包まれるということはそのように様々な解釈を可能にする舞台装置だ。
漂流団地での包み込むような大雨や嵐の描写は、
過去や郷愁、死出の旅路、神隠し、再生、どの現象についても一定の説得力をもてたように思う。
それにしても、雨を告げる漂流団地。
雨が意味するものは、過去、死、非日常、再生、等々。代入すると、
過去を告げる漂流団地
死を告げる漂流団地
旅を、再生を告げる漂流団地
みたいな?
あるいは、告げるという言葉とよくセットになる言い回しとしては「別れを告げる」とか。
まあなかなか、雨が色々に解釈できるメタファーになってていいのかもしれない。
観た後で意味がじんわりしてくるというか、
国語のテストにありそうだなあ。
問 ( )を告げる漂流団地 のタイトルにおいて雨以外で( )のなかに入れて成立する単語を本文中から抜き出しなさい、複数回答可。みたいなw
なんか、石田裕康監督は天才タイプというより秀才タイプのような気がするので、テストとか言いたくなるなー。風呂敷は広げるより畳むほうが得意そうというか?
気になる体癖は・・・、
短めの首、縦長に広いおでこと輪郭、頬から首のラインが繋がりがちでアゴが小さく尖る。という顔の造作は8種っぽい。
が、割と肩が張ってるし、とてもにこやか。ずっと笑顔。
8種はそういう表情じゃねえなあ・・・。左右型みがある。
デコや頬が角ばってるというよりは、丸みがあるか。3種か。
童顔にハクをつけたくてヒゲをはやすのは3種男性あるある。
ん~?8種と3種でこの作風、この仕上がりになるのか・・・?
謎なので保留。要追加検証。
そうだ、再生や生まれ変わりというなら、
夏芽が夏休みだというのに、わざわざ蒸し暑い押し入れの中で熟睡してて、
航佑が屋上のテントで一人で寝て、熱中症になりそうなことをしてるが、それでも
あえてああいう狭い空間に篭るというのは、胎内回帰的な感覚の表現のように思った。
夏芽も航佑も、行き詰ってしまって、内省と再生を必要としていたから、
そういう舞台装置というか、再生の儀式にふさわしいシチュエーションというものがあるわけだな。
あと団地の屋上へ上る丸い出口とかもソレっぽく見えるな~。
暗い狭いところから丸いトンネルをくぐって、明るく開けたところに出る。
胎内から外界へ産まれ出でたような感覚を無意識で想起させる。
そういう図像を暗喩として仕込むのが、フィクションに説得力を与えるテクニックというものではないだろうか。
さて、漂流団地は心情の成り行きとか、キャラクターの描き方が素晴らしく丁寧だった。
行動原理も人間関係も実に過不足なく造詣されていると感じる。
ということは体癖メソッドでの分析にも十分に耐え得るクオリティのはずなので、アタリをつけつつ2週目視聴してみた。
熊谷航祐 5種
素直になれないのはお年頃、反抗期的捻れのせいであるとして、
作戦立案が得意な司令塔的リーダー、建物へ乗り移る道具の制作とか器用だったり、
リアリストというか、現状把握が常に冷静、一方でビビりというのは、5種だね!
兎内夏芽 暫定9種
抑圧と自己否定がひどすぎて性格や体癖がわかりにくいが。
人に頼るのが苦手で感情のごたごたを避ける、レイナに言い返すことなく席を離れるのは1種っぽいムーブだなー、とか
ノッポ君の世話をやき航佑を弟扱いし、生殖器型は面倒見が生き甲斐。
「勝手に突っ込んでケガをする」タイプというのは9種っぽいムーブだなー、とか。
7種だったら突っ込んでもケガしないで勝ちそう。9種って防御や耐久は捻れ型ほどじゃない気がする。
ブタメンばっかり大量に買い込む偏執っぽいとこもまあ、うん。
凝り性の9種が備蓄癖を発揮するとそりゃ大変なことになるよね・・・。今回の冒険では吉と出たけどw
ん~。でもまあ9種ぽいか。
人間関係がバラバラになることを恐れる(1種なら人間関係に執着がなく孤高を好む)
思い込んだことを変えるのにものすご~く手間がかかる頑固さ。意固地さ。
あと航佑の「アシストで突破する」っていう、突破力を期待されるパーソナリティ。
ジュリを助けに飛び出すとこや、ノッポ君のためイカダから団地に引き返すとこの咄嗟の思いきりのよさ、直感的な判断力というか、野性的な反射と勘の良さというか。
(1種も自律行動派だけど、ああいう無謀で危険なことはあんまりしない気がする。周囲を俯瞰してイケると判断するまでややラグがありそうというか。)
羽馬令依菜 7種
典型的捻れ型の性格。
積極性が高じて言い過ぎやり過ぎの傾向、絶対謝らないマン。
ずっと文句を言ってる役どころになってしまったけど、
まあ、間違ったことは言ってないし、
観覧車ちゃんを引き寄せたお手柄はレイナの想い出だし、
観覧車ちゃんと出会って別れて、夏芽の気持ちも分かったろうし?
