スレの方では何度か書いた内容だけど、
このトピックだけまとめたことは無かったかと思うので書いとく。
陰謀論者がリアルの身近にいる。
普段はまあ理性的な人なのだが、
勤勉に善良に生きてるのに報われない、クソな社会への不満をくすぶらせていて、
その原因を欲する気持ちが、本屋にもネットにも溢れている陰謀論を引きつける。
なぜ、自分が苦しまなくてはいけないのか、という理由を外に求めると、
際限なくゴミ情報、ゴミ人脈が引き寄せられてくるので気をつけないといけない。
その人は議論ができる知力がある人なので、何度か対話の中で希望の方へ誘導してみたが、ダメだ。
その時は納得したと言っても、また何度でもネットを回遊して闇の真実(w)をくっつけてきて、
人類の危機を啓蒙する使命感と高揚のままに声高に、
そのイヤ~なフィーリングを周囲にお裾分けしないと気が済まないらしい。
やれやれだ。
ワクチンの陰謀とか、武器商人の陰謀とか、イルミナティか三百人委員会かレプタリアンかディープステートかニューワルドオーダーかQアノンか、なんか知らんけども。
つまるところ闇の支配者が、人口を削減して、1割だか1%だかの支配者層とそれ以外の奴隷層の階級を固定しようとしてるってことでいいのかね?
よくあるディストピアもののテンプレでしかないと思うのだが、
情報源が小説や物語ではなく、動画や暴露本だとなぜか本気でのめりこんでしまうのだから、
人間の脳の創り出すイリュージョンというのは面白い。
しかし例えそれが事実だったとして、
そこに義憤や無力感を感じるかどうか、
というのはまたちょっと別の話なんですよ。わかるかな。
今回はちょっと、
囚われから自由になって思索をしてみよう。
闇の支配者が勝利し、彼らの計画、陰謀を達成したとする。
独善的だけど知に優れた支配者が、その他大勢を従えるという構図、
さながら、羊飼いと盲目の羊の群れ。人間牧場。
世界中で人間社会の雛型がそう固定された、と仮定する。
それは、人類の生存戦略としてアリなのか、ナシなのか。
それを決めるのは人類でも宇宙人でもなく、地球だ。
生命体の意志決定ではなく、環境への適応力で、生物の繁栄は決まる。
羊飼いと愚民の群れ、という組織は、
人間という生き物のつくりに合致しないスタイルであるように思う。
人間の身体の構造からいうなら、
直立二足歩行、四足歩行の半分の燃費で移動できる人類は、まず長距離移動が得意な種だ。
さらに空いた両手で運搬、投擲、道具の作成と、器用さと共に知能をどんどん発達させてきた。
移動すること、知的追及をすることは、人間の身体から内発する機能快といえる。
そんな動物にとって、囲い込まれること、無知を強いられることは、苦しいことだ。
持って生まれたパフォーマンスを発揮できない。
生物本来の性能を大きくムダにした、脆弱なシステムを運用するとどうなるか。
不自然、すなわち淘汰だ。
闇の支配者とやらが、どれだけ人間集団に対して狡猾でも、
地球を騙しおおせる知力など持てるわけもない。存在のスケールが違う。
隆盛を極めた種も衰退すれば、そこに新たな種が台頭し、生存競争が始まる。
森で大木が倒れれば、その木が占めていたスペースと日光で新たな若木が育つように、
きっと人類に代わる新たな知的生命体が地球の主役になるだろう。
たとえば、人類は衰退しました、とか、翠星のガルガンティア、あるいは風の谷のナウシカみたいな世界。
ヒトとはまるで違う思考回路をもつ知的生命群になり、
人類は脇役として細々と、でもそれなりにちゃんと暮らしていくこともできる、
そんな世界。
それも意外と悪くないじゃない?
