金曜ロードショーで、またハウルの動く城が放送された由、誠に喜ばしく存じます。おめおめ。
おかげでアクセス数が見たことない数字になってて草。
見てくれてありがとー。
しかし、名作とは何回見ても新しい発見があるもの。
鑑賞者の心を映す鏡となり、見えるものが変わってくるのだ。
ハウルの記事はたくさん書いたけど、せっかくの地上波放送だったのでもう少し、脱線上等で話を広げてみよう。
はじめましての方は過去記事がこちらになっております。
さて、
ソフィは、嘘が上手だ。
さらっとしらっと、とても巧みに嘘をつく。
ということに、諸兄はお気づきだろうか。
まずもって彼女は、自分が老婆であるという強い暗示、帽子屋を継ぐべき長女である、掃除婦である、など自分にも嘘をつくタイプというか。
かくあるべき自分、という強固な設定やペルソナが先行するタイプではあるし、
「そうさ、この国で一番こわ~い魔女さ」「そうさ、この国で一番きれい好きな魔女さ」という掛け合いのノリというか嘘というか、実はそのとおりなのもあるが。
もっとしっかり嘘吐きなシーンがある。
国王の城へ赴く場面で、
荒れ地の魔女「なんであんた王様のとこへ行くのよ?」
ソフィ「就職活動!」
これは初見でも気がつける、明らかな嘘だ。
ソフィはハウルの母、ペンドラゴン婦人として謁見へ向かう流れだったもんな。
この嘘が注意喚起というかヒントというか、
周回したときソフィの嘘に気がつく用の伏線になっている。
入城して、小姓が「ペンドラゴン婦人、荒れ地の魔女様ー!」とアナウンスする。
荒れ地の魔女「ペンドラゴン・・・、聞いたことある名だね」
ソフィ「当たり前でしょ、私のいた帽子屋の名だもん」
さらっと流れるようにウソ。
帽子屋はそんな大仰な店名ではなく、そのまんまのハッター(Hatter)だ。ソフィ・ハッター。
名を、偽る。
これが宮崎駿ワールドでどれだけ重い意味を持つのだろうか。
前作、千と千尋では、湯バーバが名を奪う。
それは隷属の契約と洗脳であり、
魔女や魔法使いというのは名にまつわる呪力、魔力を熟知する者だ。
階段上りで疲労困憊の荒れ地の魔女は、「そうだっけ・・・?」と騙されて、ソフィがハウルの代理人であることに気がつかない。
そしてトンネルの夢から目覚めた後。
カルシファー「そんなこと言えるかよ、オイラは悪魔だぜ。」
ソフィ「カルシファー、サリマンが言ってたわ。ハウルは大切なものをあなたに渡したって、なにそれ?どこにあるの?」
しらっと、なめらかにこれもウソ。
サリマンはそんなこと言ってないねえ~。
「悪魔に心を奪われ、私のもとを去りました」とは言ったけど、
心を奪われ、はあくまで魅惑された的な比喩だろう、
心臓を奪われた、を示唆するダブルミーニングではあるけども。
大切なものを渡した、と言った。そう聞いたとするのは強引に過ぎる。
これはカマかけ、隠してることを知ってるぞと水を向ける誘導なんだけど、
カルシファーはひっかからない。
「契約の秘密についてはオイラは喋れないよ」という。
こういう、戦略的な嘘がつける女性キャラクターというのは昨今では珍しい感じがする。
アリババと40人の盗賊に登場する賢妻モルジアナみたいな感じだろうか。
嘘吐き女、というと海がきこえるのヒロインみたいな、寂しさから気を惹くための嘘をつく、危ういメンヘラ系が多い気がするが、
ソフィはポジティブに巧みに嘘を使いこなす。
この嘘は、カルシファーの性質の根幹にものすごく図星な物言いなので、
彼は誤魔化せず、原理原則を持ちだして沈黙する。
悪魔、というのは宮崎駿作品では初出だけども、カルシファーの態度は実に古典的な悪魔像を踏襲している。
カルシファーは、悪魔は嘘をつかない、というか、嘘がつけない。
悪魔は奸智に長け、言葉巧みであり、言外の嘘というのはよくつく。
肝心なことは言わない、とか、核心や条件を隠してる、とかはあるあるで、
勘違いさせるような誘導的な物言いや、はぐらかしや誤魔化しということならお家芸だ。
しかし、名や契約に関することで決定的な虚偽を述べることは、ない。
なんで?
いや、なんでかは知らんけど、そこをペラペラ嘘つける悪魔を描くと、途端にキャラクターが説得力を失うことは間違いないと請け合おう。
イブを誘惑する聖書の悪魔からしてそういうものとして描かれ、
その共通認識が児童文学や創作物に脈々と浸透して、人類規模での普遍性を獲得している。
という事実はあると思う。
なんでかねえ?
これは実に興味深い疑問だ。
悪魔だけでなく、魔法使いや魔女というのも、軽々に嘘はつかない。
名の力、言葉の力、言霊の力、認識を確定させることの力、世界を任意に切り取る力、
そういう力のあることを知り、それを能く行使する者ほど、そのリスクも反作用も知っている。
しかし、それはつまりどういうことなんだろう?
