今ごろアナ雪2を観に行って、しかも思いのほか感動したので、ちょっと書いとく。
ネタバレは全部盛りなのでご注意ください。
これはアナ雪無印よりも良かったんじゃないかと、個人的には思う。
っていうか、今までのディズニーにはない新しいストーリーだったんじゃないか?
アナ雪無印では、隣国の王子が裏切り者、王子がエネミーでヴィランという、
今まで積み重ねてきた伝統、王子様とお姫様は結ばれて幸せに暮らしました、めでたしめでたし、
というお約束の図式を破壊する、一回限りの型破り、掟破りの衝撃のカタルシスだった。
まどマギ三話で魔法少女の首が落ちるような衝撃展開が見どころだったわけだが、
今回はもう、エネミーとかヴィランにあたる人物がいない。
敵を倒す、ボスキャラをぶっとばしてメデタシという文脈ではなかった。
日本のアニメ映画でなら、ハウルでも天気の子でもそれなりに見慣れた展開だけど、
アメリカのアニメがこれをやってくるとは思わなかった。
みくびっていた手の平をクルーして謝り、素直に称賛したい。
ヤンキーが内省と融和の優れた物語を発信してきたとは、アメージング!
さて、どこから書こう?
そういえば、以前シンデレラの記事を書いたとき、
姉エルサにだけ強力な魔法の力があって、
妹アナには異性のパートナーがいる、という構図は、
お妃さまが魔女で、白雪姫と王子。
マレフィセントが魔女で、眠り姫と王子。
トレメイン夫人が魔女で、シンデレラと王子。
そういうディズニーの伝統的なテーマ、嫁姑の争い、お局が若い娘をイビる構図に則っていると書いた。
アナ雪2で、エルサが夜眠るときも化粧をとらないのを見て、
このキャラはすっぴんになるわけにいかないのか?と思った。
目がでっかいので、閉じたまぶたが黒いとまるでパンダみたいで変な感じがしたけど、
まあこれは、化粧も込みでキャラクターが成立してるってことだろうと思った。
で、エルサの目元の化粧の濃さ、キービジュアルの眉をしかめて片頬で笑う、意地悪っぽい表情は、
歴代の年嵩の女たちと共通の印象であることが、並べてみると判りやすい。
この斜にかまえた表情は、エルサのちょっと気弱というか、
コンプレックス強めで、人を傷つけることを恐れて引きこもり、
すぐ「ごめんなさい私のせいなの」とか言う、不満を溜めこむ内向的な性格からすると、
あまりエルサらしい表情とは言えないはずなんだけど。
わざわざこの表情をチョイスするのは、ディズニーの魔女達の流れをくむキャラであることを示してるんじゃないかと。
アナは髪といいメイクといい、ナチュラルで素朴な印象だ。似ていない姉妹。
そんなエルサが、妹アナと絆をとりもどすというのは、
これまでのディズニーの定型、女達の確執の物語を、許して昇華する物語になっていると思う。
で、無印では女達の和解がテーマで、
アナ雪2では、その姉と妹の和解に、自然と人の和解、先住民と入植者の和解、というテーマをオーバーラップさせてきたというか。
これが実に良く出来ていたと思う。
先住民と入植者の混血児が懸け橋になる、というのは多民族国家ならではの説得力があってよかった。
ま、そこらへんは他にも詳しいブログが色々あったから後でリンク貼っておく。
自分が最も興味深く見るのは、エルサを呼んだ声、エルサが行ったところ、水の馬、
そういうものが一体なんのメタファーだったのか、みたいなところだ。
先住民の地には、地水火風の四大精霊と、人と精霊の懸け橋になる第五の精霊がいるという設定で、
その第五の精霊は、「エルサだったのね」と最後にアナには解る。
第五の精霊=エルサということを念頭におけば、
そもそも、入植者の王子を救った先住民の娘、その時に娘が精霊に助けを求めたようにも見えるね。
戦と霧の混乱のなかから、娘が独力で王子を助けるのは無理そうだし。
精霊の加護があってこそ、二人は王国へと逃げのびて王と王妃になった。
そして代償に王妃は精霊の母胎になることになった、と。
人と精霊の環、自然のバランスが崩れたとき、それを取り持つのが第五の精霊の役割だったとして、
争う二つの民族の、両方の血をひく娘に生まれて、その争いを治めようとしたわけだ。
エルサの魔法はそのために授かった力なんだと、アナも言っていた。
ということは、エルサにだけ聞こえていたアアーアア♪ という呼び声は、
