ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

聲の形を解釈する。父性の機能不全。

映画『聲の形』DVD

 

哀悼。

 

金曜ロードショーで見たのでちょっと感想の覚書。

 

キャラクターの描写だけでここまで仕上げてくるクオリティには感心した。

モヤモヤイライラハラハラしつつ、最後まで見ることができた。

 

自分はファンタジーやオカルトやSFが好みなので、

こういう青春群像劇みたいなものは得手でなく、

京アニ作品も色々つまんではみたものの、最後まで視聴できたのはミステリ仕立ての氷菓だけだった。

氷菓は好きすぎてDVD持ってるけど。

 

聲の形の原作漫画も、読み切り版が話題だったとき読んで、

一巻試し読みくらいはしたが、それもギブアップ。

同作者の不滅のあなたへも4巻の先を買ってない。

マルドゥックスクランブルは、冲方丁の原作が好き。

 

聲の形原作では、人間の心の醜さの描写が、あるある過ぎてウマ過ぎてエグ過ぎて、とても見ちゃいられなかったが、

映画では不快な部分をうまく回想などにまとめつつ、心情の成り行きとしても過不足ない、見やすい構成だったと思う。

映画なんだから、90分だけ耐えればオチまで辿り着くという見通しがあったのが良かった。24話あったら挫折してた。

 

ネットの感想を流し見すると、

「いじめられていたヒロインが、なぜいじめっ子を好きになるのか理解不能」とあったけど、

まあ、確かにあれが自分の話だったら例え土下座されても引くだけで、絶対許さない自信はあるww

 

でも、この作品はキャラクター造形のクオリティ、心情の描写だけで物語を転がしてるようなもの。

見れば見るほど、色々と読み取れる材料はある。

 

いじめっ子の主人公の家庭環境をみると、

職場兼自宅の美容室を経営する母親、

姉、姉の娘。姉の夫はブラジル人でほぼ不在。父親もいない。

 

・・・圧倒的に女が強い家系ですよこれは。

 

こういう環境で育つ弟キャラは、女の機微を読んで立ち回るのがすごく巧くなる、いや、ならざるを得ないwww生死に関わるwww

カーチャンは優しい人だけど、

あの距離感の家で5、6歳も年の離れた姉というのはな~、弟なんぞ奴隷かオモチャ扱いの予感。

女というイキモノは理不尽で機嫌を損ねるとひたすら面倒だと骨身に沁みついてそう。

姉が不自然なほど登場しないので、逆に勘ぐりの余地がww

折木奉太郎と姉の関係性で脳内再生しちゃう。

 

で、まあ。

主人公は粗野でもあるけど、女性の機嫌や周囲の空気を読んでもいる。

 

隣の席の女の子に、黒髪ロングの気の強い美少女、スクールカーストのクイーンがいる。

彼女が転校生に不満を感じてるとか、

男の担任教師にイチャモンつけられてイラっとする、

主人公はそういう雰囲気の悪化を敏感に察知して、茶化して場を和ませる。

先回りしてクイーンの居心地よい環境作りに励む。

 

まあ、その茶化し方が、耳の聞こえない転校生のモノマネっていうのがな・・・。

そのウケた空気が、転校生イジリをエンターテイメントとして肯定し、

だんだんいじめにエスカレートしていってしまうんだけど。

 

主人公があの顔で女性にモテているのは、

家庭環境による性格形成にあると思う。

ノート、パン、傘や靴、ポーチ、相手が喜ぶちょっとしたものに、よく気がつく実にマメな男なのだ。

 

人の気持ちに聡い人に惹かれるのは、コミュニケーションに難を抱える女の子として無理もないことだと思う。

 

っていうか、

自分の上位に君臨する女性の望むままに振る舞い、彼女達に逆らえない。

という言い方をしてみれば、

主人公とヒロインは同じ問題を抱えてて、シンパシーを感じる余地がある。

同病相憐れむ。互いの人知れぬ苦悩や奮闘を感じ、励みにすることができる。

 

ヒロイン、難聴の転校生の少女には、表情が固くてヤバげな母親がいる。

 

自分の子をいじめられたからって、ピアスを耳ごと引きちぎる、ビンタする。

他人に暴力を振るう親が、自分の子供に手をあげてないわけないと思うんだよなあ。暴力へのリミッターが甘い人だ。

かと思えば、自分の子が他人を傷つけたら、病院のロビーで号泣からの土下座。

この母はヤバイ。キてる。危うい。

公衆の面前での土下座とかさ・・・。

された方は堪んないよね。目立つし、恥ずかしいし、こっちが悪者みたいだし、場を収めるために、許しますからと言うしかなくなる。

頭を下げつつ、相手の選択肢を奪う。謝罪にみえて実のところ脅迫だよな。

 