7種って、実際に体験したことからしか学べないとか、失敗しないと分かんないっていうよね。
痛みを伴わないと、言葉でいくら説明してもホントのとこが分からない。
だから、経験の浅い若いうちは無謀だったり無神経だったり、不良になりがちだとはいいますな。
ひと夏の大冒険が一番身になるのはレイナちゃんかもね。
安藤珠理 6種
CV花澤香菜の声と演技は癒し系な4種っぽさ全開なんだけど、
「女は先手必勝!」でレイナちゃんをけしかけ、
「ってお姉ちゃんが言ってた~」で自分は引くという、駆け引きで人を動かすところか、
「もっと頑張る!」でやる気を出した結果、団地から落ちそうなタイシを助けて自分が落ちるとか、
そういう自滅的英雄行動になっちゃうところ、
まさにとっても典型的に6種であると言わせて頂く!
体調不良で人の気を惹こうとする、看病シチュが好きなのも6種ゥ!
橘譲 10種
気は優しくて力持ちで大柄で面倒見が良い、それは10種。
彼はおふくろポジションだったなあ。
居るだけで安心感っていうか、おおらかで感情が安定してたね。
小祝太志 3種
賑やかし少年。
他の少年少女がやたら物分かりがいいというか大人びていたので、
子どもっぽさを振りまくタイシがいることでバランスがよかった。
そういえば、
熊、兎、馬、などキャラの名前にはモチーフが入ってるっぽい。
熊は用心深さ、兎はスピードスター、じゃじゃ馬、みたいなことか?
橘とユズはともに柑橘で、祝いとタイはおめでたい感じだろうか。
安藤珠理は・・・、あんどうじゅり・・・? angel、天使?
6種体癖は天使というより小悪魔という印象だけどw
まあ、レイナにとっての天使ではあるか。
ジュリがストップをかけてくれるからギリギリ許されるラインで留まれる。
羽馬というとペガサス?天使とペガサスの友情とかメルヘンな。
観覧車というかメリーゴーラウンドの意匠みたいだ。
こういうのがモチーフなのかな。
ノッポ君の鴨宮団地、カモというのも水にプカプカ浮いて漂流する団地の感じに合った名前だ。
さて、ところでノッポ君の体癖、感受性の形を掴もうとすると難しい。
掴みどころがない雰囲気や感情の曖昧さは4種のようでもあるが、なんか決め手に欠けてしっくりこないのだ。
しかし観終わった後キャラ自体には説得力を感じるという謎。
それもそのはず、体癖メソッドでは解らないところに、ノッポ君の造詣の意図がある。
こちらのブログではエニアグラムによる考察がされてて、とても腑に落ちた。
この考え方は体癖メソッドの死角というか、
体癖って人間の関係性を観る視点に乏しいんだよな。元は治療の方法論だから。
体つきや顔の造作、口癖や動き方など、肉体という物証から観ていけるのが優れてて、自分に合うメソッドなんだけど。
体癖とエニアグラムは補完し合える方法論だと思うので、今後とも学んでいきたい。
で、まあ、ナツメの裏、航佑の裏、そして安ジイ、彼はそれらの複合人格というか、
ノッポ君自体はカラの依り代で、場面によって反射してる人格が違というか。
なるほどね。
ええと、
例えば新海誠は本人がムー愛読者を公言するだけあってオカルト的考察も捗るのだが、
漂流団地はオカルト的にはいまひとつ筋が通らない感じがしてて。
まず、日本の妖怪史的には器物が変化する付喪神(つくもがみ)というのは九十九神(つくもがみ)、つまり99年か100年の時間を経て成るものという。
鴨宮団地は出来てから60年。まだ60年なのだ。
いっちょまえの妖怪変化になるには未熟だから子どもの姿なのかもしれず?