彼女自身の無意識の啓示、心の声的なものだったことになる。エルサ以外には聞こえないのも当然だ。
第五の精霊は、ダムで水が堰き止められて、精霊や自然の循環が滞ってしまったことも、
人間達が争いをやめないと解決にならないことも、滞った水が一気に流れ出たら王都が沈むことも、
全部最初から知っていた。
だから人間の娘に転生した。
やるべきこと、大きな使命とそのための力をもって生まれた。
でも、人間に生まれると、生まれる前のことを覚えてはいられない。
それで、幼い時は力を制御できなかったり、疎外感を感じてしまったりする。
その自責や孤独を、ありのままでいい、良い子はやめるの、と開き直って、認められたのが無印で、
そこから更に先に進んで、使命を思い出し、やり遂げるのがアナ雪2だ。
他者から拘束を受けない消極的自由、解き放たれるfleeが前作で、
自己自身に対して自己実現を課す積極的自由、引き受けていけるlibertyが今作だ。
もし第五の精霊が、それっぽいキャラクターとして登場したら台無しになるところだった。
上位者に従い指導や庇護を求めるような段階を過ぎることが、精神的自立であり、
そうなれば、生き方の指針は自らの内に見い出す段階になる。
自分以上の自分、すべてを知る魂の呼び声に従って向かう先は、どこか?
ダークシー(闇の海)の先、アートハラン、という名称が登場する。
雪だるまのオラフが「アートハレン?」と一度間違えて訂正されるけど、その名称に印象づけるべきなにかがあるのかな?
アート art ハラン hran ハレン hren
heart ハート、心、に近い音でつくられた名詞なんじゃないかと思った。nが余分だけど。
魔法の源、なぜか知っている懐かしいところ、魂の故郷、すべての記憶の潜む大河、そういうもの。
それはつまり、
自分自身の、未知なる心への旅だったんじゃないかと思えてならない。
だから、そういうところへは、ひとりでしか行けないんだよなあ。
異界、非物質の世界、精神の世界は、古今東西で水や音の世界として描写される。(ソースはリンクしておく)
霧・水滴に包まれた魔法の森やダークシーを、ステュクスや三途の川と見做し、
アートハランを黄泉、死者の世界と解釈できないこともない、
水に浮かぶ氷河の大地、巨大な氷壁の下部にあいた小さな洞穴へ入っていくのは、
沖縄の磐座、斎場御嶽(せーふぁーうたき)のようなイメージだと思った。
大地母神の胎、産道というトンネルをくぐるような、千引の岩のような、
巨大な自然物に空いた小さな穴、というのは神域の境のメタファーだ。
穴の向こうは彼岸であり、
斎場御嶽も、この穴をくぐった先は海と聖地の島が見える。
別にアナ雪2のネタ元が沖縄だと言ってるんじゃなくて、
人間存在が普遍的に、どういうロケーションを聖域への境界と感じるかっていう話だ。
きっと西洋にもそういう場所がいくつもあると思う。
しかし、エルサが進んだ氷の洞穴の先には、
死んだ両親も祖父も、呼び声の主の神霊のような存在もいないんだなー。
てことは、そこは死者や神々の世界ではない。
歌いながら洞穴をどんどんと下っていって、氷の柱を階段にして降りていって、
そこにあったのは、記憶、過去の真実だ。
エルサ自身の過去の記憶、そして彼女の知りようもない祖父達の過去、精霊の視点の記憶。
アカシックレコードだとするなら、それは法の層ってやつだが。
更に穴が開き、そこを下る。
戦の記憶の再現が始まって、エルサは凍ってしまう。
ネガティブな情報の量に耐えられなくなるんだろうね、人の心は恐怖に弱い。そういう危険がある。
アナが後を引き継いで為すべきことを為してくれると、
底が抜けて、エルサは落ちる。
そして水の奔流とともに霧の森を抜け、運河を抜けて、現世へ還ってくるわけだが。
このストーリーの流れ、めっちゃハウルの動く城で見たのと同じメタファーなんだよな~。
底へ底へと降りていき、そこで問題の核になっている出来事を見る。
谷底からドアと闇をくぐったソフィは、泥に足をとられながら過去を見て、そして黒い穴が空いて、落ちるんだ。
どこまでも下へ。記憶より、集合的無意識より深く、自我の枠、心の底すら抜いて、最下層へ、そういうメタファー。
そこにあるのもまた、無限とか空とか、根源、混沌、0、そういうものなんだよな。
When all is lost. Then all is found.
