ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

ハウルの動く城を解釈する。こぼれネタ 記事作成中。

ハウルの動く城 (徳間アニメ絵本 28)

 

 

こぼれネタがスレのあっちこっちに散らばっててどうしようもないので、見つけ次第ここにサルベージしていく。

 

・「引っ込まないと鼻がなくなるよ」
マルクルがソフィに「引っ込まないと鼻がなくなりますよ」と言うけど、
あのドアの開け閉めで鼻がどうにかなるかな?

千と千尋でリンが千に言う「鼻がなくなるよ」は、
壁と室内の仕切りがない、安全面に問題のある エレベーターに乗っているので、納得なんだけど。

あれは 今のセリフ、千と千尋でも聞いたな、
そういえばマルクル神木隆之介は坊もやってたな、

と、マルクル=坊の構図を想起させる信者向けのヒントではないかと思うw

 

魔法使いハウルと火の悪魔読んだぞ! 

これで原作読んでないくせに(笑)とか言わせぬー。 

ハウルのキャラ達のアンバランスな魅力は原作の ダイアナ・ウィン・ジョーンズの観察眼によるものだったんだな。 そこはいたく納得。 
宮崎駿のキャラは完璧超人とか、聖母とか、内面が理想像になりがちなのはあるあるww
人間らしい動き方の雄弁さでフォローされてるけども。

ただ、動く城そのものについては女性のダイアナより、断然駿に分があるな。 
原作は動く城に着想を得た物語なのに、 どこでもドアとしての舞台装置以上のものにはなっていない感がある。 

これは作者の感性の男女差が顕著に出ててすっごく面白い。 
女の子は人形遊びで人の心情のドラマで遊び、 
男の子は車やメカのおもちゃにロマンを託して遊ぶ、 

ダイアナウィンジョーンズに 、
動く城の話を読みたい、と言ったのが男の子だというのも頷ける。 
かっこいい空中基地や移動要塞みたいなものに憧れるのは男の子だ。 

ダイアナの方がキャラの内面の造形に優れ、 
駿の方が、動く城を巨大ロボのようなロマンの詰まったキャラクターとしてとらえ、 
物語の中で重要な役割を与えることができた。 

ハウルの動く城は男女両方の作者の感性のいいとこどりができてる。 
面白いわけだな~。

 

あと原作では母性からの自立なんてテーマないやんけwまじかww 

まあでも?ハウルのキャラについて掘り下げるうちに、 
「こういうやつはマザコンに違いない」ってなっていくのは解るかも。 
で、先生との関係性について原作以上に掘り下げていく。 

そんで母性からの自立っていう普遍性のあるテーマを主題近くにもってきたことで、 
児童文学以上の普遍性のある物語になっていったんじゃないかな。 

 

・ソフィの帽子

ソフィーの麦わら帽子も意味を考えていくと面白い。 
アートオブハウルには帽子をかぶったムスッとしたソフィの顔の絵に、 
「帽子と言うよりヘルメット」という走り書きがあったw 

どうも自分にはあの帽子は「父親との絆」という意味のアイテムであるように見える。 

ソフィの店に並んでいる帽子はみんな華やかだ。 
そんでソフィの街でも港町でもキングスベリーでも 
ご婦人たちの帽子はみんな色んな飾りがのったきれいなものだ。 
普段使いっぽい地味な麦わらの帽子なんてソフィしかかぶってないようだ。 

妹に会いに行くときにかぶっている帽子 
身一つで出ていくときにも持っていく帽子 
王様に会いに行くときにもかぶっていく帽子 

特に王様に会いにいくときなんか 
「それ被るの?せっかく魔法で服をきれいにしたのに」とハウルが言う。 
そりゃそうだ。お城に行く正装で、新品でもない麦わら帽子なんて

いつの常識で考えてもアウトじゃないかな。
もはや気に入ってるおしゃれアイテムのレベルじゃない。 

っていうかソフィはおしゃれはしない。 
「美しくない」のガラクタの思考パターンを持ってるから。 

大事な大事な御守りかなにか。 ひょっとしたら形見?と思った。 
死んだ父親、守らなければならない帽子屋、 
その両方の意味があの帽子にこめられてるのかもね?

 

まあ、若い娘らしくない帽子なのは、 もっと子供のころとかに父親がつくってくれた帽子ってことなのかもな~っていうだけの話w

 

ちなみにネタバレすると原作のソフィは帽子屋なんかもうこりごりwだそうだw 

そんでその大事な帽子はサリマン先生の杖に貫かれて失くしてしまうけど、 
その前に「ハウルに恋してるのね」って看破されてたね。 
なんつーかあそこで亡くなった人への想いには折り合いをつけて、 
帽子は手放して、ハウルとの関係へ心が移行していくのかなあ、と思った。 

そんで飛ぶ城のラストではまた帽子を被っている。 
今度はもっとおしゃれな帽子だ。「美しくない」は手放している。 
家業と父への想いを今度は執着ではなく、受け入れているんだと思う。 

