あー、風立ちぬで書くと辛口になりがちだったけど、ここからは楽しくいけるはず。
さて、宮崎駿作品の、作中のセリフ回しっていうのはすごく良く考えられて、練られて、選び抜かれた言葉になってると思う。
アニメーションっていうのは、動画、音楽、世界観、ストーリー、キャラ、色んな要素のある総合芸術で、
なにに重きをおくかは監督の作家性によって違う。
宮崎駿は、やっぱりキャラクターのいきいきした動き、演技が図抜けた監督で、
ちょっとした動きのなかに色んな情報がこもってて、
だから言葉の情報量のほうは必要最小限に、そしてできるだけ詩的、暗喩的に、
そういう感じだと思う。
作品が後半になるほど暗喩の度合いは増していってて、
風立ちぬでは 風が立つ 生きようと試みなければならない という詩が、
単なる引用にとどまらず全編のなかで響きあうように計算されている。
で、そういう印象的な言葉を何回使ってるのか、ざっとカウントしてみたけど、
夢 17回
風 10回
生きて、生きねば 4回
お、おう・・・。
解釈のし甲斐がありそうで嬉しいナア・・・。
そういや食堂の女給とカフェの女給が、どっちもキミちゃんと呼ばれてたりするw
「キミちゃんたまごつけて」「キミちゃんお勘定」
おい君、ねえ君、みたいな呼びかけがそのまま名前になってるんだろう。
で、
まず、夢が17回、一番多くて、使い方がトリッキーだ。
くるくると意味が変わっていく。
カプローニ「ここは私の夢のはずだが」
少年二郎「僕の夢でもあります」
カプ「私の夢と君の夢がくっついたと言うのかね。面白い、まさに夢に違いない、この世は夢・・・。」
カプ「飛行機は美しくも呪われた夢だ」
夜、眠っている時に見る夢。
未来において叶えたいビジョンという意味の夢。
人と人が、識閾下で繋がっているという集合的無意識としての夢。
ピラミッドのような文明や科学や権威の象徴、人類単位での希求という意味の夢。
そして、この世は夢・・・、とまで言われると、
世は泡沫の夢、下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。
夢幻泡影、一切の有為法は夢幻泡影の如く、露の如く雷の如く。
有限は虚、無限は空。
認識し得る有限の世界のすべては、無限、空、0からすれば一瞬の幻影。
そういう深淵っぽい意味ってことになる。
少年とカプローニのこの短い会話、頻発する夢という語の使い方が、いわば視聴者へのチュートリアルだ。
ここから、同じ語でも意味する内容が様々であると念頭において見ることになる。
ちなみに夢への導入の場面だが、
妹の加代には星が見えて、近眼の二郎には星が見えず、代わりに夢が見える。という構図になっている。
加代には、最初から星=空にあること=魔法があって、
二郎は星を見ようと目を凝らす=空を飛ぶこと・魔法を求める、夢に見る。ということらしい。あああメタファーが渋滞してて書くとややこしいwww
次に風だ。
震災の日の白昼夢、
カプローニ「日本の少年よ、まだ風は吹いているかね」
二郎「はい、大風が吹いています」
カプローニのセリフは、まだ飛行機をつくることを夢見ているか。というような意味だが、
