ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

六時間耐久歌舞伎・風の谷のナウシカ を解釈する。

 

年始にBSプレミアムで放送してたのを録画。ようやく視聴完了した。

六時間っていうと、まあアニメだと一期十二話ぶんくらいのボリュームではあるけど、

なんせ根が田舎者だから歌舞伎なんて通しで見たのは初めて・・・、いや。

現代歌舞伎はワンピースとか初音ミクとかサブカルチャーからも題材をとってて、

千本桜をニコニコで見たことあったな、そういえば。面白かった。

それで原作が至上という色眼鏡をかけて見るってことはなかったのかも。

 

良く出来ていたと思う。原作リスペクトは感じた。

あとめっちゃお金かかってそうで贅沢だった。景気がいい、気前がいいって感じがして良かったわ。

 

しかし六時間は長かった・・・。

なんていうか、その六時間もの長丁場に付き合ううちに、

客席と舞台のあいだに連帯感とか一体感が生まれるというか。

鑑賞時間の長さに耐えた、役者もだけど自分もよく頑張った!

っていう、やりきった気持ちが上乗せされての評価になるね。

体育祭の後みたいな気持ち。順位はともかく楽しかった的な。

 

それで長さも負担だったけど、内容の重さ暗さも負担だったわい。

原作のヘビーさがそのままっていうか、まあ原作準拠ではあるけども。

 

アニメ映画だと、

空を飛び景色が流れていく爽快感や、音楽の勇壮さ、テトのかわいさなど、

ストレスに耐えるための清涼剤が置かれてる補給地点があるのだが、

 

そのどれも歌舞伎だと不得意な表現だったんだな。

宙釣りメーヴェで飛ぶのは一回やったけど、テトやトリウマなどの動物の表現は癒しになるレベルではない。

 

代わりに、歌舞伎の得意な演出がどんどん出てきた。

舞台でだばだば水を流して殺陣とか、照明で胞子を表現するとか、舞台が回転するとか、髪をぶん回す連獅子とか、

なにしろ六時間の長丁場をもたせるんだから、出し惜しみなしの見本市っつーか、

飽きてきたころに程よく派手な見所が来て、そこはおもてなし感が行き届いてた。

 

背景の絵がほぼ使いまわしなしだったのも慄いた。何十枚描いたん。

まあ、絵のクオリティはジブリと比べるのは酷だったけど、手数はすごい。

いや、うーん、そこはも少し枚数を絞ってでもクオリティ上げたほうが良かったかもな。いくつか良い絵もあったけど。

ナウシカの世界観は独特だから、風景の絵こそ主役みたいなとこあるし。

そこは観客が映画のイメージで脳内補正かけて見るしかないっていう。

 

特に良かったのは、豪華絢爛な衣装や、舞のパートかな。

 

背景絵やハリボテの王蟲は、それだけではやっぱりイマイチ感情移入できなかったので、

王蟲の精として子役に真っ白な衣装を着せて舞わせたのは、いいアイデアだったと思う。

歌舞伎ならではの表現で王蟲の心を表現してみせた。

 

ナウシカも同様で、ナウシカって、等身大の人間というよりは一種の観念的な理想像みたいなキャラなので、演じるのが難しいっていうか、

高尚なセリフは喋れば喋るほどボロが出るっていうか、エラソーでキッツ、みたいな感じがしてくるので、

そこで舞で心を表現するならば、研鑽を積んだ芸にはセリフ以上の情報量がこもる。

「悲しい」と口に出すより、後ろを向いて背と首を傾けるだけで表現する悲しみのほうが、ずっと高度で心に迫る表現になる。

舞と歌でなら、白鷺にも藤の精にもなれるわけで。なら女神とも聖母ともなれようというもの。

 

ナウシカの舞は大海嘯の一場しかなかったが、後半でもどっかで舞って欲しかったなー。

ラストあたりでは原作の情報量を消化するので手一杯のように見えた。

 

まるまる引用しちゃうけど、この原作でのやりとり。

 

ナウシカ

「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている」
「その朝が来るなら私達はその朝にむかって生きよう」


「私達は血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えてとぶ鳥だ!!」

 

「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」
「だが、お前は変われない。組み込まれた予定があるだけだ。死を否定しているから。」

墓所の主
「これは旧世界のための墓標であり、同時に新しい世界への希望なのだ」
「清浄な世界が回復した人間を元に戻す技術もここに記されている」
「交代はゆるやかに行われるはずだ」
「永い浄化の時は過ぎ去り、人類はおだやかな種族として新たな世界の一部となるだろう」
「私達の知性も技術も役目もおえて、人間にもっとも大切なものは音楽と詩になろう」