そして帽子のリボンが黒い。これは宮崎駿ワールドでは赤毛と同様に魔女の暗喩だ。

紅の豚のフィオも黒いリボンの帽子だ。赤毛については重要なので、また記事にする。

 

肩掛けと杖のなくなるタイミングも注目してると面白い。 
それもソフィが自分自身に立ち返り、老婆化を徐々に手放していく事を示していると思う。 肩掛けも杖もおばあちゃんのアイテムだからね。

 

・パンを渡す順番

Q 食事シーンで、ハウルがパンを切ってまず最初にマルクルにパンを分け与えてその次にソフィーにパンを分け与えるじゃないですか? 
ハウルのあの性格からして、レディーファースト精神でソフィーに一番最初にパンを分け与えそうなのに 実際はマルクルに分け与えることにちょっと違和感が残ったけど意味あるんですかね?

 

すでに切ってあるパンが紙袋の口をしめないまま引きだしに突っ込まれているので、

カピカピしてきた端っこをマルクルにあげて、ソフィには美味しいところをあげたのかと。

細かいねぇwwで、ハウルったら自分のパンは切ってない。炭水化物抜きダイエットとかしてそうだねww足とか細いし、スタイルに気を遣ってそうw

 

・おかっぱ、稚児頭。

ハクとハウルと金髪小姓達のヘアスタイルだけど、
やっぱ共通点あるとしたら「女主人(母性)に支配される少年」かなぁ。

おかっぱ、尼そぎ、稚児頭、とかそういうワードでググると、
髪を伸ばしかけの少年少女の髪型っていう感じらしい。
もっと幼いとショートカットで、
もっと成長して髪が長くなると結ってまとめる。

そういう成長の段階を示すアイコンとしてあの髪型なのかな。

ハクはあの水干?みたいな装束とあわせて平安少年風ってこと、

ハウルは中身が少年のままですってこと。

 

何人も侍らせていた金髪の小姓達はあれかな。

あれはサリマンは傍にいる人間の個性を認めない、ていう意味かな。 
それも支配者の属性というか。 

岡田斗司夫の言う金髪少年が恋人説には違和感がある。 
だってもし自分が複数の恋人をはべらすなら、ちょっとずつ違うタイプがいいからだ。 
まったく同じ顔、同じ性格なんだったら一人で十分だろう。名前も呼び分けられそうにない。 
ギャルゲーだって乙女ゲーだって、色んなタイプのキャラを揃えたものが主流だ。 

学校の制服で例えると解るだろうか。 

学校はみんな同じ服どころか、学校によっては髪型の指導、 
鞄や靴や靴下まで指定している。ピアスやアクセサリーも禁止だ。 
こういうことを個性の抑圧だと反発を感じた人は多いだろう。 
ファッションには自己表現の側面もある。 

しかし、制服を着ることを楽だ、安心だと思った人もいるだろう。 
毎日毎日着る服の組み合わせまで考えていたら、 
金銭的にも労力的にも負担が大きい。 
また制服を着ているだけで、 
学生という身分、アイデンティティを与えられていると感じたり、 
学校に組織に帰属意識が生まれるということもある。 

別に制服を批判したいわけではない、 
メリットもデメリットもあると思う。 

ただ、支配される、ということは楽だとか安心だと感じることもある。 
と言いたいわけだ。 庇護を受けられる。

まったく同じ見た目の金髪少年は制服的なものの究極だ。 
サリマンの示した型、鋳型に自らをはめこんで、 
自分の主義主張、個性を捨て去っているのがあの少年たちの中身だ。 

なーんにも自分で考えない、すべてはマダムの言うとおりにしていれば、 
金髪少年としてならマダムに可愛がってもらえる。 
事務処理能力だけはある人形人間だ。 

金髪少年の中身はカオナシだな。からっぽなんだ。 

支配者はカオナシが好きだ。 ゼニーバとカオナシもベストマッチングだ。
自由、主体性、自己主張は支配とは相容れない。 

サリマンがいなくなったら金髪少年たちはカオナシみたいに 
ぼーっとしてるか、新しい主人を欲しがるか、暴走するかになるだろう。

 

 

・まとめのコメント欄より。

最初にソフィが警官にナンパされるシーンでハウルが助けに来たとき、

「やっと見つけた」とか言う時にハウルの指輪(サリマンから逃げるときにソフィにあげたのと同じやつ)からソフィに向かって光が出てるんだってね
ソフィが未来で待っててって言ったの覚えててずっと探してたってことだね
ハウルはサリマンに母性を見いだしてるし、荒地の魔女に近づいたりしてるし、母性を求めてるんだと思うけど、その根源は多分子供の時に見たソフィなんだと思う。
ソフィがハウルにとっての母性で、その代わりとしてサリマンとかを求めてたんだろう。
契約時に心を失ってるからハウルはずっと子供のままでソフィ(母性)を求めて色んな女性を代わりにしてきた
大人なら自制してソフィだけを想えるけど、心(理性)のない子供じゃ自制は出来なくて手当たり次第女に近づいたんだろうね
荒地の魔女に近づいたのも興味本意だったし。