この不文律をどうにか解体し、納得したいという欲求に従って徒然に書いてみよう。
(もっともらしい嘘を捻りだす、と同義なので是非疑って頂きたいww)
ちょっと遠回りになるけど、前提から。
人間は、精神と肉体の両方を備えて在る。
その精神と肉体、どちらが先にあるものか、どちらが優位かっていう話をすると、
陰陽論では精神が陽、肉体が陰だ。
心や意志が陽で、物質が陰と言ってもいい。
まず精神が動き、物質はそれに従う。
量子論でいうところの、素粒子がみせる波と粒のふるまいのうち、波が陽、粒が陰。
肉体は重く凝って沈んでいく粒であり、
精神は軽く響いて拡散していく波動のようなもの、というイメージだとする。
創作物ではよく、精神体、というものがでてくる。
まあだいたいの共通項としては、
距離や時間による制約が少ない、一瞬であちこちに移動したり、永い年月をさほどに感じていなかったりする。
食事や睡眠などの肉体を維持するコストやメンテを必要としない、
物質体がないので壁をすりぬけたり、モノを触ったり持ち上げたりができなかったりする。
一時的に人やモノに依り憑くことができる。
ざっくりそんな感じだろうか。
うしおととらのジエメイとかほぼすべて当てはまる好例。妖しく儚い絵も白眉。
そして、そいつら。幽霊にしろ、式神にしろ、精霊にしろ、悪魔にしろ、地球外生命体にしろ、
基本的に、肉体のないヤツは嘘つけない、の法則があるんじゃねーかな~、と思う。
妖精はちょっと違うかな。
定義にもよるけど、自然物などの本体があることが多いから。
そんでだ。
たとえば、ちょっと自分が幽体離脱した(w)という状況を想像してみてほしいんだけど、
そうすると、声帯も肺もないわけだから、空気を震わせて音を出すことができないわけじゃん。ペンを持てないから文字も書けないじゃん。
となると、精神体の意思伝達はまずテレパシーってやつになるじゃん。
諸兄はその時、テレパシーで、ウソがつけると思うだろうか?
テレパシー、精神感応というと、伝えたいイメージを音声言語に変換せず、
思うことをそのままダイレクトに送信するっぽくて、それはウソがつきにくそーな感じ、しないかな?
精神体は基本テレパシーを使うから嘘をつきにくい、という結論でもまあいいけど。
このくらい余裕で慣れてる人もいるだろうし、もう一歩踏み込んで考えてみてもいい。
嘘、というのは、
認識していることと、喋ってることが違う、ということだ。
人間は嘘をつくとき、
認識している事実のイメージと、嘘の設定のイメージの両方を同時に保持する。
頭の中に、ふたつの事象が同時に存在している。
物質が構成する現実世界には、物証、証拠、というものがあるので、
なにが事実なのか検証する、ということができる。
ソフィは帽子屋の名がペンドラゴンだと偽ったが、
実際にその帽子屋を訪ねてみればハッターという看板がある。
店名の入った商品や書類類もあるだろう。すぐに答え合わせができる。
しかし、精神体、精神世界、というものを想定したときにはどうだろう?
脳や肉体というハードのない世界、意識というソフトしかない世界で、
「帽子屋の名はペンドラゴン」の偽、「帽子屋の名はハッター」の真、
矛盾するふたつのイメージを、同時に保持するまではできたとしよう。
しかし、そのどちらが事実か、どちらが真か、どうやって決定するのだ?
誰かに聞いてみる?
しかし、他者の認識と自分の認識の齟齬が、どちらも譲らない水掛け論にしかならなかったらどうしようもなくない?
