6/7公開の映画に行く予定なので、まず漫画を久しぶりに読み直してみた。
そうだな~。シリウス星人の物語なんだろうなwっていうのは置いといて。
象徴を使って読むなら、これは女性性の物語だ。
海の物語っていうだけで、もうイコール海は母、っていう連想になるけど。
陰陽の思想で、対になるもの。
陽、白、空、火、能動、緒、剣、科学、男性原理。
陰、黒、海、水、受動、卵、器、魔法、女性原理。
金髪碧眼で白い肌の、空という名前の少年と、
黒髪黒目で褐色の肌の、海という名前の少年が出てくる。
MVとか予告を見ると、ナチュラルに金髪美少年との恋物語かなーと思うが、そうではないw
この2人の露骨な顔面格差も人魚姫やセイレーンのモチーフ由来なんでそれは後述するけど、
象徴の符合から見れば、この設定でどっちがこの物語でより重要な役がくるかは自明だ。
さらに、この2人は血縁ではないけど、兄弟のようにふるまう。
空が兄的で、海が弟的だ。陽が動き陰が従う。
空の方が主体的に行動し、海は空の後ろに寄り添って立つ。
この物語は、君の名は、にモチーフが似てる。彗星と湖、隕石と海、少年少女、だ。
君の名は、の記事もまとめないとな~。
彗星という緒と、青い地球という卵、精子と卵子が結びついて新しい何かが生まれる。
男性原理と女性原理の一対の結合、混交から、新しいものが生まれるという、
人々のレベルでも、星々のレベルでも、
極小と極大が似た相を示すフラクタルになって照応している、ある根元的な法則っていうか、
ポニョでもグランマンマーレが「私たちはみんな泡から生まれたのよ」と言うあれ。
ウラヌスとポントス、天空神が落としたナニと海神の交わった泡から女神が生まれるギリシャ神話、
生命の起源は、彗星がもたらした有機物や微生物が海に落ちたところにある、というあれ。
パンスペルミア説だ。
君の名は、では村ひとつの反魂や復活という人間主体の描写になるところを、
海獣の子供、ではもっとダイレクトに新しい銀河や生命の発生みたいなイメージを描いちゃう。
超画力の為せる業だとは思うが、まあその分、
さわやかな青春ラブストーリーとしても見れる君の名はよりも、
わかりやすいエンタメ感がないというか、難解というか抽象的というか、感覚に依るところが大きい。
創世の神話、なんてテーマの物語があんまりないからな~、そうだなあ。
メインでなくていいなら、コブラに銀河の卵、っていう発想がある回があったな。
エンデの果てしない物語、ネバーエンディングストーリーにも、
一粒の砂から世界を再創造するっていうのがある。
映画メンインブラックのラストも宇宙がビー玉に収まってるっていうフラクタルの描写がある。
っていうか、大切なことは言葉にならない、というサビの歌詞で、
言語にしたら言語化できないものを切り捨てているんだ。とか、
五十嵐大介のテーマは割といつもそういう感じなので、解釈するとかそのメッセージに逆行するようで、やりにくい感じあるんだよねwwでも書くw
で、その後で手放すメソッドをやる。それでもっとずっと良く解る。まじだぜww
言葉を知りながら
言葉を捨てることができるもの、
それがふたつの世界を繋ぐもの。
というのも五十嵐大介の「魔女」の名言だ。
で、だ。
メインな内容はそういうことなんだけど。
パンスペルミアで新銀河、新生命系の誕生なんだけど。
運び手や母胎に選ばれるのが、少年や少女や、その他の人間なわけだ。
星々の営み、大きな指向性のようなもののままに生きている少年たちは、
やや人間味に乏しく感情移入しにくい。少なくとも漫画では。
そんで、男キャラがみんなメインイベントから除け者というか、
一生懸命なのに報われなくて可哀そうなんだよなー。
空にしろ、ジムにしろ、アングラードにしろ。
で、あまり目立ってなかった加奈子とかデデが、最後に大事なところに間に合う。
デデが「海は彼岸、女の体は彼岸から生命を引き込む通路、海のことは女が専門家」と言うがその通りになる。
ジムもアングラードも、男だったばかりに本番に誕生祭に立ち会うことができないってことらしい。
海は、少年なんだけど空との対比で陰的、女性的な属性を与えられてる。
彼の役割は母胎、それは本来、女性にしかできない役のはずだ。
なんで五十嵐大介は、わざわざ少年を母胎にしようと思ったんだろ?
海に属する少女と、陸の少年の物語でも良かったはずだ。
人魚やセイレーン、ローレライ、メロウ、ウンディーネ、海の魔性は女性形というセオリーがあるところを、
あえて少年にしてる。少年を二人にして陰陽にわけて、陰属性のほうに女性の役を与えるという手の込みようだ。
そうすると・・・なにが変わる?