 

・指輪の色

上記のコメントで納得して、指輪に注目して見てたら面白い事に気が付いた。

ハウルでもソフィでも人を探すのに使う指輪だから、人を差す指、人指し指にはめてるんだろうな、と思って見てたけど、

 

最初は赤い石だったのが、

ソフィが「どうしよう、カルシファーに水をかけちゃったうわーん」の時、手元から青い光が漏れて、そこから先は指輪の石が青くなってた。

 

カルシファーが火の悪魔なのは、情熱って言葉があるように、ハウルが情動のキャラだからって書いたけど、まだ理由があった。

 

男性原理は陽、火で、

女性原理は陰、水だ。

だからソフィは「水をかけちゃう」と2度言うし、実際かけちゃう。

 

だからハウルの石は赤で、ソフィの石は青くなる。

 

それを踏まえてラストの飛ぶ城でキスのシーンを見ると、

ハウルは胸に青い石、ソフィは胸に赤い石をつけている。

これは指輪交換よろしく、互いの象徴の一部を交換しているってことだなー。

対極図の陽中の陰、陰中の陽のイメージが浮かぶ。

キスすることでエネルギーが周りだし、男女二人の姿が対極図として完成する。

魔法が込められてますね~。

 

・戦線離脱シーンの相似
ハウルがソフィー達と温室の天井を破って脱出するシーンって、見覚えあるww 

ハウルが序盤で戦場を飛んでて、三下魔法使いの怪物から、 
丸く区切られた青空へ逃げて、ハウルが逃げたら穴が閉じて追手が落ちるシーンに 

まじそっくりww 

これはアレですね。序盤のやつも 
サリマンの追っ手から逃げている、と言いたいのではないですかね。 

つまりサリマンが戦争を・・・、と言いたいのではないですかね。 

 

 

・ヘタレのハウル

ハウルがへたれでビビりっていうのは、城の中で朝食を食べようとしたときに魔女からの手紙を見て、食欲なくしてしまって自分の分の朝食をカルシファーにあげちゃったね。 
でもって、「北へ100キロほど移動して」とかカルシファーに言って、大急ぎで魔女から逃げ出した。 
初めて見たとき、「逃げるんかいっ ヘタレっ」って思ったわ。

 

ハウルにこのビビりめ!ヘタレめ!ってツッコミながら見るの面白いですww 
「諸君!○○したまえ。」とか気取ってて、カッコつけてるとことのギャップが魅力ですね。 

ハウルは感情、情動のキャラなので魅力あふれる人です。 
情感が豊かな人、というのは人を惹きつけます。 

ですが、彼にはあまり理性や知性、自制心がありません。 
怖い、と思ったら即逃げます。逃げっぱなしです。 

問題を解決しなくては、と思うのは理性や知性の仕事です。 

そしてハウルは力を行使する快感に酔っています。 余裕の笑顔がデフォルトのハウルですが、 
最初の戦場を飛ぶシーンや花畑で軍艦を「いじった」とき、 ニヤリ、という表情をします。 

花畑のシーンでは、 
自分の大事な場所に無粋なものが侵入してきた不快感はわかるのですが、 
放っておけば気が付かず去っていっただろうに、 
ハウルはイラッとした気持ちのままに、軍艦にちょっかいを出します。 
代償に手が異形になって、それを隠す・・・ダメージを負うとわかっていても、 
そうせずにはいられない。 

我慢する、も理性や知性の仕事ですから。 

強大な力を行使することには快感が伴います。 
「できた!」という快感は、なにかを修得していくときに必要なモチベになりますが、 
ハウルはその感覚を味わう気持ちよさを、気持ちいいからと味わいっぱなしです。 
代償に異形に近づいてしまうのに、我慢ができない。 

なので、ハウルだけでは対立になるとハマってしまって抜け出せないんですね。 
勝ち目がなくても、何かを守るという使命感を伴ったバトルをやめられない。 

問題の根本はなにか、どうすれば解決なのか。 
それを突き止め、すべきことをするのが理性、知性のソフィです。

 

・くり返しのセリフ。

二度くり返す表現やセリフが多い。

ソフィ「水をかけちゃうよ」

荒地の魔女「きれいな火だねえ」

マルクル「死んじゃったかなあ」

など。マルクルの「死んじゃったかなあ」は次作でそうすけも同じことを言うね。

 

宮崎駿は卓越した女性性の描き手だけど、父性というものについてはサッパリな人だ。

父と息子的な関係、師弟関係というものを描けない。

ハウルマルクルの関係性に注目すると、師弟らしい交流というものがほぼない。

師匠が倒れているというのに「死んじゃったかなあ」は、ちと薄情というか。

そこは普通、大丈夫かなあとか、心配するとこだろうよw

 

あるいは若干の期待のニュアンスがあるかもしれない。

師が、父が、家長や社長が退陣すれば、息子的存在にとってそれは下剋上のチャンスだ。