ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

崖の上のポニョを解釈する2 タロットカードとの照応。

ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ [DVD]

 

ポニョとタロットが関係あるってのは割と有名な話なのかな?

自分もまとめサイトのコメント欄でヒントをもらって、大澤義孝著のタロットの謎という本を買って勉強してみた。その本が面白すぎて、後でマルセイユ版のカード一式も買ったったw

 

ポニョのストーリーはタロットカードの大アルカナ順に展開していく。

 

ちょっと興味はあるけど、タロットを調べるのは面倒だな~。という人のために対応している意味や場面をざっと書いてみる。図像は気になったらググってくれw

ちょっと順番が前後するのもあるんだけど。

 

番号なし 愚者

道化(ピエロ)、追放された者、2つの世界を行き来するもの、光る袋、など。

冒頭のシャボン玉の中にいるフジモトだ。あの化粧の濃い奇妙な服のキャラデザは道化なんだね。

 

2番 女教皇

ヒロイン、未婚の女性性、物語の力、赤いローブ。ポニョ登場。

 

1番 奇術師

少年、トリックスター、奇跡をおこすもの。そうすけ登場。

 

3番 女帝

母親。リサ登場。

 

6番 恋人

ポニョがそうすけの血をなめるとか、「僕が守ってあげる」「そうすけ好き」とか諸々。相思相愛でカップル成立の辺り。

 

7番 戦車

ピンクの軽自動車、リサカー。

 

4番 皇帝

父親。またフジモト。水撒きしながら、娘を取り返しに来る。

 

5番 教皇

教師。保育園の先生

 

8番 正義

人事を裁量するもの。

「関係ないもの持ってきちゃいけないんだよ」と言うくみこちゃんだ。

 

9番 隠者

老人、隠遁するもの。ひまわりのおばあちゃんたち。

 

10番 運命の輪

「運命ってあるんだよ」とリサが言うw

あと道がめっちゃカーブしてて、ぐるぐるハンドルをきる。運命の輪の回転運動だ。

 

11番 力

女性が獣を御している図。リサがそうすけを抱きしめる。

あと園にもゾウのぬいぐるみを持った女児がいたな。

 

12番 振り子または吊るされた男

子宮で眠る胎児。泡に閉じ込められたポニョ、さかさまになってる。半魚人に変わる。生まれ変わる。

 

13番 無題あるいは死神

ここより先は人界の外、人智を超えた世界、自然界など。

命の水を貯めた井戸があふれて、世界の蓋が開いて、電波と言う電波がダメになり、世界が魔法の力に満ちたデボン期の海のようになっていく。

 

14番 節制

液体をコントロールする。魚の波の上を走るポニョ、水を操っている。

 

15番 悪魔

これはやや要素が分散している。

灯りをもって駆け回るのは、松明をもった悪魔か、お茶にしたりご飯にしたりというのが宴をしているともとれる。アンテナもなんか二股のツノみたいにも見える。

 

17番 星

アンテナを立てに庭に出た時など、滲んで大きな星が印象的な星空。

 

16番 神の家または塔

「この家は灯台なんだよ」というセリフ。

 

18番 月

印象的な月のカットが何回かある。後述する。

 

19番 太陽

翌朝、太陽のカットもある。が、雲がかかっているぞ・・・。重要、後述。

 

20番 審判

トキさんとフジモトのどちらを信じるか、という審判。

審判の天使、グランマンマーレとの会話。

 

21番 世界

グランマンマーレ「世界のほころびは閉じられました」

 

 

見事にタロットどおりなんだよな~。タロットという魔方陣のとおりに物語の要素を配置してて、しかもその魔法に振り回されず、物語が成立してる。卓越した天才の所業というほかないww

 

まあ、ポニョ=タロット、だけじゃ「で、だから何?」だろうから、解釈を進めていこう。

 

18月の前に、20審判21世界のあたりを詳しくしよう。 
審判、というのは、ある世界の終焉に際して、全てを明らかにする。 
次の段階へ移行する際に総決算やテストをする、進級試験、みたいな意味でいいかな。

 

キリスト教的な世界観だと、天使がラッパを吹く合図でこの世が終わった時、最後の審判がある。すべての死者は甦り、その所業のすべては明らかになり、天国に行くか地獄にいくか決まる、とかなんとかいうやつだ。

 

審判の天使、それはグランマンマーレだ。

 

ポニョが「お母さんとーっても怖いよ」と言っていた。 それは彼女が人智を超えた存在であるということだろう。

観音様の御神渡りだ〜という畏怖を感じる存在だ。

彼女はフジモトの心を読む。彼女の前では何も隠せない。 
8番正義のくみこちゃんのように、人間が理解できる範囲の理屈に基づいて何かを判じるわけでもない。 
彼女の基準は人智の想定外だ。 

20番 審判 の場面 
トキさんとフジモトのどちらを信じるか、っていう状況がテスト、試練、審判ぽい。

トキさんは「人面魚が上がると津波がくる」という迷信を信じていたり、 (まぁ津波は来たけど)
そうすけの折り紙の船をバッタだと言ったりする。

グランマンマーレやフジモトを信じないで「あたしは騙されないよ、うまいこと言って皆を連れていっちまったんだ。」と1人だけ山の上に残ってる。足はフジモトに治してもらったんじゃないのか?まぁいいけど。

 

宮崎駿の実母がモデルらしいけど、これは多分、三次元の人類代表、お魚の段階の人間として描かれているんだろう。 
迷信を信じ、直感に欠ける。でも愛情がないわけじゃなくて、どこか憎めないみたいな。


フジモトは、人間をやめたとか、悪い魔法使いとか言われてたなw

何百年とかかって井戸に精製した命の水を貯め、汚れた人間の時代を憎み、再び海の時代をもたらそうと目論んでいる。

まあ、脇が甘くて、娘に甘くて、憎めない男ではあるけども。道化だし。

 

そうすけは、フジモトに背を向けトキさんに向かって走る。

それは転覆や革命でなく、愚かしさをただ愛する、とでも言うのかな・・・。そういう選択だ。

 

「ぼく、お魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョも、みーんな好き」そういう宣誓だ。

 

お魚、トキさんみたいな、頑迷で物質に生きる人類も、

半魚人、リサみたいな、不思議なこともそのまま受け入れる、勇ましい戦士の人類も、

人間、そうすけみたいな自立してて直感に優れてて、やさしい人類も、

みーんな一緒になって生きて行こうね、っていう。

 

そうすけの選択、宣誓はグランマンマーレによって受理される。

審判には土くれの人型に新しい命を入れる、という儀式や、新しい世界へ生まれ変わるという意味もある。

お魚のポニョは五歳の人間の女の子へ生まれ変わり、

 

21番世界、命の水によって洗われ満たされた、新しい世界が始まる。

ポニョは、そんな物語だ。

 

ところで、トキさんとくみこちゃんは水色に白い襟の良く似たワンピースを着てる。

ポニョをディスって水をかけられて服が濡れて台無しという同じような目にあう。

タロットの本によると、隠者の中に女教皇が隠れている、表裏一体であるという暗喩があったり、 
老人と少女は互いにないものを補完しあうという意味でよくペアにされる、というネタがある。

これもタロットネタで間違いなしw

 

さて・・・、タロットでは18番月、というのはあまりいい意味のカードではないという。
月が好きな人はこの先は閲覧注意だ。

ポニョは海の話なので、潮の満ち引きを起こす月は当然重要アイテムだ。 

月の絵がある場面を見ていくと、 
舟の墓場?の上に海がおそらく月の重力に引かれて盛り上がっている。 

月は画面の真ん中にどーんと大きく描かれる。 
その次の19番太陽は画面の左寄りに小さく、しかも雲がかかって描かれる。 

これは色んな意味にとれる・・・、が月(見えない世界・魔法)の力が増して 
太陽(見える世界・文明)の力が霞んでる、弱まってる、としておこう。


そしてフジモトが更に大きくなった月を指して「もう時間がない」と言う。 
どんどん近づいてきてやばい、脅威である、状況にタイムリミットがあるってことに月が使われるんだな。 

アルさんのまとめにも、月に違和感を感じる、人工物な気がするとあったが、 

大澤義孝のタロットの本にも似た印象の記述がある。 
月の図像には横顔が描かれるが、半分の顔しか見せない、裏の顔があるという意味。 
月の下には犬が2匹いて、それは争う二つの陣営の意味だったり、 
四角いプールにザリガニがいるのは養殖池ってことだったり。 

絵で月に向かって雫が落ちているのは、どこぞのインキュベーターのように、 
絶望と希望の相転移の感情エネルギーを吸い上げて利用してる存在がいるんじゃないか、 とか書いてあるwww怪しすぎるww楽しいww 

だからっていうか、まあ、 
ポニョでも、サリマン的な支配するなんかの象徴として月が描かれてる気がする。 
敵キャラ、ボスキャラの代わりに月が使われてるって感じかな。

 

18番月、支配するものの勢力が増し、19番太陽、二人の子供をおびやかしている、ともとれる。(太陽の図像には双子がいる。)

 

次元の上昇の試練も、あんまりのんびりした話でもないらしいし、

子ども達の心を塞がせるような陰謀もいっぱいあるっちゃあるからな・・・。

崖の上の、というけど、人類は今まさに崖っぷちにいるという意味かもねw

 

その辺はスレでは詳しくしたけど、ブログではどうしたものか。

とりあえず書くけど、もうポニョからは逸脱しますのであしからず。

 

