こんな夢を見た。
このあたりで一番大きいショッピングモールに買い物に行こうと思って、
メタリックブルーの愛車で高架の道路に乗り入れる。
通り慣れた高架道路のはずが、どんどん複雑に巨大になり、
首都高速でもあり得ないような巨大建造物になっていく。
重苦しい灰色の道路が上にも下にも入り組んで、
車が連なって流れていくのが小さく見える。
いくら車を走らせても、いっこうに目的地に近づいていないのがわかった。
「これは今日はダメだな、帰ろう。」と思う。
バカげた巨大建築の中には薄暗い立体駐車場があって、そこに車を停める。
明日、車をとりに来ないといけない。
階段を下りて、高架の下にある道を歩きはじめる。
そこは舗装された道だったのだが、進むほどにだんだん荒れてくる。
砂利道になり、雑草が膝の高さまで茂ってきた。
マダニがいたら嫌だな、と思う。
昔仲良くしていた猫が、ああいう茂みで嫌らしい血豆のような虫をくっつけてきていたものだ。藪漕ぎは避けたい。
同じ道を歩いていた誰かが、この先の道というか地理を教えてくれた。
高架を挟んで、南は宅地。整備されていて歩きやすい。
北は山と農地が広がっている。
家は北にあるのだが、途中まで宅地を歩く方がいいという。
それで助言通り、東西に走る高架から左へ曲がり、宅地へ入った。
碁盤目状に区画分けされて、確かに歩きやすい。
どの家も小ぎれいで新しそうに見えた。新興住宅地だろうか。
整然として生活感のない道を行きながら、少しづつ日が傾いてくる。
用水路に突き当たったところで、渡れるところを探すのが面倒になった。
「いいや、私道や農道を突っきって早く帰ろう」
また高架の下を潜り、農地へ出る。
まだ青い稲のなかに埋もれるようにもぞもぞ進む。
一度振り返ると、存外に高架は遠ざかっていた。
車は降りたし、舗装路でもないのに、ずいぶん早く進めるなあ、と
気がついたらその力はもう、自分のものだった。
田と田の間の細い畔や、石垣の上、水路の縁、
それどころか稲の上までびゅんびゅんと飛ぶように走ることができる。
夕暮れの金色のなか、稲は不思議と染まらずに翡翠のように柔らかく明るく、
かなりの速さがでているのに、葉の一本一本までよく見えた。なんてきれいな道。
疲れも息切れもなく、想っただけ力が出てどこまでも進んでいける。
その歓びは何にも代えがたく爽快だった。
風になっている心地とはああいうものだろうか。
まっすぐに家に向かっていると、宵闇の中にぽつんと四角い人工の灯りがある。
田舎に時々ある自販機小屋だ。
飲料のほか、軽食や煙草、エロ本などの自販機をトタンの安っぽい屋根で覆っている。
いい気分なのに、進路に目障りなものがあるなと、その屋根をわざと踏みつけて飛び越してやるが、
身体がずいぶん軽かったようで、ペコンと軽薄な感触が足に伝わっただけだった。
ほどなく山裾の我が家に着く。空には残照があるが、山はもう黒々とそびえている。
家に入ると、暗い廊下の奥で何かがちらちらと光っている。
手に取ってみると置時計だった。
フレームに小鳥や花があしらわれてかわいらしい。祖母の趣味だろうか?
ライトをつけっぱなしにしてしょうがないな、と裏のスイッチを手探りして消す。
違うスイッチにも触ってしまったのか、
ピヨ、と小鳥の鳴き声がした。
時計を置き、
体がいつもの家の間取りを覚えているままに、自室のドアを開ける。
すると、夢の底が抜けて、目が覚めたのだ。
・・・・、いや、当方はアニメ漫画等の解釈ブログなのだが、
元スレッドではもっといい加減に思いつくままに話を広げている。
夢が得意な人がいて、そんな話題にもなる。
それと最近、こういう興味深いブログを紹介された。
あと平積みにされていた夏目漱石の夢十夜の文庫を、装丁に釣られて買ったのだった。
で、まあ、それらに分かりやすく影響を受けて書いてみたというわけw
さて、
夢の話というのはとりとめのないものだが、
象徴、解釈、心理学、その辺の心得があれば、まるで違うものが見えてくるだろう。
夢も物語と同じ要領で解釈できる、と自分は思っている。
夢、というのは無意識からのメッセージ。
個の顕在意識から集合的無意識へ繋がっていくものでもある。
この夢には、どんな意味を見出せばいいのだろうか?
