ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

もののけ姫を解釈する1 真ヒロインは誰か?

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もののけ姫はなにしろトピックが大量なので、記事を小分けにのんびり書いていきたい。

 

もののけ姫風の谷のナウシカが劇場公開されているが、意味深なチョイスだと思う。

この二つの物語はどういうわけか対照になっているので、比較してみるとすごく面白いのだ。

 

まず、とっつきやすい導入として、

もののけ姫の物語の、真のヒロインは誰だと思うだろうか?

 

サンか、エボシか、カヤか、おトキさんか。

 

それぞれに魅力ある女性達ではあるんだけど、

 

彼女たちはみんな黒髪だ。

宮崎駿のよく描く、魔法を持った赤い髪の女性がいない。

ナウシカのような、不思議な力で不可能と思えることを成し遂げてしまう女性がいない。

 

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魔女の不在、それがもののけ姫を見ていて苦しいところでもある。

ナウシカのような、女神と英雄の超自然の力、空飛ぶ魔法、魂鎮めの力、それ無しで、果たしてどこまでやれるのかっていう。

宮崎駿がそれまでの得意技のすべてを封印して挑んでみた作品なんじゃないかなあ。

ついでに言うと、空想機械も幼女もマスコットも出てこないというのも縛りプレイっぽい。

 

それでそれらの力を持ちえないアシタカは、あがいてあがいて足掻き抜くことになってしまうのでは、と思えてならない。

 

しかし、女性という姿形じゃなくて、

赤毛、オレンジやニンジン色の髪色、という特徴に注目するとだ。

 

ヤックルと、シシ神が、

ナウシカ・ドーラ・メイ・ウルスラ・フィオの髪と同じ系統の色であることに気がつく。手綱や面の色も赤だ。

宮崎駿の世界観で、この配色には共通する意味がある。

西洋の古い偏見では、赤毛は魔女の証なのだ。

 

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ヤックルは、アカシシという獣でありながら、人間のアシタカにものすごく献身的に寄り添ってくれる。

獣の範疇を超えた知性を感じる、心が通じ合った良きパートナーだ。

それは異種族、異形と交情し、自分と異なる世界のものを受け入れる、女性性の神格化された力、陰陽の陰の象徴する力、聖杯の原理でもある。

えー、つまり特長からいうと、ヤックルは赤毛の魔女といえる条件を満たしているんだな。

お魚なのに人間に恋するポニョと一緒だ。

また、もののけ姫では空を飛ぶ表現が出てこないが、

ヤックルに乗って森を野を駆ける場面の爽快感は、

メーヴェ飛行艇に乗って空を飛ぶ高揚感に通じるものがある。

ポルコの赤い飛行艇が、もののけ姫では赤いシシになるのだ。

 

角の立派さからすると♂なんだけど。そこはスルーで!

 

ヤックルかわいいよヤックル!

 

自分的最萌シーンは、戦場で再開したモロの子と挨拶するところ。

異種仲良し動画ほんと尊い

 

ちなみにシシ、というのは獣という意味だ。

猪、鹿、獅子、すべてシシと読める。

それは四肢、四つ足の動物全般をなんとなく指してる大和言葉なんだな。

 

そしてシシ神、意味するところは獣の姿の神。

おそらくそれは仮の名、敬称であって、本来の姿と名がデイダラボッチの方だろう。

 

獣たちの神、という意味ではないはずだ。

獣たちの親玉だ、とか、なぜ人間を癒すのだ、とか、

甲六やイノシシ達はそういう勘違いをしていたわけだが、

モロによると「命を奪いもし、与えもする」生死を司る神、

また大地を動かす巨人デイダラボッチは創世神話級の神だ。

その神格、その心のスケールは自然の運行そのものであり、産土神や人間のレベルにはない。

故に、シシ神は一言も言葉を発することがない神として描かれる。

 

で、そのシシ神をまずはどう解釈するかっていうと、

 

風の谷のナウシカもののけ姫から、自然と人間の対立、という構図を抜き出してみる。

広がりゆく腐海と、それに侵される人間の居住地、

神聖不可侵の太古の森と、それを切り拓いて糧にする人間達。

風の谷のナウシカでは自然サイドが領土を拡張し、もののけ姫では人間サイドが領土を拡張していく。

 

物語の中で、優勢が劣勢の世界をまさに滅ぼさんとするとき、融和の使者が現れる。

 

怒れる王蟲の群れ、大海嘯が風の谷を飲み込もうとしたとき、

ナウシカが現れて、一度死ぬ。

 

神殺しの混成部隊が、神域の森まで踏み込み、石火矢で穢す。

シシ神の首が落ち、山も森も枯れ果てる。

朝日が射し、夜の神デイダラボッチが倒れる。

シシ神も、一度死ぬ。

 

それから、ナウシカ王蟲達によって蘇生される。

王蟲の群れの目、ナウシカの衣の色がからへ変わる。

 

倒れたシシ神から吹いた風が、また山々に命を芽生えさせる。

赤茶けた山が青々とした新緑に染まっていく。

 

このオチの構造が相似になってるのが解るだろうか。

 

自然界か人間界か、対立するふたつの世界が一方を滅ぼし飲み込もうとするとき、

滅びゆく側から女性性の神性を備えた存在が現れて、すべてをその身に引き受けて死ぬ。

それによって争いが鎮まる。

 

そして彼女達の復活と変身の意味するところは、

今までと少し違う、新しい循環の始まりなんだろうなあっていう。

 

ナウシカもののけ姫は、反転した同じオチで締められている。

まあ、得意技をぜんぶ封印して挑んで、もがきぬいて辿り着いた結末だ。

手クセでなんとなく、なんてはずもない。

絶対に譲れない作家性の根幹がそこだったってことなんだと思う。

 

母なる自然への崇敬と、女性性の神性への賛美、

なんて言い方でまとめちゃうとあまりに簡単だけど、そんな感じだろうか。

 

 

 

さて、冒頭の問いに戻って、真ヒロインは誰か?

 

シシ神は、ナウシカと同じ、対立する世界を融和させる女神だった。

 

シシ神も角の立派さからすると♂なんだけど。そこはスルーで女神と類推する。

夜に真の姿となる闇の神、月の神、生と死、破壊と慈悲の混沌の神、森や自然の神、大地母神、となればそれは自然発生的には女神であるはずなのだ。

男神であれば、太陽神、天空神、光、火、戦、契約、秩序や文明や理知といった属性になるだろう。その辺はまた詳しく。

 

つまり、真ヒロインはシシ神でファイナルアンサー・・・、

 

いや、ヤックルも捨てがたいんだよなあ。

 

サムネに貼った、サンは森で、アシタカはタタラ場で、と別れて帰る場面なんだけどさ、

 

カヤともサンとも結ばれないアシタカで、色々もの寂しい結末のようだけど、

 

ヤックルだけは最初から最後まで、アシタカに寄り添っていることにお気づきだろうか・・・?

 

ヤックルの役どころは相棒ではなく、正妻ポジションだったのではないだろうか・・・?

 

ロリコンを封印したと思ったら、ケモナー癖が出てきてしまったという、

いやはや、実に業の深い話。

 

第1話 ミセス・ハドソン人質事件の巻

ドーバー海峡の大空中戦!

