ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

風立ちぬを解釈する2 男性性・父性と向き合う。汽車と船。

風立ちぬ (ロマンアルバム)

 

さて、風立ちぬに登場する父性の象徴や表現に注目して見ていってみよう。

 

興味深いけど、葛藤に次ぐ葛藤、そんな感じで見てるほうもまぁまぁストレスなんだよな~。

それでこの作品は見ててあまり心地よくないし、売れないのも残念でもないし当然っていうか、 

自伝か走馬灯として、宮崎駿監督の独白を聞く気持ちで見るといいんだろうな。

男性性・父性の問題を抱える人には共感があるだろうし、それはとても普遍的なテーマだ。

 

まず、冒頭は少年二郎の夢からだ。

羽のついた飛行機にのって夜明けの空を飛ぶ。

川にかかった橋をくぐるのは、紅の豚でもあったイメージだ。

地上の飛行から、空という世界に場面転換する感じかな。空も別世界、異界ってことだ。

 

で、はるか上空に大きな飛行機械が現われる。

っていうか、あれ飛行してるのかというと微妙だな。

全容が見えなくて、翼もなくて、雲から生えてるような恰好だ。

画面を90度回転すると、モノリスオベリスク、そびえたつ塔のようになる。

男性器的な象徴だ。男性性、父性、父権、そういうものだ。

 

ダメ押しにマルタ十字のマークまでついてる。

マルセイユ版タロットの五番・教皇だ。共同体のまとめ役、教えや規律を授けるもの、教皇と二人の信者、二人の生徒、父と兄弟、学校、寺院、軍事集団・・・。

ポニョの骨格にタロットを使った余韻だろうね。

 

男性象徴的な飛行機械から、砲弾を落とされて二郎は墜落する。

 

有無を言わさない高圧的な父親像を前に、畏縮してしまう少年、そんなメタファーに思える。

 

で、夢から覚めるわけだが。少年時代の描写、っていうか作中で、

 

実父と、ついでに長兄がまったく登場しない不自然さ、違和感に諸兄はお気づきだろうか。

 

母と、妹。ついでに女中と赤ん坊しか描かれないんだぜwww

 

家に、年上の男性がいないんだよな。

家の外では、上級生を投げ飛ばす正義漢なんだが。

 

実父は、別に死んでるわけでもない。

汽船の上で加代が医者になりたいと言った時、二郎は「僕から父に話してあげよう」と言い、

菜穂子と結婚したとき、妹の加代が訪ねてくるけど「父と母の名代で来ました」と言う。

 

妹の加代が医者になりたいというのは、二郎が空を飛びたいというのと対になっているんだろうな。

男性が飛ぶという魔法を志し、女性が医術、科学のわざを志している。

 

ちなみに、そうは言ったものの二郎が実父に、妹の進路についてモノ申す場面はない。あるわけないww

 

そして実父の代わりに、父権存在として、菜穂子の父、黒川と服部が登場する。

 

黒川と服部、特に服部課長は、今までならドーラ、エボシ、湯バーバなどの強い女性に割り当てられていた役を演じている。

あえて類似を探すなら、漫画ナウシカの道化とヴ王のペアに近いかな。

黒川の頭身の低さや、モッサモッサと動く二股の髪はコミカルで道化っぽい。

 

服部課長は、二郎に「五年目ならいいだろう、君がやりたまえ」で設計主任に任命。

「しばらく身を隠せ、その間に上から手をまわす」そういう政治が仕事だ。

「会社は君を守る、君が役に立つ人間である間はな。」役を果たすことを期待しつつ、利害を天秤にかける。

 

これはかなり典型的かつ理想的な父性存在、デキる上司だ。

彼の仕事、父性の役割は、指針を示し、組織を導き、共同体を運営することだ。

構成員に役割を与え、監督し、結果を評価する。

 

しかし、服部課長と二郎、という関係性に注目して見ると、これもなかなか・・・。

 

二郎は二回か三回ほど、服部課長を無視するというか、何かに熱中してて気が付かない。

黒川が「おい二郎」と服部課長の質問に答えるよう促すのを、

服部課長が手で制する、仕事に夢中な若者にとても鷹揚、寛大、苦しゅうない、そんな感じなんだが。

 

二郎から、なにかはっきりと服部へ意思表示したのは設計を「やらせていただきます」

の一言だけだ。

 

あとは会話じゃなくて、二郎の独白っぽかったり、黒川と話している。

 

・・・・うーん。

 