ナウシカ
「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない」
「その人たちはなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそ生命だということに」
「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから・・」
「だからこそ、苦界にあっても喜びやかがやきもあるのに」

墓所の主
「私は、暗黒の中の唯一残された光だ」
「娘よ。お前は再生への努力を放棄して人類を滅びるに任せるというのか?」

ナウシカ
「その問いは滑稽だ。私達は腐海と共に生きてきたのだ。亡びはすでに私達のくらしの一部になっている」

墓所の主
「生まれる子はますます少なく石化の業病から逃れられぬ。お前たちに未来はない」
「人類はわたしなしには亡びる。お前たちはその朝をこえることはできない」

ナウシカ
「それはこの星が決めること」

墓所の主
「それは虚無だ!!」

ナウシカ
王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた」

墓所の主
「お前は危険な闇だ。生命は光だ!!」

ナウシカ
「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」
「すべては闇から生まれ闇に帰る。お前たちも闇に帰るが良い!!」

墓所の主
「お前は悪魔として記憶されることになるぞ。希望の光を破壊した張本人として!!」

ナウシカ
「かまわぬ。そなたが光なら、光など要らぬ」
「巨大な墓や下僕などなくとも私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる」
「私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」

 

これ漫画だと、

そこまで読んできたヘビーさをぶつけられる直接対決のカタルシスがあって、

心に焼き付いて人生観を変えかねない名言しかない場面なんだけど。

これをセリフでただ喋られてもな・・・ってなっちゃった。

ここのところこそ、なによりも舞と歌とで表現するべきだったでしょ。

 

科学の栄光と永遠を啓蒙する墓所の主と、観客に、

論破して攻撃してみせるのではなくて、

舞と歌とで 無常観 を伝えられてたらなあ。

それこそ歌舞伎の真骨頂だったりしないのか。

 

兵どもが夢の跡、盛者必衰、生々流転、夢幻泡影。

 

どれほどの過去も、失われ忘れられるからこそ、今に生きられる。

 

今日枯れる花があるから、明日咲く花に会える。(SKYHI)

 

こういうのは、ある境地、心の在り方なので、言葉ではなかなか沁みないんだよな。

詩や歌や舞や物語、芸術に昇華することで、観る者をそこへ導いてくれるものになる。

 

なるのにな~。

 

まあ、この後に、巨神兵VS墓所の主を連獅子でやるっていうのも、派手なバトル描写になってエンタメ的には正解だったと思うけど。

 

ナウシカのテーマの深さに肉薄するなら、ほんとそこをさ・・・。

 

ていうか、テーマの深さを表現するというなら、アスベルとナウシカが落ちる腐海の底。清らかな砂と水だけのあの場所がさ。

自分が最も注目するのは、あのすべてが尽きて終わる、静かな場所。

青き清浄の地が、なぜ心でしか行けない場所だと言われるのか、そのあたりなんだけども。

映画のエンドカットで、ナウシカのゴーグルがあってチコの実が芽吹いている、あれが最重要なんだけど。

ま、そこはいずれ自分で書かないとな。 

 

 

いや、まあ、うん。

衣装はほんとに凝ってて凄かった。特筆すべき素晴らしさだった。

歌舞伎といえばの「ぶっ返り」で衣装が変わるとかだけでなく、

お幾ら万円かかっているのやら、場面によって次々に細かく衣装や鬘が変わっていく。

歌舞伎では、それが心情や内面や色んなことの表現になってるんだな。

服や髪を変えることで何かが変わったことを表現するのは、アニメでも見慣れた手法だ。

 

これがテレビの芝居だったら、カメラが寄って役者は顔の表情で表現すればいいけど、

歌舞伎だとそれじゃ客席の後ろの人が良く見えないわけで。

派手な衣装、大げさな隈取メイクや独特の語り口調も、遠くからの鑑賞に耐えるための工夫で、

芝居小屋という空間に最適化して進化していった表現なんだろう。

 

いやむしろ着膨れた衣装や過剰な化粧こそが主役であり、

中の人はそれを最大限に活かすための黒子(くろこ)に徹するみたいな美学があって、

それはとても日本人的な発想だなと思った。

 

道具が主役というか、人が道具に沿って技を磨く、という発想は、

例えば日本刀だ。

日本刀は美しく切れ味は鋭いが、横からの力に弱く、折れやすい。

そこで刀を頑丈にしようとは思わず、

人が正しく構え、正しく振る技を身につけることを善しとする。

そのために毎日でも何年でも修行をする。

非合理的な発想といえばその通り。

 

歌舞伎の体の動かし方も、まず衣装ありきだなって思ったんだよ。

ただ立つときも腕を左右に開いてるのは、袖の柄までよく見せ、着物の形を美しく見せるためみたいだし。

 