まあ、なんの事情か母子家庭で、上の娘は難聴、下の娘は俺女不登校となれば、

子育てのうまくいかなさに追い詰められる気持ちも想像はつかんでもない。

「ちゃんとしなくては」とか「ちゃんとできるはず」みたいな、こうあるべきだという正しさにガッチガチに縛られてるんだと思う。

正しさを振りかざして他者を攻撃し、

自分が正しくなかった時は、返す刀で過剰に自分を責めてみせる。

カワイソぶって結局は自分の要求を呑ませようとする。

 

こういう抑圧のなかで育てられると、子どもはどうしようもなく、病む。

母の望むイイ子でいなくては、母がマジでなにをするかわからないのだ。

自分が殺されるかもしれないし、母が誰かを殺すかもしれないし、母が死ぬかもしれない、そのくらいの恐怖と緊張を常に強いられる。家庭に安心感がない。

 

子どもというのは、幼いうちは庇護者である親を憎まない。どんな親でも愛し愛されようとする。同化しようとする。それが子供の生存本能なんだよな。

だから、イイ子でいられないのは、自分が悪いんだと責めるメンタリティを形成し、それは人格の基本に深く根差すものになる。

 

主人公とヒロインは、よく似た問題を抱え、あれもそれもこれも自分が悪いんだと責め苛み、二人とも自殺するまでに自分を追い詰めてしまう。

 

笑おうとして口の端が緊張した作り笑顔を浮かべてしまい、

察し力高めの主人公にさえ何考えてんのかわかんないと言われてしまうヒロインの内面は、そんな感じだろうか?

母の望むとおりの顔、どんな時もありがとうとごめんなさいの、鉄壁の良い子の仮面だ。

まあ敢えてそこの描写はない構成なので、想像するしかないんだけど。

 

いやでもさ、中学校でもいじめられてた主人公と違って、

ヒロインのいじめは五ヶ月で終わった。

再会した元同級生たちとの関係が壊れても、死ぬまでのダメージではない気がするんだよな。

手話教室とか自分の学校のコミュニティだってあるわけで。

だから、それは切っ掛けで、

本当のところでヒロインを追い詰めていたものは、積もり積もった家庭の歪さのほうじゃないのかな・・・。

 

家族を愛してる人は、自宅マンションのベランダから自殺はしないと思うんだよねえ。

 

家族がそこに住めなくなっちゃうもの。せめて屋上に行く。

ヒロインが自宅で自殺を決行したのは、母親への当てつけと憎しみもあったのではなかろうか。

妹もグロ写真を家中に貼るのはやり過ぎだよ。自殺抑止じゃなくて脅迫になってるのは、あの母にしてあの娘ありだよ…。

姉を慕ってるのはかわいいんだけど、ベッタリ依存気味でウザいっちゃウザそうな。

 

言うことができなかった己の苦しみを思い知らせたいというのは、自殺者志願者あるあるだ。

ずっと嫌だった、ずっと苦しかった、お前達のせいだ!と訴える、最後に残された自己表現の手段なんだよな。それはよく知ってる。

 

 で、そこに主人公が来て助けてくれて、それは良かった。

そこが物語のクライマックスだったな。そのころには感情移入できてて、めっちゃ主人公に「うおお!早く早く!」って手に汗握ってたわ。

 

なんとか自殺は思いとどまって、

皆どこかしらダメなところを晒し合ったところで、

皆でもう一度やりなおせばいいんだよっていう雰囲気で映画は終わって、

 

それはそれで、納得できるラストだったと思うけど。

 

これほんとは、問題の根本を解決しようと思ったら、

父性の欠如をなんとかしないといけないんじゃないかな・・・。

 

母親、クイーン・ビー、

タロットの女帝のような象徴としての母性や女性性、

その独裁と暴走を制御するなら、まずは同格のパートナー、父性が必要だ。

 

ウチは父権優位の家庭だったが、父親がヒートアップしたときは、母親が「まあまあ」とかなんとか宥めてフォローしていたような。

男女逆でも同じことだし、あるいは女性が父役をやってもいい。

西宮家にはもののわかった祖母がいたので、それが幸いだったっぽくはある。

安全地帯である祖母の死も、ヒロインを追い詰めたんだな。

まあ、要はバランスなんだけど、

 

しかしこの作品に登場する父性となると、あのムナクソ悪い担任教師だけなんだよね・・・。

 

小学校の教室で起きたいざこざの責任は、その場を率いるべき存在、教師にあると思う。

これがまたびっくりするほどのクズで、しかし思い起こせばああいう教師っていたよなーっていう記憶がチラホラあるのが、ほんとこの国の闇。

 

転校生というのはただでさえアウェーなのに、更に難聴というハンデがあるのでは、

クラスに馴染むのに相当のハードルの高さがある。自分には到底無理ゲーだ。

あの母親が、ウチの子はちゃんとできますっつってゴリ推したのが目に浮かぶが、

そもそも、そういう生徒が編入してくるときは、ベテランの先生のいるクラスに預けるとか配慮があって欲しいところ。

 