60年の半人前付喪神では、器はできてても、まだ人格や意志までは曖昧なのかもな。
それで、団地に想いを寄せる人の心を反射したり、響きあったりしたのかもしれない。
ノッポ君は足が欠けたりもするけど、
不具のモノ、形を成しそこねたモノが海に流される、というモチーフはヒルコのようだな・・・。
こないだのサマータイムレンダのアニメ化も大変良かったわ。
そういえば、常世、幽世、黄泉、あの世、彼岸、異界、そういうところを思う時、
図像として想起されるのは海でもあるが、地下である場合も多々ある。
海の常世はワダツミとすれば、
地下の常世は根堅州国という。根の国、木の根をつたっていく地下深く、というイメージだ。
地下へ伸びる穴、ラビットホールを潜るとアリスの不思議の国があるように、地下=異界の図式は東西を問わず普遍的なものだ。
では、海に流されて着く異界と、地下へ降りて至る異界は、どう違うのか。
あるいは、創作に使う場合にどう使い分けられるべきなのだろうか。
という疑問が湧いた。
ので、ここから恒例の楽しいホラ話のターンだ。
日本の神話を読み解き解釈するなら、
ヒルコが生まれ損ねた時、まだ地下は黄泉では無かった。
というか地下という概念そのものが登場していなかった、ということは創造されていなかった、設定に無かった、ということだろう。
まだ世界は混元から凝りはじめたばかりの原始であり、大部分は曖昧だった。
思いつくままノートに書きはじめて余白たっぷりの物語のように。
地下である黄泉にいるのは女神イザナミであり、
彼女は神話世界ではじめての死者として、その国を象徴し統べる神となる。
つまり、イザナミが死んだとなった時にはじめて、その別離の行く末である黄泉の国が生まれ、それはどこかといえば地下である、という設定が生まれたのだ。
古代人の心を想像するに、
死者を埋葬するという行動様式が、死者は地下にいるという発想を生むのは必然だろう。
愛別離苦を癒すため、人の心は物語を紡ぐ。
死んでしまった恋しい誰かのことを想い夢に見て、その人は今側にはいないけれど、どこかであの頃のように暮らしているのでは、という気がする。
どこで?亡骸は埋めたのだから地下だ。
そこには今までに別れた人もたくさんいて、
そこでその人たちはきっと生前のように暮らしている。
人間が暮らすところはどこであれそれなりに、衣食住を満たす生活の様がある。
ということは、そこは地上と同じく共同体の様相を呈しているという想像になる。
そういうのが根の国、
生き終わった者の行く死後の国、とすれば。
不具の子、歩くこともなく流された子、成体になることのなかった未熟なもの、
つまり、生まれなかった者であるヒルコが流され着く海の国というのは、
未だ生まれぬ者が戻る生前の国、という対比を解釈できる気がしますなあ。
いや、国という言葉は似つかわしくないな。
そこは人の理の通じぬ無秩序で曖昧な、未だ凝らぬ混元に近いところだから。海の常世だ。
七歳までは神のうち、などと言うけども。
性格や言動がはっきりして労働力になるまでの年齢、
全員が何かを持ち寄り支え合って暮らす共同体の一員と見做せるまで育つ年齢が、
目安として七歳くらいなのだと言ってもいいかもしれない。
だってなぁ。歩けず喋らぬ幼子が親と離れてひとり、どこかの共同体へ行ったのだと想像しても、そんなのあの子だけじゃ日々の暮らしもままならないのにっていう心配にしかならんし。そんな物語では心の安らぎにならない、不採用だ。
七歳未満は人間未満ということで、両生類や魚類の水中世界、人間に進化する前の生物の世界、海という胎へと戻せば。
また現世に、陸地の世界へ進出してくる時が再び訪れるだろう、なんて思ったりもできる。