論より証拠、のない世界、論しかない、認識しかない世界。
物質に依らない世界、経年変化の希薄な世界、精神世界。
そこでは、心の中の出来事のどれが真なのか、どれが事実に即しているのか、などという問い自体が成立しない。
精神世界では、主観的認識と、客観的事実を擦り合わせることができない。
答え合わせができない。
すべてがデータでしかないサイバー空間では、ハッカーからしてみればあらゆる捏造や日付を遡っての改竄が可能、みたいな感じで理解できるだろうか。
人間であれば、パソコンを消せば肉体がリアルを感じさせてくれるけども。
ちょっと想像してみて欲しいんだけど、
答え合わせができない世界で、複数の矛盾するイメージを保持する、というのは、
スゲー怖い、スゲー危険なことな感じ、わかるかなあ。
どっちが真でどっちが偽か、いとも容易く入れ替わってしまう。
だから、精神体的なやつら、悪魔や霊的存在は、こと自分の在り方に関して嘘など決してつかない。いや、つけない。
嘘とわかっていても言挙げしてしまえば、そのままに自分の存在が根幹から揺らぎ、変質しかねない。
それは死よりも忌まわしい。
ソフィ、というか肉体を備える人間存在であれば、
いくつ嘘の設定を保持しても、たとえ精神が解離分裂しようとも、
日々せっせとごはんを食べて育ててきた肉体というのは、実に強固に物質世界に根を下ろして繋がっている。
肉体という、重し、楔、錨、重くて簡単には揺らがないものが拠り所にあるからこそ、
嘘をついても、複数の矛盾する事実像を認識しても、とりあえず平気でいられるのだ。
中長期的な影響は必ずあるけど、とりあえず直ちに影響はないっていう。
名を偽ろうと、記憶がいい加減だろうと、肉体という器はそれだけで強力なアイデンティティとなる。
そして、悪魔や霊的存在、精神しかないような連中がいるとして、
精神というのはどこまでも拡散する波に似た性質のものだと言った。
音のように波のように、不定形で流されて広がって干渉されて薄まっていってしまうのでは、自己を長く保てない。
存在し続けるには、なにか重しが、器が、フレームが必要になる。
それが名だ。
肉体のない存在にとっては、名が肉体に等しい依り代であり、自己を定義するフレームなのだ。
一神教では神の名を呼んではいけないというタブーがある。
ヤハウェに限らず、上位存在の名を呼ぶこと、名を知ること自体を忌む逸話も多い。
エクソシストは悪魔の名前を聞き出さないと祓えないとか、
真名を知ればそれだけで相手の存在を掌握できる、といった思想も普遍的なものだ。
まあ、精神体にとっては、雑に名を呼ばれるということは、肉体に触れられるに等しいというか、
こーゆー首をガッといくコミュニケーションに近いだろうか。
これ気が合わないやつだとイラっとするというか、目下か同格の相手にしかしちゃいけん絡み方だよな。
まあ、神様や悪魔の名は地域を跨げば呼び方が変わるとかもあるあるだけどー。
綽名も名には違いないわけで一応アクセスはできるだろうけどー。
それでも祈念する存在の本質に近づこうとするときは、最も近い音の名を使うことが望ましかったりするだろうね。
精神は波、音も波、最も正しい名は、その精神体の固有の波長そのものを写した音になる。
ヨガのマントラなんかは、そういうことのために蓄積された魔術だ。
対象の名、そのニュアンスをできる限り正確に発するだけでも、それなりの才や習熟がいるよーな話なのだ。
なんつって、怪しくなり過ぎたけども。
どうだろう、嘘について、名について、
その呪力や魔力、その意味について、少しは感じが掴めただろうか。
その感覚を確かなものとする先に、魔女や魔法使いや行者の領分がある。
そしてもっと先には、名も魔術も、肉体や精神の器も越え、その源泉たる魂をくぐり通って至る自在の境地が、
言葉にできず、始まりも終わりも越えた無窮のなにかが、ずっとあったことに気がつく。それとともに在ることを思い出す。
あるがままの今を、世界を感じて生きることができる。
その秘密、そこへ至る道は万人の前にいつも開かれているのだ。善哉。
あー。大いに脱線してもはやハウルの話ではなかったかもしれないが。
いやー、しかし、こーゆー中二妄想みたいなことを考えてる時が一番楽しいって感じがしますなww
ところでガッといくとこの漫画ブルーピリオド、アニメ化だってね良かったね。
でも自分の推しは8巻から登場の村井八雲なので、一期12話ぐらいじゃ出番ねえ~、どうでもよ~。
は~~~~。
なんか知らんし大して活躍もないのに、八雲がすこすこのすこなんだよな~。
この「俺かわいそ、優しくしろ」と「でっけえは最強なんで」が同居するパーソナリティがさー、
ハウルと一緒のタイプなんですよ多分。「僕は憶病なんだ」と、王子エスコート空中散歩と一緒。
かわいそぶってかまちょするのと、見栄坊で目立ちたがり屋の、両面性がある。
これが、最近ハマっている体癖メソッドでいうと6種、呼吸器型の陰だと思うのね。
ハウルが臥せってソフィに甘えるのとか、ソフィを先行させてから行動するのとか、破滅型のロマンチストな感じとか、
八雲はアオリ気味なキメ顔の角度、友人とセットなとこやお祭り男、自傷と華美の両義のピアスに刺青、腹ペコ属性なども符合しまくりで、もはや作者は体癖論知ってるやつでは。
体癖論は、YouTubeゲーム実況から興味を持った。これ面白いよ~。
解説してる名越康文もなかなかに鋭くて一歩引いて視る姿勢が感じのいい人なんだけど、
体癖論創始者の野口晴哉がガチの次元高い、ガチ達人の優れたインスピレーションの人なので、本買ってみた。
キャラデザがテンプレがちなアニメ鑑賞ではあまり使えないメソッドなのが残念だけど、これは人生が捗るやつなのでいつか自分なりに記事にできたらと思う。
しかし、もう見えている結論としては、
この方法論は、西洋科学的な発想、人間の分類法として運用してると間違うやつだ。
人間存在はバラバラにしていってもダメなのだ。わからなくなる。
細分化しても、複雑系は理解できない。
体癖論を、整体や心理学に使えるところだけをつまみ食いするのではなく、
野口晴哉と同じ境地へ至るため、心身の不足を補って高めていくために使うとき、真価を発揮するメソッドのはずだ。