鬼滅の刃、最終巻発売ということで書いておこうかと。
っていうかまた入手困難っぽいなあ。買えるといいけど。
まだ映画には行けてないんだけど、コミックはまとめて読み返してみた。
挟まってたオビにアニメ化直前!とあって、
これ買った頃はこんな大ヒットになるとは露ほども思わなかったと感慨深しw
しかし、改めて読み返しても、なんでここまでの大ヒットになったのかは謎だ。
キャラの造詣はいいし、人間観察が卓越してる。独特の絵は大正時代っていう雰囲気と合ってて、様々な対比の構図があって、時々ハッとするような優れた言葉がある。
いい物語だとは思うし、アニメの映像美も素晴らしかった。
でも全体として、どうにも暗い話だなと思う。
舞台は主に夜で、隊服も真っ黒で、画面が重い。
アニメ一話の、雪に閉ざされた寒々しさの印象が作品を貫いている気がする。
次々に人が死ぬし、元は人である鬼の首が飛ぶ。
推しが容赦なく死んでいくつらたんの連続で、買ったはいいけどあまり読み返さない漫画だった。
この重苦しい漫画がなぜこうも多くの人の心を掴むのか。
ひとつ思ったのは、
最近の災害やコロナ関係のニュースでよく聞くようになった「命を守る行動を」とか、そういうスローガン。
社会が発してるメッセージに対するアンチテーゼなのかもしれない。
鬼滅の刃に登場する隊士達は、誰も命を惜しまない。
「命を賭けるなんて最低限の努力」とか、
「何を今さら己の命など惜しもうか」とか、
そんな言葉が頻発する。
鬼殺隊の理念は、お館様・産屋敷輝哉の唱える「人の想いは不滅」とか、
炭治郎の言う「託されたものを繋ぐ」とか、そういうところにある。
人と人との関係性の環、コミュニティのなかで継承される精神性、ミーム。
個よりも一回り大きなもの、
一族や組織の自我同一性を、個の自我同一性とすることで、個を超えるというか。
みんなの繋がりのなかに自分というものがあるから、
自分の肉体が死んでも、
自分の存在は途切れないんだっていうか、
そういうロジックで死の恐怖、
つまるところは自己の連続性が断絶するという恐怖を克服して、
理念に殉じる、なにがなんでも使命を果たす。
使命、というのは命を使う、と書くけど、
命さえも一種の消耗品として、命以上と定めた価値のために費やすというか。
例えば、刀は大事なものだけど、戦ってたら刀が折れるのは仕方ないこと、
刀を惜しんで戦いに出ないのでは、刀本来の役目が果たせないというか。
刀も命も同じで、
命を惜しんでは、生きるべき時に全力で生きられないってことがある。逆説的だけど。
武士道とは死ぬことと見つけたり、というか、
死を鴻毛の軽きに比す、というか、
スーサイドアタッククレイジーと言わしめた日本人独特の感性の究極があらわれてるとも思う。
道具のように命を用いるってこともそうだけど、
最終巻で隊員が「みんな一緒だ怖くない」と言って無惨に特攻かます場面のように、
みんなで死ねば怖くないの精神、集団での共鳴や同調、付和雷同が個の存続の本能を上回る。
バンザイクリフとか、ああいうことする民族性っていうのは特異なものらしい。
無惨が鬼狩りを「異常者の集まりだ」というのは実に最もなツッコミだ。
世界標準のスタンダードはそっちだ。日本でも平時はそう。
生きることは善いことで、死ぬこと殺すことは悪いこと。
誰だって死にたくはない。
死んだらなんにもならない。というのもよく聞くセリフだ。
自己の保存はあらゆる生命体のもつ根源的な本能で、
どんな生き物も己が生きるため力を尽くす。
鬼の始祖、鬼舞辻無惨の目的は「生き延びる」ことに終始する。
卑怯でも憶病でも小物でも敵前逃亡でも、生き残ればよかろうなのだ。
己が生きることにのみ執心する様は、生き意地汚いとか罵倒されるけども。
生物の在り方として是なのは、無惨のほうではある。
逃げるのも隠れるのも単に生存戦略であり、そこに貴賤を求めるのは人間だけだ。
鬼滅の刃では、生死の善悪が通常と逆転している。
主人公の属する善サイドが、殺すことに固執し死に急ぐ、本能にそぐわない行動様式を持っていて、
悪役の動機は、世界征服でも人類滅亡でも殺しの愉悦ですらなく、