いわく、人類種の次元上昇を阻止しようとする勢力がある。

四次元の意識レベルの宇宙人でアルさんは便宜上ネガティブ系宇宙人と呼んでいた。

彼らの方が知能が高いので、政治の中枢とかにいて、色んな方法でヒトの意識のレベルを下げようとしている。

あからさまに、ではなく。生活の中に少しずつ毒を混ぜ込んでくる方法が多い。

 

水道水に塩素。農薬、殺虫剤、化学調味料、保存料、添加物。

ケムトレイルで毒を空中から散布。

インフルや子宮頸がんワクチンの保存料にアルミだか水銀。

 うつ病と診断して大量の薬を飲ませる。

ハイブリットカーやwi-fiの強力な電磁ノイズ。

どこもかしこもファブリーズでファブれと訴えてくるCM、

シャンプーや界面活性剤、柔軟剤、経皮毒

 

ま、そんなもの全部を生活から除こうとすると、かなりの手間になるだろうね・・・。

それだけ愚民化社畜化の洗脳と施策は浸透してしまってるってことだ。

 

そういえばポニョはハムが好きだ。

最初にハムを食べる場面はヨモツヘグイでもあるけど、

フジモトは「あんな恐ろしいものを食べたのか!?」って言うね。

ハムてのは、豚を畜産するノウハウ、その肉を長期保存する燻製加工のノウハウ、人の文明が発達したことで食べられるようになったものだ。

そんで、日本ではそれをできるだけ安く食べようと工夫するうち、ハムといえば燻製もしてない増粘多糖類とかナントカたんぱくとか着色料とか香料とかの、肉と混ぜ物の塊のことを指すようになった。

そういう背景まで鑑みて、好物がハム、てのはなかなか象徴的で納得のチョイスだと思う。

 

健康を害するものが氾濫してる状況を知れば知るほど、義憤を感じるのは当然なんだけど、怒りも意識のレベルを下げる。

悲しみも同様だ。かと言ってあまりに無知無関心でも毒まみれになるからなぁ。

 

フジモトの「いつまでも幼く、無垢であればいいものを」ていう気持ちもわかる。

ほんと、こんな毒まみれの世界に生まれてくるなんてな。優しくて清浄な存在は、レインボーチルドレンになんて生まれてこないで、ずっと天上の世界で清らかな存在のままでいればいいものを。きれいなものが汚れてしまうのは悲しい。

それでも生まれてきて、毒にまみれても優しさを失わないか、みたいな試練に挑むわけだ。お魚レベルの人間たちのためにな。泣けてくらぁ…。

 

 

漫画ナウシカのクライマックス、墓所の番人とのやりとりで、そういう義憤とかどうしようもなさが言語化されている。

ナウシカ達は腐海の毒に耐えられるよう遺伝子改良された人造品種であり、

そのような操作をした旧人類の代表が墓所の番人だ。

彼らは、同様の人造浄化機構である腐海が環境を回復させるのを待って復活するつもりでいる。

 

ナウシカは支配者にこう言い放つ。


お前は、亡ぼす予定の者達をあくまであざむくつもりか!! 

おまえが知と技をいくらかかえていても 
世界をとりかえる朝には結局ドレイの手がいるからか 


私達のからだが人工で作り変えられていても 
私達の生命は 私達のものだ 
生命は生命の力で生きている 


その朝が来るなら 私達はその朝にむかって生きよう 

私達は血を吐きつつ くり返しくり返し 
その朝をこえて とぶ鳥だ!! 



引用ここまで。 
どれだけ毒を流し込まれても、その朝に向かって生きよう。 
それこそが番人達が最も恐れていることだ。

ナウシカ墓所巨神兵のビームでぶっとばしちゃうんだけど、それは実は本質的解決ではない。

宮崎駿も若い時はそういうオチをつけたけど、ハウルではそうではない本当の自立を描いている。

で、ポニョではもう、月でそれを暗示するだけになってるw

駿は同じことを二度は描かないんだよなあ。常に新しいテーマを描く。すごいポリシーだと思う。

 

だから、自分たちの健康、クオリティオブライフを守りたいなら、

暴いて抗って対決して毒の流布をやめさせようとするよりも、自分の心や体の声を聞けるようになること、センサーの感度をあげることだ。

 

なんか変だな、とか、これは体に合わない気がする、という直感、自分の体が発する警報を察知することだ。

 

国や大企業がやってることだから安心とか、CMでやってるから平気とか、みんな食べてる、みんなやってるから大丈夫とか、そういうのは何の役にも立たないガラクタの思考パターンなので、手放すことだ。

 

科学的根拠とかそんなデータはない、というのは「ただちに影響はない」ていう意味だ。

複合汚染とか生物濃縮とか、複雑で長期的な影響は調べようもない。

科学は単純化の累積で、人体は複雑系だ。複雑なものをコントロールする方法はインスピレーションとなる。これはこのブログ通してのテーマになる。

 

 

まぁ、宮沢賢治注文の多い料理店みたいなもんよ。

なんか変だな、の直感が、舶来だから本格だからという理屈で掻き消されて、

二人の紳士は銃を置いて服を脱いでクリームを塗りこんで、みずから捕食者のご馳走になっていくんだな。

はぐれてしまった白い猟犬は、自らの内に再び見出すことができる。

 

さて、ポニョの髪が素敵な赤毛と言われていたのも駿ワールドでは意味がある。

次のメアリと魔女の花の記事からその辺も書いていこう。

 

 

 

 

 

 


i

 


 

 

 

 

崖の上のポニョを解釈する1 人魚姫、次元の上昇。

崖の上のポニョ [DVD]

海獣の子供の次にポニョの話とかタイムリーだなー。色々似てる。

 

まずは、元ネタにアンデルセンの人魚姫があること。

ポニョのタイトル候補に金魚姫、というのがあったのは割と有名な話だ。

 

人魚姫は王子に恋をして、人の足を得て、陸へ上がってくる。

足と引き換えに声が出なくなった人魚姫を、王子が助けてくれた娘と気が付いて愛してくれれば・・・というやつだ。

 

人間に化けて、波の上を走ってそうすけに会いに来たポニョが、

そうすけに駆け寄って抱きついて頬ずりして、でも一言も喋らないのは人魚姫のオマージュだ。

そうすけがポニョを見つめて、「・・・ポニョ?」と気が付くから、

そこではじめてポニョは「うん!」と口をきくことができる。

童話の鈍感系王子と違い、そうすけは有能ムーブを決めまくるのよな。スパダリ5歳児っすわ。

妹たちが金色の夕日のなかでお祝いしてくれるのは、人魚姫の悲恋が成就したからだ。

人魚姫のラストシーンは金色の朝日とともに泡、空気の精になるところだ。

 

まあ、アンデルセンの人魚姫は悲恋だからこそ不朽の名作なのであって、安易にハッピーエンドにしてしまうのはどうなの?とも思うけども。

 

もう、そういう悲しみとか不理解とかすれ違いの時代そのものが、

世界そのものが変わるんだよ、という壮大な変革、いや上昇の物語なんだよな、これ。

 

カタい頭を柔らかくして観ていかないとわからない。

カッッッタイ頭のウチのオヤジは「この子供はなんで母親を呼び捨てにするんだ、けしからん。」と、そんなところでつまづいて、さっぱり物語の意味もわからないようだった。お気の毒様だ。

 

確かに、そうすけは父母をリサ、耕一、と名前で呼ぶね。

なんでかっていうと、物語の主人公ってのは親に頼ってちゃ冒険ができないからだ。

困ったことが起きたら、自分の知恵と力でなんとかする。自立した存在でないと物語のなかでイニシアチブをもって行動できない。

パパママ~どうしよう助けて~、と泣いちゃうような子は主人公には向かないw

宮崎駿作品に限らず、物語の主人公の少年少女は親と縁が薄いことが多い。

五歳のそうすけに保護者がいない設定には無理があるから、リサと耕一がいるけど、

そうすけはすでに精神的に自立している。リサもそれを認めてるし、そうすけがリサを慰める場面すらあるw

 

子どもの方が、親よりも精神的に大人ってことは、割と良くあるし。

今後そういうケースは増えていく、はずだ。

儒教的な古い常識を外して、5歳の子どもになった気持ちで見るのが楽しむコツだと思う。

 

 

そういえば、そうすけの「死んじゃったかなあ」というセリフが2回もあるのは、

ハウルの動く城マルクルのセリフと一緒だ。マルクルもそれを2回言う。

 

ポニョとハウルで、なにか繋がりがありそうだな~っていうのは、

車椅子の老婦人、が登場するところだ。サリマンとひまわりのおばあちゃん達。

特に赤い車椅子に赤いひざ掛けのヨシエさんとかだ。

サリマンの服も真っ赤だったけど、宮崎駿ワールドでは、赤とか赤毛ってのは魔女の色だ。意味もなく使うってことはない。

赤を身に付けた老女たちだから、バケツの中にいるものの色を赤だと当てられたし、

終盤で車椅子を乗り捨てて、駆けっこしたりして、不自由だった足が治っているのは、サリマンへの救済だと見ていいと思う。

 

ポニョは、お魚、半魚人(というかカエルの顔に見える)、人間と3つの姿を行きつ戻りつするけど、

いわゆる進化論的に言うと、魚類(水棲)、両生類(水陸両用)、哺乳類(陸棲)
海で発生した生命は、様々な能力を獲得して複雑化しながら上陸し、繁栄していく。

魚、蛙、哺乳類ってのはざっくりと生物の進化の過程でもある。

 

そして人間も受精卵からの発生の段階でその過程をたどりながら成長するって話もあるね。
胎児の手には水掻きがついてる、とかそんな話を聞いたことがあるはず。

 

