風立ちぬも、久しぶりに見ると違う視点があったなぁ。
赤毛や赤は、魔女や魔法の色で、
男性の主人公像は順を追って成長してるという、
以前の記事の内容を気にしながら見ると、
菜穂子も加代も黒髪だけど、赤を身に着けてる女性であることに気が付く。
そして二郎も、菜穂子という魔法を持った女性に出会うまで、飛べてないんだなぁ、ていうね。
風立ちぬの前半は、飛行機が落ちる描写が多い。やたら多い。
少年時代の二郎の、夢の中の飛行機も落ちる。
これはオベリスク(父性の象徴)に抑圧されている描写でもある、父性については後述する。
震災の日の白昼夢で、カプローニの三階建ての飛行機も落ちる。
三菱に入社してすぐ携わった試作機も落ちる。
ドイツのユンカース社を視察した後の、夢の雪原でも飛行機が落ちる。
そして二郎が設計を任された試作機も落ちる。
落ちまくりだ。
そして気分転換というか、失意を癒して英気を養うための軽井沢滞在で、
魔の山、魔法の力に満ちた場所で、
次郎は菜穂子に出会う、再会する。
赤いリボンの帽子を被った菜穂子のところから、風にとばされたパラソルを受け止める。
ホテルでもちらっと目配せするけど、
運命の二人の邂逅はもっとドラマチックに、象徴的に演出される。
木立の中へ、ちょっとくぐるようにして入って、小川の先、小さな泉で、二郎と菜穂子はあらためて名乗り合う。
まあ、繁みの中、湿った道、ていうと産道のメタファーですね。
円い波紋をたてて水の湧く泉は、胎、子宮だ。
二人はそこから、一対のカップルという新しい存在として生まれてくる、
菜穂子が「とてもかわいい赤ちゃん」の話をするのも、そんな意味っぽい。
木立から出てくるとき、暗雲で大雨が降っていて、それは産道をくぐるというクライシス、産みの苦しみの表現だ。
大雨が降って、羊水に満ちた水中世界から、水が流れて出て、乾いた陸の世界へと産まれていく。
そして雨上がりの虹は、新しく生まれなおした二人への祝福だ。
菜穂子に出会ってから、二郎の飛行機はうまく行くようになる。
一度は落ちてから再生して飛ぶ紙飛行機がその象徴になってるけど、
病床の菜穂子と手を繋ぎながら設計した飛行機は、飛ぶ。成功する。
赤を身に纏う魔女的な女性、菜穂子の持つ魔法の力が添えられることで、
やっと飛行機が飛べるようになってる、そんな感じにも見えるというか。
キキに寄り添われて飛ぶトンボや、シータと一緒に飛ぶパズーと、同じ構図だ。
「空を飛ぶ」ということは宮崎駿にとって魔法の範疇のことなんだろうな、と思う。
キキが、魔女が空を飛ぶときは「なにも考えなくても飛べたの」で飛べる。
鳥や虫も空を飛ぶとき、きっと自分がどうやって飛んでるかなんて考えてないだろうけど、そんな心だ。
メーヴェや飛行石や箒、
重力とか揚力とか翼断面とか空気抵抗とか、科学的な見地からすると飛べるはずがないもので飛ぶ、
ただ、そうできる気がするから、できる。みたいな理屈抜きの感覚の力で飛ぶ。
竜のハクや魔法使いのハウルの空中散歩もそうだ。
受け容れること、感覚の力、右脳的な力、女性性、魔法のちからだ。
それを、積み上げていくこと、理知の力、左脳的な力、男性性、科学のちから、
そういうもので飛ぼうとして飛行機をつくると、試作が落ちまくるって描写になる。
人類の夢、美しい夢、そして大空はすべてを呑みこみ、誰も帰って来ないという、
どうしようもなく追い求めてやまないもので、底なしの恐ろしさでもあるもの。
それは自分がいつも言いたいアレの感触だ。
うーん、そうだなあ。
飛行機が今、何故空を飛べるのかっていう理屈はだ、揚力とか抵抗とかサバの骨とか、
観察されて検証されて、科学で解き明かされているのかもしれないけどだ。
それを自分の中の確かな実感あるものとして語れる人って、人類の何パーセントいるんだろうね。
現在の世の中で、飛行機が飛んでるのは、そういうもんだから当たり前だ。
人工で作った機械が飛ぶんだから、飛ぶということは科学的に解明されてるはずだ。
と、大多数の人はそういう思いこみを持っているだけっていうか。
飛ぶ、ってどういうことなのか?
