進撃の巨人、最終話を読まれた皆様、完走お疲れ様でした~。
10年もの間続き、あれだけの複雑でボリュームのある物語となると、
どこをどう切り取って観るかで永遠に解釈を続けることができそうですが、
とりあえず結末を迎えたぜ!っていうライブ感で徒然に書いてみよう。
いやもう、ハンター〇〇〇ーとかベルセ○○とかブラックラ〇ー〇とかブギー〇ッ〇とか、
一世を風靡しながらエタってしもてる作品も数あるわけで、お預けされちゃうつらみからすれば終わってくれただけでも御の字っす。(-人-)
以下全ネタバレ注意。
コミック派アニメ派の方はご注意ください。
そーね、まず。
主人公エレンの心情の物語、という軸から見た場合には、
彼が救済に辿り着けたとは言えなくて残念だなーって。
鬱屈した気持ちの昇華や浄化、カタルシスがなかったね。
「たくさん人を殺してしまったから、自分は許されないんだ」っていう殻から出てこねーでやんの。
これはライナーやジークも同様に抱えたテーマだったわけだが。
終盤で予想された展開としては、
暴走するエレンのところにミカサの実行力で突っ込んで行って、アルミンがエレンのもつれた心を解きほぐし、昇華へ導く。
というのが王道のはずだが、そうはならなかった。
いや実は、
アルミンが問いかけ語りかけたことで、
思い込みを手放して昇華するっていう場面自体はあったんだよ。
「僕はここで三人でかけっこするために生まれたんじゃないかって。
この、なんでもない一瞬が、すごく大切な気がして・・・」で、
「ああなんだ、いい天気じゃないか、もっと早くそう思っていたら・・・。」っていう、
あるがままの世界をただ美しいと思えた、素晴らしい悟りの場面が。
ただ、その心情の救済に、昇華に、自由に辿り着いたのが、
なんでかエレンじゃなくてジークだったんだけどね!!
あれれ~?おかしいぞ~??
主人公はエレンで、ジークは敵でしたやん・・・??
なんか、“道”で2人で過去回想に行ったあの辺から、
ジークとエレンの役が入れ替わってるよーな印象になったよね。
アルミンと話して心を入れ替えたのもジークなら、
グリシャ、理不尽な運命を強いたクソ親父に和解を示したのもジークのほうだった。
は?
なんであの猿ヒゲメガネが主人公ポジションに?
エレンが魔王ポジションに??
ええ?(書いてみて改めて混乱した。)
いや、なんとなくは解ってる。
落ち着いて筋道を整理してみるとだ。
父子関係、立ちはだかる父権と、それに苦しみもがく息子。
という反抗期のテーマが、普遍的な自立のテーマがある。
息子は父に、一度は対峙してみることが必要だ。
面と向かって、向き合って文句を言ったり殴りかかったりしてコミュニケートする。
しかし、そこで父親に殴り勝ってしまうとだ。
支配からの自立、ではなくて、
支配を軸にしたパワーバランスの逆転になってしまう。
よくある話だけど、毒父に虐げられた息子がいたとして、子どものころはなす術なく従ってていても、父は老い息子は育つ。
ある日肉体的に成熟した息子が父を殴り返し、パワーバランスが逆転する。
そこから、今度は息子が父親そっくりの家庭の独裁者になってしまう、という負の連鎖だ。
どちらが支配者か、どちらがルールか、という天秤を傾けるだけのパワーゲームにハマってしまうのだ。狭い家の中で。
エレンはこのパターンに捕まってしまったように見える。
“道”の中の過去で、エレンは父グリシャを操る。
「民族を導け」という父親から押し付けられた命令、
それを命令したのは、実は自分(息子)の方だったのだ。という書き換えを行う。
それによって、支配者は、父権は、理不尽で打ち倒されるべき魔王もまた、エレンということになってしまった。
こういうのはな~。
父親の間違った信条をコピーし、父親そっくりの暴君(しかも父親より強力でタチ悪い)になるのではなく、
そのルールが適用されている狭い世界、家庭や人間集団から離れてみることが推奨される案件だ。
家から出て、異なる集団や自然の在り方に触れて、価値観をアップデートして、それから相対的客観的に父子関係を振り返ってみられるといいんだわ。
ジークにはクサヴァーという新しい父がいた、それが良かったというのは本人の言う通りだ。
エレンにもな~。
いや、ハンネスもキースもピクシスもエルヴィンも、みんなそれぞれに父や師や将として憧れていいような立派な人達だったけどな??