二郎の返事では、実際に大風が吹いてて燃え広がる火を消し止めてる状況、カプローニ飛行機も落ちて、風が邪魔するもの、嵐のような苦難や困難の意味になってる。
ここで、風が吹いているか、と、夢を持ち続けているか、で、
夢と風の意味がオーバーラップになっている。
後は、
二郎「ああ、これは飛ぶ、風が立ってる」
とか、制作途中の飛行機が飛ぶと確信を得るのは、設計家のインスピレーションの言葉だったり。
菜穂子「風があなたを運んできてくれた時から」
これは愛し合う二人を引き寄せた運命、赤い糸、みたいな意味の風だな。
そして風の意味は、生きるともオーバーラップする。
誰が風を見たでしょう 僕もあなたも見やしない
けれど木の葉を震わせて 風は通り過ぎていく
風はつまり、目に見えない力のメタファーなんだなー。
宮崎駿が得意なメタファーでもある。
漫画風の谷のナウシカにもこういうのがある。
私達の命は風のようなもの、生まれ、響き合い、消えていく・・・。
風、風そのものは目に見えない、風が生まれたところを誰も見ることはできない。
木の葉をふるわせ、通りすぎる感触、風がおこした現象、影響を見ることができるだけだ。
生命もそうだ。生命が始まる瞬間を誰も知らない。
着床か、卵割か、心臓の鼓動が始まった時か、最初の一呼吸を吸った時か。
いつが、命が始まったときなのか。
生きている今、心臓の鼓動を確かめることも、呼吸して思考してることも、生命が起こす現象を認識することはできる。
でも、心臓を動かしているちからがどこから来るのか、インスピレーションの源泉はどこにあるのか。それをエビデンス(科学的根拠)で示せる人はいない。
命は、風のようなものだ。
・・・というメタファー自体は宮崎駿の専売特許でもない。普遍的なものだ。
どうしようもない風に吹かれて生きてる今 それでもまだ 悪くはないよね
とか。
とか。割と歌詞界隈ではあるあるだ。
風が立つ 生きようと試みなければならない
これもそうだ。風がおこるように、命は始まる。
いつとも知れず、なぜとも知れず、なにかが始まる。
すべてのものが、生まれれば育ち、繁り、実り、枯れ、死ぬ。
そういうサイクルを辿っていく。生成発展し、崩壊回帰する。
花も風も街もみんな同じ、細胞も人体も、銀河も神々も、なにもかもすべてだ。規模の大小はあっても例外はない。
サイクルはとどめることができない。止めてみて、観察したり考えようとすれば、
滞り、淀み、崩れてしまって、宿っていた本質が去ってしまう。
命は生々流転、動的平衡のなかにしかない。
命は始まった瞬間から待ったナシだ。
鼓動も呼吸も生まれてから死ぬまでノンストップだ。
で、しかし。
ナウシカでは、その命は響き合い、消えていくという、
無常であるがままのうつくしさでいいんだけど。
風立ちぬのテーマは、
生きようと試みなくては、とか。生きねば。
という、ちょっとこう、ねばならない、という義務な感じ?二重否定で意を強める?
苦しいけど、やんなきゃいけないんだ。っていう感じを出してきてるじゃん?
なんでそういう苦しさがあるのか。
それを読み解くヒントが、
創造的人生の持ち時間は十年 2回
あなた、生きて 2回
だ。
さも当然のようにカプローニが創造的人生の持ち時間は10年と言うけど。
ちょっとそれって、短か過ぎやしないだろうか?
