「人に優しくできるのも、選ばれた人だけだから。」の時任無一郎、
「君は神様に特別に愛された人なんだよ。」の甘露寺蜜璃、
そして、どう足掻いても選ばれる者となれなかった半天狗。か・・・。
鬼滅の刃、刀鍛冶編もよくよく見れば面白いよな。
アニメ視聴しつつ原作も改めて読んでみた。
刀鍛冶編はせっかくチームとしてまとまってきた善逸や伊之助が出てこなくて、
ちょっと盛り上がりに欠けるという評価だったし、
自分の過去記事でも、半天狗や玉壺は体癖がわからんとしてスルーしていたのだが。
到底好きになれないキャラ、責任転嫁の権化半天狗について、
それでも掘り下げる視点があると刀鍛冶編全体のテーマが見えてくる気がした。
鬼滅の刃はとにかくいつでも対比の構造がよく出来ていて、
たとえば遊郭編では、兄と妹という関係に注目すると面白かった。
兄の炭治郎の背の箱で妹の禰豆子が寝ているのの反転で、
妹の堕姫の中で兄の妓夫太郎が寝ていた。
兄である炭治郎と妓夫太郎はともに2種体癖だ。
「禍福は糾える縄の如しだろ?良いことも悪いことも代わる代わる来いよ、でなけりゃ神も仏も殺してやる」と慟哭するのは、
世界がルール通りであることを望む2種の感性。責任感が強く家族的な繋がりを好むタイプだ。
妹である禰豆子と堕姫はともに6種体癖。
攻撃的な鬼と、かわいい妹の両面性を備えるタイプ。
どちらも殺されかけたところで鬼にされるという目に遭っている。
ひたすらに心の美しい炭治郎と禰豆子のダークサイドとして、
鬼の兄妹は世界を呪い、暴力で当たり散らし、仲違いして互いを罵る様子が描かれる。
禰豆子が炭治郎をおんぶして鬼の兄妹を探しに行き、
そして妓夫太郎が梅をおんぶして地獄へ連れだっていくのも対比になっている。
刀鍛冶編にもそういう見方ができるところがあるとすればだ。
半天狗は、斬られるたびに違う鬼が出てくる。
それは、誰かに否定されるたびに違う人格を演じて生きてきたということかもしれない。
積怒、空喜、可楽、哀絶、やたら豪華な声優陣だったが。
それぞれ、錫杖をもった僧侶、羽団扇をもった山伏、烏天狗、あとジャージ注連縄を肩に槍を持った(僧兵・・・?)姿の鬼で、
四体をまとめると雷神のような太鼓を光背にした憎珀天になる。
能力的には風も使うから風神雷神あわせてモチーフなのか。
中堅声優四名を生贄にレジェンド山寺宏一を召喚したのには笑った。
神に近い職から神そのものの姿へランクアップしていくビジュアルの変遷にも解釈は色々ありそうだ。
この後、教祖である童磨も蓮池でデッカイ菩薩像を出すのが必殺技だからな~・・・。
「神様も仏様もどれだけ祈っても助けては下さらないから」といって最愛の兄が死に、「神も仏も殺してやる」と妹を失う兄が慟哭し、
人食いの鬼こそが神職や神仏の姿で描かれ「神も仏も妄想なんだよ」とのたまう。
ワニ先生の宗教への不信感やばくね?なにがあったし。
そういえば、半天狗は喜怒哀楽に怯・憎・恨、と、分裂した人格をつくりだすほどにある意味で感情豊かなわけだが、
童磨は生まれながらにその全てを欠落させてるサイコパスという設定だよな。
半天狗と童磨も、感情という視点を軸にすると対照的なキャラクター造形ではある。
上弦の4番目で僧や山伏、仏の眷属クラスの神と、
上弦の2番目で教祖と菩薩というのもヒエラルキー的に合致してるな。
んでだ。
山ちゃんこと憎珀天の時代がかった口調がお奉行にそっくりという考察があって、
なるほど、畏れ憧れる上位者を真似て強くなったつもりになる。
専門用語でいうところの同一化の防衛機構、それはありそうと思ったが、
そうすると、子どもの姿であることと、木の竜という射程の長いムチをぶんぶん振り回す戦法は、絶対強者であろう無惨様をコピーしてるのかもしれないなーって思った。
まあ、作中だと半天狗はそれらを見てないかもだから、俯瞰する神視点の話だけど。
「私は不快の絶頂だ」と「不快不愉快極まれり」とか、おまいう案件で炭治郎をブチ切れさせるムーブとか、似てるっちゃ似てる。
キッズ無惨さまとブンブン無惨様
っていうか木の竜はさすがにズルくね何あれ。確かに五行思想でいえば雷は木の気ではあるけど。
で、まあ。
喜怒哀楽に怯・憎・恨と、次々に違う鬼を繰り出す半天狗は、
