ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

海獣の子供を解釈する2 セイレーンと人魚姫の兄弟

映画「海獣の子供」ARTBOOK

 

 

海少年の役割は母胎、と書いたけど、

 

より正確に言うなら、彼ら、少年たちは卵子、そして隕石が精子

それを飲むことで結合させた海少年は、いわば受精卵だな。

 

なんでそこ大事かっていうと、

原人とか、うたを奏でる巨人、女神とよばれるあの特別なクジラの役を考えるとそうなる。

 

おなかに女神の姿をもつ、あのクジラの役割の方こそ、母胎というか、産道だからだ。

 

海少年と、隕石を飲んだ琉花は、女神クジラに呑まれる。

 

クジラに呑まれるっていうとピノキオだな~。

木の人形が、クジラの腹をくぐりぬけることを経て、人間になる。

 

宮崎駿の作品にも必ずと言っていいほどトンネル的表現が登場する。

暗いトンネル、産道を通って、生まれ変わっていることを示唆するのは、

ポニョ、風立ちぬ、とかかな。

異界との行き来を示唆してるのが、トトロ、もののけ姫千と千尋とか。

でもまあ、異界から女を通して生命は引きだされるというなら、一緒のことではあるか。

 

暗くて狭いトンネルのようなところを通って産まれる。

これは人類共通の普遍的なイメージだ。

 

海少年と琉花はクジラの体内でソングを聞いて意識を失い、次の場面では洞窟にいる。

クジラの歌で隕石は目覚め、海少年は、それを琉花から受け取って飲みこむ。それがいわば受精だ。

 

そして海少年と琉花は暗く水に満ちた道を進む。

クジラの腹から洞窟の通路を進む、この一連の場面が産道をくぐるってことになる。

洞窟を抜けると、すぐに海だ。 

 

受精卵になった海少年は、新しく創造された、生命系か銀河の卵か小宇宙か、そういうものとして次の世界へと新たに生まれる。誕生祭が始まる。

 

うーん・・・、この設定では、連れて帰ってくるのはどうあがいても無理ゲーだなw

 

ちょっとこう、空少年も海少年も帰ってこないラストはものさびしいというか、

なにも変えられなかった無力さがそこはかとなく漂うラストって気もするんだけど。

 

誕生祭にいたジュゴンが、ラストでまた少年を育てているジュゴンなら、

海少年とは、生まれ変わってまた会えるよ。という感じかとは思うけど。

 

まあ、それは人間のスケールで考えるからそうなるんであって、

この物語で語られる世界観、星々の営みのスケールで考えると、善いことがおきてるんだけど。

 

・・・大きな集合・総体のスケールの営みに、個が為す術もなくて苦しい、というテーマは進撃の巨人の記事で詳しく書けると思うので、とりま置いておこう。


海獣の子供では好奇心という言葉を使う。

これは多分、ジョーゼフ・キャンベルの良く言う、至福を追求せよ、と同じものだ。

総体の指向と対になる、個の指向性だ。


海獣の子供でも、それでも琉花は一個の意志あるものとして足掻いた。

隕石を渡したところで役を終えず、追いかけていった。

だからこそ、ひとつ掴んで帰れたあの渦巻きは、海少年の一部とか、再会の目印でもあるわけで。


あと、八百比丘尼、人魚の中を食べると不老不死になるという伝承があるな。


だから琉花は歳とって語り部になるという導入なんだ。長命になるんだろう。

 

年をとった琉花の手に輝くあの銀河のようなものは、

メン・イン・ブラックのラストの、自分たちのいる宇宙がどんどん遠ざかって、

超巨大宇宙人の遊ぶビー玉に収まってるっていうあの感じだな。

火の鳥未来編で、火の鳥が極大の宇宙と極小の宇宙の両方に飛び込んでいって相似を見せてくれたあの感じ。フラクタルだ。

 

ただ、漫画のほうはそんな感じなんだけど、

 MVを見て、映画ではもう少し希望ある感じで終われるかもしれないと思う。

 

「風薫る砂浜で、また会いましょう」という歌詞だからな。

波打ち際は、異界と現世、此岸と彼岸の交わるところ、そこを琉花が歩いていって映像が終わる。

その映像は、またMVの冒頭につながっていて、ループするイメージになってる、で、

「開け放たれたこの部屋には誰もいない、潮風の匂い染みついた、椅子がひとつ」とまた歌がはじまる。

 

その椅子は、亡くなった人や、海からきたもの、

見えないなにかが訪れたことを確かめるための椅子だ。

 