「やらせていただきます」は、頑張って父性に対峙してる。

でも、なんていうか父親とフツーに雑談とか、できないんだろうね・・・。

父親と和気藹々と会話、対話とか想像もできないっていうか。

儒教的、封建的な家庭像っぽい。武家かよっていう。

服部は父権としては鷹揚で物腰が柔らかい人物像で、話しやすそうに見えるけどな〜。

服部と二郎では、ろくに目も合わないんだよなあ。

 

一方で黒川はよく喋るキャラだ。黒川と服部がペアのとき、彼は部下でもあるけど女房役だ。

父親と話すのに、母親を経由する。それくらいはまあ、未だにあるあるな話かとは思うww

 

 

で、菜穂子の父、義父との関係性に注目してみるとだ。

 

好きな女の子の父親に「娘さんを僕に下さい」というのは、

大概の男性にとって、大きな試練といえる。

 

勇者マリオが、魔王クッパを倒して、ピーチ姫を奪還する。そういう心理的な類型だ。

義父というのは、姫との間に立ちはだかる魔王のようなものだw

 

で、二郎は「お嬢さんとのお付き合いを認めてください」と義父に言う。父性に対峙する。

 

義父は、「いや、しかし・・・」とか難色っぽい顔をする。

 

そこで、菜穂子が階段の上から「その話、お受けします。」ときてしまう。

 

それがバッドエンドへの分岐点だったように思う。

    「そのお話、お受けします。」

 →「お父様、私からもお願いします。」

であれば、ハッピーエンドへ辿り着けたはずだ。

 

マリオとクッパのラスボス戦開始!デデーン!とゴングが鳴ったところで、

上からピーチ姫が出てきて「マリオありがとう!」っつって、クッパがポカーンとしてる間にピーチ姫がマリオを連れてキノコ王国に帰っちゃうってくらい、

締まらない話なんだと言えばわかるだろうか?

そこは男どうし心ゆくまで戦ってみないといけなかったんだな。

 

姫が勇者に力添えするだけなら問題なかった。

が、ジブリのヒロインは争いや対立自体を融和させてしまう存在として、繰り返し描かれてきたからなぁ…。

それがここで、初めて裏目に出たように思う。

 

 

 

まぁ、一事が万事、そんな調子だ。

 

描くべきことを、どうしても描けず、場面が切り替わって迂遠しながら物語が進む。宮崎駿もわかってるはずだ。

父性と対峙し、戦う。

そして勝ち敗けでなく、精神的に越えていかなくてはいけない。

なのに、それがどうしても出来ない。

父性存在より高みへ飛べない。自画像である飛行機が墜落していく。累々と飛行機の残骸が重なる。

 

しかるべき段階を経てないから、結婚の描写が不自然になっていく。

 

二郎は、下宿から黒川家の離れへと住まいを移す。

 

菜穂子喀血の知らせを聞いて、名古屋から東京へ駆けつける。

 

菜穂子の家に着き、庭から、離れの菜穂子の部屋へ直行する。

 

・・・、いや、なんで玄関を通らないのか、という話だ。

一刻も早く菜穂子に会いたかった、という一応の理由はあるけどもね?

二郎「今度は明るいうちに玄関から来るよ」その機会は描かれない、

菜穂子「お庭からの方が嬉しい」ええ・・・?そこはフツーに「待ってるわ」でよくない?

 

玄関は、家の顔だ。その家、家系、共同体の門だ。

そこを通らないのは、当主に正式に招待されない者、招かれざる者、

間男かと言われても仕方ないってくらいだよ。象徴から解釈するとね。

 

 で、菜穂子が高原病院を抜け出して、二郎のところへ来る。

 

黒川家の離れで結婚式を挙げ、そのまま暮らす。

 

うん、いや。愛し合う二人に水を差したくはないんだけど。

 

黒川夫人は快諾してくれたけど、人ん家の離れで新生活スタートして、それで新しい家庭の船出的な絵面かっていうとちょっとね・・・。玄関や表札、台所や囲炉裏とか、仏壇や神棚とか、家の中心になる象徴も何もないしなぁ。

一国一城の主って言葉があるけど、その意味で二郎はひとつの家庭の主人とは言えない。黒川家の居候だ。

 

二郎も、宮崎駿も、仕事は天才のそれなんだけどね・・・。

家庭における夫、父としてはね・・・、ってことなんだろう。

 

っていうか、婚姻って、家と家との繋がりの構築でもあるからね。

当事者の男女二人だけで成立しないわけじゃないけど、

二郎の父母兄妹、菜穂子の父、関係性の良好な家族が健在なのに、

結婚式は仲人の黒川夫妻のみ、参列者ナシというのは、

やはり、結婚という儀式、その意味合いからすると不自然で不完全だと思う。

 