・・・昔、手塚治虫メルモちゃんていうアニメがあって、
若返るキャンディーと年を取るキャンディーを同時に飲むことで、
受精卵までさかのぼって若返り、そこから育って魚とか猫とか別の動物へ変身するってのがあって、
そこは子ども心に強烈に覚えてるなあ。


変身するだけ、姿を装うだけなら、魔法ですぐなんだけど、眠るとか何かあるとその魔法は解けてしまう。一時の変装みたいなものだ。

お魚がほんとうに人間に生まれ変わる、特別な魔法にはそれなりの手順というものが必要だと描かれる。

 

ポニョとそうすけはリサを探しながら、暗くて狭いトンネルをくぐる。宮崎駿お得意の舞台装置だ。
トンネルを進むと、ポニョの人間の姿は半魚人、お魚へとぐんぐん戻っていく。
進化の道筋を逆にたどる、つまり胎内回帰だ。産道を逆に通っている。
そして受精卵、胎児からあらためて人間へと生まれ直すっていうかね。

 

ポニョとそうすけが船旅の途中で、夫婦と赤ちゃんに出会うのも手順のひとつだ。
お魚から、五歳の女の子に生まれるポニョには、授乳とか抱っことか父母に世話されて育つとか、人間の乳児としての体験に欠ける。そのフォローの場面だと思われる。
お魚のポニョは姉妹の数からしても卵生って感じだからな。赤ちゃんがおっぱいを飲んで育つことを知らなかった。

 

フジモトは、人間になる魔法は失敗すれば、ポニョは泡になってしまうと言う。
それは恋が叶わなければ泡になる人魚姫の話でもあるけど、
その後グランマンマーレが言う「あら、わたし達はもともと泡から生まれたのよ」
っていうこれは、ヴィーナスの誕生パンスペルミア説だな~と思う。
人工衛星が流れ星になって落ちまくる場面でそれを言ってるしな。

 

パンスペルミア説、君の名は海獣の子供でお馴染み、生命の起源は海に落ちた隕石に含まれていた有機物にあるというもの。
ヴィーナスの誕生は、それと象徴的にとても良く似た神話だ。ボッティチェリの絵で有名なアレ。
天父神ウラヌスのナニが海母神ポントスに落ちた泡から美の女神が生まれた。
ヴィーナスは元はギリシャ語でアフロディーテ、アプロス、泡という意味だ。

泡の女神、太古の海の女神、グランマンマーレもそうだし、怪獣の子供の女神の姿をもつクジラもそうだ。

 

さて・・・。

この先ポニョを解釈しようと思ったら、どーしても、あるスピリチュアルな世界観を引用しないといけない。

ま、信じる信じないは置いといて、物語の下敷きになっているある設定として理解したらいいと思う。

 

それを説明するサイトや本は色々あるけど、ネットで無料で読み物としても面白いのが、アルさんの話だ。

おうまがタイムス

アルヴィースの歌

 

自分は、数年前マジでかなり思い詰めてて病んでた。リアルに病気もしてた。

その時、なんでかめっちゃこの人のフィーリングに癒されて、何度もこの記事を読んだし、

もっと言うとこの人に貰ったものをいつか返したいと思ってたのもあって、ハウルの解説スレを立てて、スピ話も始めた。

 

まあ、ポニョの話の元ネタになっているキーワードは

次元上昇・アセンション・意識の次元

スターシード・インディゴチルドレン・レインボーチルドレン

とかかな。 

 

ポニョに要るところだけ、適当に引用すると、えーと。

 

今現在、地球は三次元の物質現実の星である。

でもそろそろ、地球は四次元だか五次元へと移行する。それは星のライフサイクルなので確定事項だ。

すべてのものと同じように星もまた生・旺・死のサイクルのなかにある。

そこに住んでる現行人類の、意識の次元も三次元から四次元へ上昇移行しないと、

まあ多分緩やかに滅ぶだろう。星のエネルギーと同調してる生物が繁栄するものだから。

で、三次元の意識ってどんなもんかってーと「自分を愛することを知る」これが課題の段階。

四次元の意識は「他者を愛することを知る」が課題の段階。

 

 これは割と、ヴァイアナ・スタイバルの本の、存在の層の概念とも一致する。

一層、一次元、は無機物、水、石、テーマは「存在しているということを知る。」

 二層、二次元、は有機物、植物、単純な生物。テーマは「個としての意思があるということを知る」

三層、三次元、で中枢や脳のある動物、テーマは「自分を愛することを知る」

四層、四次元、で精神、見えないエネルギーを扱える。テーマは「他者を愛することを知る」

五層、五次元、で神聖存在、テーマは多分「自他は同一ということを知る」とかじゃないかなー。

 

で、

この星の次元が上昇移行するのに合わせて、

人類の意識も上昇移行できるか、次なる存在へ進化できるか、っていうテスト、試練みたいなものがあるらしい。

 

これから、いや既に。この星にとても上位の次元の存在が、人の姿で生まれてくる。

彼らはクリスタルチルドレンとか、レインボーチルドレンとか呼ばれる。

高い能力、繊細で優しい心をもって生まれてくる彼らが、心を閉ざさずに育つことができるか、っていうのが、そのテストの内容なんだってさ。

 

つまり、そうすけがクリスタルチルドレンで、ポニョが人類で、試練を監督するのがグランマンマーレなわけだ。

リサは、インディゴチルドレン。繊細な子どもを守り育てる能力をもって生まれた戦士の役割だという。

リサは藍色と白の服を着てて、それは海の物語に相応しいマリンカラーでもあるけど、藍はインディゴでもある。

活発を通り越した勇ましい性格をしてるのも戦士と言われれば納得。

 

リサは、そうすけのような子を良く育ててる。

リサは抜かりなくそうすけを車に入れてから、

不審者のフジモトの前に立ちはだかり、気合を入れて睨む。警告する。

普通に考えて大変危ない対応だ。ああいう状況ではスルーか通報が望ましいと思う。

で、リサ「なーによあのブキミ男!なーんて言っちゃだめよそうすけ、人は見た目じゃないんだからね」

そうすけ「僕、言わないよ。」

うん、そうすけは言わないだろうねw

クリスタルには戦うという発想がまるで無い。

優しいオープンハートでもあり危うい無防備でもある人種なのだ。

 

で、そうすけ「波の上に女の子がいる!」で、リサは車を停めてちゃんと辺りを確認する。

子どもの言葉をほんとーにちゃんと聞く親なんだな。普通ならそんなわけないでしょ!で一蹴して先を急ぐ状況だと思うw

 

あと、耕一が不在なので、リサは父親も兼任している。父性原理で行動する場面がある。

ポニョが来た夜、ひまわりの家に行くと言って夜から出かけてしまうところとか。

そこも普通に考えて母親なら子供最優先で傍にいるべきではなかろうか。

職場が気になるから行く、ていうのは仕事に責任を負う父的な発想だと思う。

 

ていうか、宮崎駿の作品には、父性キャラが欠如してるんだよね。はっきりと。

クシャナとかエボシとか湯バーバとかリサとか、強い女性が集団のリーダーを担ってる。

このトピックは面白いので別記事にまとめる。

 

ま、とにかくリサは、そうすけがそうすけらしくいられるよう育てる。

インディゴチルドレンの親が、レインボーチルドレンの心を閉ざさないよう育てる。

それで試練はクリアになって、ポニョは人間になる。お魚が半魚人に人間に。三次元が四次元五次元に。

存在が生まれ変わって、進化して、次元が上昇する。

 

命の水の井戸があふれて、新しい秩序と法則になった世界に相応しい種となる。

 

グランマンマーレがリサに「ありがとう」と言うのはそういう意味もある。

そうすけをまっすぐに育ててくれてありがとう、

みーんな好き、と言うその宣誓が人類代表の宣誓として認められて、

新世界と新人類がスタートしますよ、みたいなね。

 

そんな風に、なるといいよな。

 

 ・・・・もし、ならなかったら。

人類の次元が上昇できず、滅亡ルートに入ったら。

その場合も火の七日間みたいな終末戦争になるのか、

恐竜絶滅の時みたいに隕石でも降って環境が変わってしまうのか、

ヨコハマ買い出し紀行みたいな緩やかな黄昏の時代になるのか。

人類は衰退しましたとか翠星のガルガンティアみたいに、星の主役は他の優れた知的生命体になり、人類は端役としてそれなりに存続するのか、

それも色んなパターンの物語があって面白いので、一概に絶望することもないと思う。

 

 

inspiration.hateblo.jp

inspiration.hateblo.jp

 

 

 

見えない世界の歩き方1 ロードマップ

ポスター ウォールステッカー 正方形 シール式ステッカー 飾り 30×30cm Ssize 壁 インテリア おしゃれ 剥がせる wall sticker poster 写真・風景 風景 山 朝日 青 ブルー 008459

 

 当時のスレから質疑応答などをまとめとく。
物語の本筋からは脱線してる、スピやオカルトやニューエイジや神秘思想な、見えない世界の話。


まず見えない世界のロードマップについて。
これはかなり普遍的で、どんな物語を解釈する時にも、リアルワールドで見えないもののことを思う時にも、応用可能で捗る世界観だ。

