ルックバックめちゃ話題になってて、今さら何か言うのもなーって感じだが。
バズりも冷めてきたところでささっと書いとこ。
面白かったし、
ファイアパンチ、チェンソーマンの文脈から見ても進んでて興味深いなって。
なんかこう構成としては、いつもひねくれてるというか、
タブーを破りまくることと逆張りの作風が特徴だと思うんだが。
ファイアパンチでは環境の寒冷化は氷の魔女のせいと思わせといてアレだし、
チェンソーマンでは銃の悪魔が脅威のラスボスと思わせといてアレじゃん?
中盤で前提をひっくり返してくる。
ルックバックでも中盤で、
引き篭りを部屋から出してハッピーライフのはずが…、という構成なわけだが。
どんでん返しが行なわれた後がむしろ本題だ。
ファイアパンチでは、兄妹、アダムとイブのような男女の原型の関係性を、投影を使って何度もやり直す。
男と女が、死別してみたり、対立してみたり、甘えてみたり、尽くしてみたり。
近くて遠い人の気持ちと、自分の感情を知りたくて、
設定を変え色んな役を演じて関係性の可能性を引き出す。
恋慕のメロドラマだ。
チェンソーマンになると、兄的存在アキとの死闘では、一切の心の交流がない。
アキは彼だけの夢をみて、デンジを見ない。
ここで一度、関係性を断ち切る、拒否されるということが行われる。
すると次でデンジはマキマを食べてしまう。
直接捕食して一体化する、という極端なことをする。
愛しさ余って憎さがじゃないが、心が離れてしまうくらいなら、相手をまるごと呑んでしまおう、という発想。
まぁ、わからんでもない。
すると支配と被支配が逆転して、母なるものが、守るべき少女に変化する…。
作者は、
すごく密接な自他の関係性をシミュレーションするために漫画を描いてるように見える。
偉いのは、同じことを二度しないこと。
不毛な結末を繰り返さずに、学習して先へ進むのだ。
ルックバックでは、4コマ漫画のやりとり、手紙のような間接的な表現によって、他者を内面化する。
そこだけ見るとすんごく健全なことが起きてる。
今までは、相手の全てを手に入れないと気が済まない、みたいな感じだったのに。
心の篭ったやりとりだけで満足できるようになってるというか。
死の原因はなんであれ、理不尽で唐突な別れとどう向き合うかということ。
誰しも、自分の心を救う為に物語を編む。
それは瞬時に、無意識のうちに行われる記憶の書き換えや正当化、心の防衛反応だったりもするのだが。
友人を部屋から連れ出さない世界線があったら。
悪漢に立ち向かい友人を救える世界線があったら。
それはどうしても考えずにはいられない、自分の心の内の妄想であるはずが、
ドアの隙間からアンサーの四コマ漫画があらわれる。
どうも超常現象というよりは、自作自演的な思い込みのようなんだけど。
しかしそれで物語は現実と接続し、
理不尽な現実は変わらなくても、主人公の内面で何かが決着して、
主人公は友人の死を受け入れて生きていくことができる。
不死や投影や転生を使って、好きな人をなにがなんでも退場させない。
つまり離別や死を受け入れない物語でもあったんだなー、と。
比較して気がついた。
世界に自分の願望を押し付けるのではなく、
移りゆく世界を受け入れて、自分の方が変わっていくこと。
半身のような愛しい人を失うこと。
その容易に癒えない痛みを、どうしようもない喪失を、
覆らない死を否定しないで、それでもどうにか生きていくこと。
これは悪魔が転生するチェンソーマンの世界観ではやり辛いことなわけで、
この読み切りの次にチェンソーマン二部を予定してるとしたら、
かなり期待大になったな、と思う。
ルックバックの作中にもチェンソーネタがいくつかあったし、
なんていうのか、世界観が連続する系なんだよな。
もちろん別の物語を始めるのであっても、全然オッケー。
テーマが進化していく作家、ほんと好き。
人間の心の成長の過程を追体験することができる。
藤本タツキ、今後も要チェックだ。
一見狂ってるようで、ものすごい根本的に問題に向き合ってるマジメだなーって思う。
大人は誰も問題にしない前提から考え直してるからああなるんだろうな。
「なんで人を殺しちゃいけないの」とか「死ぬってなに」みたいな五歳児みたいな感性を出発点に、ひとつひとつテーマを積み上げてる。
彼はどこまで昇っていけるだろうか。
チェンソーアニメくるぞ~
チェンソーマンの記事
テーマが進化してく作家代表。その変遷を解釈する。
この表紙すき。男女、火と氷、赤と青、動と静、陽と陰の対比いいよね。