小説は、ほぼ映画と同じだった。
でもいくつか補完されたこともある。
まず、夏美だな。
映画では占い師のところでアヤシイ話にいちいち「それって私かも!」とか言ってて、騙されやすいアホの子とか、
「ウケる」を連発する、ノリで生きてる気楽なお姉さんみたいな印象だけど、
小説では占い師や神主の他にも、100%の晴れ女に依頼した人達や空の魚の目撃した人達にインタビューしてて、帆高はこう感じてる。以下引用。
そうか、皆が取材で何でも話してくれるのは、だからだ。
女子大生も研究者も占い師も、相手が夏美さんだからこそあんなふうに喋ったのだ。
誰のことも否定せず相手によって態度も変えず、きらきらした好奇心で相づちをうってくれるこの人だから、荒唐無稽なことでも皆すんなりと話せてしまうのだ。
偏見のない公平さ、人を惹きつける明るい魅力、人間や取材対象への素直で熱心な興味。
小説の夏美はそういうキャラだった。
就活が難航してる描写「御社が第一志望です!」の連打もなかったし。
総じて映画よりも有能な感じだった。
実際、それは稀有な才能だと思う。
自分はオカルトでもスピリチュアルでも陰謀論でも、それこそムーの誌上を賑わせてるような話はどれも大好物だし、スレやブログでえんえんと書き続けることができるけど。
リアルで顔を会わせてる人達に、
次元の意識がどーとか、代償のある魔法とはどーとか、彼岸や異界とはどーとか、
無限や、0や空や愛とはなんなのかとか、
よう言わんwww
科学的常識的に一蹴されて、「大人になれよ」みたいなお言葉を頂戴するか、
「ないわー」でヒかれて終了か、
ノリノリで話にのってくる人がいても、依存が生まれないよう注意が必要だったりな。
アヤシイ話って結構相手を選ぶんだよなあ。
少数派の自覚のあるものは、疎外されることを警戒している。
それをどんどん聞き出せるという才能、あると思います。
で、夏美のもってる公平さっていうのは、彼女が大人と子供のちょうど中間にいるってことでもある。モラトリアム(猶予期間)だと本人にも自覚がある。
大人の世界と子供の世界の両方を理解できるキャラなんだな。
凪もそんな感じだ、すごく大人びてる。センパイと呼びたくなる達観や老成があるw
体は子どもで中身は大人っていうキャラなんだ。どこのコナン君なのw
君の名はでは男女や彗星と湖、都会と田舎が対比になっていたけど、
天気の子にある対比、陽と陰は、大人と子供だ。
外の世界と内面の世界とか、顕在意識と無意識、秩序と無秩序とかでもある。
夏美は大人と子供、須賀と帆高の中間にいるキャラだったってことが、
小説ではより解りやすかった。
まあ、須賀はなんつーか、いわゆる大人、父性の象徴となるようなキャラでもないけど。
いい加減な大人、アウトロー感がある。「大人になれよ」と言いつつ、
家出少年を拾い、「あの人に会いたいんだ」という帆高に共鳴して、子どもにもどって、警官にとびかかっちゃう、公務執行妨害の現行犯だ。
こういう場合の大人ってのは、秩序の側の人物、集団の長、事態への決定権のある人物なんだよな。
しかし須賀もリーゼントの刑事も超常を理解できない、事態の部外者なわけで、
この物語には、少年が父性に立ち向かう、息子が父と対決する、
勇者や英雄が魔王に挑む。という構図がない。実に斬新だ。革新的。
そういえば、小説には高井安井っていう名前が出ない。それもいかにも適当につけましたって名前だがw
リーゼントと中年の刑事という表記だ。
名の無いものとは戦うという発想にもならないw
白い竜にも顔や目がない。顔がないものとは戦うという発想にもならない。
敵、敵対者、対立、支配者、打ち倒すべき上位存在。
そういう対象として認識されないように、
新海誠は刑事と竜に、名と顔を与えなかったのではないだろうか。
陽奈を救うために必要なことは、
須賀や刑事や竜を倒すことじゃないからなあ。
しかし新海誠は、今後ともバトルな展開とは無縁な気がするw
あえてやらないのか、できないのかも知れないが。
君の名は、でも町長であり父である宮水俊樹をどう説得するかは省かれてたわけだし。
乙事主の采配をモロの語りと回想で済ませた宮崎駿と、そこはかとなく同じな気もする。
父性存在、集団における長、意思決定し構成員に命令する人。
リーダー、ボス、将軍や町長や社長、王様や魔王。
魅力的な敵キャラを創造し、その活躍や対立を描くには、作家自身が自分の中の父性存在を超えている必要がある。多分。
次は風立ちぬのことをスレからまとめていこうと思ってるけど。
須賀は、三年後ではなんか社長って感じのするオフィスをかまえてるよなー。
いわゆるちゃんとした大人になったということだろう。
小説では「自分たちが世界の形を変えちまった?自惚れんなよ」のセリフに続きがある。