ヴァイアナ・スタイバルの著書はこれについて詳しい描写がある。
このブログでも今後ともずっと使っていくもののひとつなのでざっと引用する。

存在の第一層、無機物。元素、鉱物、水、結晶構造をもつもの。
存在の第二層、有機物。植物、自然霊、
存在の第三層、肉体、動物。脳のあるレベルの生物。
存在の第四層、精神、霊魂の領域。異界。
存在の第五層、あらゆる神聖存在から悪魔まで、自我や意思あるものすべて、異界。
存在の第六層、法。法則。陰陽、因果、作用、次元、波動、時間、幾何、数秘、指向性・・・。

存在の第七層、0、無限、空(くう)、愛、アルケー、創造、原初の混沌、混元・・・。


どの層でも、その力を引き出す方法がある。

物語でよく使われる、召喚や使役は四層五層のメソッドだ。
ポケットモンスターFate陰陽師、FF召喚獣とか。
モンスターボールや英霊の所縁あるアイテム、形代にお札とかマテリアとか、彼らとなにか取り引きすると、なんらかの契約の証や代償が必要になる。お礼参りとか。

 

それより高度な第六層のメソッドを使う物語もある。

鋼の錬金術師、とんがり帽子のアトリエ、魔術師オーフェンとか。
これらに登場するメソッドは、異界の存在を仲介せず、図形やイメージなどによって直接に法則やきまりごとによる力を引き出している。

何と何が等価に値するのかは、実際のメソッドを納めないとわからないが、
それは厳密なものなのだと、等価交換 をハガレンは何度も念押しして言っているよね。
とんがり帽子でも描く図形の正確さは効果に直結してて、
オーフェンも集中してないと術が壊れて危険だとか、そういう設定の細かさとか術者の技量の重要さがくり返し描かれる。

法の層の感覚にはそういう厳密さ、緻密さがある。

 

 

そして真理の扉があり、その奥がある。
あの奥の力を使おうとするときは十分に準備を整え、注意しないといけないということも、エルリック兄弟の失われた肉体は教えてくれる。
黒い空間、第七層に不完全なアクセスをするとああいうふうに、 持っていかれる、ということが起きるのもわかる。

 

カードキャプターさくらは面白くて、
小学生編では異界存在の使役の魔法を使い、
中学生編では、使役なしに法の力を使うような魔法になってる。
なんか、クリアカードは人格を感じない描写になってるんだよな。それは法の感覚だ。
成長につれて魔法のメソッドも高度化してるという。スゲー。


第七層の力を示唆する物語もある。
ソフィの奇跡。メアリと魔女の花の「全ての魔法を解く魔法」、果てしない物語の虚無、スレイヤーズのギガスレイブ。とあるシリーズのイマジンブレイカ―。呪術廻戦の無量空処とか。

魔術師オーフェンでは、それは人が扱える魔術の範疇じゃないんだけど、とても優れた言葉でその感覚をあらわしてる。

全知全能、ゆえに零知零能、だ。この辺もまたおいおい書いていきたい。

 

意識の次元というのは、アルさんのブログとまとめから使ってる。

http://allwise-song.blogspot.com/2015/04/Dimension.html

 

存在の7層と大体対応してる概念だ。

ある存在が発生し成長しながら、各層で会得してくテーマがある。

 

一層は無機物。意識は一次元。

「存在している」を知るステージだ。

二層は植物、原生物。意識は二次元。

「個がある、自と他があると知る」そんなステージ。

三層は中枢のある動物。意識は三次元。

「自分を愛する」を知る。

四層は中枢があり、社会性をもつ動物。意識は四次元。

「他者を愛する」を知る。

五層は肉体や個体ではなく、精神体となると思われる。意識は五次元。

「自他は同一である」そんなステージだ。

六層は法、もう人格とか心とかではなくなる。

「摂理となって運行する」そんな感じだと思う。

七層は、有限を越えた無限だ。有限の環の外であり、0でもある。

もはや全ては成就し、遍く静けさと安らぎだけがあるだろう。

で、そこからまた、全ての創造が始まる。

 

そんな世界観、宇宙観を使って、アレコレを解釈していく。

はっきり言って万能過ぎて捗りまくる無敵のロードマップ、曼荼羅なので心から皆様にお勧めしたいww

 

まぁ細かくは各記事で。

人間という存在のおおむねは、五次元の精神が、三次元の物質の世界で、自分を愛するとかそこら辺を学んでる感じだという。

 

おそらく全ての次元に、陰陽、ライトサイドとダークサイドがあるのもポイントだ。

 

幼い者から老成した者まで、

サイコパスから聖人まで、ごっちゃになって学ぶ意味もその辺にある。

糾える縄の如き禍と福を知り、酸いも甘いも噛み分けないといけんのだろうね…。

 

 

 

 

Qサリマンのモデルは?


サタンとアーリマン、支配者そのもの。
巷で噂の陰謀論で言うなら、
現実面ではイルミナ○○
精神面ではヤハ○○

でも、対立すること、義憤や怒りや憎しみ、諦めなどではそれを越えていくことはできないので、深入りするのはお勧めしない。


人類がのり越えていくべき 支配 というパターンについて興味がある人は、
小室直樹著 イスラム原論、宗教原論をお勧めしたい。

 

巷にあふれる陰謀論の本や動画はなあ・・・。
確かめようもないのに、悲しみや、理不尽への怒りや、諦めなど、 二項対立を煽る感情ばかりが刺激されてしまう。

小室直樹の著作はちょいと厚いが、知的興奮に満ちていて、
目からウロコが落ちっぱなしの面白さだ。本質的な理解への道筋を学べる。


Q堕天してしまう理由。堕天しないためにはどうしたらいいか、教えてほしいです


それはまさに、なぜサリマンが車椅子なのか、ということだなぁ~。

堕落、堕天、闇落ちってなんなのか。

それは道の途中で歩みを止めてしまうってことじゃないかな。

サリマンは車椅子に座っている。ずっと座りっぱなしだ。
温室から出てこないこと、ヒンが道案内の能力を持つことから、

サリマンは自分の足、というか 足が象徴する力 を自分から切り離してしまっている。

それは、先へ進んでいく力、前へ前へと歩いていく力 を失っているってことだ。

 

たとえば
自分はこのスレで神秘について語っているけど、
それはハウルの動く城の読み解きの体裁をとっていること、
誰でもタダで見られるネットで、匿名で無償だから、セーフだ。
自分にとってもありがたい、重要な勉強になっている。

ただ、もし誉められて調子にのって、実名で本を出したり、人を集めたり、
そんな話で名誉やお金を得ようとかするとアウトだ。

道を歩いていくペースは人それぞれでいい。
休憩も寄り道も、必要なことがある。

ただ・・・、人より優位に立てる知見を得たからといって、
それを使って他人と関係性を築いてはいけない。
それは深刻な依存と精神の汚染の温床だ。

スピリチュアルを求めるジプシー達にぶら下がられて
堕落するマスターを見たことがある。自分の師と言える人だった。
とても素晴らしい人だったのに、一時はまるでカルトの教祖だった。
ジプシーたちは救いを求めて彼の一言一句に注意を注ぐ、
彼は注目される気持ちよさに溺れて、次々に神秘を語る。
だんだんと依存と、彼のエゴの噴出がはじまって、
始めは素晴らしかったスパイラルが汚染されて、
まさに、堕落だと思った。
この件は自分にとっても何年も続くトラウマになった。

他者に道を説くことが課題のマスターもいるだろうが、
そういう人は、人に説くことの何倍でも、
自分自身も道を進んでいなくてはならないと思う。

自分は覚ったとか、解脱したとか、
自分こそ師だからついてこい、という人を
あなたの師に選んではいけない。それは支配者だ。

できればモノを作っている人とか、
音楽や武道など、なにか身体的な技術を追求している人を師として、
そのメソッドを通じながら、道を歩んでいくといい。
(作ってるフリ、できるフリの人もいるから、そこはよくよく見極めてほしい)


シータヒーリングの本に書かれていることを実践してみます!


えーと、その本は、読む分には素晴らしいですが、実践するとなると注意点があると思います。

ひとつは他者をヒーリングすることです。
これは依存と精神汚染の温床です。

ハウルにも描写があります、
ソフィは草原で泥に足をとられています。
これは他者の心に触れることの危険を表しています。

もうひとつはコマンドする、創造主という神聖存在を想定するなど「使役」の思考パターンを使うことです。
最上層まで行ったのなら、もはや使役のパターンを使うべきではないと思う。

自分は著者の顏を見たとき、これは湯バーバだな~、と思いました。
女主人、という印象を受けたからです。
彼女はその本で言う魔法使いのレベルにいます。

 

上昇法や拡張法というメソッドは捗るやつですが、自分だけでコマンドまでするのは早急です。
ラクタの城の心のまま真理の扉を開ければどうなるのかは、
ハガレンエルリック兄弟が教えてくれます。

 

ホオポノポノしていれば、
その2点をクリアする方法のインスピレーションが来ます。
準備が整うまで、まずは自分自身をクリーニングして下さい。

ソフィとハウルも、そうしていました。

 

ホ・オポノポノ、ハワイのメソッドで、
ハレアカラ・ヒューレン著作多数。

ごめんなさい、ありがとう、許してください、愛しています。

という四つのワードだけの、シンプル安全かつ、認識が進めば本質的にもしていける優れたメソッド。

 

 

 

ハウルの動く城を解釈する。こぼれネタ 記事作成中。

ハウルの動く城 (徳間アニメ絵本 28)

 

 

こぼれネタがスレのあっちこっちに散らばっててどうしようもないので、見つけ次第ここにサルベージしていく。

 

・「引っ込まないと鼻がなくなるよ」
マルクルがソフィに「引っ込まないと鼻がなくなりますよ」と言うけど、
あのドアの開け閉めで鼻がどうにかなるかな?