人生ざっと80年に対して、充実して仕事ができる期間が10年じゃ、
その後のなが~い時間をどーすんの?ってことになる。
まあ、宮崎駿自身が70代になって、
自分の人生の最盛期はそんくらいだったと感じてるのかも知れない。
たとえば作品の描きこみとかを見ると、
もののけ姫、千と千尋、ハウルくらいまで超細密美麗が極まっていく傾向なんだけど、
ポニョ、風立ちぬではクレヨン風とか、人物の線が太く素朴なったり、省略表現が多くなる。
まあ一概に、老いたから作画が省エネになったとも言えないと思うが。
描きこみ過ぎも見てて疲れたりするし、そこは好き好きがあると思う。
余白の美とか、間の妙とか、そういう引き算の良さもあるわけで。
しかし、菜穂子の父「男は仕事をしてこそのものだ」っていうセリフがあってね。
そう、一昔前の男って、そうなんだよね・・・。
女はね、人生や身体のフェイズ(位相)が変わることに慣れてる。変化に強い生き物だ。
少女から、月経があって女性になる、結婚して姓が変わる、夫を得て妻になる、子供を産んで母になる。そういうことに、慣れてる。淡々と生活していける。
男はね~・・・。
終身雇用制度で、何十年も仕事命!だったおっさんが、
定年で会社からポンと放り出された後、なにしていいかわかんなくて燃え尽きちゃうっていう、そういうやつがある。
宮崎駿世代の、サラリーマンという生き方をした世代の、重大なクライシスだ。
菜穂子の、宮崎駿の聖母像の、連続 生きて 2回はここにかかっている。
1 夢を追って、創造的人生を 生きて。
2 そして、その時間が終わってしまっても、しょんぼりしないで、生きて。
と、そういうことではないだろうか。
飛行機作りに携われなくなっても、生きて。
アニメ製作に携われる時間が終わっても、人生は続くから、そこからを生きて。と。
引退した後の、やるべき仕事のない人生をそれでも、生きねば、であり、試みなくてはならぬ、であり。
どうしたものか想像もつかない余生を、聖母に励ましてもらいたかったんだろうね~。
なんつって引退宣言は撤回したけどなww結局生涯現役路線ww骨の髄まで仕事人間wwww
ま、これは、ある世代の男達にこそ沁みるメッセージだ。
今時の若いもんは、氷河期だ派遣だ転職だで、
会社が終の棲家でないことを肌で知っている。
飲み会を断って帰り、プライベートの充実を重視して、
ライフプランを保険の窓口に相談しにいく。
もっと前の世代、戦前だと、企業に勤めるというより、
農家とか家の生業がイコール人生だったろうから、定年じゃなくて隠居で、代替わりして体力気力と相談しつつ段階的なフェイドアウトってことになる。
人生の典型も、時代によりけりだ。
まあ、なんていうか。
自著伝か、走馬灯的な作品なんだよな。やっぱり。
夏休みにはジブリ!というお約束に従って、
当時映画館へ足を運んだお子様はまじでポカーンだったと思うwwww
本当に気の毒でならないwww
やっぱり子供にはトトロかラピュタか魔女宅。それで間違いない。
というわけで、次は魔女宅を記事にまとめたい。
追記。
二郎の親友、本庄についてだが、どう観察してもまったく書くべきことがなくて驚いた・・・。
あれは親友というか、分身に近い。メイとサツキみたいなシャドーとペルソナ的な関係といえるかも。
二郎が言うべきことを隣で代わりに言ってくれる、代弁者だ。
本庄か…、
そういえば、彼がドイツと日本には20年の技術の開きがあると嘆くところがある。
20年の差を5年で埋めても、相手は1年先へ進んでいる。
追いかけるだけでは永遠に追い越せない、アキレスと亀の例え話をする。
二郎「小さくてもアキレスになる方法はないのかなぁ」
この答えを、アニメーター出身の宮崎駿はよ〜く知っている。
ディズニーのぬるぬる動くアニメの後追いから、
日本はリミテッドアニメーションの手法を発達させていった。
手描きのセルを動かすのは、とにかく人件費がかかる。
本家ディズニーもフル3DCGに移行した。
眠れる森の美女みたいな珠玉のセルアニメは、もうロストテクノロジーだ。
ソ連の雪の女王も、中国のナーザの大暴れ、山水情も、宮崎駿世代に衝撃を与えた手描きアニメ群は後継作品がない。時代に呑まれて、ロストしてしまった。
今見てもほんと素晴らしいけどな…。
いくつかリンク貼っとく。
日本のアニメが、独自路線を切り拓いた小さなアキレスなのは疑いようもない。
鶏頭となるとも牛後となるなかれ、だ。
日本の手描きアニメも生き残りの道を模索する時代だ。
特に飛行機や車、メカは3Dモデルでも違和感が少ないから真っ先に導入される。
風立ちぬの手描きを貫いた乗り物表現は、後世で貴重なまとめ資料になるかもな…。
Nezha Conquers the Dragon King 哪吒闹海