ただずっと明日も明後日も自分が自分として生きていたいっていうだけ。
作品の雰囲気の重苦しさは、そういうところにあると思う。
鬼殺隊の理念は生の本能に逆行していて、どうしても暗い。
鬼殺隊が政府公認の組織ではないのも、
国ほどの大きな組織にとって、鬼狩りの私怨の論理は不健全であり、是としてはいけないものなんだっていう絶妙なバランス感覚なんじゃないかな。
江戸時代には仇討が公的に認められていたけども。
復讐よりも、再興に注力するほうが、人間全体としての利が大きい。
21巻、無限城で炭治郎と無惨が対面する、
勇者が魔王城の最奥に辿り着き、魔王とラストバトルに入る直前の、クライマックスの対話で、
無惨は「しつこい、お前たちは本当にしつこい、飽き飽きする、心底うんざりした。
口を開けば親の仇子の仇、兄弟の仇と馬鹿のひとつ覚え。
お前たちは生き残ったのだからそれで充分だろう。
私に殺されるのは天災に遭ったのと同じと思え。
雨が風が山の噴火や大地の揺れが、どれだけ人を殺そうと天変地異に復讐しようというものはいない。」
およそこのような言い分の魔王は見たことがなくて非常に面白かったけどもw
これ実は一理あるな~って納得したんだよなあ。
人間種にも上位の捕食者がいたほうが生態系として健全になるっていう寄生獣の論理を思いだした。
腹が減るから食う、それだけなら生物の当然であって、責められないのだ。
人間だって鳥や魚を食べる。それを毎回係累の鳥や魚たちに恨まれ責められ、復讐と言われたらどうしようもないもんな。
無惨ひとりが単に生命維持のため捕食する人の数はたかが知れていて、
鬼という種の勢力の拡大をする気もない。
禰豆子を食らって太陽を克服するという目的を果たして、その他の鬼を用済みとして処分するのであれば、
他に大した野心もなさそーな無惨は、
人類全体にとってはほぼ無害な存在になった可能性もあるのではなかろうか?
人食い熊、シリアルキラーが社会に紛れ込んでる、くらいの脅威度。
もちろん周知されれば放置できる脅威ではないけど、
国全体の行方不明者、自殺者、災害での死者数とは比較にならない、ということではある。
藤の花の香り袋をもつなどの自衛策もあるっちゃあるしな・・・。
第一話の家族惨殺で、炭治郎は「熊が出たのか」とか、
過去に人食いの熊が出たのを父親が倒した場面があるけど、
もしあれが熊の仕業だったら、それも自然の厳しさのうちとしていくらか諦めもついたわけではある。
鬼だから、無惨だから、元人間の、言葉や心の通じるはずの同族という前提だからこそ、絶対に許せないって気持ちになるんだよなあ。
まあ、結局無惨も、群衆に紛れて暮らしていたので、衣や住の面で人間社会のインフラを享受していた。洋装女装着物、幅広いオシャレを楽しんでおられたw
人の社会の輪の内側にいながら、熊や天災のような外部要因として扱われたいというのは、ムシの良すぎる話だな。
インフラを、庇護を享受しながら、社会のルールを守らないというのはナシだ。
人類の上位種、捕食者としてのアイデンティティを自覚するなら、人の社会に紛れるのはやめて、野生で独自に暮らすのがスジというものだろう。
さて、無惨様を論破してたら話がどんどんズレていくなw
無惨様の話、すごく楽しい~。ネタの尽きない魅力的なキャラだ。
しかし無惨は精神的にはすごく幼い相手なので、
最終戦の盛り上がりとしてなんていうか、まあその。
炭治郎は優しいというか受け身というか、良くも悪くも相手の出方に合わせていく主人公なので、
成長というか、最も精神的な高尚さに達していたのは猗窩座戦だったと思う。
猗窩座は猗窩座で屈折を抱えた相手だったけど、
至高の領域、無我の境地、道を極めたものがいつも辿り着く同じ場所。
そういうものを志す武人だったので、それにつられて炭治郎もその高み、その境地を得ることができた。
憎しみも怒りもなく、殺気も闘気もない、透き通る世界。
そう表現される、明鏡止水の心。
それが最も自分の心を惹きつけるもので、
もっとそれを見ていたかったし、ラスボス戦でそれ以上の昇華を見られるかとも期待したんだけども。
最後の炭治郎VS無惨は、互いの意志、我のぶつけ合いって感じだったように思う。