千と千尋でリンが千に言う「鼻がなくなるよ」は、
壁と室内の仕切りがない、安全面に問題のある エレベーターに乗っているので、納得なんだけど。

あれは 今のセリフ、千と千尋でも聞いたな、
そういえばマルクル神木隆之介は坊もやってたな、

と、マルクル=坊の構図を想起させる信者向けのヒントではないかと思うw

 

魔法使いハウルと火の悪魔読んだぞ! 

これで原作読んでないくせに(笑)とか言わせぬー。 

ハウルのキャラ達のアンバランスな魅力は原作の ダイアナ・ウィン・ジョーンズの観察眼によるものだったんだな。 そこはいたく納得。 
宮崎駿のキャラは完璧超人とか、聖母とか、内面が理想像になりがちなのはあるあるww
人間らしい動き方の雄弁さでフォローされてるけども。

ただ、動く城そのものについては女性のダイアナより、断然駿に分があるな。 
原作は動く城に着想を得た物語なのに、 どこでもドアとしての舞台装置以上のものにはなっていない感がある。 

これは作者の感性の男女差が顕著に出ててすっごく面白い。 
女の子は人形遊びで人の心情のドラマで遊び、 
男の子は車やメカのおもちゃにロマンを託して遊ぶ、 

ダイアナウィンジョーンズに 、
動く城の話を読みたい、と言ったのが男の子だというのも頷ける。 
かっこいい空中基地や移動要塞みたいなものに憧れるのは男の子だ。 

ダイアナの方がキャラの内面の造形に優れ、 
駿の方が、動く城を巨大ロボのようなロマンの詰まったキャラクターとしてとらえ、 
物語の中で重要な役割を与えることができた。 

ハウルの動く城は男女両方の作者の感性のいいとこどりができてる。 
面白いわけだな~。

 

あと原作では母性からの自立なんてテーマないやんけwまじかww 

まあでも?ハウルのキャラについて掘り下げるうちに、 
「こういうやつはマザコンに違いない」ってなっていくのは解るかも。 
で、先生との関係性について原作以上に掘り下げていく。 

そんで母性からの自立っていう普遍性のあるテーマを主題近くにもってきたことで、 
児童文学以上の普遍性のある物語になっていったんじゃないかな。 

 

・ソフィの帽子

ソフィーの麦わら帽子も意味を考えていくと面白い。 
アートオブハウルには帽子をかぶったムスッとしたソフィの顔の絵に、 
「帽子と言うよりヘルメット」という走り書きがあったw 

どうも自分にはあの帽子は「父親との絆」という意味のアイテムであるように見える。 

ソフィの店に並んでいる帽子はみんな華やかだ。 
そんでソフィの街でも港町でもキングスベリーでも 
ご婦人たちの帽子はみんな色んな飾りがのったきれいなものだ。 
普段使いっぽい地味な麦わらの帽子なんてソフィしかかぶってないようだ。 

妹に会いに行くときにかぶっている帽子 
身一つで出ていくときにも持っていく帽子 
王様に会いに行くときにもかぶっていく帽子 

特に王様に会いにいくときなんか 
「それ被るの?せっかく魔法で服をきれいにしたのに」とハウルが言う。 
そりゃそうだ。お城に行く正装で、新品でもない麦わら帽子なんて

いつの常識で考えてもアウトじゃないかな。
もはや気に入ってるおしゃれアイテムのレベルじゃない。 

っていうかソフィはおしゃれはしない。 
「美しくない」のガラクタの思考パターンを持ってるから。 

大事な大事な御守りかなにか。 ひょっとしたら形見?と思った。 
死んだ父親、守らなければならない帽子屋、 
その両方の意味があの帽子にこめられてるのかもね?

 

まあ、若い娘らしくない帽子なのは、 もっと子供のころとかに父親がつくってくれた帽子ってことなのかもな~っていうだけの話w

 

ちなみにネタバレすると原作のソフィは帽子屋なんかもうこりごりwだそうだw 

そんでその大事な帽子はサリマン先生の杖に貫かれて失くしてしまうけど、 
その前に「ハウルに恋してるのね」って看破されてたね。 
なんつーかあそこで亡くなった人への想いには折り合いをつけて、 
帽子は手放して、ハウルとの関係へ心が移行していくのかなあ、と思った。 

そんで飛ぶ城のラストではまた帽子を被っている。 
今度はもっとおしゃれな帽子だ。「美しくない」は手放している。 
家業と父への想いを今度は執着ではなく、受け入れているんだと思う。 

そして帽子のリボンが黒い。これは宮崎駿ワールドでは赤毛と同様に魔女の暗喩だ。

紅の豚のフィオも黒いリボンの帽子だ。赤毛については重要なので、また記事にする。

 

肩掛けと杖のなくなるタイミングも注目してると面白い。 
それもソフィが自分自身に立ち返り、老婆化を徐々に手放していく事を示していると思う。 肩掛けも杖もおばあちゃんのアイテムだからね。

 

・パンを渡す順番

Q 食事シーンで、ハウルがパンを切ってまず最初にマルクルにパンを分け与えてその次にソフィーにパンを分け与えるじゃないですか? 
ハウルのあの性格からして、レディーファースト精神でソフィーに一番最初にパンを分け与えそうなのに 実際はマルクルに分け与えることにちょっと違和感が残ったけど意味あるんですかね?

 

すでに切ってあるパンが紙袋の口をしめないまま引きだしに突っ込まれているので、

カピカピしてきた端っこをマルクルにあげて、ソフィには美味しいところをあげたのかと。

細かいねぇwwで、ハウルったら自分のパンは切ってない。炭水化物抜きダイエットとかしてそうだねww足とか細いし、スタイルに気を遣ってそうw

 

・おかっぱ、稚児頭。

ハクとハウルと金髪小姓達のヘアスタイルだけど、
やっぱ共通点あるとしたら「女主人(母性)に支配される少年」かなぁ。

おかっぱ、尼そぎ、稚児頭、とかそういうワードでググると、
髪を伸ばしかけの少年少女の髪型っていう感じらしい。
もっと幼いとショートカットで、
もっと成長して髪が長くなると結ってまとめる。

そういう成長の段階を示すアイコンとしてあの髪型なのかな。

ハクはあの水干?みたいな装束とあわせて平安少年風ってこと、

ハウルは中身が少年のままですってこと。

 

何人も侍らせていた金髪の小姓達はあれかな。

あれはサリマンは傍にいる人間の個性を認めない、ていう意味かな。 
それも支配者の属性というか。 

岡田斗司夫の言う金髪少年が恋人説には違和感がある。 
だってもし自分が複数の恋人をはべらすなら、ちょっとずつ違うタイプがいいからだ。 
まったく同じ顔、同じ性格なんだったら一人で十分だろう。名前も呼び分けられそうにない。 
ギャルゲーだって乙女ゲーだって、色んなタイプのキャラを揃えたものが主流だ。 

学校の制服で例えると解るだろうか。 

学校はみんな同じ服どころか、学校によっては髪型の指導、 
鞄や靴や靴下まで指定している。ピアスやアクセサリーも禁止だ。 
こういうことを個性の抑圧だと反発を感じた人は多いだろう。 
ファッションには自己表現の側面もある。 

しかし、制服を着ることを楽だ、安心だと思った人もいるだろう。 
毎日毎日着る服の組み合わせまで考えていたら、 
金銭的にも労力的にも負担が大きい。 
また制服を着ているだけで、 
学生という身分、アイデンティティを与えられていると感じたり、 
学校に組織に帰属意識が生まれるということもある。 

別に制服を批判したいわけではない、 
メリットもデメリットもあると思う。 

ただ、支配される、ということは楽だとか安心だと感じることもある。 
と言いたいわけだ。 庇護を受けられる。

まったく同じ見た目の金髪少年は制服的なものの究極だ。 
サリマンの示した型、鋳型に自らをはめこんで、 
自分の主義主張、個性を捨て去っているのがあの少年たちの中身だ。 

なーんにも自分で考えない、すべてはマダムの言うとおりにしていれば、 
金髪少年としてならマダムに可愛がってもらえる。 
事務処理能力だけはある人形人間だ。 

金髪少年の中身はカオナシだな。からっぽなんだ。 

支配者はカオナシが好きだ。 ゼニーバとカオナシもベストマッチングだ。
自由、主体性、自己主張は支配とは相容れない。 

サリマンがいなくなったら金髪少年たちはカオナシみたいに 
ぼーっとしてるか、新しい主人を欲しがるか、暴走するかになるだろう。

 

 

・まとめのコメント欄より。

最初にソフィが警官にナンパされるシーンでハウルが助けに来たとき、

「やっと見つけた」とか言う時にハウルの指輪(サリマンから逃げるときにソフィにあげたのと同じやつ)からソフィに向かって光が出てるんだってね
ソフィが未来で待っててって言ったの覚えててずっと探してたってことだね
ハウルはサリマンに母性を見いだしてるし、荒地の魔女に近づいたりしてるし、母性を求めてるんだと思うけど、その根源は多分子供の時に見たソフィなんだと思う。
ソフィがハウルにとっての母性で、その代わりとしてサリマンとかを求めてたんだろう。
契約時に心を失ってるからハウルはずっと子供のままでソフィ(母性)を求めて色んな女性を代わりにしてきた
大人なら自制してソフィだけを想えるけど、心(理性)のない子供じゃ自制は出来なくて手当たり次第女に近づいたんだろうね
荒地の魔女に近づいたのも興味本意だったし。

 