まず、風景というか地理のイメージがはっきりしている。
ちょっと図を描いてみたが俯瞰だとこんな感じだ。
これは割とそのまま自分が育った地方のイメージではある。
北に山があって、ずっと農地が続く田舎で、
東西にバイパスが通って、その先にイオンモールがある。
が、象徴的に解釈しても、これは符号するものの多い地形だ。
風水とか陰陽道でいうと、北に山岳、南に湖沼、東に大きな道、西に河川があるのが四神相応の地。
風水という、世界が運行する法則の縮図の地であり、世界そのものの類似形、相似形の都市を築けば、永くその恩恵を受けられるとして、
京都はこの通りの地を選んで遷都されたという。一種の類感呪術だな。
田と宅地で碁盤目状になっていたのも京都っぽいw
陰陽でいうと、北は陰、南は陽だ。
山や農地、自然の土地と、
宅地、人為の土地が、高架の道路を挟んで対比になっている。
無意識と顕在意識も陰陽の対比でみることができる。
陰方向へ、北へ、自然へ、山へ、家へ向かうというのは、無意識や集合的無意識、密なるものの底へ深く潜っていこうとしているってことだ。
北の果ての全ての記憶が眠る川、アートハランに向かうエルサみたいなことかな。
この夢では、その途中に三度ほど顕なるもの、陽なるものがハードルとして現れる。
最初は郊外型ショッピングモール。
東、太陽の出る方角に、あらゆるものの手に入る文明の集積地。
夢が得意な人に言わせると「既製品を売るところ」という解釈だった。
確かに。
かつて自分の人生は、既製品を求めて敷かれたレールの上を走っていた。
要領だけで勉強して、そこそこの進学校に通い、ちょっと良さげな大学を出て、
後は就職して結婚して子ども設けて家建てて、みたいなステレオタイプの通りだろうかと思っていた。
が、それはあえなく躓いた。病んで仕事を辞めたし、いい加減いい歳だが結婚もしてない。
既製品の人生は、もはや手の届かぬものとなった。
ショッピングモールに辿りつけなさそうっていうのは、そういうことだw
農地を進むとき、次は自販機小屋が現れる。
これも既製品を売るところだ。モールからはずいぶんスケールダウンしているが、
道の先にある、人工の灯の集合という点でも相似になっている。
これを踏んでやろう、というのは手に入らなかったものを貶めようという、「酸っぱいブドウ」みたいな認知の歪みだ。
まあ・・・、結婚は情弱!人生の墓場!とか言いたくなるのが持たざる者の哀れさですわwww
ここをクリアするところからは実際の夢でなく創作なのだが、
三度目は、廊下の奥に光る置き時計だ。
モールより自販機より更に小さい、人工の灯。
人工物だが、小鳥や花という意匠は自然に近づいてはいる。
祖母の家には、時々マイセンの置物があった、
幼いころ、騒がしくて散らかった自宅より、古くて広くて行き届いた祖母の家が好きだったっけ。
それで、その灯りを消す、というのは、
どうも、世界と世界の境界の最後のトンネルに赴くとき、
灯りを持つのは宜しくないようなので、そのようにした。
例というか、
マッチ売りの少女は祖母の幻を見て召される。
イザナギは櫛に火を灯して怪物になった妻を見る。
落語の死神、あるいはグリムの死神の名付け親、
赤い蝋燭と人魚、小泉八雲の貉・・・。
こないだ再放送で見た、世にも奇妙な物語「ソロキャンプ」
なんか、暗闇で小さな火を灯すと、
人はあまり良くない幻覚を見る、みたいな話が多くない?