 

宮崎駿監督回もある名探偵ホームズより麗しくも有能なケモノヒロイン、ハドソン婦人。

 

そういえば、モロと乙事主が恋仲だったのかもという話がある。

宮崎駿の演技指導で漏れた裏設定だという。

山犬と猪が恋仲、というのもどういう気持ちで聞けばいいのか分かんないけども。

 

モロは人間の娘を我が子同然に慈しむこともできるわけで。

 

異種仲良しは尊い

種の垣根を越えて通じる愛にグッとくるのに、野暮な理由付けはいらない。愛はすべてを超えるのだ。

 

アカジシ、シシ神、ケモノがヒロイン、アリだと思います。

 

健気で勇敢で賢いヤックルにこそ、ベストオブジブリヒロインの称号をあげたい。

 

 

神話学や象徴学的に真面目に書くのか、

オタク的にふざけて書くのかテンションの定まらぬまま、

次の記事へ。

 

 

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もののけ姫の話題は当時不思議ネットでまとめてもらいました。

http://world-fusigi.net/archives/9253921.html

元スレでは87コメあたりから。

http://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1539542998/

聲の形を解釈する。父性の機能不全。

映画『聲の形』DVD

 

哀悼。

 

金曜ロードショーで見たのでちょっと感想の覚書。

 

キャラクターの描写だけでここまで仕上げてくるクオリティには感心した。

モヤモヤイライラハラハラしつつ、最後まで見ることができた。

 

自分はファンタジーやオカルトやSFが好みなので、

こういう青春群像劇みたいなものは得手でなく、

京アニ作品も色々つまんではみたものの、最後まで視聴できたのはミステリ仕立ての氷菓だけだった。

氷菓は好きすぎてDVD持ってるけど。

 

聲の形の原作漫画も、読み切り版が話題だったとき読んで、

一巻試し読みくらいはしたが、それもギブアップ。

同作者の不滅のあなたへも4巻の先を買ってない。

マルドゥックスクランブルは、冲方丁の原作が好き。

 

聲の形原作では、人間の心の醜さの描写が、あるある過ぎてウマ過ぎてエグ過ぎて、とても見ちゃいられなかったが、

映画では不快な部分をうまく回想などにまとめつつ、心情の成り行きとしても過不足ない、見やすい構成だったと思う。

映画なんだから、90分だけ耐えればオチまで辿り着くという見通しがあったのが良かった。24話あったら挫折してた。

 

ネットの感想を流し見すると、

「いじめられていたヒロインが、なぜいじめっ子を好きになるのか理解不能」とあったけど、

まあ、確かにあれが自分の話だったら例え土下座されても引くだけで、絶対許さない自信はあるww

 

でも、この作品はキャラクター造形のクオリティ、心情の描写だけで物語を転がしてるようなもの。

見れば見るほど、色々と読み取れる材料はある。

 

いじめっ子の主人公の家庭環境をみると、

職場兼自宅の美容室を経営する母親、

姉、姉の娘。姉の夫はブラジル人でほぼ不在。父親もいない。

 

・・・圧倒的に女が強い家系ですよこれは。

 

こういう環境で育つ弟キャラは、女の機微を読んで立ち回るのがすごく巧くなる、いや、ならざるを得ないwww生死に関わるwww

カーチャンは優しい人だけど、

あの距離感の家で5、6歳も年の離れた姉というのはな~、弟なんぞ奴隷かオモチャ扱いの予感。

女というイキモノは理不尽で機嫌を損ねるとひたすら面倒だと骨身に沁みついてそう。

姉が不自然なほど登場しないので、逆に勘ぐりの余地がww

折木奉太郎と姉の関係性で脳内再生しちゃう。

 

で、まあ。

主人公は粗野でもあるけど、女性の機嫌や周囲の空気を読んでもいる。

 

隣の席の女の子に、黒髪ロングの気の強い美少女、スクールカーストのクイーンがいる。

彼女が転校生に不満を感じてるとか、

男の担任教師にイチャモンつけられてイラっとする、

主人公はそういう雰囲気の悪化を敏感に察知して、茶化して場を和ませる。

先回りしてクイーンの居心地よい環境作りに励む。

 

まあ、その茶化し方が、耳の聞こえない転校生のモノマネっていうのがな・・・。

そのウケた空気が、転校生イジリをエンターテイメントとして肯定し、

だんだんいじめにエスカレートしていってしまうんだけど。

 

主人公があの顔で女性にモテているのは、

家庭環境による性格形成にあると思う。

ノート、パン、傘や靴、ポーチ、相手が喜ぶちょっとしたものに、よく気がつく実にマメな男なのだ。

 

人の気持ちに聡い人に惹かれるのは、コミュニケーションに難を抱える女の子として無理もないことだと思う。

 

っていうか、

自分の上位に君臨する女性の望むままに振る舞い、彼女達に逆らえない。

という言い方をしてみれば、

主人公とヒロインは同じ問題を抱えてて、シンパシーを感じる余地がある。

同病相憐れむ。互いの人知れぬ苦悩や奮闘を感じ、励みにすることができる。

 

ヒロイン、難聴の転校生の少女には、表情が固くてヤバげな母親がいる。

 

自分の子をいじめられたからって、ピアスを耳ごと引きちぎる、ビンタする。

他人に暴力を振るう親が、自分の子供に手をあげてないわけないと思うんだよなあ。暴力へのリミッターが甘い人だ。

かと思えば、自分の子が他人を傷つけたら、病院のロビーで号泣からの土下座。

この母はヤバイ。キてる。危うい。

公衆の面前での土下座とかさ・・・。

された方は堪んないよね。目立つし、恥ずかしいし、こっちが悪者みたいだし、場を収めるために、許しますからと言うしかなくなる。

頭を下げつつ、相手の選択肢を奪う。謝罪にみえて実のところ脅迫だよな。

 

まあ、なんの事情か母子家庭で、上の娘は難聴、下の娘は俺女不登校となれば、

子育てのうまくいかなさに追い詰められる気持ちも想像はつかんでもない。

「ちゃんとしなくては」とか「ちゃんとできるはず」みたいな、こうあるべきだという正しさにガッチガチに縛られてるんだと思う。

正しさを振りかざして他者を攻撃し、

自分が正しくなかった時は、返す刀で過剰に自分を責めてみせる。

カワイソぶって結局は自分の要求を呑ませようとする。

 

こういう抑圧のなかで育てられると、子どもはどうしようもなく、病む。

母の望むイイ子でいなくては、母がマジでなにをするかわからないのだ。

自分が殺されるかもしれないし、母が誰かを殺すかもしれないし、母が死ぬかもしれない、そのくらいの恐怖と緊張を常に強いられる。家庭に安心感がない。

 

子どもというのは、幼いうちは庇護者である親を憎まない。どんな親でも愛し愛されようとする。同化しようとする。それが子供の生存本能なんだよな。

だから、イイ子でいられないのは、自分が悪いんだと責めるメンタリティを形成し、それは人格の基本に深く根差すものになる。

 

主人公とヒロインは、よく似た問題を抱え、あれもそれもこれも自分が悪いんだと責め苛み、二人とも自殺するまでに自分を追い詰めてしまう。

 

笑おうとして口の端が緊張した作り笑顔を浮かべてしまい、

察し力高めの主人公にさえ何考えてんのかわかんないと言われてしまうヒロインの内面は、そんな感じだろうか?