ちょっとあらためて考えてみると、こうも思うんだよな。
鳥や虫、飛ぶという現象を知ろうとして、飛んでいるものの構造を地上でいくら解体してみてもだ、
飛ぶことの本質は、羽ばたいて空にある、その瞬間だけ成立してるなにかなわけで。
それは命に似てるかもな。
風は、宮崎駿が得意なメタファーで、命のメタファーでもある。
漫画風の谷のナウシカ「私たちの命は風のようなもの、生まれ、響き合い、消えていく」っていうのがあるけども。そうだ。
生きているという現象を知ろうとして、
生きていたものを解体して、精細な解剖図をつくって医学が発展しても、
生きてるってことの本質は、生きている瞬間にしかなくて、
いくらバラバラにしてみても生命を生かしてるちからがなにかってことは解らない。
鳥でも魚でも、日々生きてたものをさばいて食べる。殺すのは簡単だけど、
解体した生命体を繋ぎ合わせて、また元通りに生かすことなんてできないじゃん?
命の本質を解明できないから、死は不可逆なわけだ。
科学の粋を凝らしても、遺伝子の組換えや細胞の培養が今のところせいぜいだ。
脳や心臓を作れるようになったとして、人工的に培養した各部位を外科処置で繋ぎ合わせてみたとしても、
それが恒常性、動的平衡を保つひとつの生命として起動することはないだろう。
どう頑張っても、すごく新鮮な死体ができるだけなんじゃないか。
自然が、女性が、新しい生命を生むことは、
信じがたい奇跡でも魔法でもありながら、どこにでもありふれたことであって、容易にさえ見える。
しかしそれを解き明かし、更に再現しようと思ったら、百年や二百年の研究では到底足りないんだな。無数の試作、長い試行錯誤がいる。
宮崎駿にとって、空を飛ぶってことは、新しい命を生むってことと同じくらい、
ありふれて当たり前のようでいて、考えれば考えるほどわからなくなる不思議なことで、
女性はなんとなくでやっちゃうんだけど、少年が真似しようとすると越えなきゃいけないハードルがめっちゃ多いことっていうか、そんな感じに見える。
うーん。いや、解らないでもないんだけどさあ。なんか変なんだよなあ。
宮崎駿の作品には一貫した女性性への賛美がある。
魔法を描く監督であって、科学を描かない。
二郎が、科学のアプローチが、やっと空を飛ぶ飛行機を作れた。
その次の場面がもう、累々たる飛行機の墓場になる。
カプローニと二郎、空に魅せられたものの夢の王国、
科学によって飛ぶ夢が成就した途端「地獄かと思いました」という光景になる。
女性性・魔法には賛美があって、男性性・科学には否定、悲観がある、と言わざるを得ない。
巨神兵も墓所もラピュタも、超科学はいつも世界を脅かした遺物として登場する。
男なんて折角何かを生みだしても、それで戦争ばっかりしてどうしようもない、とか?
そういうものの考え方が根底にあって逃れられなくて、苦しい、そんな感じがする。
自然の猛威として津波や震災も描くんだけど、その場合は新世界や復興もセットで描かれるのにね。
そうだなー。
自然と人工という対比は、
創造と解体という対比、
魔法と科学という対比、
女性と男性という対比に照応するけれども、
それは象徴の理解として正しいけども、
それは対比であって優劣ではないし、
女性も、女性だけで新しい命を生むわけではない。
女性と男性、両方が交わって新しい命の萌芽になるわけで。
卵と緒、聖杯と聖剣、凹と凸、陰と陽、粒と波、-と+、右と左、
対になる原理が釣り合って、両翼が揃って羽ばたいてはじめて飛翔できる。
混元、空、無限、0、「 」そういうものにアクセスし、創造を引きだす鍵はそれだ。
無から有へ転じる最初の創造物、それが命だ。存在するという指向性だ。
命、生きてることや、飛ぶことや、真とか善とか美とか、愛とか。
誰もが知っていて求めていて、しかし解明とか定義しようとするとうまくできないもの、
インスピレーションでしか確かめられないもの。
それはとても0なるものに近い。
魔法より科学より、先にあるもの、それを奇跡と呼ぶとなんとなくしっくりくる。
ハウルの動く城でも、魔女よりも科学者よりも、天使になるほうがいいってことだったわけで。
飛行機が空を飛ぶということ、魔法と科学が止揚して、夢想が現実になることは、
二郎と菜穂子、男女がひとつに和合している瞬間、最も素晴らしい奇跡として顕われた。
じゃあ、愛の結晶として、魔法も科学も超えた奇跡として、二人の飛行機が空高く舞い上がり、
今までの作品にないことを成し遂げた、希望のラストになっても良かったと思うんだよね~。
だというのに、だ。
完全な一対の天使だったカップルから、片翼が失われるという展開にする。
菜穂子が去ってしまった時、飛行機は夢の残骸に成り果てる。
苦しい、けど生きねばならない。そういうラストになる。
ソフィ・女性主人公で描けたことが、
二郎・男性主人公では描けない、と、どうもそういうことらしい。
それはなぜか。
これも作中から読み取ってみたいと思う。
例によってこれも全然原作どおりとは言えなくて、監督の独自色が強い。
70歳まで生きた宮崎駿が自らの内面を見つめた作品だ。
今までの人生を走馬灯のように振り返ってて、
自叙伝とか、私小説とか、そんな趣なんだけど。
いやぁ~、よっぽど父親と折り合いが悪かったのかねぇ?
そんな感じだww