・指輪の色

上記のコメントで納得して、指輪に注目して見てたら面白い事に気が付いた。

ハウルでもソフィでも人を探すのに使う指輪だから、人を差す指、人指し指にはめてるんだろうな、と思って見てたけど、

 

最初は赤い石だったのが、

ソフィが「どうしよう、カルシファーに水をかけちゃったうわーん」の時、手元から青い光が漏れて、そこから先は指輪の石が青くなってた。

 

カルシファーが火の悪魔なのは、情熱って言葉があるように、ハウルが情動のキャラだからって書いたけど、まだ理由があった。

 

男性原理は陽、火で、

女性原理は陰、水だ。

だからソフィは「水をかけちゃう」と2度言うし、実際かけちゃう。

 

だからハウルの石は赤で、ソフィの石は青くなる。

 

それを踏まえてラストの飛ぶ城でキスのシーンを見ると、

ハウルは胸に青い石、ソフィは胸に赤い石をつけている。

これは指輪交換よろしく、互いの象徴の一部を交換しているってことだなー。

対極図の陽中の陰、陰中の陽のイメージが浮かぶ。

キスすることでエネルギーが周りだし、男女二人の姿が対極図として完成する。

魔法が込められてますね~。

 

・戦線離脱シーンの相似
ハウルがソフィー達と温室の天井を破って脱出するシーンって、見覚えあるww 

ハウルが序盤で戦場を飛んでて、三下魔法使いの怪物から、 
丸く区切られた青空へ逃げて、ハウルが逃げたら穴が閉じて追手が落ちるシーンに 

まじそっくりww 

これはアレですね。序盤のやつも 
サリマンの追っ手から逃げている、と言いたいのではないですかね。 

つまりサリマンが戦争を・・・、と言いたいのではないですかね。 

 

 

・ヘタレのハウル

ハウルがへたれでビビりっていうのは、城の中で朝食を食べようとしたときに魔女からの手紙を見て、食欲なくしてしまって自分の分の朝食をカルシファーにあげちゃったね。 
でもって、「北へ100キロほど移動して」とかカルシファーに言って、大急ぎで魔女から逃げ出した。 
初めて見たとき、「逃げるんかいっ ヘタレっ」って思ったわ。

 

ハウルにこのビビりめ!ヘタレめ!ってツッコミながら見るの面白いですww 
「諸君!○○したまえ。」とか気取ってて、カッコつけてるとことのギャップが魅力ですね。 

ハウルは感情、情動のキャラなので魅力あふれる人です。 
情感が豊かな人、というのは人を惹きつけます。 

ですが、彼にはあまり理性や知性、自制心がありません。 
怖い、と思ったら即逃げます。逃げっぱなしです。 

問題を解決しなくては、と思うのは理性や知性の仕事です。 

そしてハウルは力を行使する快感に酔っています。 余裕の笑顔がデフォルトのハウルですが、 
最初の戦場を飛ぶシーンや花畑で軍艦を「いじった」とき、 ニヤリ、という表情をします。 

花畑のシーンでは、 
自分の大事な場所に無粋なものが侵入してきた不快感はわかるのですが、 
放っておけば気が付かず去っていっただろうに、 
ハウルはイラッとした気持ちのままに、軍艦にちょっかいを出します。 
代償に手が異形になって、それを隠す・・・ダメージを負うとわかっていても、 
そうせずにはいられない。 

我慢する、も理性や知性の仕事ですから。 

強大な力を行使することには快感が伴います。 
「できた!」という快感は、なにかを修得していくときに必要なモチベになりますが、 
ハウルはその感覚を味わう気持ちよさを、気持ちいいからと味わいっぱなしです。 
代償に異形に近づいてしまうのに、我慢ができない。 

なので、ハウルだけでは対立になるとハマってしまって抜け出せないんですね。 
勝ち目がなくても、何かを守るという使命感を伴ったバトルをやめられない。 

問題の根本はなにか、どうすれば解決なのか。 
それを突き止め、すべきことをするのが理性、知性のソフィです。

 

・くり返しのセリフ。

二度くり返す表現やセリフが多い。

ソフィ「水をかけちゃうよ」

荒地の魔女「きれいな火だねえ」

マルクル「死んじゃったかなあ」

など。マルクルの「死んじゃったかなあ」は次作でそうすけも同じことを言うね。

 

宮崎駿は卓越した女性性の描き手だけど、父性というものについてはサッパリな人だ。

父と息子的な関係、師弟関係というものを描けない。

ハウルマルクルの関係性に注目すると、師弟らしい交流というものがほぼない。

師匠が倒れているというのに「死んじゃったかなあ」は、ちと薄情というか。

そこは普通、大丈夫かなあとか、心配するとこだろうよw

 

あるいは若干の期待のニュアンスがあるかもしれない。

師が、父が、家長や社長が退陣すれば、息子的存在にとってそれは下剋上のチャンスだ。

 

 

 

物語に組み込まれた魔方陣。海獣の子供、ポニョ、君の名は、果てしない物語・・・。

映画チラシ 海獣の子供 芦田愛菜

海獣の子供スレもなかなか楽しくてブログ放置してたわ。

あっちで書いたり思いついたりしたネタだけでもまた海獣の子供記事は書けそうなんだけど。

でもさー、ぐるぐる回るモチーフが頻発することについて書いても、全然その話題広がらないんだよなあ。

わりと凄いことだと思うんだけど。

 

風向風速計、扇風機、洗濯機、タイヤ、その回転を強調する描写。

海少年の周りを魚の群れが周る。

空少年の話のなかで、水色の粒の渦巻きが、裏返って赤い渦巻きになってほどけて消える。

クジラのソングで目覚めた隕石が赤い螺旋のエフェクト、クジラが青い螺旋のエフェクト。

隕石をキャッチした空少年が渦になる。

海少年も渦巻き、泡になって消える。

その泡にクローズアップすると銀河が回転してる。

誕生祭の海中も渦になってる。

 

DVDが出たら他にもそういうものがあったかどうか確認したいところ。

 

こういう図像イメージは多分、物語に仕込まれたいわば魔方陣として作用しているはずだ。

人の無意識への作用、干渉があるはず。

 

ポニョの筋立てに、タロットが仕込まれているのもそう。

君の名は、の各要素が陰陽とそれを繋ぐものに対応してて、クライマックスで五行の元素が揃っているのもそう。

果てしない物語の表紙に、二匹の蛇が絡むアウリンがあって、前編後編になってて、中が二色刷りになってるのもそう。

 

その辺も順次記事にしていきたいけど、

そういうの、言うなれば魔方陣なんだよなぁ。作家は物語に魔法を込めている。魔法使いになってる。

 

魔法、魔術、というか精神に作用するメソッド、見えないものを操作する技術、なんだろうね?なんて言えばいいのか・・・。

GS美神世代だとそういうネタあったけどなぁ、と思い出せる。

ゲームやアミューズメントパークに開発設計から風水やら憑依やら色んなオカルトを組み込む。それで消費者の五感以上の霊感にまで訴えてヒットを出したり、逆にトラブルになってしまったりw

 

でもとにかく、そういうものはあるし、認識することも使うこともできる。

メソッドに良し悪しはないので、良い心で使わないと危ないけど。

米津玄師のMVは瞑想に使えるクオリティに仕上がってる。

 

渦巻きは、対極図のエネルギーの循環する動きだ。

海獣の子供でも、魚の群れが二方向から来て交わったり、赤と青を使ったり、

その辺までどうも良く解ってらっしゃる。

一瞬図像が入ってたDNAも二重螺旋だな。そういや。

 

0、無限、空、原初の混沌。そういうものがあって、

なにか1なるものが生まれる。愛か、全か、道か、有限か、創造そのものか。

そして1なるものは2つに分かれる。陰と陽、光と闇、男と女、天と地、空と海、そういう対になる原理となる。

2なるものが混交することで3、万物が生じるという。

2なるものが混交するとき、再び0から創造を引き出すことができる。

2なるものの混交していく姿が対極図で、渦巻きだ。

 

渦巻きの映像を繰り返し脳に流し込むことで、0へのシンクロが発生する。

処理向上もするし、ガラクタの思考パターンを手放せる状態も訪れる。

 

それと意識するほど、効果は顕著になる。精神のメソッドは、つまり意識、認識、観測のメソッドだからな。

 

そんな話題が広がっていくスレってないのかしら。

アニメ板じゃなくてオカ板案件かな。オカ板にもそんなスレないけど。

 

そういやスレ見てて、思ったより海獣の子供とポニョの共通点が多いことにも気が付いた。

海の物語、人魚姫、異類婚、パンスペルミア説、次元上昇、新世界誕生、

それから海の古代の女神。グランマンマーレと女神クジラはイメージ的にイコールだ。どちらも泡から生まれたアフロディーテ。ビーナスでもある。

 

タロットと渦巻き、魔方陣が仕込まれている、オカルトな構造を持ってる点も似てる。

 

ポニョはタロットのアルカナ順に物語が展開するんだけど、

海獣の子供は、空少年が消えたところから急に物語のテンションが変わる。

海の世界、常ならぬ世界、異界へ陰転する。

そこまでが陸の陽的な青春物語だっただけに落差についていけない人続出w

そこを脚本の破綻だと批評する人も続出w

無理もない感想だと思うけど、自分の二回目視聴についてきた人は、

途中からキャラの目が尋常じゃなかったイッてた、という実に的を得た感想を教えてくれた。

そう、目がね、イッちゃってるよね。

イッてるって、面白い言葉だと思う。

どこに行ってるのか、何を見てるのか、っていう。

常ならぬモノを見て、違うワールドに行っちゃってる。トランス状態で、個の意志が眠って、なにか違うものに接続してそれに動かされているっていうかね。

 