母の望むとおりの顔、どんな時もありがとうとごめんなさいの、鉄壁の良い子の仮面だ。

まあ敢えてそこの描写はない構成なので、想像するしかないんだけど。

 

いやでもさ、中学校でもいじめられてた主人公と違って、

ヒロインのいじめは五ヶ月で終わった。

再会した元同級生たちとの関係が壊れても、死ぬまでのダメージではない気がするんだよな。

手話教室とか自分の学校のコミュニティだってあるわけで。

だから、それは切っ掛けで、

本当のところでヒロインを追い詰めていたものは、積もり積もった家庭の歪さのほうじゃないのかな・・・。

 

家族を愛してる人は、自宅マンションのベランダから自殺はしないと思うんだよねえ。

 

家族がそこに住めなくなっちゃうもの。せめて屋上に行く。

ヒロインが自宅で自殺を決行したのは、母親への当てつけと憎しみもあったのではなかろうか。

妹もグロ写真を家中に貼るのはやり過ぎだよ。自殺抑止じゃなくて脅迫になってるのは、あの母にしてあの娘ありだよ…。

姉を慕ってるのはかわいいんだけど、ベッタリ依存気味でウザいっちゃウザそうな。

 

言うことができなかった己の苦しみを思い知らせたいというのは、自殺者志願者あるあるだ。

ずっと嫌だった、ずっと苦しかった、お前達のせいだ!と訴える、最後に残された自己表現の手段なんだよな。それはよく知ってる。

 

 で、そこに主人公が来て助けてくれて、それは良かった。

そこが物語のクライマックスだったな。そのころには感情移入できてて、めっちゃ主人公に「うおお!早く早く!」って手に汗握ってたわ。

 

なんとか自殺は思いとどまって、

皆どこかしらダメなところを晒し合ったところで、

皆でもう一度やりなおせばいいんだよっていう雰囲気で映画は終わって、

 

それはそれで、納得できるラストだったと思うけど。

 

これほんとは、問題の根本を解決しようと思ったら、

父性の欠如をなんとかしないといけないんじゃないかな・・・。

 

母親、クイーン・ビー、

タロットの女帝のような象徴としての母性や女性性、

その独裁と暴走を制御するなら、まずは同格のパートナー、父性が必要だ。

 

ウチは父権優位の家庭だったが、父親がヒートアップしたときは、母親が「まあまあ」とかなんとか宥めてフォローしていたような。

男女逆でも同じことだし、あるいは女性が父役をやってもいい。

西宮家にはもののわかった祖母がいたので、それが幸いだったっぽくはある。

安全地帯である祖母の死も、ヒロインを追い詰めたんだな。

まあ、要はバランスなんだけど、

 

しかしこの作品に登場する父性となると、あのムナクソ悪い担任教師だけなんだよね・・・。

 

小学校の教室で起きたいざこざの責任は、その場を率いるべき存在、教師にあると思う。

これがまたびっくりするほどのクズで、しかし思い起こせばああいう教師っていたよなーっていう記憶がチラホラあるのが、ほんとこの国の闇。

 

転校生というのはただでさえアウェーなのに、更に難聴というハンデがあるのでは、

クラスに馴染むのに相当のハードルの高さがある。自分には到底無理ゲーだ。

あの母親が、ウチの子はちゃんとできますっつってゴリ推したのが目に浮かぶが、

そもそも、そういう生徒が編入してくるときは、ベテランの先生のいるクラスに預けるとか配慮があって欲しいところ。

 

しかし、あの教師は誰に対しても何のフォローもしない。

手話を教えにきた先生が、クイーンの女性徒に反発を受けて、

(えーっと、どうしましょう・・・?)と目で助けを求める場面で、下を向いて無視する。

無視、何もしない。放置。子どもを導かない教育しない、そんな教師。

 

転校生を、お調子者とクイーンの前の席に座らせるというのは最悪の配置だ。

生贄、獣の前にご馳走をぶらさげているのに等しい。

席替えをして、転校生は教師の目の届く最前列に座らせて、大人しい生徒で周りを固めるだけでも、だいぶマシだったろうに、そんなことさえしない。

 

で、いじめ問題が外部に漏れ、表面化したところで今度は主犯のお調子者だけを血祭にあげて終わらせる。

 

いじめのターゲットがお調子者にスライドし、転校生はまた転校していく。

 

周囲の空気を読むのに特化した主人公は、自分をいじめる空気にも逆らえない。

反撃したり誰かに訴えたりして、流れを変える力がない。

そのうち周囲が自分を責めるとおりに、自分でも自分を責めはじめる。

察し力が裏目に出てしまう。

 

これが中学生や高校生だったら、黒髪のクイーンの方が教師より発言権が強いこともあったろうけど、小学生だったからなー。

壊された補聴器のお金を誰が払うかっていうこともあったし。母子家庭にならそれも押し付けやすい。そういうとこは計算してキレてそうあの教師。

っていうか、誰も彼も打算的過ぎて人間不信になりそうw

いや、その打算が分かるってことは自分の心にも同じものがあるってことで、もうこっちまで自分を嫌いになりそうw鬱アニメww

 

まあなんだ。

 

人間の感情の動き、心の機微を濃やかに汲み取ることができるのが、

右脳的、女性的、母親の役割的なものだとしたら、

 

人間がどう在るべきかっていう理想、指針を示して集団を導くのが、

左脳的、男性的、父親の役割的なものだ。

 

聲の形は、原作も映画も前者の価値観に寄り過ぎてんだよな。

作者女性だし、京アニも女性の多いスタジオだった。

 

だから、

ああ、そういうことってあるよねっていう共感を呼ぶ描写はめちゃくちゃ細かくて可愛らしくて巧いんだけど、

死の危機をくぐり抜けて尚、人の生きるべき指針みたいなものが示されることはない。

 

今後会う人達や社会のなかに、父権を見出し、更に精神的親殺しを越えていかないといけない。

主人公達の苦難は、多分まだ続くし、

 

作者たちが今後描いていくことになる課題も、この作品の中にあると思う。

京アニが日常系以上の作品を描いていくなら必要な転換点だったはずだ。

一話だけ見たヴァイオレット・エヴァーガーデンを改めて見る気になったなー。

あれはなんか、そういう父親的な人を亡くした主人公の話だったわけで。

 

聲の形のなかだけで言うなら、即金で即、全面謝罪に行ったあの美容室経営のカーチャンの双肩にかかってるものは大きいな。

子どもに人としての指針を示し得たのは、あの美容師なのに根元が黒い金髪のかわいいカーチャンだけだったわ。

彼女の双肩に、主人公と西宮家母娘の精神的成長がかかっていると言っても過言ではないと思う。

 

聲の形、結構面白かった。

 

 

 

 

 

氷菓マジお買い得。繰り返し観たい心地よさの作品。

 

 

追記

 

 万が一、誰かに土下座されて許しを請われるような恐ろしいシチュエーションに出くわしたら、

とりあえず一目散に逃げるか、場所を変えようと言えるようでありたい。

子どもまで土下座してくるとかいう地獄絵図を、京アニ絵で見てしまった衝撃よ。

 

妹も、裸足で家出してるのは母とのいざこざなんだろうし、母親と合わないとホント家が安住の場でなくなっちゃうんだよな…。

 

あとヒロイン役の早見沙織の演技力が地味に凄過ぎた。難しい役だけど絶妙だったと思う。

 