・・・・・
ああ、
「本当の秘密は、永遠に秘密のまま・・・」
これも魔女のセリフだけど、これがやりたかったのかな。
もし海の少女と陸の少年の物語だったら、
少年はなんとしてでも少女を救って連れて帰ってきちゃうからな。
王道パターン、お約束の力が働く。
そういうのが男性性、陽、能動、そういう象徴のちからだ。
少女はそれに従う、受け入れるのが女性性だ。
この物語のクライマックスで、少女琉花は少年海を連れて帰ることはできない。
少女、女性は陰属性、海も陰属性を付与されてる。マイナスとマイナス、
磁石のS極どうしが反発してしまう。引き合わない。あと少しで、手が届かない。
象徴ってそういうものなんだよな・・・。
ご都合展開にすると、無意識にまで訴える力のある作品にならない。
「異なる世界のものどうしの、過度な接触は互いのためにならない」
っていうのは翠星のガルガンティアの船団長のセリフだけど。
海、異界、波打ち際で、生と死が反転する世界、
それぞれの住人に住むべき世界がある、と言いたいのかもな。
海から来た少年たちが人魚やセイレーンなら、この物語は異類婚姻譚としての側面も持つ。
人魚姫は泡になってしまうし、雪女は去ってしまう。
人の世界と関わることはあっても、馴染むことはなく、最後は別れる類型が多い。
海少年は、泡になって消えていくようにも見える。人魚姫だ。
男達が、誕生祭に立ち会えないのもそうだ。
男の世界と女の世界もまた、此岸と彼岸いう対比になる。
琉花の父も、第二子の出産に間に合わない。
「肝心な時にいつもいない男っているのよね・・・」と酷評されてるけど、
出産の秘義、秘密。
忌屋、産屋のなかのできごとは本来は女たちだけの秘密なんだ、と
そういうことにどうしてもなるのかもな~。描いててそうなっちゃったのかもな。
まあ、どうやっても事が出産となるとね。男の役はないわなww
物語の前半、受胎まではいくらでも頑張れるけど、後半ではお役御免になるということかな。
秘密は、秘密のまま。それは五十嵐大介らしい世界観かもしれない。
映画では、どんな変更やフォローがあるかも注目だな。
男が、男ってだけであまりに不遇だと、
伝奇や神話の文脈に親しんだ人なら納得かもしれないけど、
現代のジェンダーフリー的感覚からは、ちょっと読後感がよろしくない気がする。
そう、自分はこの物語の筋書きはあんまりピンとこなかったんだよな。
魔女や、他の五十嵐大介作品の方が好きなものがある。
でも映像化には向いてる作品だったなーと、MVでほんとに感動したから、期待して見に行く。
でだ。
語り部の琉花「世界の秘密はそのヒントを、あるいはそれそのものを様々な形であらわしている。わたしたちに語りかけている。お前の小さなてのひらの中にある物語にも世界は姿を借りて潜んでいる。」
世界の秘密、本当の秘密。
それは自分も何度となく言葉にしては手放し、近づこうとしてきたものだ。
ハウルの動く城でも同じものが描かれていた。黒い穴だ。
女の体は彼岸から生命を引き込む、というセリフがあったけど、
そうすると命ってものは彼岸からやってきて、
現世、此岸の命は死ぬと彼岸へ帰って、
では彼岸、海の命はどこから来てどこへ行くのか、という疑問がある。
命ってのは、此岸と彼岸、現世と異界、あっちとこっちを行ったり来たりしてるだけなのかな?とか。
それはやや窮屈な世界観だ。有限のなかでリソースが行き来するのみとなるとな。
行き来、それもある。
でも、そのサイクルだけでは、
怪獣の子供で新生したような圧倒的な奇跡、生命、銀河、渦巻くなにか、
そういうものがどこから来るのか、感覚的に説明できない。
此岸にそれだけのものの対価になるものが思い当たらない。
海、異界、彼岸で起きたできごと、新なるものの誕生、創造。
それはどこからきたのか。それを思うことだ。
思えば、きっと気がついていける。
無から、有が生まれたこと、
転生を繰り返す魂が、最初に生まれたときのこと、
魂のはじまり、存在の始まり、
原初の混沌、混元。
全知全能、ゆえに零知零能。
プラスもマイナスも陽も陰も光も闇も未だ生まれない、
身もなく心なく、名もなく、わざもない。
最初の創造は、そこからやってくる。
それはいつでも開かれていて、
自分達も、本当にいつでも、それにアクセスしていい。
いつでも、今も、本当は、それによって生きているのだから。