胎である泉から新たに生まれ、祝福されたはずの一対の男女が、

お家があって子供がいて、みたいなひとつの家庭像に成るように物語が進まないのは、

菜穂子の病のせいだけではない。二郎が父親を精神的に越えておらず、成人、自立に至っていないせいでもある。

 

ってことになるんだよな~。

 

これ相当フラストレーション溜まると思う。作った本人からしてだ。

 

ある葛藤が、昇華に至らず、健気なヒロインがその歪のツケに、非業を背負わされている。

 

宮崎駿は、自分の造形したキャラを愛してる人だ。愛着、執着があるとも言う。

カーチスは王様に、坊はマルクルに、サリマンはひまわりの老婦人に。

不遇なキャラには作品をまたいで救済の描写がある。

 

二郎の声優の庵野秀明監督なんかはまるで逆で、キャラを突き放してる。

視聴者のトラウマになるようなエグい目に遭わせてヘーキな人なんだけどw

 

高畑勲も節子とかかぐや姫とか非業のヒロインを描きたがる、純文学的ていうか、滅びの美学みたいな感性があるけども。

 

 

宮崎駿はなー…。菜穂子は、宮崎駿作品中でダントツ不遇ヒロインだ。

結核に冒され、死期を悟って結婚し、弱りきる前に手紙を残して去る。

しかし、そういう「きれいなところだけ見てもらったのね」というのは、

古典的なサナトリウム文学のベタなパターンそのまんまのやつであって。

作家の心がこもってない、お約束の、紋切型の、借り物のイメージなんじゃないか?と感じる。

ぶっちゃけ、そういうの宮崎駿らしくない。

そこは原作通りだからといえばそうかもしれないし、

あの時代を懐古する表現ではあるかもしれないが。

 

まあ、もしあの性格で病じゃなかったら、どんどん前に出て活躍して、

二郎より目立っちゃってたとは思うけども。

 

二郎をああいうぼーっとした主人公にした以上、それしかなかったとはいえ。

 

宮崎駿が菜穂子をあのままで終わらせて平気なわけないんじゃないかな~。

 

無理をおして次作をつくると言うのもむべなるかな。で、

「きみたちはどう生きるか」には、賭けてもいいけど、

菜穂子の救済の描写があると思うww

 

誰かの病が快癒するとか、元気いっぱいで活躍するヒロインとか、

夫唱婦随で愛する人と添い遂げて子供をもつ、今度こそ理想的で典型的な家庭像を描くとか。

 

 

風立ちぬ、の作品のなかに、父性と対峙、対決、そして内面へ向かって自立、というステップがあったか、と言われると、微妙だ。

ハウルの動く城で母性を越える時は素晴らしく完璧だったんだけどなwwあれれーww

しかし風立ちぬまで見ると、ハウルの自立の仕方は、どっちかっていうと父性の越え方だった気もする。

校長で権力者のサリマンは、母性というより父権的なわけで。

 

実父と息子、という関係性はついに描けなかったけど

 服部課長のような人物を描けたこと、

対峙、内省、自立のステップ自体は知っていること、

 自分のなかの葛藤に向き合ったこと、

 

ハウルが「僕は臆病なんだ、怖くて怖くてたまらない」と告白するけど、

心の問題というのは、自覚できさえすれば、向き合う機会がやってくるようになってる。

目を逸らしていた痛みに気が付くことこそ、最も重要ではある。

 

その意味では、風立ちぬは、昇華まで行かずとも、葛藤の認知ではあるんだよな。

 

飛行機が落ちる場面も多いけど、落ちたところには汽車が走ってきている。

汽車だけじゃない、小舟、自動車、路面電車、一銭蒸気、寝台列車、帆船、航空母艦、バス、実にたくさん色んな乗り物が出てくる。

 

一足飛びに飛翔するのが難しくても、地を這って、決して歩みを止めない。

同じテーマを繰り返すことなく、新しい課題を見つけて、進み続けている。

 

それはやっぱり勇敢で、弛まぬ努力だ。

まさに地道wド根性ww死ぬほど負けず嫌いwww天才というか鬼才の執念の域www

 

次回作を傑作にするために、必要な内省的作品だった。

という評価をいつかさせてほしいと思うなあ。手の平クルクルしたいww

 

そういえば「君たちはどう生きるか」というタイトルは、

男性的・父性的な視点の言葉かもしれない。

 

女性性・母性が命を産み、育むものなら、

男性性・父性は、その命の使い方を決めるものだ。

役を与え、目的遂行のために死ぬことを命じることさえできる。他人にも、自分にもだ。

 

進撃の巨人は父性表現の多い漫画だが、アレで言うと、

ピクシス司令が「我々はこれより奥の壁で死んではならん、どうかここで死んでくれ!」とか、

兵に決死の覚悟を促し、作戦を展開し、ピクシス司令自身は壁の上から動かず、常に全体の情勢を見てる、ああいう感じだ。

 

