はてなのお題記事。
自分の本棚は、8割が漫画、1割が画集や絵本の類、1割が本だ。
本の内訳は、7割が文庫で、後が新書やハードカバー。
積ん読してるものもまあまあある。
あ、DVDも多少はあるなぁ。
ジブリ、今敏、新海誠、細田守、アナ雪、モノノ怪、氷菓・・・アニメばっかり。あとSKYHIのライブか。
何度か引っ越して処分したのでそれほどの冊数ではないだろうと思ったが、
ざっと目算で千冊越えそうなので、これは数えないほうが精神衛生上よさそうだ。いくらつこてんねん・・・。
そうなってくると、当然収納が問題になる。
安いカラーボックスなどでは本の重みでたわむし、縦幅や奥行きが余るともったいない。
余った手前のスペースに鍵やら時計やらガチャポンやらの小物を置き始めてしまうとか、
余った上方のスペースに横向きに本を詰めてしまうとか、
本が取り出しにくく、見た目も雑然としてしまいがちなのだ。経験談です、ええ。
あと天板の上に埃がたまるの地味にムカつく。
というわけで、本にジャストサイズで、天井までぎっしり詰め込める本棚が理想だったのだが、既製品には中々そんなサイズがない。
よって本棚は自作で頑張った。去年か一昨年のことだったかな。電動ドライバーくらいの工具類は持ってたし。
ホームセンターで木材をカットしてもらって、無塗装のまま金具で繋いだだけのシロモノだが、
ヤスリがけの済んでるきれいな木を買ったので、そこまで安上がりでもなかった。5~6万くらいになったっけ。
素人のDIYとなると、強度というか地震で倒れないかってことが心配だけど、
作り付けというか、背板なしで棚板のいくつかを金具で直接壁に固定して、側板も天井に突っ張っているので、そこは大丈夫なはず。
地震がきたら棚よりまず本だけが落ちてくるんじゃないかな。
後は、容量MAXになったとき、床が荷重に耐えられるかどうかだな・・・。
周囲が散らかってるので一部だけ。プリンターやパソコンの配線が裏に通ってたりする。
仕舞ってある本は、断捨離を経て自分なりに厳選されてると思う。
漫画の棚で目につくのは、
鬼滅の刃・シャドーハウス・サマータイムレンダ・スパイファミリー・チェンソーマン・乙嫁・ダンジョン飯・天地創造デザイン部・とんがり帽子のアトリエ・宝石の国・魔人探偵脳噛ネウロ・蟲師・プラネテス・怪獣の子供・魔女・マギ・惑星のさみだれ・GS美神・動物のお医者さん・よつばと・落語心中・竹光侍・ゴールデンカムイ・山賊ダイアリー・チキタグーグー・メテオメトセラ・荒野に獣慟哭す・うしとら・ディスコミ・攻殻・・・
本の棚はジャンルがバラバラだな~。今脳内で内容が鮮明なものは・・・、
バトルのFate本編よりオカルト探偵モドキのこちらがストライク
類作がないので知名度が低いが、伝統のスタイルに筆者の旅行体験が加わって、古くて新しい読み心地。
米原万里の著作はどれも小気味良い。平和な日本と動乱のプラハと両方で暮らした視点がある。
小説ならムーンナイトダイバー(天童荒太)
東日本震災から数年後、海から遺品を集めるダイバーという題材がいい。深海という異界へ赴く感覚もよき。
児童文学なら果てしない物語(ミヒャエル・エンデ)
児童文学ジャンルは推しが多すぎるが、あえて、あえて選ぶならこれかなあ。一冊完結だし。
紀行なら世界屠畜紀行(内澤旬子)
辺境紀行モノは色々読むが、屠畜という一貫したテーマ、イラストを描くなどのタスクで観察が深い。
ノンフィクションなら猟師の肉は腐らない(小泉武夫)
マタギの文化をユニークなおっさん二人の交流物語に仕立てていて読みやすく面白い。
根源からお金を問う、貨幣経済にどっぷり浸かって生きてるとわからない、お金の成り立ちや本質を紐解く。
歴史なら文明を変えた植物たち(酒井伸雄)
チョコ、芋、タバコ、ゴム、当たり前に身の周りにある植物がどこをどう旅してきたのか教えてくれる。
神話学なら神話の力(ジョーゼフ・キャンベル)
尊い。当ブログの元ネタ、神話の収集に止まらず、神話の解釈によって至福の追求を実践している。
どっぷりつかって生きてるとわからない、西洋的発想の来し方を紐解く。読んでると頭良くなる感パない。
変わり種ならタロットの謎(大澤義孝)
