宮崎駿の描く、空をとぶものについても順にテーマが発展していくような過程を見てとれると思う。
以前の記事に追記してて思いついたんだけど。
夜空にいるサソリは、星の配列をサソリに見立てた蠍座で、その起源はギリシャ神話だ。
でも、日本人なら銀河鉄道の夜にもサソリの星の逸話が出てくるのを覚えている人も多いだろう。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん
むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。
するとある日いたちに
さそりは一生けん命
もうどうしてもあがられないでさそりは
そのときさそりは斯う云ってお
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、
そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。
それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。
どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに
そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。
こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの
って云ったというの。
そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん
引用以上。
なぜか涙ぐむような沁みる話だ。
地を這う虫が、空で赤く燃える星になる話、生まれ変わりの話。
地べたを這いまわってその日食べて生きることしか思わない、言ってみれば下等なものが、
みんなのさいわいのために、という崇高な願い、祈り、こころざしに目覚めたことで、空の高みで赤く燃える星になる。
心の在り方が変われば、そのとおりに姿かたちが変わるというレトリックなわけだが。
地面から空に、下から上に。虫が、星に。
そういえば、宮崎駿の作品でも前半は虫的なイメージをよく見て、
後半になるにつれ星的なものが登場するような気もする。
初期のほうの作品で、
腐海の蟲、ウシアブやヘビケラ、ダイオウヤンマはもろ虫、羽のついた虫だ。
ラピュタのタイガーモス号も虫、ヒトリガ(灯盗蛾)だ。フラップターも羽虫。
空を飛ぶもののイメージが虫と鳥の対比になっている。
魔女の宅急便では、箒で飛ぶキキと、自転車がベースのトンボの人力飛行機。
紅の豚で、自然や人力での飛行から、文明や科学の力での飛行になる。
もののけ姫で転換点になって、
次にでてくる飛行体は、ハクや名のある川の主、竜だ。神に近いもの。
羽も翼もなく、魔法具でも科学でもなく、もうそういう理屈を超えたちから、神通力とか、イマジネーションで飛翔する。
トトロも飛ぶけど、コマに乗ってるのはホウキに乗ってるのと一緒で、なんとなく飛べそうというイメージの補助、媒介やマジックアイテムで飛んでるとみることもできる。
ハウルの動く城では、ホウキなしで人が空を歩く。
ハウルは鳥に変身し、フライングカヤックは虫の羽だ。鳥と虫の対比が再び登場する。
そして、流れ星、星の子が出てくる。
8作品、ざっと20年かけて、地を這う虫が、空で燃える星になっていった。
そんな気もするね。
ポニョでは、とても印象的な夜空と星が描かれる。
ポニョには飛行体はあんま出てこないけど、グランマンマーレは光の奔流とともに上昇していく。
グランマンマーレは太古の海の女神だ。
観音様の御神渡りだと言って、船員達は彼女に手を合わせたり柏手を打ったりする。
圧倒的に神聖な存在に相対したと感じたから、自分たちの知る方法で畏敬を示した。
かなり神格が高い神様っぽい。
土地神や竜神や、契約や交渉に応じる悪魔とは一線を画する神、
母なる海の神格化、自然の理法そのもの、創世神話級の神様だ。
飛行体の変遷を見ていくと、
地を這う虫、地表近くを飛ぶ羽虫、それよりは高く空を飛ぶ鳥、
人類の飛行機械であれば成層圏より高くも飛べる。
だんだん飛行能力が発達し、高度を上げていく。
が、宮崎駿の世界観は、そこで宇宙に飛び出すことはない。
銀色のメカがぴかぴかするSF展開にならない。
ナウシカで「嘘か本当かしらねぇが、星まで行ってた」船が出てくるが、
朽ち果てた残骸、遺跡と化している。
科学や、物質文明でいける高みというものに興味が湧かない人らしい。
家内制手工業でつくるレトロな飛行艇の次が宇宙船になることはなく、
神殺しを経て、竜や星の子や女神を描く。
「どうかこの次にはまことのみんなの
というような、気高い、崇高な、そういう心の在り方がそのままに、その者のいる高いところになる。そういうレトリック。
宮崎駿の空への想い、飛翔への憧れは、辿り着きたい遥かな高みというのは、
物質的なものでなく精神的なものだ。
地球からハイテクな金属のカタマリを射出すれば、いつか行ける気がするどこか。
宇宙戦艦やスペースコロニー、地球と同じノリで開拓していけるような宇宙ではなくて、
願い、祈り、こころざし、そういうものが導いてくれる、
心でしか行けない場所ってことなんだろう。
おもしろいことに、漫画版ナウシカで描写される腐海の尽きるところの清浄の地も、心でしか行けない場所、と表現される。
地の底の、また底、最奥、深奥。
あるいは、天空よりも神々よりも自然の理法よりも高い、天辺、最上、最高。
空よりも高く、海よりも深い、心でしか行けない場所。
そのどちらにもおそらくは、同じものがある。自分はそう思う。
サソリも井戸に落ち、空で燃える星になる。
水に満ちた深い穴の底が、星々の連なる遥かな高い空とつながっている。
上からでも下からでも、最下層を抜けても、最上層を抜けても、
有限の世界の殻を破ったなら、そこにあるものは無限だ。混沌とか根源とか0とか、そういうものだ。
すべてであって、すべてでない。
全知全能ゆえにすべては成就し尽くし、零知零能となって安らいでいるしかない。
素粒子の粒的ふるまいと波的ふるまいが、完全に釣り合って鎮まり、なにも観測できない。
どこまでもあまねく、静かな霧の粒が揺蕩っている。
ナウシカの落ちた腐海の底は、砂と水だけの静かで広いところだ。
砂という粒をあらわすもの、水という波をあらわすもの。
それだけがどこまでもひろがる、そういう感じのするところなんだっていう感覚。
瞑想やマインドフルネスで、その感じまで行けたら成功だと思う。
その静けさにいつも至れるような自分なりのメソッドをつくりあげていく。
それで求めてやまなかったもの、渇望していたものは、遠いどこかにあるものだと、
海の彼方には、もう探しに行かなくて良くなる。
輝くものはいつもここに、わたしのなかに見つけられたから。
っていう歌の意味がわかる。
今、ここ、を生きられる。
・・・さて、
宮崎駿はそこまで解釈できるような優れた象徴を作品に込められるのに、
風立ちぬではどうしてああなっちゃうんだぜ。
妹の加代には夜空に流れ星が見えて、次郎には星が見えないんだよな。替わりに夢が見える。
そして何度となく飛行機が落ちる場面が繰り返される。
精神的な高みを、創世神話レベルを突破するくらい描いたから、
あらためて物質的な高みを目指そうとして、
ポルコの1920年代の飛行艇を1940年代のゼロ戦や、それ以降の飛行機械に進めようとして・・・、
飛行機の墓場になっちゃったってことだろうか。
風立ちぬについては、次作を見て手のひらクルクルしたいと願ってる。
・・・が、今夏このご時勢で公開されるのか?
観ないうちには死ねない。健康には一層気を付けよう。
駿おじいさんも煙草やめて長生きしてほしいものだ。
このブログも残るメイン記事は、紅の豚、もののけ姫、風の谷のナウシカ。
「君たちはどう生きるか」公開までにはなんとかなるだろう。多分。
お題「#おうち時間」はジブリをリピート、誰かヒマならジブリの話しようぜ!
追記、
でもまぁ、名のある川の主やハクは、川の神格化だからな。