映画の最初と最後の演出で、暗転の中にピンホールのように光が浮かんで、それがだんだん大きくなって風景になるっていう、トンネルをくぐるようなイメージと、

コトコトとピアノの内部の機構が動く音まで撮ったBGMがある。

ピアノの中に潜りこんで聞くような音なんだと音響監督のインタビューがあったけど、

暗い洞穴に篭もるような、それは相まって胎内を思わせるような演出だったと思う。

水や川の場面も多い。

生まれ変わりの意味もあるし、母性の印象が作品を貫いてもいるな、と思った。

 


映画「聲の形」公開記念特番 ~映画「聲の形」ができるまで~ ロングバージョン

17分くらいから牛尾音響監督のインタビュー。

 

あと、

原作漫画だと、再会した同級生達はみんなで映画づくりとかしてるらしく、

映画よりコミュニティとして強固だったっぽい。

映画では、そこの説得力を持たせる尺がなかったから、

家族関係の方により注目してしまったのかも。

…まぁ、それはそれで成立してた。

 

セーラームーンを解釈する。目を逸らすから恐れは怪物になる。

1000ピース ジグソーパズル 美少女戦士セーラームーン セーラー戦士大集合!(50x75cm)

セーラームーン期間限定無料配信分、完走。

https://www.youtube.com/channel/UC7J1bN5V1kL6xJ42ue_W6Vg

 

いやー、懐かしかったし、今になってまとめて見るから解ることも多かった。

古いアニメの文法も、色褪せないセンスも入り混じっていて面白かった。

水彩の背景の美麗さや、バンクシーンの様式美は今でも何度でも見れるクオリティだ。

 

せっかく見たから、最後に総括としてもう少し書いておこう。

 

ダークキングダム編、魔界樹編、ブラックムーン編、デスバスターズ編と、

敵対組織ごとに区切って考えるんだけど、

やっぱりアニメオリジナルの魔界樹編だけ毛色が違うのでちょっと置いておく。

 

で、ダークキングダム編、ブラックムーン編、デスバスターズ編は、オチの構造がほぼ一緒だった。

 

クインベリル、ワイズマン、ミストレスナインは、巫女や占い師としてデザインされている。

水晶玉で占う仕草が定番だったり、

ミストレスナインはぬいぐるみに囲まれて座ってるけど、依り代、操り人形っていう意味なのかな。

 

彼らはそれぞれ、

クインメタリア、デスファントム、マスターファラオナインティという、

正体不明の闇のような存在に仕える従者であり、それらを地球に呼び出すことを目的にしている。

 

巫女や祭祀や斎王が仕え、現世と繋げようとするもの、それはいわゆる神様ってことになるだろう。

ひとくちに神様って言っても性格やレベルがある。唯一絶対の創造神や、自然神、鎮護国家の守護神、土地神、産土神、英霊、式神、精霊。

愛そのものの神様も、人格神ではない神様も、荒ぶる神様も、契約を重んじ嫉妬する神様もいる。

神、かみ、上、つまり上位存在ってだけで、みーんなカミサマって呼んじゃうんだな。それが日本語だ。文脈によってどうとでもなり、定義と言えるような語ではないw

 

で、まあ、いわば邪神って感じなんだろうけど、

クインメタリア、デスファントム、ファラオナインティがどんな神なのか性質を観察しようとしても、その描写はほとんどないに等しい。

姿形が描かれず、そのお告げが聞こえるのはクインベリル達のような巫覡だけだ。

その名すら、本編では終盤まで伏せられがちで「我が大いなる支配者」とか言い換えている。

 

名前を呼んではいけないあの人とか、みだりに主の名を唱えてはならない、とかいうのは実に普遍的な発想だ。

名を呼ぶことは使役や存在の掌握に通じるので、上位者は下位存在に名を呼ばれるのを嫌う。

誰だって、目下にいきなり呼び捨てにされたらイラッとするだろうけど、そういう気持ちと基本的には同じかな。

 

セーラームーン達は、ラスボスであるクインメタリア、デスファントム、ファラオナインティに対峙することのないまま、

正体を明らかにし見極めることのないまま、退ける。

 

物語のクライマックスになるのは、

エンディミオン、ブラックレディ、ミストレスナインに憑依されたほたる、

洗脳されて、自分を見失った人に、セーラームーンがひたすら寄り添うことで彼らが自分自身を取り戻すっていう、そういう展開だ。

 

セーラムーンの「あなたと戦いたくないの。私が傍にいる。信じて。目を覚まして。」っていう想いが彼らと通じ合うところが主題で、

 

ラスボスを退けるのは、消化試合って感じだ。

クインベリルはまだ嫉妬と絶望の吐露があったけど、

ワイズマンもミストレスナインも崇拝以外の動機を語らないので、同情とか共感の余地がなかったりする。

まあその辺の魅力はプリンスデマンドと教授で分担してるんだろうけど。

 

武力を高めて勝利することよりも、捨て身の献身が結果として事態を好転させるっていうのが、

女性主人公ならではの解決って感じで、そこは未だにヒーローものとして斬新だと思うし、面白かった。

追い詰められた土壇場で、

少年誌だったら敵との切磋琢磨で新しい能力が開花して逆転ってのが王道だけど。

セーラームーンはどんなピンチの時も捨て身の献身、常にその一択だ。

 

セーラームーンは、戦士というよりプリンセスなんだな。

 

しかし、何度敵を退けても、何度地球を救っても、

次の週には新シリーズが始まって、また新たな敵が現れてしまう展開に、ちょっとツライものを感じた。

週に10話を連続で詰め込んで見たせいも勿論あるけどw

 

なんで何度退けても、また敵が現れるのか。

なんで、繰り返しまた同じ問題が起こるのか、と言ってもいい。

 

ちょっと長く生きてると、そういう事って実はよくある話だと分かってくる。

何度もおんなじよーなダメ男にひっかかる女とか、

どんな仕事をしても同じようなことでモメて仕事が続かない人とか、

何度よせと言っても毒親の元に戻ってしまう搾取子とか。

どんな人を雇っても、育てきれなくて離職率が異常な経営者とか。

 

人生において何度も何度も、似たようなパターンに遭遇する人がいる。

それは、その人自身の内面の問題の顕在化なんだよな。

その人の心にある痛みや恐れが、何度でも同じ状況を引き寄せる。

 

繰り返し引き寄せる問題は、そのスパンが短くなり、内容もエスカレートしがちだ。

 

最初の問題が表面化するのには数年かかっても、次のときには数ヶ月になったりする。

 

なんでなんだろうね?