「妄想なんかしてねえで、現実を見ろよ現実を。いいか若いやつは勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めててもそこにはなんもねえの。大事なことはぜんぶ外側にあるの。自分を見ねえで人を見ろよ、どんだけ自分が特別だと思ってんだよ。」
お、おう・・・。
これは映画のテーマと完全に逆、反転のセリフではないかな・・・。
この社長須賀、大人須賀は、もう我知らず涙を流すことも、少年に共感して警官にとびかかるような無謀なことをすることもないに違いない。
いわゆるちゃんとした大人に、なってしまった。ということでもある。
それでこそ、社会的な地位を獲得し、他者を雇用したり養ったりもできるということかもな。
対比、陰陽は、優劣ではない。
大人も子供も、同時、同等に存在するのが健康な社会というものだ。
夏美は三年後の姿は描かれない。
小説ではカーチェイスの後、夏美のモノローグがある。以下引用。
私はここまでだよ、少年。
私の少女時代は、アドレセンスは、モラトリアムはここまでだ。
少年、私はいっちょ先に大人になっておくからね。君や陽菜ちゃんがどうしようもなく憧れてしまうような大人に、早くああなりたいって思えるような大人に。
とびきり素敵な、圭ちゃんなんて目じゃないまだ誰も見たこともないようなスーパーな大人に。
遠ざかっていく思春期の背中を見つめながら晴れ晴れとした気持ちで私は祈る。
だからちゃんと君たちは無事に帰ってくるんだよ。
ここまでハードルあげた素敵な大人を、ワンシーンでは描けないから省略されたんじゃないかって気もするw
新海誠自身の引き出しに、そんなキャラがまだいないんじゃないかという気もw
これは次回作に出てくる人物に託されるテーマな気がする。
きっとその人物は、モラトリアムを過ぎて尚、大人でもあり子供でもある人。
陰陽、能動と受動、論理と直感、科学と魔法、男性的なところと女性的なところを併せ持っていて、バランスのとれた人、調和した人、アートマンであるのではないかな。
・・・いや、そんな完璧超人キャラを造形したら、今度は物語が動かない可能性があるけどww
不完全で足りなくて欠けているから、求めていけるということでもあるわけで。
後、猫飼いの自分には完全に発想の盲点だったんだけど。
帆高が署から逃げて、中年の刑事が須賀のところに来た時、須賀がアメを外に出してたのは、「もう飼い主はいないんだから、どこでも好きなところへ行けよ」だって。
まさか猫を捨ててるところだったとは、想像もしなかったね! 須賀ww絶許www
まあ、帆高を追い出したんだから、そりゃ猫も追い出すし、自分の中の子供の部分も追い出して、みたいな?そういうとこがガキなんだよ須賀さんよ・・・。
で、三年後にデブアメがオフィスにいるってことは、猫を飼うのに責任をもてる大人になれてるということか。
娘の萌花は、まあ公務執行妨害で逮捕だろうから引き取れずで、代わりにアメがそれをあらわしてるんだろうね。
より小さく弱いものを庇護する、それができるのが大人っていうか。
後、自分的に小説で一番良かったのは、陽菜の祈り、願いの感覚の描写だ。引用しちゃう。
息を深く吸い、真新しい空気を肺に満たして、私は両手を組む。目をつむる。
雨と風は私の肌にぶつかり髪を揺らす、世界と私は隔てられていることを肌がはっきりと教えてくれる。
私は頭の中で数字を数えはじめる。いち、に、さん、し、
すると考えている場所ー脳のありかがくっきりと際立つ。
その数字たちを私は全身に散らしていく、真っ赤な熱い血に混ぜて、数字が頭から体中に流れていく様子をイメージする。
思考と感情が混ざっていく、
私は爪先で考えることができるようになる。
私は頭で感じることができるようになる。
しだいに不思議な一体感が全身に満ちてくる。私の境界が世界に溶けだしていく。
自分は風であり水であり、雨は思考であり心である。私は祈りであり木霊であり、私は私を囲む空気である。奇妙な幸せと切なさが全身に広がっていく。
ここから話が一気にあやしくなるが、そういう話こそがこのブログの主題だww
これはなかなか優れた瞑想のメソッドと感覚の詩だと思う。使える捗る。
これが導入で、その先にコマンドの文章もある。
が、コマンドには代償が伴うので引用はしないでおこう。
代償の無い、危なくない方法は、クリーニングだ。
指向性を生むのには同等の反作用が生じるが、
指向性を手放すのであれば副作用はない。ていうかね。
ソフィの解呪、「すべての魔法を解く魔法」やイマジンブレイカ―、ギガスレイブのような、解く、消去、無に帰す系のスキルこそ究極という物語の示す直感はマジだ。
こんがらがったものを手放していけば、おのずとすべてはインスピレーションになっていく。
陽菜の祈りも、対比や陰陽を、止揚、冲して和し、反転させてプラマイを0にしている、と見ることができる。
精神と肉体、精神は陽、肉体は陰、