どろろだと領主醍醐が、領地と領民のため、我が子と引き換えに鬼神と取引をする。

我が子百鬼丸を、犠牲、生贄という役に任じる、ああいう感じだ。

 

まあ、父が子にそういうことを強いると、大体は叛逆の物語になるけども。

 

鬼滅の刃では、お館様、産屋敷輝哉は、妻子もろとも自爆したな。

鬼を滅するためには、妻子にも死を命じることができるし、もちろん自分を囮にして死ぬこともできる。

 

父権存在も、子に率先して自分の命を賭けて目的に殉じてるとなると、その覚悟に一定の敬意を払う気持ちになるよね。

 

命以上の価値を見いだして、そのために命を使う。それを使命という。

それは他者に命じられるもの、というよりは自覚して、自ら覚って、自らに課すのが本来だと思う。

 

息子が父性に導かれまた越えていく、善き典型としての物語なら、天元突破グレンラガンかな。アニキは主人公に生き方を示して退場し、主人公はどこまでも上昇していく。

 

自分がどう生きるか、心の求めることを知っている。自分の命の使い方を決められる。

自分の望むまま生きて、誰のせいにもしないでいられる。それが自立だ、自由自在の境地だ。

 

人は一人の例外もなく、母から産まれる。

そこから母的な存在に守られて育ち、父的な存在に規律を教えられる。

親存在が求める役割に従う間は、子的存在だ。庇護されると同時に支配もされる。

それが窮屈になったなら、自立の時だ。親存在と対峙する。

対決して勝利すると立場の逆転だ。勝利によって群れのリーダーの交代になる。

あるいは、自分の内面に新たな指針や理想を見いだして、共同体を離れる。

旅に出て、伴侶と出会って、新しい共同体をつくる。

そして自分の器量で、その組織、家庭を運営していく。

自立すれば親と対等の存在として協調していけることもあるだろう。

 

まあ、男子の一生とは神代の昔から、概ねそんなもんではないだろうか。

 

近代化したからと言って、人の精神構造の基本形はそうそう変わらない。

親存在、支配者に見立てるものが、父親、先生、師、上司、規範、自然、会社、組織、権力者、色んなものに変わるだけだ。

どこかでなにかを越えないといけなくなる、精神的な親殺しってやつが必要になる。

70歳越えて、全力でもがいてるバランスの悪い天才だっていますしねw

それでもいいんだよな。いつでも遅くない。年齢に関わりなく、魂は成長することを望む。

それを叶えているその時こそ、ほんとうの幸いで、至福を追求してるって感じがすることだろう。

彼の求道に幸いがありますように。

 

 

まあ、父性についてはそんな感じになってしまうわけだが。

他にもこの作品の見どころはある。

夢、風、生きて、創造的人生の待ち時間は10年…、繰り返すキーワードの意味だ。

そこは次の記事で。

 

 

 

 

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以下広告と余談。

 

監督本人のドキュメンタリーのDVDってか~。次作の資金繰りに色々解禁してるよね~。

グッズ展開や展示会が中心で、コラボとかパチスロ化とかゲーム化とかしないのがジブリブランドだけど、

風の谷のナウシカの歌舞伎化にオッケー出したのはわろたww

次は宝塚っすかねwwwもののけ姫とか向いてそうww

 

メーヴェ腐海や砂漠を飛び回れるオープンワールドゲームあったら買うけどなぁ・・・。風ノ旅ビトみたいな雰囲気ゲーがいいな~。

ICOみたいにひたすらラピュタ湯屋を探索するゲームも悪くない・・・。

 

大神みたいに、モロの子供達やコダマやトトロやまっくろくろすけ、テトやカルシファーと、木を植えたり水をきれいにしたり動物と仲良くなったり、自然を癒していくようなゲームとか。

ゆるめのソシャゲでもいいなあ・・・。

 

あったらいいなあ・・・。

 

 

 

 

 

安さがおすすめ進撃の巨人アニメ一期DVD。

3Dでぐりぐり動く立体機動の表現に一見の価値アリ。

 

どろろ面白いんだが、廉価版が出るまでもうちょっと様子見・・・。

 

鬼滅フィーバーしててうれしみ。推しキャラがさくさく死ぬのがつらみ。

 

この大澤義考著のタロットの解釈本は面白くておススメだ。

ほどよくサブカル感のあるくだけた文章に、

幽体離脱のメソッドで直観したという内容は、

作者の確かな実感がこもっていてユニークだ。

象徴、解釈、そういうものに興味ある人、このブログを読むような人に向いてるww

 

 

 

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