そういうものだとしか言えない。

 

目を逸らせば逸らすほど、野放しの恐怖は力をつけて膨れ上がり、より厄介な怪物になっていく。

そういう比喩で理解するしかない。

 

セーラームーンの敵対存在が、どんどん力を増していくのもそういうことの比喩なんでないのかな。

クインメタリアを退けても、もっと強いデスファントムになって戻ってくる。

デスファントムを退けても、もっと強いファラオナインティになって戻ってくる。

 

いつかは、目を背けているものに向き合わなくてはならない。

でなければ、圧し潰されてしまうだろう。

 

その正体を見極め、明らかにして受け容れる。それ以外には、ない。

 

セーラームーンでいうと、その次の敵、デッドムーンサーカス編のテーマは、

夢、鏡、だ。

 

そしてクインメタリアのような、今まで謎のままだった最後のボスはネヘレニア、

クインセレニティと対を為す、もう一人の月の女王ということになるらしい。

 

夢や鏡を通じてみる、隠されていた自分自身。

それが根源的な恐怖で覆われてた、問題の正体だ。

 

繰り返し甦る闇の怪物は、戦い続けてたのは、自分が生み出したもう一人の自分、影、シャドー。

 

いつでもそうなんだよな。

自分の住む小さな世界を守りたくて、決して見ないようにしていたもの。

恐ろしくて恐ろしくて堪らなくて、

その姿を見るくらいなら目を潰し、

その名を聞くくらいなら耳を潰し、

それを認識するくらいなら狂ってしまいたいほど、恐れていたもの。

 

それは、明らかにしてみれば、切り離していた自分自身の心の一部に過ぎない。

 

トラウマとか、コンプレックスとか、見捨てられる不安とか、親の言葉とか、身近な人の死、幼いころの心の傷。恐怖。

 

大人になった今の心で向き合うなら、ごく些細な、よくある思い込みと呼べるもの。

ああなんだ、そんなことで苦しんでいたのか、と言えるようなこと。

それを怪物に育ててしまった長い年月があるだけだ。

 

名伏し難い怪物と思っていたもの、恐るべき神の名を白日のもとにし、

恐怖を越えて、切り離していた心を統合するとき、

完全性が成った瞬間の幸福を感じることができる。

自分を愛するってどういうことか解る。次の段階へ進める。

 

 

 

・・・、ま。そんなことを思ったけど、

更に続けてデッドムーンサーカス編を視聴する気力はないかもww

サーカスっぽい演出はすっごく好みだから、今までの内容を忘れないうちに見たくはある。

 

 

あと、やっぱり魔界樹編が想い出補正もあって一番好きだったな~。

エイルの笛の旋律とかすごい覚えてたわ。印象的でいい。

 

https://youtu.be/i3JvYDV9HbQ 11:00からお馴染みの絵面とBGM。

 

エイルとアンは、なんの裏も含みも無くて楽しく見られるんだよな~。

 

人間を襲う動機に複雑なものがない。

腹が減ったからそこにあるものを食うという、単純で明快な真理があるだけだww

 

腹が減ってる時は危険だが、満腹すれば襲ってこないだろう相手とは、

話し合いの余地、関係性を構築する余地がある。

大型犬や肉食獣、捕食者になり得る者ともある種の緊張を保ちつつ、仲良くなれることがある。

エイルとアンは友達になりたい感じがするんだよな。嫉妬漫才のノリが懐かしくて微笑ましいし。

 

人間のエナジーを捕食するエイルとアンは、人間よりも上位の種族ってことになるんだろう。

実際、たった二人と木が一本で生態系が完結してて装備もなしに宇宙空間を旅できるとか、

生命体、知性体として相当にレベル高い。神かよ。

 

ラストバトルでも、セーラー戦士たちが束になっても、たったの一撃も入れられなかった強キャラ感も良かった。

 

ただ、エイルとアンは種としてのポテンシャルが高くても、精神的に幼いんだよな。

誰にも教育されることなく育ってしまった事情がある。

それで人間の学校にも通ってみたのかと思うと、そういう素直な好奇心や向学心を備えていること自体がやっぱりレベル高い。

 

学生生活のなかで、セーラー戦士たちとの関りのなかで、愛とはなにかを理解するにつれ、

魔界樹との交信もできるようになっていく。

 

魔界樹っていうか、世界樹みたいな存在なんだろうな。

扶桑とかユグドラシルとか、一本で生態系のすべてを内包している、世界そのものの象徴としての樹木だ。水彩の絵もスゲー妖しくて美しい。

 

テレパシーというのは高次元の能力だ。

エゴを越えられない三次元付近の意識で使うと、深刻な精神汚染になるので目覚めないほうがいい力だ。

 

資源を奪い合うとか、

そもそも相手と自分が隔たっている、相手を手に入れるとか所有するとか「愛とは奪うもの」という意識の次元では、

魔界樹のテレパシーを受信できず、

 

相手と自分という二項対立を越えて、自他に境はないと悟る、梵我一如とか、無償の愛を理解できると、

意識は五次元あたりなので、魔界樹のテレパシーを受信できるようになり、

 

そうすると、魔界樹の蓄えた知を共有して、知性体として一気に成長する。

 

エナジーを採取する必要、食事の必要もなくなり、ただ愛だけをエネルギー源として生きていけるようになる。

 

そう、愛っていうのは抽象的な感情とかじゃなくて、

無限から有限にエネルギーを引き出す感覚そのものなんだよな。本質的には。

存在してるってことと、愛を感じてるってことは、どっちもレトリックでありイコールだ。

愛だけで肉体を維持することも、エイルとアンほど進んだ存在なら可能かもしんない。

精神体というなら、もっと容易だ。

 

それで地球にも人間にも用がなくなって去る、という最終話の流れも完璧過ぎて。

 

いや~、物心つくかつかないか、みたいな時期にこのアニメ見てて良かったな。

意味はわからなくても、どこか心に残るっていうか。

 

いや、むしろ「この世界は物質である」という強固な思い込みに同意する前の、

ごく幼いころのほうが、意味は解っていたかもしれない。


世界樹、世界そのものと同期することで、自分が何者であるかを知る。全ての始まりと終わりを知る。

それが科学的追求だけでは及ばない、本当の智慧への至り方というものだ。

 

 

 

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 世界樹のウィキ

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%A8%B9#:~:text=%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%A8%B9%EF%BC%88%E3%81%9B%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%85,%E3%81%AB%E9%80%9A%E3%81%98%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82

 

追記。 

自分自身の恐怖をまっすぐ見ようとすると危ないので、

変わりたいと願う時は、しかるべき瞑想法を以てするべし。

自分を俯瞰すること、自分を大きくすること、自分を空にすること、

そういうふうにエゴをクリアにしてから見ると、恐怖を迂回して問題の根をみることができるよ!

 

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セーラームーンを解釈する。Sは幾原邦彦監督の元型。

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YouTubeで期間限定無料配信のセーラムーン視聴を続けているのだが、

https://www.youtube.com/channel/UC7J1bN5V1kL6xJ42ue_W6Vg

Sシリーズに入ってからいまひとつついていけないものを感じていた。

二十年前のTV放送当時もこの辺からは見てなかったので、ノスタルジーがないせいかとも思ったけど、

ミメット登場で色々腑に落ちたので覚え書きしておく。

 

敵幹部ミメットの声は特徴的で、少女革命ウテナの「かしらかしら、ご存じかしら~?」の影絵少女を思い出した。(CVかないみか

 

そうか、そういえば、ダイモーンの生成場面とか独特の様式美に拘る演出や音の使い方、随所にウテナみが出てきたなーとは思っていたけど、

セーラームーンSはストーリーの構成もすごく幾原邦彦っぽいんだ。

 

今までのダークキングダム編・魔界樹編・ブラックムーン編では、

敵の目的や組織の命令系統がすごく明快だった。

 

クイン・ベリルがトップで、数名の幹部と各回妖魔。

プリンス・デマンドがトップで、幹部と部下と各回ドロイド。

王を唆す黒幕にクインメタリアとワイズマン。

 

黒幕と、王様と、将軍と、兵隊。

 

見たまんまの支配のヒエラルキーに、

目的はシンプルに世界征服だ。

 

エイルとアンなんかもっとシンプルだ。毎回カーディアンを召喚する。

術者と式神っていう関係性に、目的は捕食。

 