これがバレエだったら、バレリーナの肉体美を最大限強調してるところで、

歌舞伎は主体が人間の肉体じゃなくて衣裳の美なんだなって。

もし衣裳ナシで歌舞伎の所作を見たら、なんでそういう動きになるのか意味不明だろう。

 

日本刀てか、単に着物の話でもそうか。

着物ってのは、基本的に反物一枚を直線だけで切り分けて作る。

「着物 裁ち方」とかでググればわかるけど、一枚の布をまったく無駄なく使って作る。

その代わり着てみれば、あちこち窮屈というか、着物に合った所作が要求される。

 

歌舞伎で花道を退場するときのアレ、右手右足を同時に動かす六方の動作とか多分そう。

胴をねじって大きく動いたら、着付けがズレるからああいう所作を生み出したのでは。

 

40秒くらいが分かり易いかな。胴、帯の位置が動かない、ナンバ的な体術だ。

 

洋服は、思った通りに動ける。

その代わり布は人体に合わせて様々な曲線で裁断されるので、再利用できない形の端材が多く出る。

 

服でも刀でも一事が万事っていうか、モノとヒトのどっちが主でどっちが従なのか。

日本ではモノの都合、道具の都合のほうに人が合わせていく、そのために様々な作法を編み出していくっていう精神性がある。

 

己を虚しくし、優れた道具と一体になる道を極める。

その技が確かなら、16歳の少女という型に、四十代の男性が入ることもできる。

 

摩訶不思議、東洋の神秘。

 

・・・いやごめん、頑張って擁護したけど正直言っていい?

テレビのアップで見ると、やっぱちょっと無理めな感じはしたかも・・・。お肌の張り的に・・・。

そこはクシャナのほうがセーフだったわ。

まあそもそもナウシカの尾形菊之助ありきの企画だったので、そこはね。

 

配役に関しては、クシャナ、ミト爺、道化とか、いかにもって感じで良かった。

 

もう一人の主人公であるクシャナの、骨肉の争いのスキャンダラスは古典にもよくあるモチーフで、歌舞伎役者の本領発揮って感じだった。

兄達に嵌められたと思っていたけど、自分を亡きものにしようとした主犯は父だったと知ったときの感情の動き、

親兄弟と殺し合う覚悟を決めた矢先、兄の一人があっさり死んで虚脱して、

争い自体が虚しくなって、ナウシカのところへ駆けつけると、

そこでは父王が死にかけていて、まあ和解っていうか、王位を譲渡されるという流れ。

 

その辺は間違いないクオリティだった。

 

蟲使いとか道化とか、滑稽とか狂言回しのキャラも歌舞伎のなかに蓄積があったっぽくて見応えあった。

道化は原作よりだいぶ扱いが良かったんじゃね。

 

ヴ王のビジュアルが随分美化というか、いわゆる殿とか武将的になっていたのは、

どっちかっていうと原作の醜さのほうが色々拗らせてる結果なのでオーライで。

庭の主を角髷の平安風にしたのも意外にアリだった。

 

そしてアスベルと巨神兵、皇弟ミラルパと皇兄ナムリスが兼ね役だったのが自分的にはニヤリとした。

確かにそのキャラは同じものの裏表だ。同じ人物が演じて相応しい。

 

キャラクターの解釈に関してはさすがにプロだったな。

 

ただ王蟲とかヘビケラとか腐海とか、テトやカイに獣達、メーヴェガンシップ、人以外のものの描写は、いかに宮崎駿が図抜けた天才かってことを再確認することになったという・・・。

 

 

まあ、歌舞伎って根っこがエンターテイメントなんだよな。サブカルと相性がいいのもそういうとこだ。

既知のストーリーで気楽に演出を楽しむのがいい。

テーマを深めるというか、高度な精神性を求めるなら、能のほうがいいんだろう。

 能とか歌舞伎よりもっと途中で寝たことしかないけどw

 

www.kabuki-bito.jp

何度も言うけど衣裳は良かったので、画像のある記事のリンクを。

ミラルパの幽鬼バージョンとか、タタリガミみたいな駿チックな模様がマジ原作リスペクト。

 

 

 

 そういえば、いつかこの歌舞伎の制作秘話的ドキュメンタリーを見たんだけど。

ナウシカの尾形菊之助がカツラについて試行錯誤してて、

姫風とか町娘風とか、原作通りの短髪かとか。

で、結局歌舞伎の常設にはない明るめの栗色にしたところ、それらしくなったと。

 

 うん、そらそーだろうね。やっぱちゃんと見るとそうなるよねって思った。

 

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