どうも陰謀論が示す未来図、というのはあまりに人間が生物群として脆弱になり過ぎ、
その人工的過ぎるディストピアは荒涼として、
圧倒的に移りゆく自然の前に無力、みたいな気しかしない。
これは自分の自然観が日本のものだから、そう思うのだろう。
刈っても刈っても無限に雑草が湧き、木造の人工物は速やかに朽ち、緑がすべてを覆っていくような自然。
陰謀論のベースにあるのは、羊飼いの思想、羊飼いの戦略、羊飼いの自然観だ。
砂漠か荒野か、そういう環境で種を存続するためのニッチな戦略。
それは一神教の生まれた地、乾燥していて建材は石で、他の生物が少なくて競合のない環境でなら、最適解で有り得るかもしれないが、
その戦略が、地上のどんな環境でも通用するとは思えないねえ。
そんで、ここ数百年、人間がヒャッハーで自然を開拓してこれたのは、一種のボーナスタイムというか。
後先考えないで滾るリビドーとフロンティアスピリットがあったからで。
去勢された愚民人類にされては、これまで通りにナワバリを維持できる気がしないのだ。
今ですら、人口の減った土地で無人の家は朽ち、畑はサルやシカやクマに脅かされてるわけで。
なんていうかなあ。
自然から切り離されて肥大した脳内妄想を実現しようとしても、
脳内世界の秩序より、大自然の秩序のほうがどーやっても上位だから。
行き詰まって淘汰される。それだけの話でしかない。
有限の世界の法であるそれは知では覆せない。
連中はそこが解らないのか、何なんだろうなあ。
人工と自然、人の世界と外界は相対し相容れぬものであると、
有史以来、そういう世界観を構築してその枠の中からモノを見ることに慣れきってるけど、
ほんとうの世界の姿はそうじゃないよね。
人工は自然に内包されているに過ぎず、ヒトは自然の一部で、不可分だ。
自然から採ってきて加工することしかできない。
水の一滴、石ころ一個、細胞のひとかけらさえ、無から生み出すことはできない。
自然から切り離された、自我という枠、人間や社会という枠、その認識の檻を外して、
常にケースバイケースで柔軟に、自然の在り方に沿うように、
ただ生かされてるという安らぎのなかで生きるとき、
生命体のパフォーマンスは最大に発揮され、種もまた繁栄していく。
それだけ。
真実はいつもシンプルだな。頭がスッキリする。
陰謀論は頭がゴチャゴチャするから、何かが間違ってるんだと思う。
それで、人類はどっちの道を選ぶのか。
知らんけど。ま、どっちでも大丈夫だ。
人類が主役を退いても地球は回る。
陰謀論から伺える思想には、最初から破綻の芽が織り込まれている。
どんなシナリオを展開しても、結末は必然として淘汰される。
これは幾多の物語を解釈してきた自分の直観。
バッドエンドになるしかない初期設定というものがあるが、それだ。
彼らは彼らなりに懸命なのに、お気の毒さまでしかない。
だから、いったん落ちつこ。
何か隠されていた真実に気がついたとしても、
「人類諸君」「日本人のみなさん」みたいなクソデカ主語で啓蒙を叫んでもダメなのだ。
喧伝、扇動、不快を共鳴させたらダメ。台無し。
怒りや悲しみや焦りから行動しても、次元を先に進めることはできない。
不幸や不遇の原因を外に求めてはいけない。
誰かのせいにしていたら、いつまでも終わらない。
責任ある誰かのせいにして、自分は知らなかった、自分は無力だ、自分は悪くないと言いたいだけではいつまでも変われない。
苦しみを生んでいるものは、自分の内にある。
ただ静かに観つめればいい、それだけで幻はほどけていく。
陰謀論がウソでもホントでも、どっちでもいいのだ。
隠された真実とやらは確かめようもないが。
己の心と身体で至る真実は、いつも何度でもそれであると確かめられる。
それを指針に生きれば、誰の思惑も関係なくなる。
誰にも踊らされずに生きられる。
己の最奥から湧くものに耳を澄ませ、その流れていくままに踊れば、最高の今、無上の生が叶う。
一人一人がそうすれば、誰も誰かを支配などできなくなる。
一人一人で調律した演奏が、いつしか大きなハーモニーになっていく。
そんな未来も選べるのだから。
ディストピア作品の例。
星の主役交代作品の例。
やっす!!!人衰とガルガンティア全話で今こんな値段なの!?買っちゃおうかな・・・。
数世紀先の未来、人類が衰退している世界。
かつての文明の多くは失われ、しかしそこに悲壮感はなく、人類は種として穏やかな老後を過ごしてるような感じだ。
旧人類がのんびり隠居して、地球の主役、次世代霊長類は「妖精さん」と呼ばれるカワイくも驚異的な生物群になっている。
楽しいことがあるとどこからともなく湧いて群れてくる彼らは、
どうも生殖で増えてるんじゃなく。アメーバみたいに分裂増殖してそうで、
しかし群れが散っても死体も残らないので、もう肉体の次元を超えた生命体として納得すべきかと思ふ。
知能の在り方も、個体では幼児並みだけど、群れると爆発的に処理能力が加速するのは、あれだ、群知能。
蜂や蟻、魚の群れのような。そんな知的生命が霊長の未来、ロマンだ。
ガルガンティアのクジライカの設定はものすごくよく出来ていて好きだ。
イカというか、タコなどの頭足類は器用な手足と高い知能をもち、寿命さえ長ければ海の覇権をとるポテンシャルは十分にある。クジラ程のサイズと寿命を追加したなら勝ち確であるという発想、SFとしての説得力満載だ。
作中人類が、行き詰まった文明を捨て肉体を強化して、海と共に生きる方向で選んだ進化の姿でもある。
一方で宇宙進出組はお決まりの不毛な戦争に終始しているのも説得力だ。
そしてここまでのロマン溢れるSF世界を構築しながら、アニメの主題は少年の精神的自立なのだ。最高に過ぎる。
人の思想と、自然の法則と、どっちが上位かなどと考えたこともないほうが大多数と思うが、世の中にはそんな考えを体系化して出版する人もいる。存在の7つの層。
一度わかると実に便利な分類方法なのでよく使うモノサシになった。