子供でもわかるし、途中から見始めてもすぐに理解できるテンプレだった。

今北産業どころか二行で済んだじゃねーかwww魔界樹編ほんとすきwww

 

ところがSに入ってから一気にその辺がややこしくなる。

敵ボスは白衣のマッドサイエンティスト風で、その秘書や生徒風の人物が、実験体(ダイモーン)を使って襲ってくる。

白衣の教授は、女王や王子のような悪のカリスマ感がない。

ミメットは命令に従うのなんてやめちゃおっかな~と発想する。

今までの敵幹部はみんなトップを畏怖し粛清を恐れていたものだけど、デスバスターズは恐怖政治ではない組織らしい。

 

更に、ウラヌスとネプチューンという共闘を拒むセーラー戦士が登場して、

セーラーチームと三つ巴になる。

三つ巴だけでもまぁまぁややこしいのに、

敵の目的もややこしい、というかよく分からないのだ。

 

セーラーチームではマーズが不吉な予知夢を見ているだけで、

ウラヌスとネプチューンはその予知夢の危機「沈黙」がやってくるから、

対抗策として聖杯を、その聖杯を召喚するために三つのタリスマンを、そのタリスマンを探すために、ピュアな心の持ち主を探しているという。

この説明がもうややこしいww

 

白衣の科学者たちも聖杯を探しているし、その聖杯を使って「沈黙」のメシア(救世主)を・・・?

 

と、30話も費やしながらにして、

いまだに肝心な敵の動機や目的がなんだかよく分からないのだ。

なんだかよく分からないけど、世界を「沈黙」が覆うとか言われると不吉っぽいし危機っぽいし、

毎度その辺の人間を襲ってくるから、そこは正義の味方として見逃さず成敗しているという、場当たり的対処の連続だったのだ。30話も。

 

今までの単純明快な対立構造を見ていたノリでSを見ていたので、

いくら見ても知りたいことが明かされないというフラストレーションを溜めていた。

 

が、そうか。これが幾原邦彦作品であるなら、

その謎が解明されるのを期待してはいけないんだろうな。

 

少女革命ウテナでも、輪るピングドラムでもそういえばそうだった。

ユリ熊嵐やさらざんまいもそんなんだった。

 

「世界の果て」「ディオスの力」とか「生存戦略」「こどもブロイラー」みたいな、

未だにすぐ思い出せる、とってもキャッチーで意味ありげなキーワードを常にチラつかせながら引っ張り、

 

アニメらしからぬ電波ソングで決闘場へ向かうシーンや、

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」一連のシーンみたいな、

意味はわかんないんだけど、センスのカタマリっていうか、

ものすごく独特でカッコよくて目が離せないバンクシーンをつくりだして、

毎週毎週それを流して、一種のお約束にするんだよな。

いや意味はわかんないんだけど。(二回言う)

変身とかの販促でもないのに、バンクシステムをここまで様式美として昇華するのかっていう、幾原監督の作家性だ。

 https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF 

 ダイモーンのバンクもその初期型ってことなんだろう、今見ればテイストに同じものがある。

 

youtu.be

 

youtu.be

 

youtu.be

 

毎週見てるのに、ちっとも謎の解明は進まないお預け状態だというのに。

でもカッコいいアレを見たいからとりあえず見ちゃう、みたいな習慣性を誘発させてくるんだよね・・・、幾原監督って・・・。

飽きないようにバンクシーンがちょこちょこアップデートされてって、

見てるうちに脳がパブロフの犬化してくというか、中毒性が高いというか。

もう意味とかいいからとにかくアレを・・・アレをくれよぉ!ってなっちゃう映像ドラッグっつーかww

よく考えたらコワいんですけどww

 

そして結局最後まで見ても、「世界の果て」「ディオスの力」「ピングドラム」「こどもブロイラー」などなどの、思わせぶりなキーワードの数々がなんだったのかは明確に説明されることはないのだ。

 

だから視聴者はそれらの考察で盛り上がるんだよな~。

あれはこういうことの象徴だったんじゃないか、って。

 

幾原作品でそういう設定の投げっぱなしが批判されることはない。

物語はだいたい、キャラクターの心情の面では盛り上がっていって、試練を越え、ちゃんと決着がついて終わるから、そういう意味で満足できるようになっている。

 

俯瞰して見ると、幾原作品のテーマはだいたい身近な人間関係のゴタゴタや、思春期的なコンプレックスなんだよな。

世界観としてはいつも狭く閉じた世界を描いていると思う。

教師の登場しない学園だったり、モブがピクトグラムだったりして、人間関係が閉鎖的で濃い。

大人や第三者の介入を拒否する、耽美で少女的な世界だ。

 

つまり、世界の危機とかそういうスケールの大きい風なことを言ってるのは、

思わせぶりなだけの舞台装置というか、視聴者を引っ張るエサっていうか、

あるいは内面的、精神的、主観的な意味での危機だったりっていうか。

いや、まあ。解釈によって自分の内面に答えを見る人もいるだろうから、問いかけとしてはアリだと思うけど。

 

だから、何が言いたいかっていうと、

セーラームーンSでは「沈黙」とか「沈黙のメシア」がなんなのか、みたいな答えが開示されると期待して見てはいけないってこと、

デスバスターズは思わせぶりなだけで、止むに止まれぬ事情とか、悪に堕ちた悲哀とか苦悩とかは特になくて、地球に漫才しにきた愉快で迷惑な人達ってこと。


過去シリーズのような、普通の人々の日常を守る、地球を背負って守る、みたいなスケールの大きな使命感の感性は幾原監督の得手ではないのだ。

 

そういうヒロイズムを求めないで、

耽美さと、独特の様式美と、漫才と、キャラクターの心情の成り行きに注目すれば面白く見られるはずだ。

ウラヌスとネプチューンは百合界の元祖カリスマだというし、そういうところが見所なんだよな。

そこの関係にいまひとつ萌えないまま見ていたから辛かった・・・。

ウテナとアンシーは好きなんだけどな~。

 

まあ、幾原邦彦のその後の作品を見て、今改めてセーラームーンSを見たから分かったことがあったっていう。

オタク道も長く続けてこそ見えてくる文脈があるということか。

リアルタイム視聴していた子どもの頃から、思えば遠くに来たものだ。

 

 いつか少女革命ウテナピングドラムの記事も・・・、いや見なおすと長いからな・・・。

 

 

 

そういや、Sは家族や学校の場面がほぼなくなったよな。

セーラー戦士が増えたからそういう人物まで描くヒマがないし、

受験生ということでレイちゃん家で勉強会ばかりなのも、設定的におかしくはないけど。

ハルナ先生やなるちゃんみたいな普通の同級生、育子ママや生意気な弟、娘に甘いパパ。

無印のころはそういう人達との日常と、変身戦士の非日常の対比が見所だった。

Sではセーラームーンにも戦士としての自覚(あるいは母としての内面)ってやつが確立されてしまって、

ルナが世話焼きな態度をとることもほぼなくなった。

 

そういや、そうだ。幾原監督の作品ではそういう周囲の大人的な人や普通の友人との関係性っていうのが希薄だ。

「限られた特別な関係」ってやつがクローズアップされる。

それはもう密接で蜜月な、友情以上恋以上に募って拗れた感情のボルテージが特徴だ。

 