しかし、あの教師は誰に対しても何のフォローもしない。

手話を教えにきた先生が、クイーンの女性徒に反発を受けて、

(えーっと、どうしましょう・・・?)と目で助けを求める場面で、下を向いて無視する。

無視、何もしない。放置。子どもを導かない教育しない、そんな教師。

 

転校生を、お調子者とクイーンの前の席に座らせるというのは最悪の配置だ。

生贄、獣の前にご馳走をぶらさげているのに等しい。

席替えをして、転校生は教師の目の届く最前列に座らせて、大人しい生徒で周りを固めるだけでも、だいぶマシだったろうに、そんなことさえしない。

 

で、いじめ問題が外部に漏れ、表面化したところで今度は主犯のお調子者だけを血祭にあげて終わらせる。

 

いじめのターゲットがお調子者にスライドし、転校生はまた転校していく。

 

周囲の空気を読むのに特化した主人公は、自分をいじめる空気にも逆らえない。

反撃したり誰かに訴えたりして、流れを変える力がない。

そのうち周囲が自分を責めるとおりに、自分でも自分を責めはじめる。

察し力が裏目に出てしまう。

 

これが中学生や高校生だったら、黒髪のクイーンの方が教師より発言権が強いこともあったろうけど、小学生だったからなー。

壊された補聴器のお金を誰が払うかっていうこともあったし。母子家庭にならそれも押し付けやすい。そういうとこは計算してキレてそうあの教師。

っていうか、誰も彼も打算的過ぎて人間不信になりそうw

いや、その打算が分かるってことは自分の心にも同じものがあるってことで、もうこっちまで自分を嫌いになりそうw鬱アニメww

 

まあなんだ。

 

人間の感情の動き、心の機微を濃やかに汲み取ることができるのが、

右脳的、女性的、母親の役割的なものだとしたら、

 

人間がどう在るべきかっていう理想、指針を示して集団を導くのが、

左脳的、男性的、父親の役割的なものだ。

 

聲の形は、原作も映画も前者の価値観に寄り過ぎてんだよな。

作者女性だし、京アニも女性の多いスタジオだった。

 

だから、

ああ、そういうことってあるよねっていう共感を呼ぶ描写はめちゃくちゃ細かくて可愛らしくて巧いんだけど、

死の危機をくぐり抜けて尚、人の生きるべき指針みたいなものが示されることはない。

 

今後会う人達や社会のなかに、父権を見出し、更に精神的親殺しを越えていかないといけない。

主人公達の苦難は、多分まだ続くし、

 

作者たちが今後描いていくことになる課題も、この作品の中にあると思う。

京アニが日常系以上の作品を描いていくなら必要な転換点だったはずだ。

一話だけ見たヴァイオレット・エヴァーガーデンを改めて見る気になったなー。

あれはなんか、そういう父親的な人を亡くした主人公の話だったわけで。

 

聲の形のなかだけで言うなら、即金で即、全面謝罪に行ったあの美容室経営のカーチャンの双肩にかかってるものは大きいな。

子どもに人としての指針を示し得たのは、あの美容師なのに根元が黒い金髪のかわいいカーチャンだけだったわ。

彼女の双肩に、主人公と西宮家母娘の精神的成長がかかっていると言っても過言ではないと思う。

 

聲の形、結構面白かった。

 

 

 

 

 

氷菓マジお買い得。繰り返し観たい心地よさの作品。

 

 

追記

 

 万が一、誰かに土下座されて許しを請われるような恐ろしいシチュエーションに出くわしたら、

とりあえず一目散に逃げるか、場所を変えようと言えるようでありたい。

子どもまで土下座してくるとかいう地獄絵図を、京アニ絵で見てしまった衝撃よ。

 

妹も、裸足で家出してるのは母とのいざこざなんだろうし、母親と合わないとホント家が安住の場でなくなっちゃうんだよな…。

 

あとヒロイン役の早見沙織の演技力が地味に凄過ぎた。難しい役だけど絶妙だったと思う。

 

映画の最初と最後の演出で、暗転の中にピンホールのように光が浮かんで、それがだんだん大きくなって風景になるっていう、トンネルをくぐるようなイメージと、

コトコトとピアノの内部の機構が動く音まで撮ったBGMがある。

ピアノの中に潜りこんで聞くような音なんだと音響監督のインタビューがあったけど、

暗い洞穴に篭もるような、それは相まって胎内を思わせるような演出だったと思う。

水や川の場面も多い。

生まれ変わりの意味もあるし、母性の印象が作品を貫いてもいるな、と思った。

 


映画「聲の形」公開記念特番 ~映画「聲の形」ができるまで~ ロングバージョン

17分くらいから牛尾音響監督のインタビュー。

 

あと、

原作漫画だと、再会した同級生達はみんなで映画づくりとかしてるらしく、

映画よりコミュニティとして強固だったっぽい。

映画では、そこの説得力を持たせる尺がなかったから、

家族関係の方により注目してしまったのかも。

…まぁ、それはそれで成立してた。