大概バッドエンドというか。
丁火(マッチ・蝋燭・焚火のような火)は古今東西で死亡フラグというか。
そう思って宮崎駿作品で見ても、
ハウルの動く城で、
ソフィが蝋燭を持って、ハウルの部屋の暗いトンネルを進むと、怪物になったハウルを見て、アプローチにも失敗する。
二度目のチャレンジで、壊れた城のドアの向こうの暗闇へ赴くときは照明の灯りをもっていない。(指輪の光はあくまで羅針とする)
ポニョにも蝋燭が出てくるけど、オモチャの船の動力として使う。
替えの蝋燭も貰うけど、それに火をつけずにポニョは眠る。
船で、海上と水没した森を抜けた後、人→両性類→お魚と反復説を逆回しにする胎内回帰のトンネル、暗闇のポータルは何も持たないで通るのだ。
宮崎駿も、なんか蝋燭という象徴の扱いに、古典に共通のルールを適用してる気がしてくる。
しかし、なぜ小さな火を灯すことが死亡フラグになるのだろうか。
ラ・トゥールの絵を見ると、蝋燭の火があることで、かえって闇の深さがひきたつようだ。
実際、辺りが真っ暗なとき、人体は瞳孔を開いてわずかな光を集めようとする。闇に目が慣れる、ということがある。
しかしそこで小さな灯りをつけると、瞳孔が絞れなくなる。
辺りを照らすには満たない、かえって闇を深くする火、
目眩まし、目暗増しの火、ということがある。
その闇の中に見る怪物は、多分どんなものより恐ろしい、己の内にある恐怖の投影ってことになるんだろう。
マッチ売りの少女のように願望の投影を見ることもあろうが、結末の不幸さからして、やはり幻覚に心を奪われるべきではないのだろう。
火は陽。人為は陽。
陰の方向へ、闇の方向へ、水底より深く落ちて、世界の殻を突破しようとするなら、
反属性のもので身を守ろうとせず、ただただ闇と一体化してその恩恵を受けとるほうがいいのかもしれない。
この夢に出てくるのは、水や海でなくて山だが。
女性性、太母ということならどちらも象徴的に近似だ。
海も母、山の神も女、大地は母神。
山裾の家に入り廊下を進むということは、大地母神への胎内回帰でもあるので、祖母という連想を入れておいた。母を産んだ母、辿れば人類の原初の母へと繋がっていく。
そして陰陽、北南、灯と山、文明と自然、男性性と女性性、
と対比がくれば白と黒、昼と夜もそうだ。
北へ向かうほどに日が暮れ、文明や顕なる意識は鳴りを潜めていく、
山は真っ黒にそびえて現れる。
ちなみにイザナギは火をつけたことで嫁奪還ミッションに失敗するが、
竪琴を持ったオルフェウスは嫁に会うところまではうまくいく。
その次の段取りで、振り返ってはいけないというルールを守れないのだが。
しかし、竪琴、音のでるもの。
ソナーは灯よりもマジックアイテムとしてアリなのかもしれない。
と、思ったので置時計は鳴き声がする仕様とした。
人は、生まれる前から耳は聞こえていて、
死ぬ時も耳は最後まで聞こえている、という話がある。
現世は太陽の世界で、人の情報入力の七割は視覚によるというが、
生の前、死の後の世界、異界は水の世界で、音の世界だ。
聴覚を使うなら、耳を澄ますなら、闇の中でも惑うことはない。
生まれてくる時、死んでいく時のように、何も持たずに、
胎道のような、三途の川のような境界の象徴を通る。ドアでもいい。
手探りでドアを開ける。
すると、夢の底が抜ける。世界の端っこまで行って境界を越える。
無限そのものへ至り、そこから今までいた有限の世界を眺める。
夢幻泡影、この世界は夢、幻、幻燈機。
観測する無数の意識が細い光となって差し込み、映し出されるホログラムのようだ。
すべては虚しき仮の宿であり、ゆえにすべては愛しい我が宿だった、と解る。
すると目覚めた人、覚者(ブッダ)と呼ばれることが、あるのだろう。
「夢の底を抜いて、目を覚ませ。」
と、いつでも、誰にでも、心の静寂に耳をすませば、そう語りかけるものがある。
本文よりの解釈の方が長ったらしいマッチポンプになったけどw
まあ、いつもどこかでそんなことを考えながら物語を鑑賞し、
その知見を盛り込みつつ自分で物語を創作してみるのも面白かった。
ところで、ロウソクや灯火でものごとが好転する物語に心当たりがあれば、どうぞどなたでも教えて頂けますようお願い申し上げます。
このテーマはまだ追求していきたいなと。
クリスマスキャロルがちょっとそういう話な気もしてる。
名前考え中さん、慈雨さん、漱石先生ありがとうございました。
こんな夢を見た、という出だしはこれのパクリ オマージュだ。
近藤ようこの絵、漫画、けっこう好きで一時期ハマってたけど、どれがどの話だったかな・・・。妖しさと上品と素朴のちょうどいいバランス。
待って、朗読CDつきのやつ、宮野真守てww
こないだ見た焼きそばタイムリープ思い出してわろてまうやろww
長回しSFドラマ『U.F.O.たべタイムリープ』 |日清焼そばU.F.O.
映像作品のユメ十夜も見たことある。それぞれに趣向があって、小劇場的で面白かった。
第七夜は天野喜孝の絵のCGアニメ。