「この手が勝手にやった」の手を切り落とされたトラウマもあってか、
仮想人格をつくりだし、その人格を切り離していく、いわば解離性人格障害の血鬼術というか。
手や仮人格に責任を転嫁し、それで自分のせいじゃないんだと言い張って、問題の先送りをし続けているわけだが。
仮人格を演じる、というと、
実は時任無一郎と甘露寺蜜璃も同じ問題を抱えていたことがわかる。
無一郎は、あまりに傷ついたために主人格の処理を落とし、配慮に欠けた正論を振り回す兄、有一郎を演じていた。
蜜璃は、見合いで髪色や怪力を否定される。異端視されることを恐れ、「私じゃないフリ」を捨てきれずにいた。
生命の危機に瀕することで様々な意識の制約が外れ、本来の自分に目覚めるとか新たな力に覚醒するというのは、古典的少年誌的お約束であり、
無一郎も蜜璃も回想のなかで自分に向き合い、痣の力に目覚める。
一方で半天狗も、憎珀天と恨の鬼は新たな力の覚醒であり、戦いの中で成長しているわけではある。
しかし炭治郎はどの顔の鬼にも惑わされず、「責任から逃げるな!」の追い込みをかけてきて、とうとう最期には過去やお奉行様の言葉を思い出すわけだが・・・。
無一郎や蜜璃は回想の中で、
「誰かのために無限の力を出せる選ばれた人間なんだ」とか
「素晴らしい、君は神様に特別に愛された人なんだよ、誇りなさい」とか。
そういう言葉をかけられていて、それを拠り所に奮起する。
しかしその言葉だけ改めてとりだして眺めてみると、
ワニ先生のワードセンスからしても、ややなにかの偏りを感じないでもない。
選ばれた、とか、特別、とか。
つかワニ先生が神様っていうときはどうも否定的なニュアンスの言葉なわけで。
生まれながらに才ある人への称賛の言葉。
選ばれず特別でなかった人の諦めの滲む言葉。
選ばれて愛された者と、そうでない者がいるという言葉。
それは、人を分断する言葉だ。
この後、縁壱なんか「神々の寵愛を一心に受けた、世の理の外にいる、特別」とまで言われてるが、それも兄弟を遠ざけ分断する寂しい言葉でしかない。褒め言葉じゃないのだ。
厳勝兄上はその言葉で弟を突き放して憎み、
お館様は蜜璃を鬼殺へと囲い込んでいる。
半天狗は強さを生む感情をどんどん切り離し、本体は「ワシは弱者だ、此程可哀想なのに、誰も同情しない」っていう自己認識のとおりに盲いた老人の姿だが、
老いて醜く弱く、誰にも選ばれず、愛されない、というのは、
若く美しく強く、選ばれて愛されて特別な、無一郎と蜜璃の対極としてデザインされてはいるよな・・・。
しかし、人は誰でも老いて、若さも美しさも強さも、愛してくれた人を失う時がくることも、心のどこかで知っている。
そうすると、あれほど捻じ曲がった性根の半天狗にもシンパシーの余地がでてきてしまうわけではある。
だって、たいていの人は神に愛された輝く才の持主じゃなくて、それを仰ぎ見るその他大勢の方で、
なにも持たない自分を認めたくなくて、弱者でいることを許せなくて、様々に自分を装い演じている方なんだから。
君臨する強者であるお奉行様や無惨を模倣した半天狗のように、
カリスマ芸能人やスポーツ選手や、親や祖父母や兄姉、それこそアニメ的なキャラクターの化粧や恰好、行動パターンを無意識に模倣していることは、きっと誰にでもあるわけで。
そうやって、憧れ仰ぎ見る強く美しい者を演じるうちに、
隠している本来の自分はどんどん卑小に思えてきて、
一人の時ですら演じているペルソナを外すことができなくなっていく。
本来の自分を抑圧し忘却し、作り上げたペルソナを自己と思い込む。
そしていつしか、自分に向き合うことができなくなるんだよなあ。
選ばれず愛されない自分を生みだし、日の当たらない夜に閉じ込めているのもまた、自分なんだよな。
まあ、半天狗はそこで弱者アピール被害者アピールでマウントしてくるほど図太いわけだが。
炭治郎は、過大の嘘も過少の嘘も見破り、等身大の自分を認めない弱さを決して許さなかった。
人が夜に閉じ込めておきたい鬼の部分、心のダークサイドを認めてごめんなさいするまで絶対逃がさないと、「責任を取らせる」と、どっちが鬼だかわからない気迫で追っかけてくる。