最終巻の描き足しページを見るまで感想は確定ではないけど。
まあ、無惨のクソガキ並みの意識レベルではまだ解らないからしゃーないのかな。
則天去私を体現する人格の縁壱の言葉は、無惨の心に届かなかった。
縁壱を化け物として拒絶してしまった。
ちょっとレベルを落として、炭治郎が絶許ムーブでぶつかったからこそ、無惨にもギリ理解できるものとして伝わった。
千年変わらないクソガキメンタルもようやく変化・成長することができたと言えるのかも。
相手のレベルに合わせて教える、というのは大事なことだなww
意識レベル、というのは自分がよく使う考え方で
一次元、水や鉱物、無機物のレベル「存在している」ということを知るレベル。
二次元、植物、原始生物のレベル「個がある、自他がある」ということを知るレベル
三次元、中枢のある生物「自を愛する」を知るレベル
四次元、中枢があり、社会性をもつ生物「他を愛する」を知るレベル
五次元、物質体でなく精神体となる「自他に境はない」を再び知るレベル
六次元、個ではなく、摂理や法のただ運行していくことを知るレベル
そして次元を超えると、至高の、無我の、道の極まり辿り着く、場というか領域というか、空や愛そのものとなる。
このマップを使うと、
無惨は四次元の意識のごく初心者だ。
自分よく似てお気に入りだった累(病身、パワハラ体質)を殺されて、下弦の鬼に当たり散らかすあたりからそう判断する。
自分に似た累にだけ同一視に近い共感を感じて特別待遇とし、その他の人や鬼には一切共感していないので、惨く殺してもなんの痛痒もない。
共感能力の発達度合いでだいたいマップのどのあたりかの見当がつく。
物語中で、最も意識が幼いのは実は無惨ではなく童磨だ。
自分の死、自己の喪失にすら感情が動かないというのは、虫か爬虫類並み。
名前に童、という字がチョイスされているのも興味深い。
意識が成長していくにつれ、誰の痛みも我がことのように感じるようになっていく。
鬼滅の刃では、一人が痣や透明な境地に目覚めると、“共鳴”とされる現象で、次々とそれがその場の人間に伝播する。
基本的にスタンドアローンのはずの脳が、ネットワークでソフトを共有しているようなその感覚、個と全に境がないその感覚が、五次元の意識だ。
ただ、どのような能力も諸刃の刃というか、
他者と意識を共有することにもライトサイドとダークサイドがある。
普通テレパシー的な能力の副作用は人格汚染として現れることが多いけど、
鬼殺隊のメンバーは死を覚悟することでエゴを越えているのでそこはクリアだ。
ただ、炭治郎が先祖伝来の神楽、縁壱との縁、先祖の積んだ恩徳で力を獲得していく一方で、
鬼を世に出した産屋敷一族が代々短命になったり、
鬼と取引する伊黒一族も男児が生まれず、また伊黒小芭内にはその業がのしかかり普通には生きられない、など、
一族、血族、時間も個も超えて深く結びつく集団ゆえのダークサイドも同じだけ描かれるんだよな。
繋がっているということは、誰かのツケを、近しい他から取り立てて帳尻を合わせることも起こってしまう。
そして優しい人、共感能力の発達した人ほど繋がってる誰かの何かを受け取ってしまいやすく、
共感能力が未熟なものほど好き放題に暴れても因果応報も無かったりしてな。
無惨「何百何千という人間を殺しても、この千年なんの天罰もない」というが、
その因業は代々の産屋敷の当主が病身短命という形で引き受けているのだ。
個人単位でなく一族単位でみると、帳尻は合っている。
無惨には理解できないだろうけどね。そういうことって、あるんだよね・・・。
なんかそういう対比が常に徹底してるのがスゴイと思う。
柱合会議とパワハラ会議が対比になってて、
お館様と無惨の、父権としての在り方が両面で描かれたり、
禰豆子と炭治郎の兄妹の絆も、
ともすれば他者を拒み、残酷な世界を恨んだかもしれなかった裏面の可能性として、
縁壱と厳勝の兄弟では、剣技の才と、妻子との暮らし、
互いの欲するものがなんでああも正反対だったのかっていう悲劇だったわけで。
どこを抜き出しても興味深い対比の構造が尽きない。
ああ、意識の次元でいうと縁壱が最も高くて、