どや。
生者のものでない世界という言い方では海も地下も同じだけど、
生より以前か、生より以後か、
地下は死後の世界、海は生前の世界、という使い分けはアリな気がしてきたね。
もちろんぜーんぶ今考えた嘘なんだけどね! (゚∀゚)ハッハッハ
人の話を簡単に信じちゃいけねえな。(゚∀゚)ハッハッハ
ただ、この単なる言葉の羅列のなかに、なにか心に響くものがあったのなら。
「きっとそうなんだろう」と感じたのなら。
その心の琴線の在り処、それが訪れた感覚にはすすんで親しんでほしい。
心が感じとった真実の気配は、疑ってはならない。
「そんなわけないか」の一言で蓋をするなど、とんでもなく勿体無いことだ。
心をセンサーにすれば、ただ開かれている真実に気がついていける。
そうやって生きられれば、間違わないんだよな。
まあ、でもまず現代人はナツメのように間違った思い込みと自己否定を幾重にも背負って、大事なアンテナが傾いちゃってるから。それを外していくメソッドを習得しよう。
漂流団地を見て、ナツメの気持ちがわかるとか、ナツメにイライラするとか、何か感情が反応したなら、そこを起点に心のクリーニングを始められる。
物語の効用だ。
同じ問題、同じ波長は共鳴する。
その共鳴を保持したまま、物語の主人公が自分の心に向き合うのを観る。
一度は死に、そして再生する主人公とともに、
一度死んで生まれ変わる、その疑似体験をする。
本来、人は毎日生まれ変わって新しい今日を生きるものなのだ。
昨日までの自分の死を恐れることはない。
どんなことも大丈夫だと言えるようになるには、
過去に別れを告げ、新しい自分を生きること。
小6女子にできたこと、大人になってもやり続けてないといけなかったなんて、最近ようやく知ったよね~。
そーゆー大事なこと誰も教えてくれないと思ってたけど、
気がついてみたら、ずっと何もかもがそう教えてくれていたんだよな・・・。
古事記序文
それ、混元(こんげん)既(すで)に凝(こ)りて、氣象(きしょう)未(いま)だ效(あらは)れず。
名も無く爲(わざ)も無し、誰(た)れかその形を知らむ。
然(しか)れども、乾坤(けんこん)初めて分れて、參神(さんしん)造化(ぞうか)の首(はじめ)となり、陰陽ここに開(あ)けて、二靈群品(ぐんぽん)の(おや)となりき。
所以(このゆえ)に、幽顯(ゆうけん)に出入(しゅつにゅう)して、日月(じつげつ)目を洗ふに彰(あらは)れ、海水に浮沈(ふちん)して、神祇(じんぎ)身を滌(すす)ぐに呈(あらは)れき。
故(かれ)、太素(たいそ)は杳冥(ようめい)なれども、本教(ほんきょう)によりて土(くに)を孕(はら)み島をみし時を識(し)り、元始(がんし)は綿(めんぱく)なれども、先聖(せんせい)によりて神を生み人を立てし世を察(し)りぬ。
寔(まこと)に知る、鏡を懸(か)け珠(たま)を吐きて百王相續(そうぞく)し、劒(つるぎ)を喫(く)ひ蛇(おろち)を切りて、萬神(ばんしん)蕃息(ばんそく)せしことを。
安(やす)の河(かは)に議(はか)りて天下(あめのした)を平(ことむ)け、小濱(をばま)に論(あげつら)ひて國土(くに)を淸めき。
ここをもちて、番仁岐命(ほのににぎのみこと)、初めて高千嶺(たかちほのたけ)に降(くだ)り、神倭天皇(かむやまとのすめらみこと)、秋津嶋(あきづしま)に經(けいれき)したまひき。
化熊(くわいう)川を出でて、天劒(てんけん)を高倉(たかくらじ)に獲(え)、生尾(せいび)徑(みち)を遮りて、大烏(たいう)吉野に導きき。
(まひ)を列(つら)ねて賊(にしもの)を攘(はら)ひ、歌を聞きて仇(あた)を伏(したが)はしめき。