すべてを失ったとき、すべてが見つかる。
という歌詞があるけど、これはとても優れた詩だ。
このブログでいつも言いたい0の感覚は、これだ。
すべてを手放したとき、すべてを得ることができる。
アートハランから戻ってきたエルサは、色白さと透明感に拍車がかかってるというか、
人間離れして神々しい、もはや精霊の姿として描写されているように思う。
魂の旅を経て本来の姿に戻り、人間の国の女王はアナに譲位することになる。
人間のアナは、人間の異性と結婚してめでたしだが、
精霊のエルサには、新しい相棒が登場した。
水の精霊、水の馬、ケルピーだ。
水でできた人馬一体の美しさは劇場で観る価値があった。
まあ、火の精霊や風の精霊とも仲良しみたいだけど。
あ、地の精霊、アースジャイアントだけ氷魔法のゴリ押しでいけないのは、
土剋水で、土は水を剋するものだからかなーと思った。
ダムもそうだ。土で水を堰き止める。
陰陽五行なら、ダム破壊には木性のなにかが相応しいんだけど。
四大精霊には相生相克の思想がないから、土には土を、という発想だった。
脱線した。
水の馬には、格闘の末、氷の手綱をつけたんだよ。
それはとても面白い比喩だと思う。
馬、というのは、外に駆けていくもの、乗り物、荷や人を運べる大きな力、その象徴だ。
遊牧民は、一人前の証に自分専用の馬を選び、世話するようになる。
馬という大きな力を御することは、成人のイニシエーションでもある。
人は結婚して一人前、みたいなことを言うけど、それと似ている。
中盤では、氷の魔法ではダークシーを渡れない。
荒れ狂う水の圧倒的な質量を、凍らせて押さえつけることができないんだけど。
水の馬を御することができるようになった後、人馬一体で現世に戻ってきたエルサには、
王都を飲み込もうとするダムいっぱい分の質量の水を、氷魔法でガードすることができる。
パワーアップしてるんだよな。
無印でコンプレックスを認め、周囲の求める良い子であることから自立して、
2で、生まれる前に決めていた使命を思い出す旅に出て、
未知なる大河のような心の底でそれを見つけて。
完全性を取り戻し、本来の姿に戻ったことで、より大きな力を正しく使う主になることができた。
これは、とても素晴らしい物語だと思う。
人が、魂が、どう成長していくかっていう物語になっている。
いやー、アメリカ、ディズニーがこんなのつくってくる時代なんだねえ・・・。
先住民が侵略者を追っ払ってハッピーエンドだったアバターから隔世の感があるわ。
前作と2を比べて、前作の方が良かったという評価もあるけど、
自分的には、エルサがアートハランで、レリゴー歌ってる過去の自分を見て、
それは恥ずかしいから蒸し返さないで、みたいな表情をしたところがツボだったw
全世界でヒットしたあれを黒歴史と思っているとはねwww
未熟さを恥じるほど、今作で成熟を描けてる自負、
前作を越えた物語になっている自信が制作者達にあるんだろうなと思った。
When all is lost. Then all is found.
すべてを失ったとき、すべてが見つかる。
これはほんとに素晴らしい歌だ。
All is found は、優しさに包まれたなら、とかいつも何度でも、並みの自分的殿堂入りソングに認定。民族調子守唄っていうのも好みだ。
瞑想の導入に良さそう。
アナ雪2の記事、ナガの映画の果てまで
https://www.club-typhoon.com/archives/2019/11/22/frozen2-film.html
この記事で観に行く気になった、感謝。
アナ雪2の記事、westergaard 作品分析
https://ikyosuke.hatenablog.com/entry/2019/11/27/041804
異界は水の世界、M山的グリム考察サイト
https://grimm.genzosky.com/?p=25#more-25
ああ後、天気の子を引き合いに出したのは、都市水没のピンチっていうのが似てたからだ。
天気の子は水没してもなんだかんだ大丈夫というエンドで、
アナ雪2ではエルサの魔法ガードで王都は守られる。
ポニョも水没からの新世界だったなぁ。
都市が水に沈むというのは、
人の暮らすところが水の世界、異界と化すということだろうか。
精神的な、霊的な価値観が益々台頭してくる、とかそんな時代を予感しているのかもしれない。