境地について語り、ものごとに対峙した瞬間に正解を直感し、感情の揺らぎに振り回されず、世界をただあるがまま美しいと観じている心はもはや六次元に達してそうで、
それは神様並みってことなんだけど。
しかしそういえば鬼滅の刃では、神も仏もない、といった言葉も頻発する。
有一郎「どれだけ善良に生きてたって、神様も仏さまも結局助けては下さらないから」
無惨「この千年、神も仏もみたことがない」
童磨「神も仏も存在しない、そんな簡単なことがこの人達は何十年生きてもわからないのだ。」
あと妓夫太郎の「何も与えなかったくせに取り立てやがるのか、許さねえ、俺の妹を元に戻せ、でなけりゃ神も仏もみんな殺してやる」とか。
なんかこう、脈絡的にこれはキャラの造詣とかレトリックというよりは、作者の実感なんだろうなって気がする。
5巻の見返しに「人生も努力も基本的に報われない、報われているときは奇跡」と、父親が亡くなってる的なことが書いてあるけども。
初連載でまだ若いだろうに、苦労してそうな。
神仏に縋る段階、上位者の庇護を必要とする心の段階を越えると、
人治でなく法治であるこの世界の在り方が見えてくる。
対立物とその止揚は、最も基本的な法だ。
陰陽、男女、天地、光と闇、禍福。
生と死もまた然りで、
復讐のため死に急ぐ鬼狩りと、生の意味も忘れただ生きる鬼達とが対峙するとき、
生と死の交錯するところに、
神仏の介在を必要としない、当人にとって本物の救済を見出すことができる。
鬼滅では人も鬼も死の瀬戸際で走馬灯を見るのがお約束だが、
それで新たな力のヒントになる記憶や、
忘れていた大切なこと、人格の根幹を成すような記憶を思いだしたりする。
人がただ生きていくだけで、辛いことは山ほどある。
でも、みんなそれを見ないフリして生きていくことを覚える。
15巻で「何故忘れていた?あのやりとり、大事なことだろう。思いだしたくなかった、涙が止まらなくなるから、思いだすと悲し過ぎて何もできなくなったから」という義勇のモノローグがあるけど。
義勇だけじゃなくて、みんなこういうのがある。
向き合うのが辛いことを抑制・抑圧していて、
でもその記憶の負荷は消えたわけじゃないから、
ずっと隠れて脳の作業容量を食い続け、人間存在のパフォーマンスを落としている。
ただ安穏と、命を第一に、命を守る行動で、命が大事と生きてると、
そういう向き合いたくなくて棚上げしてるものがどんどん増えて、いっぱいになってしまって、鈍くなって、
だんだん生きてる気がしなくなってくるのだ。
なにを求めているのか忘れてしまって、方向オンチの努力を続ける鬼達のようになってしまう。
鬼滅は、何度も何度も様々なキャラたちの死の淵が繰り返し描かれる。
繰り返し鮮烈に生の根源へと肉薄する。
それこそが、死の気配を遠ざけ、生を至上とする価値観の蔓延した社会が必要とした感覚だったりするのかな。
みんな、生に倦んで、死に飢えてるのかもしれない。
現代では、死は病院のなかで迎え、斎場から火葬場が標準で、他者の目に死が触れることがないけども。
それはごくごく最近確立した常識で、時代を遡るほどに、その辺で身近に気軽に人が死んでいた。
平和で豊かで死ににくい社会って、少子高齢化するんだよな。先細りになる。
いつも身近に死がある危険な社会のほうが、繁殖せねばって本能が強く働くのはある。
鬼滅のラストの、怒涛のカップル成立祭りはそういう感性かもね。
どっちが良い悪いじゃなくて、禍福は糾える縄の如しなんだけども。
昔、インドに行って「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という名言を残したメメント・モリっていう写真集があったな。
ガンジス川には死体がゴロゴロ転がってるって、今でもそうなんだろうか?
藤原信也も福岡出身か~。
百万回生きた猫っていう絵本が流行ったこともあった。
これも死を肯定する衝撃のラストの物語だ。
セーラームーン無印の仲間全員死亡エンドとか、
CLAMPの聖伝の仲間全員死亡エンドとか、
なんか若い女性作家ってそういう残酷な美学を描く人がいるよね。
それはまたいつか解釈してみたい、
鬼滅の刃、やっぱり面白かったよ。