それが、大きなものの指向と共にある喜びなのか。

それとも、個の意志では抗えない奔流に流される苦しみなのか。

そこなんだよなー。自分的最近のテーマは。

 

 

映画で、後半から物語が陰転してしまうのは、対極図をふんだんに組み込んだ副作用ともいえるかもな。

 

脚本がその構造にひきずられてしまったのかも。魔法ってそういうものだよ。

エンデの果てしない物語もそうだ。後半は鬱展開で、映画ネバーエンディングストーリー2は1より不人気だ。

前半はハラハラどきどきの冒険物語が展開していって敵を倒し、クライマックスは一粒の砂から世界を再創造する。

からの後編は想像の国に訪れた主人公がすべてを失っていき、無意識の坑道の底まで降りていってえんえんと穴掘りという、なんとも気が滅入るというか内省的なことになってる。そこも好きだけどね。

季節の前半で生成発展、春夏で動植物が目覚めて芽生えて繁っていき、外に向かって広がっていき、

季節の後半で崩壊回帰、秋冬で豊穣の収穫から枯れ衰えて眠っていく、内へと畳み篭っていく、というような、

どーしてもそういう感覚がしてきちゃうんだよな。

 

主題歌、エンドロールの後にまた本編映像が続くのもマナー違反とか批判されてたけど、

それもなんとなく、一度対極図が巡って区切りをしないと、違う雰囲気の語りを入れられなかったのでは?という気もする。

 

魔法とは、そういうもの、そういう決まりなんだよ。と湯バーバが言ってる気がするわww

魔法使いや魔女になるってことも、いいことばっかりじゃない。

法に詳しくなり、その力を使えたとしても、それは万能ということではない。必ずどこかで帳尻が合うことになる。

やっぱりソフィのような、奇跡に触れられる天使になっていくべきなんだよなぁ。

(この辺の用語は宮崎駿ワールドの定義で使ってるのでハウル記事参照)

 

 

 

映画・海獣の子供、感想

映画「海獣の子供」ARTBOOK

 

二回観に行った!

もはや全編が瞑想導入映像。素晴らしかったけど、これは一般受けはムリかもww

玄人か、子供くらい先入観なしのまっさらな頭じゃないと入ってこないかも。

なんの玄人かは知らんけどww

これがもし流行ったら日本始まってるけど、ちょっとどうかな・・・。初日、初回は見事にガラガラでした。お客十人いたかなぁ・・・。

 

しかし面白かった。くらくらした。MV周回で鍛えていったのにww

 

MVで注目していた水色の渦巻きと赤い渦巻は、まさかの表裏一体で、カードの裏表みたいにぐるんと回転したよ。まじ魂消た。

あの映像だけgif で欲しいマジで。ずっとぐるぐる回転するのを見ていたい。

 

もう、映画全体がクライマックスにむけての助走になってると思ったほうがいい。

途中から筋書きとか意味なくなるww少年少女の青春描写などただの助走ww海辺で食べるごはんは美味しそうだけどww

 

前半で、海君と泳ぐ魚の群れが渦巻きなのは言わずもがな、風力計、洗濯機や、車のタイヤまで渦、回転運動であることを強調してたな。

「赤い海が青く光るなんて」という言葉も印象的だった。

「光るものは、見つけてほしいから光る」というのも人魂と、少年たちが光るわけも説明してる。

誕生祭、ゲスト、と言うワードでも割と親切になってもいた。

 

ヘイトを集めそうな描写はだいたいマイルドになってた。

琉花がハンドボールで相手にケガさせるとことか、最後に和解フラグも入ってたし、

琉花の父も娘を迎えに来れてたし、母のウザさもまぁ軽減されてた、あと海女じゃなくてトリーターってことになってた。(江の島水族館用語の飼育員とのこと。)

ジムとアングラードの確執もなし、それなりに出番もつくってあった。

男性陣の不遇さの底上げはやっぱりされてたな。

 

琉花がハンドボールとかチームメイトとうまくやれないのは、

海や異界に親しむ才能を持って生まれた琉花は、陸のルールに馴染めないってことかと思うけど、そこはもっと普通の女の子って感じにデチューンして親しみやすくしたんだな。

家族の再生、みたいなことになってた。

ビールの空き缶はなかなか気の効いた小道具になってたなぁ。

玄関に山盛りになってて、原作だと中学生の琉花がそれをゴミの日に出さなきゃ、と思ってることで母のダメさの表現になってるんだけど、

映画では琉花が朝、落ちてる缶を拾ってゴミ袋に入れる、

で部活でトラブッて家に帰ると、また缶がゴミ袋のまわりに落ちてる。

琉花、ドアをそっ閉じ。帰りたくない感の演出になってる。

父母の和解の場面で、テーブルの上の空き缶を桃に置き換えるのが、母の心の描写になってる。

で、桃の皿がカラになってて、蜂が花のまわりを飛んでて、次の子が生まれるようなことをしてるんだなとw

で、父がビール缶のゴミ袋を捨てる。家族のためになにかする気になったんだな、と。

 

海君のエキセントリックは薄めるどころか追加されてたな…。イルカと一緒に芸してエサもらうなよw人魚姫少年の神秘がペット的愛らしさになってしまったwかわいいから許すけど。

 

少年たちは、不老長命ぽい設定から、まさかの短命かもって設定になってたけど、

それもそれなりに辻褄として合う改変だったと思う。

少年二人とも帰って来ないエンドへのフラグにもなるし。

初対面の空少年のセリフ変更とか、琉花とより親密になろうとする感じとか、

短い命だから、色々やっとこうみたいな?

原作の生死を超越した感じが、一生懸命みたいな感じになってたかも。

 

琉花の子守り唄の追加はアニメならではで良かったなー。

歌詞詳細がほしい。

 

ねんねんやぁよ、

海に生まれた魚(うお)の子も

乳を含ませ足は立ち、

天は…星は駆けてなんとか…

とか、歌ってた。

 

星の、星々の、海は産み親、人は乳房、天は遊び場、

の歌とイメージとしては同じだったので、

あれもクジラのソングの人語訳か、

同じインスピレーションを受け取った歌ということだろう。

星の歌は鯨狩の島の歌で、琉花の子守り唄は日本の歌。

世界各地に同じ伝承があるという世界観に合ってる。

 

デデのキャラはもうちょっと上手いこといかなかったものかなあ。

アングラードは詭弁役だからポエムでもいいけど、

デデまで同じようなポエムではちょっとな・・・、年取った琉花の役も混ざってるんだろうけど。

青年と老婆の対比、少女と老婆という対比、をもっと強調してつくってほしかった。

ポニョでもかなこちゃんとトキさんがそういう対比になってたりする。

具体的にはもっとしゃがれた声であってほしかったw目だけキレイなのも違和感w

 

映像としてはとにかく、なんども回転、渦巻き、カメラがぐるり、をやる。

 

青い渦、赤い渦、

そして、深海の描写があって、雲の上から落ちてくる。

 

右左、上下、空の上や海の下に手が届かないと誰が決めた?

 

そういう風に脳を使うと、すべての部位を活発にして釣り合わせると、

脳はシンクロ、共振共鳴モードに移行し始める。

 

本当の秘密、世界の秘密、無限、空、0、へのシンクロだ。

 

創造、奇跡を描くには、やはりそれが必要だ。

 

しっかり助走がついてるから、クライマックスの映像はそりゃもうww大変なことになってたよwwブッ飛んでたよww

 

なんか結構アニメオリジナルのイメージが足されてたな。

洞窟とかカットで、他の海洋生物が渦巻きになっていくのもカットで、

琉花の行動も違うんだよな。

まず琉花が隕石を飲んだまま「私が宇宙?」な状態になる、

多分それで、誕生祭の意味を理解するんだろうな。海少年が帰って来ないのがわかる。

だから隕石を海少年に渡すまいとする。そんで隕石の獲りあいになって、

海少年が赤ん坊になると、渡してあげる。

 

人魂も海の幽霊も少年達も「光るものは、見つけてほしいから光る」んだけど、

空少年と夜光虫の海で琉花は「消えちゃうのに光るなんて、なんだか悲しい」と言ってた。

そこは映画で足されたセリフで、結構ラストへの重要な伏線になってる気がする。

海少年を引き留めようとして、でも、彼の望み通りにもしてあげたい、その辺の葛藤が追加されてるのかな。


ルカが年取って語り部になるのはカットだったけど、

ラストシーンで、波打ち際にカニがいる。

波打ち際。それは彼岸と此岸の境界、異界と現世の交わる曖昧なところだ。

カニ、はさみ。琉花が臍の緒を断つときに持っていたはさみ。

人魚の泡を飲んだ少女は、二つの世界の狭間で生きるものになる。魔女になる。

風薫る砂浜で、また会いましょう。という約束はいつか果たされるだろうなと思えた。

 

 見た人はどんな感想になるのか聞きたいな~。

自分は予習のし過ぎで感想に新鮮さがなくなってしまったw

まず、わけわかんなかった、で正解だと思うけどw

 

inspiration.hateblo.jp

 

 

 

ハウルの動く城を解釈する6 サリマン、支配者とは。

ハウルの動く城 スタジオジブリ 英語版[DVD] [Import]

 