ふたつの世界の境界線を歩く琉花、彼らを迎えるための椅子。

 

なんか、その場面の作り方次第では、

海とも空とも、またいつか会えるのかもって気がするだろうから。

 

 

 

 

 

少年たちが人魚やセイレーンなら、

海獣の子供異類婚姻譚としての側面からも読み解ける。

 

人魚姫も雪女も、泡になるか、去ってしまう。

 

海少年も泡になって消えていく、とも見える。

空気の精に生まれ変わっているわけでもあるけど。

 

声が出なくなる、体が不調になるっていうのも、人魚姫がモチーフだからそうなる。

人魚姫は歩くたびに足が痛むんだっけ。

 

海少年が声を失い泡になる人魚姫なら。

空少年はセイレーンかと思ってググったら、ウィキにあったので引用、

 

「セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて自殺した。死体は岩となり、岩礁の一部になったという。」

 

あー、それで空少年が座ってた波打ち際の岩がMVで強調されてるのかね。

 

海少年は儚い泡になり、

空少年は固い岩になるのか…。

 

それも対比だな。

 

ああ、海獣の子供ロゴマーク、対極図になってるな。左右が反転なんだけど。

空少年が頭を上に、下を見てて円運動に泳いでいくようなポーズで、

海少年が頭を下にして手を広げてる。受け入れるポーズだ。

よく考えてる、というか描いてるとそうなるんだろうかね。

インスピレーション、普遍的な真実を直感するって、そういうことだ。

 

空少年は重い岩となって凝り、下降していき、

海少年は軽い泡となって解け、上昇していく。

 

対極図のエネルギーが巡っていく。

 

神話的な変身の物語でもある。

 

姿を変えながら、巡っていく。それはあらゆるものごとで言える健やかさだ。

とどめようとすれば、淀み濁っていくしかない。なにごともだ。

 

 

 

人魚姫は悲恋の物語だ。

王子様は隣国の王女に夢中で人魚姫をかえりみない。

人魚姫は、好きな人に自分を見てもらえない。

 

なんか、金髪碧眼美少年とアジア系坊主頭少年の、露骨な顔面格差もこの辺からきてると見たw

 

ジムも読者もついついどーしても美少年空君を見てしまう。

小悪魔的で美しいセイレーンに魅せられ、惹きつけられてしまう。

 人魚姫の海少年は、その影に隠れ霞んでしまいがち。

 

海少年は琉花と出会う、探しに来て、流れ星を見せてあげたいと言う。好きになってる感ある。

なのに琉花が波打ち際で空少年に出会って、何よアイツ意地悪ね、とか意識しだすと、

海少年は声がでなくなってしまう、と解釈してもいける。

 

自分を見て、とは言えないのが人魚姫だ。かわいそう。

 

で、誘惑に失敗したセイレーンが岩になるというなら、

 

琉花はどこかで、セイレーンの誘惑ではなく、声無き人魚姫のほうを選んでるはずだ。

 

海少年にだけ、「言葉にできなかった事は無かった事になる、それは嫌」と自らの心の内を話して、彼の心に触れる。

海少年も琉花の頬に触れてる、あの辺の場面かな。


あっ。MVでは、琉花が海少年の腕を掴み返してるな。

漫画では、ただ手を引かれてるだけなんだけど。

そこの変更、両想いになってる感じ出てるかもよ。


セイレーンは誘惑に失敗して岩になる。

琉花に口移しで隕石を渡した時、突き飛ばされて、拒否られてるしな。

「お姉さん、遊んであげようか」なんて妖しく誘った空少年は、退場することになる。惜しいなー、もっと彼を見ていたかった…。

満月前後と思っていたのに早すぎる、と言ってたけど、モチーフがセイレーンだからそういうことになるんだろうね。

 

人魚姫を選んだ琉花王子は、最後まで海少年を諦めない。ずっと傍にいて、ずっと追ってきてくれる。

ポニョだと王子役はそうすけだ。

 

琉花もそうすけも、どちらも直感がはたらいて、ちゃんと人魚姫を見つけてくれる素敵な王子様だw

 

アンデルセンの原作の王子様はボンクラ・・・鈍感と言わざるを得ないw

 

 

五十嵐大介といい宮崎駿といい、

やはりあの悲恋には救済を与えたくなるものなんだろうか。

 

ポニョの記事もまとめていかないとな。

またあのタロットの本とにらめっこだー。

 

inspiration.hateblo.jp

 

 

映画「海獣の子供」ARTBOOK

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