意外とその辺てニッチなジャンルかもしれない。

キャッキャウフフしてる百合モノとは微妙に系統が違う、

潔癖で排他的で思いつめやすい少女同士の感性の世界というか。

思いつくのはポーの一族とか、CLAMPの聖伝とかそんな感じかな。思い出のマーニーとか。

 

視聴者の少女が、無印のころは家庭に帰属する意識の幼稚園生や小学生低学年で、

そのまま育って、特別な親友をつくりたがる十代の中高生でSを見ることになってたら、そりゃドハマりするのも頷けますなww

ウラヌスとネプチューンにしろ、ちびうさとほたるにしろ、二人だけの世界をつくるあの感じがストライクでしょう。

 

ヒロイズムからアドレセンスへ、

セーラームーンもどうしたわけか、

視聴者層の成長と共に、テーマの対象年齢が上がっている。

それが飽きられず支持され続けた要因のひとつなのかもしれない。

 

 

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紅の豚を解釈する。モラトリアムの物語

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さて、紅の豚だけど。

ジブリランキングがあるとラピュタ千と千尋が票を集め、紅の豚は不人気の部類になりがち。

「飛ばねえ豚はただの豚だ」という意味はよくわからないけどカッコいい名台詞だけが有名だwww

筋書きを覚えていない人も多そうなのでざっと説明しつつ解釈してみよう。

 

豚の姿の飛行艇乗り、ポルコ・ロッソ(イタリア語で赤い豚)は、

元軍人でアドリア海のエースと呼ばれた腕利きのパイロットだけど、

物語開始時では既に除隊してフリーの賞金稼ぎをしている。

空賊マンマユート団やアメリカの飛行艇乗りカーチスとの空中戦が物語の見所だが、

 

そもそもなぜ、ポルコが豚の顔をしているのかは明確に説明されない。

ポルコはもともと人間だ、当たり前だけど。本名はマルコ・パゴット。

黒髪ヒロインのジーナが「どうしたらあなたにかけられた魔法が解けるのかしらね」というので、

魔法かなにかで豚になったらしきことはうかがえる。

 

回想で多くの戦友を失い、たった独りあの世とこの世の境のような場所、雲の平原から帰ってくる描写があるので、トラウマによる何かなのかな?くらいに思っていたな昔は。

 

しかし、後の作品、ハウルの動く城を見ると更なる解釈の材料が落ちている。

変身というテーマの扱い方において、ハウルの動く城紅の豚の後継作、といえるかもしれない。

 

 

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ソフィも老婆に変身する魔法をかけられる。

 

だがその老婆の姿でいることは、実はソフィにとって良い事尽くめだ。

ソフィでない老婆であれば、長女だから継がなくてはいけなかった家を出ていくことが出来る。

ソフィでない老婆であれば、人気の妹と地味な自分を比較する「私は美しくない」というコンプレックスと無縁でいられる。

ソフィでない老婆であれば、多少図々しくなって、押しかけ女房 掃除婦としてふるまえる。

 

自分でない自分になりきることで、

見たくないものを見ない、やりたくないことをやらない、という現実逃避をすることができる。

変身は、心情や内面のあらわれとして描かれているのだ。

 

マルコ・パゴットも、ポルコ・ロッソになることで、

成人男性から豚野郎になることで、何かから無意識に逃避している、と仮定する。

 

ポルコは、何から逃げているのか、何に気がつかないフリをしているのか。

 

銀行員「国債などお求めになって民族に貢献されては」

ポルコ「そういうことはな、人間どうしでやんな。」

 

ポルコ「豚に国も法律もねえよ。」

 

フェラーリン「冒険飛行家の時代は終わったんだ、国家とか民族とかくだらないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ」

ポルコ「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ。」

 

カーチス「ジーナはな、おめえが来るのをずーっと待ってんだよ!」

ポルコ「デマとばしやがって」

 

ジーナ、戦争、国家、民族・・・、

 

愛する女性、国家の有事、

そういうものに対して、成人男性の果たすべき責任。

 

そういうものから逃げている、ということもできるのではないだろうか。

だから「怠惰で破廉恥な豚でいる罪」という言葉が出る。

自分が現実逃避しているという罪悪感、卑下される存在である自覚とかが、心のどこかにはあるということか、

あるいはまあ、

面倒なことをやらなくちゃならない、それが人として当然だからっていうなら、俺はいっそ人間じゃなくて豚でいいよ。という開き直りや投げやりでもある。

 

いや、まあ。

国が戦争をおっぱじめたからと言って、盲目にそれに従うことを推奨するわけではないよ?

でもそこに住む以上、無関係ではいられなくなる。そういうものだ。

 

ポルコの飛行艇を新造するミラノのピッコロ社では、工場長のおやじ以外、男性が一人もいない。

息子たちはみんな出稼ぎへ出たと言って、親族の女性が何十人も集まって飛行艇を製造するんだが、

その女性達がよく見ると、ちらほら黒いワンピースを着ている。

それは多分、喪服ってことだ。

全員ではないかもしれないが、出稼ぎの夫達というのは、徴兵されて戦死していることを伺わせる。

ジーナも夫を戦争で失っている。

 

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赤紙が来て、それを拒否すれば家族に累が及ぶなら、行きたくなくても行かないわけにはな・・・。

非国民と言われて石を投げられたら、一族郎党そこに住めなくなるわけで。

誰しも人間関係や社会のなかで、しがらみを分け合って生きている。

 

あくまでも戦争への参加を拒否するなら、ポルコのように独りきりで入り江の秘密基地で暮らすみたいな、社会自体に参加しないスタンスが必要になる。

 

それは空賊たちもそうだ。

紅の豚に登場する男たちは、いい歳こいて揃いも揃って国家の有事に参加せずブラブラしている男達で、

マンマユート(ママ助けて)という名で、「みんないい子ね」「ボクひとりで行くのね」とジーナにあしらわれる、一人前の甲斐性があるとは見做されない男達なのだ。

 

カッコよく言えばアナーキーアウトローなんだろうけど。

カッコわるく言えば、頼りにならない半人前のとっちゃん坊や達たちであり、

 

より正確に言うなら、これは成人の手前のモラトリアム(猶予期間)の比喩の物語なんだと思う。

 

大学生くらいのイメージかな。

 親元を離れつつも経済的にはまだまだ親がかりで、

貧乏だけど気楽。周りもそんな連中ばかりでお金がないことすらちょっと楽しい。

安くて嵩のあるものばかり食べて、風呂も洗濯もロクにしない自堕落な生活をして、

講義をサボって朝まで麻雀とか、朝まで酒呑んで議論とか、学業という義務はギリギリまでやらないで、バカバカしいことに情熱を傾ける。

もうすぐ、いつか、社会に出て働かないといけないのは分かっている。

楽しく遊んでいる女の子と、結婚のことなんかもそのうち真面目に考えなくてはいけない。

プレッシャーはうすうす、あるいはひしひし感じていて、

あれもこれもいつかは向き合わなくては先へ進めないと知っているけど、

束の間の準備期間、猶予期間を与えられている。

自由と放埓の日々を満喫している。

 

「さらばアドリア海の自由と放埓の日々よ」というセリフがあるけど、

気楽なドタバタ劇に、戦争や不況や空軍みたいな外圧が不穏な影を落としているのは、

社会や責任との関りをいつまでもは先延ばしにできない、という肌感覚の表現なんだと思う。

 