エレンが誰にも懐かなかっただけか・・・。
ハンジの「認めるよ、エレンに何の解決策も・・・、希望や未来を示せなかった無力さを」っていうのは泣けたわ。
ハンジも立場的には兵団長、父権であり、エレンを導く責任も感じていたんだな。(研究者タイプでリーダー向きじゃない人だったけど)(リヴァイ兵長もエレンに指針を与えず自分で決めろという。)
エレンにも良い出会いはたくさんあって、いつでも変われたのに。
あのバカはどーしてあんなに強情だったのかね。
そういう風に生まれついたから仕方ないっていうのは、
あの表情を見てると嘘というか思考停止なんだけどな。苦しそうじゃん。
生まれついたように生きてる人というのは、
たとえその生き方が人道や倫理や常識や、何に反してようともイキイキした顔をしてるものだ。
悪い事なのは分かってるけど、楽しいからしょーがないよね!っていう顔をしてる。
エレンは「たくさん殺してしまった」から、後戻りできなくなっただけじゃないかね。
間違ってたことを認めたら、犠牲が、目的のために必要な犠牲じゃなくて、ただの無駄死だったことになっちゃうもんな。
コンコルド効果ってやつだ。
無差別な虐殺者であるか、無能で打ち倒されるべき指導者であるか、の二択なら、
自分は後者だと思い込むほうが心理的にまだ楽というか、色々言い訳もできるというか。
視野狭窄に陥った極端な心理状態だ。すごく追い詰められている。
死んだ方がマシなほど苦しいので、殺されることを望むと。
死に急ぎ野郎とは実に正鵠を射た綽名であることよ。
いやはや、どうしてそうなったし。
エレンはいつから、何を間違えて正解へ辿り着けなかったのだろう?
まあ、そりゃ、確かに人命は重大だ。
1話から人を虫ケラのように蹂躙する描写で話題になった漫画がそれ言うのって感じではあるがw
エレンは最終話で「人道」という言葉を口にする。
人道、人道ねー。ははあ。
進撃の巨人は、三重の壁という舞台から始まった物語だったわけだが。
壁の中の世界、外界から隔たった共同体、阻まれると同時に守られてもいる世界、独自ルールが運用される世界、狭い鳥籠。
三重の同心円の壁内世界、というのはなかなかに優れて捗るメタファーだと思う。
人はまず、家庭という世界で育つ。そこでは親がルールだ。
家庭ごとに「よそはよそ、うちはうち」で運用される謎ルールあるあるだ。
虐待と見做されるようなルールがあっても子どもは疑問を抱かず育つ。
そこが最初の小さな円だ。
学校に行くようになれば、校則や教師がルールだ。
服の着方まで規則に従わないといけない。
社会に出れば、社会人として常識、大人として当然、みたいな同調圧力やルールがある。うっせぇわ。
会社とか地域とか文化圏とか国とか、国際社会とか、
人間の社会は何重もの入れ子構造になっている。
図にするほどのことでもないが。
そこで運用されている普遍的ルールが「人道」だ。
その内容のひとつが「人を殺してはいけない」だよな。
これは人間の社会では互いを侵さないために必要な不文律だ。
しかし、壁の外の世界では。
自然界のルールはそうでなかったりする。
そこにあるのは弱肉強食の食物連鎖による循環、適者生存だ。
他者を食らって生き、そしていつか自分も食われて続いていく世界。
自然界では大量死も大量発生も、種の絶滅でさえ幾らでもあること。
人間だって天災や疫病があれば例外ではないわけで。
いとも容易く数千数万の人が死ぬことがある。
だからさ、
そりゃもちろん虐殺や民族浄化を人として容認しちゃいけないけども。
「殺してはいけない」は人間社会でだけ通じるローカルルールであって、自然の理ではないわけよ。
「殺してしまった」は人間社会では罪だけども、
自然界には罪という概念そのものが無い、因果と調和があるだけだ。
小さな壁内世界のルールが、ひとつ外の円の世界で通じると思ったら、間違う。
家庭内のルールと社会のルールでは、社会のルールの方が大きな力をもつし、
人間社会のルールと自然の理では、自然の理のほうが上位だ。
マイルール、ローカルルールをまかり通そうとして生きてたら大ケガをする。
エレンは、壁の外の世界が自分の期待通りでなかったことに怒り、世界のほうを変えようとしてしまった。