幽体離脱で直観を得てから書くとかいう独特過ぎるメソッドの本。タロットの由来は古すぎて文献がないので、そんなアプローチで書いても苦情はこないし何しろ面白い。このメソッドも当ブログで真似してるなw
ああ、でも推しを1ダース選んでみたらなんとなく、
エキゾチックなものかオカルティックなものが好きっていう傾向があるな。
自分は出不精なんだけど、異文化体験というか、カルチャーショックというか、
未知の世界観、異なる価値観に出会って、自分が今まで常識と思っていたことが崩れる瞬間が快なのか、そういやそうだ。
年齢と経験とともに、本選びに失敗しないコツというか、本屋でのシックスセンスというか、表紙とタイトルとあらすじから内容をサイコメトリーする感覚が培われているような気もするし、
それでも勝率は七割というか、積ん読になっちゃう本もそれなりにある。
この自粛要請のご時勢で、フィールドワークもできないし本を書きましたっていう著名人もちょいちょい見かけるので、
本屋のラインナップはしばらく充実するだろう。
というか、自宅の本棚をいくら自分好みにカスタムしてみたところで、
自宅から数十分の本屋、あるいは図書館に行けば、一生かけても読みきれない量の本があるってことを思うとなんだかクラクラしてくる。
検閲のない、古今東西玉石混交の書架。
全世界全時代を見渡しても誇るべき豊穣に疑いないのだが、しかし、
一生出会うことのない知識、一生出会わない言葉が、本に収められて「どうぞ」とばかりに目の前に整然と並んでいるというのも、途方もない話だ。
この恐怖そういうことだね♪ ハロウィンハロウィン♪
この見せ方、魔女1作目の衝撃の見開きを思いだすね♪ 知識に溺れたニコラの末路だね♪
かと言って、もし人生が何百年とかあったとしても、全部は読まないだろうなあ~。
栞子さんのように活字なら何でもいいっていうタイプではないので、
七割以上は興味持てなくて積ん読にする予感しかしない。
ていうか年々、スマホかパソコンの画面を眺めてる時間のほうが長くなってるし。
まあ、例えば。
中華の宴席料理、満漢全席を食する機会があったとしてもだ、
とてもじゃないが全部は胃袋に入らないし。
美味しいからって、食べつけないものを詰め込めば腹具合がおかしくなるだろう。
情報でも食べ物でも、適量と適性がある。
どんなに見栄えよいものであっても、イコール正しく身になるわけじゃない。
自分の心と体に合うものを、必要なだけ選ぶセンスというか、
心と体のリズムに耳を傾けていると、それとハーモニーになる波長を発してるものが解るっていうか。
ピンとくるとか、ときめくとか、琴線に触れるとか、輝いて見えるとか、考える前に体が動いたとか、色々表現はあるけども。
そういう感覚は生得的に備わる本能でもあるけど、それを意識して伸ばすほど、
この世界への適応力、生存率、人生を楽しめる期間の長さが変わってくる。
インスピレーションは人生のあらゆる場面で捗る力だ。
読書が趣味です、とか言うと、つい読書量でマウントとる発想になるけども、
どっちかっていうと、
なぜか何度も読んでしまう本とか、
泣き所じゃないところで泣けてしょうがない本とか、
心に焼き付いてずっと忘れられない言葉とか、
それまでの世界の見方を変えてしまう考え方とか、
そういうものに出会えてるかどうか。
無数に開けていく情報の海から、自分の心を映すもの、心の痛みと響き合うものを直感する力があるかどうか。
読書というメソッドを、心の求めるものへ続く道にできているかどうか。
そういうことが大事なんじゃないか、と思ったりする。
五十嵐大介の魔女で、およそ言葉で記され得る全てってくらい、膨大な知識を網羅したニコラには、しかし自分の心が見えていなかった。
心の痛みから目を逸らし、その代償行為として情報を詰め込んでいただけだった。
穴の空いた心に何を詰め込んでみても、いつまでも飢えは満たされない。苦しみは終わらない。
苦しいと訴える心のために、読書というメソッドを使うことが望ましい。
目的と手段を取り違えないようにってやつだ。
槙島聖護はそこんとこよくご存じだ。彼は心の求めるところに忠実だからね!
「紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない。
本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある。
調子の悪い時に本の内容が頭に入ってこないことがある。そういう時は、何が読書の邪魔をしているか考える。
調子が悪い時でもスラスラと内容が入ってくる本もある。
何故そうなのか考える。精神的な調律、チューニングみたいなものかな。
調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくった時、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ。」
これはほんとに毎日本読んでる人の言葉だよなぁ。
スマホの通信制限かかったかなーって時に阿部寛のHPを見るようなもんだろうか。
違うか。
ゲームのタイムアタックとかすると日によって調子の良し悪しがあるの分かるな。
おもくそデジタルだけど。
いや、そもそもそういうふうに、自分のパフォーマンスを計るための習慣をもつっていう、その発想自体が興味深い。
音楽家だったら楽器の調律をするとか、
料理人だったら包丁を研ぐとか、
画家だったら絵の具を調合するとか、
歌手だったらドレミレドを発声してみるとか、
道具(身体)を整備することで、心を整えて、プロはそれから仕事にかかるものだ。
自分を知るとか、心の声に耳を傾けるとか、内省するとか、至福を追求せよとか、
簡単に言うけども、具体的にはどうやったらいいのかっていうヒントがそこにあるな。
瞑想はたやすく迷走になる。
見ることに慣れ過ぎて、見えないものに集中するのが難しいのだ。
だから、何かに映してみる。身体を使って現実に出力してみる。
それで客観的に見えるようになる。
指先で薄い紙を捲っていくのも、糸巻きを微妙に回して音を調節するのも、刃物の微細な凹凸を手応えで感じるのも、絵の具の色がピンとくるまで混ぜるのも、声帯から胴を震わす音を出すのも、
みな、心を映す鏡になり得る。
曖昧な脳内のイメージを、ごく繊細な身体感覚で出力してみて、フィードバックする。
脳内のイメージが現実に裏打ちされて精度を増していく。
イメージ→リアル→イメージ→リアル、
思考と肉体、精神と物質の陰陽の往復を繰りかえすうちに、
過去の再生や自我の肥大や被害妄想、実体のない葛藤は鎮まって、等身大の心身の感覚が掴めてくる。
魔女ミラは「言葉と経験は同じ量ずつないとバランスがとれないのよ」と、
立派な書庫を持ちながら弟子に本を読ませない。
言葉が捨象してしまうもののほうに重きをおき、心と身に備わる感覚すべてで世界をあるがまま感じるのだと教えてくれる。その教えは実にもっともなのだが。
言葉を経験を擦り合わせ、バランスをとるメソッドもあるってことかな。
毎度の正反合の持論だが。
膨大な情報を発信する現代社会では、摂取量の節制が難しい。
喧騒から離れ、ミラのような自然と調和する暮らしをイチから始めようとすると、
かなりの行動力が必要になる。長期休暇の取得か転職、候補地の選定、予算の確保。
消化の暇もなく情報を嚥下し、さながらフォアグラの如き食べ頃に仕上がった諸兄には、
まず槙島聖護の方法論から始められるがよろしかろう。
何でも金と電気が肩代わりしてくれるライフスタイルになってしまったが、
それこそが身体性を薄れさせ、便利と引き換えに生きてる実感を失わせているのだ。
だれの生活にも、まだどこかには調律になり得る身体操作法が残っているだろう。
鉛筆をカッターで削るとか、マッチで火をおこすとか、ウクレレを買ってみるとか、紙の本を買うとか。
そのくらいのことなら気軽に始めてみてもいいわけで。
してみると、本棚を自作するのも結構良かったよな。
寸法計って、設計図ひいてみて、ホムセンで木を選んで、
木を自分で鋸で切ってみたらもっと良かったろうけど、金槌やネジで組んで。
頭と体をつかって、想像を現実にした。
素人のDIYでもなんでも、お金を出して買うだけよりずっとずっと、心身に健やかさを与えてくれたことだったのだ。
追記!
記事を書きあげてからテレビをつけたら、最近は拠点を2つ持って、平日は都会、週末を田舎で過ごすデュアラーとか、そんなライフスタイルが紹介されていた。
自然のなかでDIYやサーフィンをして過ごし、リフレッシュすると。
都市と田舎のデュアル、両極を持つ。
いいね、人間性が柔軟になって幅が出そう。
マツコ会議勉強になるわ。