自分がスレッドで解説をやっていた当時、
サリマンについて書くと語調が荒くなり、レスも荒れがちだった。

それは自分が「支配者を許せない」というガラクタの思考パターンをもっていたからだ。
サリマンと戦おうとするハウルの段階だ。
それはまだ、対立・反抗であって、自立・自由ではない。
対立を生むパターンを手放す方法も機がある毎に紹介していく。

 

ここまで、サリマンは「支配する母性」だと繰り返してきた。
でも、サリマンはハウルの先生というだけじゃない。

「総理大臣と参謀長を呼びなさい、この馬鹿げた戦争を終わらせましょう。」
大臣たちを自分の前に呼びつけて、戦争を終わらせる算段をするという、
もうそれは要職どころか国、政治のトップってことだ。
加えて魔法学校の校長、トップでもある。

 

サリマンは支配する母性以上の 「支配」 そのものの象徴として描かれている。

 

これはそろそろ人類が超えていかなくてはいけない大きなテーマなんだってさ。
それには対立ではなく、心を完成させることなんだよ、とハウルの動く城は教えてくれる。

宮崎駿はマジで天才だなー、
漫画ナウシカでも墓所とその番人という支配者の存在を描いていた。
でもあん時ゃまだ、そういうやつは巨神兵のビームでぶっとばす!ていうオチだったから、
彼にもその段階があって、超えてきた、考え続けて成長してきたんだ。


ところで、サリマンは総理大臣と参謀長を呼んで、王様は呼んでない。
そりゃそうだろう、あの王様は明らかにアホの子だった。

 

王様が、なんか紙をひらひらさせながらやってくる場面は、紅の豚の一場面とよく似てる。

ジーナの庭にカーチスが来て、手紙を渡して、俺は大統領になる!と息巻いて口説くところだ。

カーチスと王様の声優も大塚明夫で同じ。中庭の東屋と温室、座ってるジーナと車椅子のサリマン、図像の要素も照応してる。面長で角ばって頬骨が目立つ顔もよく似てる。

 

つまり王様の中身は、ほぼカーチスだ。愛すべきアホで間違いない。

あの王様はお飾りだ。ソフィが「みんなのこと考えるのが王様でしょ」なんて言ってたのが、あまっちょろい考えで、
ハウルは「ソフィはあの人達を知らないんだ」ってやれやれって顔してた。

 

王国の実質の最高権力者は、サリマンだ。
サリマンは軍隊や水兵、飛行機や爆弾などの現実の武力も行使できるし、
魔法学校のシーンはないけど、雑魚魔法使いが変身した怪物や、黒いゴム人間も差し向けてくる。

見える世界と見えない世界の両方を掌握して、君臨している。

 


Q ハウルは何故、王様の変装をしていったのかな?

 


サリマンは本当に怖い人だし、ハウルはビビり。
ソフィがかっこよく啖呵をきった後ですら、
そのままの姿では出て行けなかったと思われる。

王様だったら堂々とした態度でサリマンの前に出ていける人だし、
サリマンも王には「恐れ入ります」とか敬意ある態度だった。
やたら堂々としてたのも、本物の王のアホっぷりと対比する演出のほかにも、
恐ろしさの裏返しで虚勢をはっていたのかも。

黒髪に派手な外套なんて恰好で出ていっても、

サリマン「よく来ましたねハウル、さあさあ私のところへ帰って来なさい、
私はあなたのためを思って言っているのですよ。」

ハウル「 」 gkbr
っていうやりとりになってしまいそうだw

 

金髪、派手はサリマンの趣味で、支配の影響下にある姿、

ゲルが出るほど落ち込むのは「母性の支配」を自覚した痛みのあらわれ、
ベットで寝てたり、毛布巻きは、ひとつ乗り越えた痛みを癒している姿。

王様の顔と軍服は、直接対決の装い。軍服はモロ戦闘の衣裳だ。

で、黒髪に白シャツ黒ズボンは、かなりすっきりしたフォーマット、初期化の姿。

ラストの飛ぶ城ではピンク色の服を着てる。
これは少年時代と同じ色なので、本来の自分をとりもどしてるんだと思う。


そして、ソフィの「お言葉ですが」あれがいかに知恵と勇気ある姿なのか知るため、
ちょっとあのへんのサリマンの話術を詳しくみてみる。

 

サリマンは虚実を織り交ぜて話をする。
これをされると、まるっきりの嘘より、嘘を見抜けなくなるんだ。

 

「あの子は私の最後の弟子、ようやく跡継ぎに巡り合えたと、本当にうれしかったのです。」
これは本当だ。たっぷり情感をもたせてツカミはばっちり、
ここでサリマンをいい人そうじゃんと思った人は術中にはまっている。

 

「あの子は悪魔に心を奪われ、私のもとを去りました。」
ここに巧妙な嘘がある。確かに悪魔に心臓は渡したが、
逃げたのはサリマンに支配されるのが嫌になったからだ。
ハウルに自立心が芽生えたからだ。
サリマンの裏の顔が恐ろしくなったということもありそう。

 

「あの子はとても危険です、心をなくしたのに力があり過ぎるのです」
これは本当。心配してる気持ちも本当だ。

 

荒れ地の魔女の話をして、
「王国は今、いかがわしい魔法使いを野放しにはできません」
それはまあ、そうかもね。
でもそういう情勢を作り上げているのは他ならぬサリマンなんだが。

 

ハウルが王国のために力を尽くすなら」
はいここ!嘘だッッ!
正しくはサリマンのために力を尽くすなら、だ。
それを国のためだと言い換えてる。

 

「悪魔と手を切る方法を教えましょう」
これも嘘。
サリマンもハウルと同じ流れ星を行使してるからね。
サリマンが知っているのは、対価、代償を自分で払わない方法だ。
他者に支払わせるのはほんとに後生が良くないからやめとくべき。

先延ばしに過ぎず、いつかは自分で引き受けないといけない。それが因果だ。

 

「来ないなら力を奪い取ります、その女のように」
ここで明確に脅しをかけてくる。だから

「お言葉ですが」という反撃の糸口になるんだ。

 

支配者 というのはこういう話術を使う。

 

国のためにとか大義のためにとか、
あなたのためを思って言っているのよ、

みたいな言葉には気を付けた方がいい。
そこには支配するものの思惑が隠れている。

 

魔法 というのは方法論なので善悪はない。

 

野菜を切るのは良い包丁で、人を刺すのは悪い包丁、
と言われたら、ん?と思うよね。

 

包丁はあくまで道具で、使う人が問題なのでは?と。

 

良い魔法、悪い魔法 っていうのも同じで、
良い目的で魔法を使う人と、
悪い目的で魔法を使う人がいるだけだ。

 

科学だってそうだ。発電方法、化学反応の制御、ネットワーク。

平和利用も軍事転用もできる。使う者の心次第だ。

良い科学、悪い科学、なんて言ってたら、ん?と思うだろう。

 

サリマンの話術は実に巧みだ。加藤治子の演技も実に匠だし。

 

そんな支配する者、サリマンにも救済がある。ヒンだ。

 

ヒンってハウルたちが温室の天井を破って逃げる時、 耳をはばたかせて飛んでついて来る。 「おまえ飛べたんかい!」ってツッコんだよ思わず。

 

だってヒンは、階段の下でぐるぐる回って、登れないよ~ってアピってくる。
だからソフィが抱えてえっちらおっちら上ってたじゃないか。

 

自分は、ヒンがソフィってどんな人物なのか試してるっていうか、
あそこで自分も年老いてても、より弱いものを助け、
荒地の魔女が仇であっても労わって励ましちゃう人物だったから、
ヒンはサリマンからソフィに浮気wして、ついてくるのかと思ってたけど。

 

ヒンはソフィーがいないと、 上 に行けない。

それは、クライマックスの暗示でもある。

 

サリマンは、 あの雲より上の領域に自分の意志でアクセスすることはできない。
支配したいという思考パターンもまた、重たいガラクタだからだ。

 

ヒンはソフィについていくことで扉の向こう、ハウルの心の中、そしてあの黒い穴に飛び込むよね。
あそこで、サリマンの心の中でも決定的になにかが変わったと思う。

奇跡 創造 愛 無限 0 と呼ばれるものに触れることはとても素晴らしいことだ。
それまでの人生のすべて、カルマのすべてに魂のレベルで変化が起きることも十分ありえる。

 

サリマンの一部であるヒンがソフィについていって、 そして本物の秘密に触れた。
そこでサリマンの心にも変化が起き、ハウルへの執着を手放した。

だから「しょうがないわね」の苦笑で済むんだ。

 

ソフィ、ハウル荒地の魔女、彼らの成した統合と調和に巻き込まれたことによって、
サリマンもガラクタの思考パターンをいくらかを手放した、とすれば。

物語の後では、ひょっとしたらより善き為政者、より善き教育者になって、
あの戦争ばっかりみたいな感じの世界を良い方へ導いてくれるかもしれない。
ヒンが分離したままなのがアレだけど。

なんせ政治や魔法に卓越した、優れた人物であることには違いないんだから。

 

サリマンの救済と言えば、もうひとつポニョにもある。

ひまわりの家のおばあちゃん達は、車椅子に座って赤い膝掛けをかけてる。
サリマンも赤い服で車椅子だ。

あのおばあちゃん達は、後半は車椅子は置きっぱなしで、みんなで駆けっこしてた。

きっとあの中に、サリマンもいるんだろう。

 

坊、カーチス、サリマン、宮崎駿は、自分が創ったキャラを不遇のままにしておけない人らしいね。

姿を変えて、次の作品でなにか救済があったりする。

同じ作者の作品を続けて読んでると、そういうことは結構あるものだ。

 

 

inspiration.hateblo.jp