肉体で考えて、頭で感じる、というのは特に面白いイメージだ。役割を反転させている。
それができると、精神と肉体の統合、一致となってシフトアップがおきる。
そして次の段階にいく。
外界と体内、外界が陽で、体内が陰、かな。
肌で隔てられていた二つの世界の境界がなくなり、混じり合い、同一と感じられるというなら、
全は一、一は全の、梵我一如の境地だ。空、0まであと一歩だ。
これは割とまじでイケる瞑想法に思える。
シータヒーリングやホオポノポノや般若心経と本質的に同じものがある。
で、こういうイメトレで、脳が0と共鳴してる状態をつくれるようになったら、
そこから何をするかも重要なんだけど、
陽菜は、みんなの想いを感じて受け取って空に届ける、みたいな意識の操作、コマンドをする。
これがあんまり良くない感じする。精神汚染を免れ得ぬ感ある。
シータヒーリングで、創造主にコマンドするという使役のパターンを使ってるのを、
あ、ヤバイなと思ったのと同じ感覚だ。
誰かの、未だ形を成さないような願いを、掬いとって叶えてあげたりしてはいけない。
その人達自身が願いに気が付き、叶えるために力を尽くすプロセスこそがなにより重要な学びなんだからな。
宿題を代わりにやってあげたら、子供のためにならないのと一緒だ。
もしその子がクソガキだったら、一度代わりにやってあげたら味をしめて、何度でもやってもらおうとするだろうし、断ったらゴネだすことすら有り得る。
ま、それはひねくれ過ぎかもしれないが。リチャード・バックのイリュージョンはそういう話だった。
民衆は奇跡に依存し、我も我もと救世主に殺到する。
そういえば、youtubeで、レイアースの無料配信はじまったんだけど。
剣と魔法、異世界、巨大ロボ、ラブストーリー、今見てもかなり詰め込んでて面白いww
自分は当時アニメは全部は見てなくて、漫画版のラストしか見てないから、これから視聴しようと思うんだけど、
漫画版のストーリーでいくと、かなり筋としては天気の子と近いものがあるなあと思った。(以下ネタバレあり。)
異世界セフィーロの安寧をひたすら願う柱、エメロード姫ってのは、
もう柱っていうか、人柱だよなあと思った。
世界の安寧だけをひたすらに願うよう求められ、一人の人間として恋もできないとか、
恋をしたら死ぬしかないとか、人権無視も甚だしいwww自己犠牲の強いられ過ぎだ。
で、二部ではその柱ひとりだけが世界を背負うとかいうシステム自体をやめることが物語のアンサーになる。
人柱システムからエスケープした天気の子とアンサーとしては同じだ。
モコナは白竜とイコールだ。白い獣。人智以上の世界の在り方の象徴。
柱システム、人柱システムを廃止すると、世界の在り方が変わる。
セフィーロは人界と繋がるし、東京は水没だ。
星とか世界のすべてではなくて、一国、一都市、そのシステムが適応されてた範囲だけが変化するってのも妙に似てて面白い。
新海誠の感性が、なかよしで連載されてた少女漫画に近いのか、
ロボに乗って戦う漫画を描くCLANPの感性が男性的なのかww
まあ、どちらも陰陽のバランスがいいんだろうな~。新しいものになる。
新しい世界、まあ何をもって新しいとするのかってことだけど。
小説天気の子では、多少、東京の人間たちの意識について描写がある。
晴れ女が空に昇っていく夢、皆が心のどこかでこの青空はどこかの誰かと引き換えだったと知っているのではないか、とか。
陽菜と帆高が帰ってきて、白竜が落ちて、豪雨になったところで、
その時、誰もがおそらくはその雨が普通ではないと感じていた。
いつかこういう日が来ることを、本当は誰もが知っていた。
俺達はずっと感じていた、俺達は別になにもしていない、なにも決めていない、なにも選んでいない。それでもこのまま逃げ切れるわけがない。
世界はいつか決定的に変わってしまうだろうと誰もが予感していて、誰もがずっと知らないふりをしていたのだ。
っていう須賀のモノローグがある。
自分はもう、須賀みたいな人にはなりたくないな。
なりゆきで拾った猫でも、飼うからには最後まで世話をする責任をもつし。
何があっても、誰かのせいだと思うような人生を生きる気はしない。
自分をないがしろにして誰かのために尽くすようなことは、しないと決めたし。
誰にも支配も搾取もされてないから、立ち向かおうとか正してやろうとかいう気もしない。
自分が観測する世界を、解釈するのは自分だ。世界の在り方を決めるのは自分だ。
他者による庇護と支配、過去を再生する世界ではない、自分の創造する世界、それが新しい世界だと思う。
災害も生老病死も、一切の苦が、なぜ苦なのか、手放せばわかるし、とらわれなくてよくなるはずで、
今、この瞬間に何を空から創造し、インスピレーションするか、それだけを感じることがほんとうに生きることだと、少しずつわかるはずだ。
あー、今日もわけのわからないことをたくさん書いて満足ww深夜最高ww