そこが間違いの始まりだ。
学び変わるべきは自分なのだ、いつでも。
エレンには「巨人を駆逐する」と「外の世界を見たい」の二つの初期動機があったのだから、
22巻で初めて海を見た時、そこから炎の水や氷の大地を、広大な大自然の世界を見にいく希望を持てばよかったのに。そこで敵を見てしまった。
そういえばエレンって何歳だったっけ。
そもそも「民族の指導者」なんていうのは、まだケツっぺたの青い小僧の仕事じゃないんだよね。
巨人の力とか、未来視とか洗脳とか、チートスキルのひとつやふたつあったところでさ。
まだ家庭と学校しか知らんような見識の狭い青年に、血気盛んな新兵上がりに、そんなことさせたら失敗するの当然じゃん。
なろう系異世界転生なら、リムルやアノスならチート無双で天下取ってほいほいと理想国家を建設してしまうけどもだ。
ピクシス司令のような老練の将、ハンジのように大人であろうとする人、何段階もの人間成長のステージを巧みに描ききる世界観では、そーはならんのだろうねー。
諌山創にとっては、チート無双国主はリアルじゃないのだ。
これは自分も10年前だったら解らなかった認識だけど、確かにそりゃそうなんだよな。
若い頃ってさー。
「正しければうまくいく」「善いことならうまくいく」みたいな、期待と潔癖の思い込みがある、確かに。
そしていつか挫折を経験して、なんで自分は正しいのにうまくいかないのかと地団駄踏んで、
そして世の中っていい加減なことや許せない悪徳ばっかりだけど、それでも意外と平気で回っていくんだな・・・ってことに慣れていく。
ムチャ振りで潰れてしまったエレン、普通にかわいそう。
まず広い世界を見に行けばよかったんだ。
自分の潔癖な価値観を世界に押し付けようとするのではなく。
民族紛争の問題は、ピクシスのような酸いも甘いも嚙み分けた大人の仕事だったのだ。
善悪や白黒で決着するような問題じゃないんだから。
効果的に武力をチラつかせつつ互いの利益を慎重に線引きしていくとか、そういう複雑さに耐えられる人が指導者たるべき。
ぶっちゃけ巨人の力とか、それが何だっつーんだろうね。
横暴で巨大な人類がいようが、鳥も獣も魚も虫も、みんなそれぞれの場所で繁栄してるじゃん。
上位種や捕食者がいることの危険や恐怖は、自然界では当然だ。
それでもみんな生きてるのに、
人類だけが在りもしない平等公平安全安心の楽土を築けるなどと、
そう思うこと自体が本当はおこがましいんじゃないのか。
壁を作って、箱庭の中で脳内の甘美な幻想を実現しようとしても、結局それは叶わない。
なぜなら、不自然だから。
不自然は、淘汰される。
否応なしにそういうもので、
むしろ淘汰や死など、痛みから自然の理法を学ぶためにこそ、魂は肉体を得て修養していると言っても過言ではない。
地震がきて豪雨がきて疫病が流行って、たくさん人が亡くなっても、
それでも天災には文句のつけようがないから、どうにか出来る範囲の工夫を凝らして暮らし続ける。そうするしかないから適応していく。
どんな高い壁をつくろうが防波堤をつくろうが核シェルターをつくろうが、壊れる時には壊れるのだ。
心の安らぎ、というのはそういうところにあるのではない。
心を苦しくする様々な思い込み、
「殺してはいけない」「差別はいけない」「増えなくてはいけない」
「絶対に許さない」「自分は許されない」
みたいな頭の中で始終煩いやつが鎮まっているとき、
どんな過ちもすべてがただ許されていて、
同時に明日は何もかもを失うかもしれない世界で、
それでも、誰かと心通じる一瞬や、いい天気だと思えた一瞬には、
自我という狭い鳥籠を忘れて、あるがままの世界と溶け合ってひとつになっているのだ。
それが自由で、自在だ。
世界は、残酷だからこそ美しい。
支配からの自立、というのはこのブログの主なテーマのひとつで過去記事が色々あるので、この記事ではちょっと端折り気味になったかもしれない。
あ!進撃が終わって虚脱してる方には、次はこの漫画おススメしたい!
アニメも今期からで1話が放送された好機!
テーマがよく似てて、しかもこっちはハッピーエンドに辿り着ける命題の設定になってるよ!