それは、自分も他人も欺き続けのらりくらりと逃げ続けてきた半天狗にしてみれば、
ある意味でとことん自分に付き合って向き合ってくれる他者、自分を選んでくれた者ではある。
厳しいけども、それはやっぱりほんとのところ、優しさだ。
普通はあそこまで面倒な輩とは付き合いきれん。見限って見捨てて斬るわ。
そして多分、その成り行きこそが、
禰豆子が太陽を克服できたことの意味なのではないかな。
鬼になってしまった禰豆子。
人間のときは弟妹が多く「私はいいから下の子たちに食べさせてあげて」と言って古い着物を何度も手直しして着る自己犠牲精神の子だった。花子のように素直な我儘の言えない気質だった。(8種体癖的)
それが鬼になってからは、お兄ちゃんを一人占めでずっと背負って連れてってもらって、唯一人の妹として幼児退行して存分に甘えられて、時には鬼の強い力で兄を助けることもできた。(6種体癖的)
人間のとき、我慢していたこと、できなくて歯がゆかったかもしれないことが、鬼であればできる。
鬼でいること、鬼のペルソナを演じていることは、彼女にとって利益があることなのだ。
堕姫と妓夫太郎でみても、妹が役立たずで兄の足を引っ張っぱってると罵られてたわけで、それは炭治郎と禰豆子の間でも解決されない問題として潜在していたのだろう。
だから、鬼でいることは望みを叶え自己を実現する心地良いことであり、
無力な人間の自分に戻ること、ありのままの自分を認めることはだんだん恐ろしいことになっていく。
しかし、あれほど面倒な嘘つき逃げ癖の多重人格でしかも赤の他人の半天狗に、
炭治郎が驚異的な根気で付き合いきったことにより、
禰豆子も、この兄ならば、
蜜璃のように神に愛された特別でも、無一郎のように選ばれた人でもない、
ありふれてめんどくさい、ありのままの妹の自分でも見捨てることは無い、と確信できたのではなかろうか。
だから、鬼に、夜に、箱に閉じ篭もるのをやめて、日の当たるところに一歩ふみだすことができた。
やや唐突な展開だった、禰豆子が太陽を克服する流れもそういう風に解釈できないこともないなーと思った。
陽光のもとで禰豆子が炭治郎をおんぶしてるのも良かった。
兄を背負えるようになった感が伝わった。
刀鍛冶編以降、禰豆子は戦わないしな。
無限城の最終決戦に鬼化して戦う禰豆子がいないのはつまんなく感じたりもしたが、
それもまた、意味はあったのだろう。
ペルソナを演じ続ける者の末路を半天狗から学び、
どうあっても誰も見捨てない兄を知ったから、
兄の背から降り、本来の自分に戻る癒しのプロセスに専念し、
そして最後は兄を本当の意味で支えられる自分を取り戻しているんだな。
禰豆子あんなに顔かわいい言われてる娘さんなのに、意外と自信がなかったのかね。
長女の心理ってそうかもね・・・。
8種体癖だと自分に厳しいところがあるし・・・。
いや、かわいいって。それだけでハッピーであれ。
根気強い優しさが分断を融和に導く素晴らしい話だったし、
心優しい炭治郎がとても好きだが、
まあ、リアルであんな稀有な人にコミットしてもらえることはほぼないから、
じゃあ私たちは、選ばれず愛されない悲しみと痛みを抱えて生きていくしかないのか、
っていうと、そういうことでもないからね?
死の危機を待たずとも意識のリミッターを外すことはできる。
瞑想してもいいし、琴線に触れて響きあう物語に没入することでもソレは揺れる。
痛みから目を逸らし夜に閉じ篭ったのも自分なら、
日の当たるところに歩いていくのも自分の足にできること。
そもそも、超越的な何者かに選ばれたという分断と対立の概念は幻であり、
愛は命のようにどこか奥のほうで滾々と湧き続けているなにかなのだから。
ほんとうは、ただそれに気がつくだけでいい。
許しも喜びもいつもここに在り、
今、生きてるというそれだけで、生きていけるのだ。
ねんどろ時任無一郎と甘露寺蜜璃まだ監修中て。はよきて。
半天狗に注目できたのはこちらのブログのおかげ。いつもどうもどうも。
そして玉壺については特に感想無し!
アニメだとよく動いて楽しいヤツな気がしてきたw
玉壺は半天狗と逆に、めっちゃ素。
あの外見にさえなんのコンプレックスもなさそうw
ああいうタイプは生きやすそうでええな。