ポルコにかけられた魔法を解く方法は、フィオのキスでもあるけど、

意味するところはモラトリアムからの卒業、バカ騒ぎの解散だ。

卒業式のような通過儀礼として、お祭り騒ぎを開催する。

空中戦と一対一の殴り合いで、成人に足る己の力や勇ましさを誇示する。

青春を完全燃焼させた後は、

待たせていた女性と結婚して、定住して定職につく。収まるところに収まったのを匂わせてハッピーエンドとなる。

 

そしてエンディングの「時には昔の話を」では、ノスタルジーが前面にでている。

少し昔の話をしようか、通い慣れた馴染みのあの店、コーヒーを一杯で一日。

小さな下宿屋に幾人も押しかけ、朝まで騒いで眠った。

嵐のように毎日が燃えていた、息がきれるまで走った、そうだね。


時には昔の話を 加藤登紀子 紅の豚

 

二十代のモラトリアムを懐古する、気楽だった若かりし頃を懐かしむ。

 

とまあ、紅の豚はそういう物語なので、

意味が分かって楽しめるのが二十代後半以降ってことになるんだよな~。

ジブリアニメの主な視聴層、ちびっ子と感性が噛み合わないので、不人気がちなのは致し方ない。

ある意味で自由が失われる話なので、カタルシスにも欠けるし。

でも今頃ちょうどジブリ世代がおっさんになってきているので、再評価される時期ってことがあるかもしれないな。ひょっとしたら。

 

 

豚男は宮崎駿の自画像でもある。

飛行艇で儲けた稼ぎを、ぜーんぶ次の新しい飛行艇に注ぎ込んで、

ハイスぺック、ハイクオリティを求めるうちにどんどん予算がオーバーしちゃって、

借金を返すためにお祭り騒ぎの博打大会を開催する。

っていうくだりを見ていると、アニメ映画作りの現場、興行の雰囲気がまさにそうなんだろうなと思うw

前作の儲けを全部つっこんで、次作を更なる大作にする。

でもアニメ作りなんて博打もいいとこだ。大金がかかるのだけは確定で、ヒットするかどうかは時の運次第。

今ではジブリ宮崎駿も不動のブランドだけど、紅の豚当時の興行成績ではそれほど売れてなかった作品もあったわけで。

 

 

 

後はまあ、

紅の豚でも、赤毛ヒロインと黒髪ヒロインの対比が登場する。

冒頭で誘拐されるスイミングクラブの幼女達と、フィオが赤毛ヒロイン。

女性性の魔力を備えていて、空を飛ぶ、異種と交流する、そういうことができる。

豚になったポルコとパートナーになり、飛行機をつくり、空賊連中を惹きつけ丸め込めるカリスマがある。

黒髪ヒロインはジーナ、彼女は陸で待つ女だ。

人間に戻ったマルコのパートナーは彼女だ。

 

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それと、ジーナとカーチスが花園の庭で会話をする場面があるが、

 

バカっぽい男がやってきて、座っている上品な女性に紙片を渡して、植物に囲まれた場所で話す、

というイメージはハウルの動く城にも登場する。

これはセルフオマージュだと思われる。

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ハリウッドスターから大統領になる!と息巻くカーチスは、

ハウルの動く城で、国王陛下になっている。頬の張った輪郭が同じで、声優も同じ大塚明夫だ。

 

紅の豚では当て馬ポジションで、ジーナにもフィオにもフラれ、借金の肩代わりをするという、気の毒な目にばかり遭っていたカーチスがここでいくらか救済されているように思える。王様になれて良かったねカーチス。

 

ジーナは「あなたのそういうバカっぽいところ好きよ」と言うけど、

サリマンも意外と傀儡の国王を軽蔑とかはしてなくて、可愛いと思っているのかもしれない。

 

紅の豚のネタはそんなもんかな。

では、毎度のまとめに入ろう。これを書きたいがためのブログなのだ。

 

個人的に紅の豚で一番好きなのは、

フィオ「いいパイロットの条件を教えて、経験?」

ポルコ「いや、インスピレーションだ」

っていうところだ。わかりみ過ぎてニヤニヤしちゃう。

 

飛行艇で空中戦をやるようなパイロットに必要なもの。

エンジン、機体のコンディション、自分よりも大きな力を乗りこなし、

一瞬の判断ミスが死に直結するシチュエーション、その連続を生き延びるために、

人間の持ち得るどんな能力が磨かれるのかってことだ。

 

決して間違えない直観の力。

それしかないという正解を、一瞬にして閃き、その通りに体が動く。

 

そういう力だ。その感覚を想像するとワクワクする。

 

そういうのって後から考えても、どうして自分がそういう行動をとったか言語化できなかったりするんだよね。

なんとなく、でも絶対そうだと思った。っていう感じになる。

理性も知性も感情も超えた、脳全体がシンクロする時にだけ発揮される力、世界と調和する力、それが脳の本質、生命体の本質の能力だと思う。

 

宮崎駿アニメの主人公には割とこの能力が標準搭載されている。

ハッとした顔になったら、次の瞬間には最適行動をとっている。

その感覚を「インスピレーション」と言ってのけたのは紅の豚だけだ。最高。

 

インスピレーションは、ただ待っていても中々やってこない。

だいたいの人は普段、論理か感情か、左脳か右脳かに偏った脳の使い方をしている。

本能か知性か、後脳か前脳かに偏った使い方をしている。

過去の再生に囚われる容量の無駄遣いをしている。

まずそういうガッタガタのアンバランスを、意識して手放すところからはじめるといい。

脳内をお片付けして、フラットなワークスペースをつくるのだ。

それから問いを立てると、正解やインスピが浮かぶ。

そういう風に、インスピの感覚に慣れていける。

 

いや、飛行艇乗りみたいな極限状態に身を置くのもひとつの方法ではあるけど、危ないからなww

まあもうちょっと穏当に、セーリングとかサーフィンとか、パラグライダーとか、自然を相手に身体や機材を操縦していくのは、かなり捗ると思う。

 

空中戦よりも、ポルコが新しい飛行艇で飛び立つ一連のシーンが好きだ。

狭い河川を橋や船をすり抜けながら、新しい翼の使い方を体得して飛び立つ。

自然と、人工の翼と、人間の感覚のギリギリのせめぎいが、飛翔になって実現する。その緊張感が素晴らしい。

飛行機の動きをあんなに生き生きと描いたアニメーションは他にないな~。今はみんなCGになってしもうた。

 

 

 

 

 

宮崎駿よりちょっと時代が下るけど、アニメ漫画界隈の人材の大学生時代っていうとアオイホノオっていう半自伝漫画にその雰囲気がある。

 

 

 

・・・・、そういえば当時「カッコイイとは、こういうことさ」っていう糸井重里のキャッチコピーがついていたらしいが、

なんかこう、複数のヒロインとフラグを立てて、天与の才能があって引く手数多だけど、あえてどこにも属さない一匹狼感がクールっていう設定は、

やれやれ系とかなろう系チート主人公に近いモノがあるよなー。今にして思えば。

中二病にウケるカッコよさであり、さすおにとかイキリトとか揶揄されちゃう感性でもある。一歩間違えば黒歴史の、客観性を欠く万能妄想感なのだ。

腹の突き出た中年ぽい豚の容姿という自虐要素、コミカル要素で、中二妄想っぽさを相殺して嫌味にしないっていうバランス感覚は天才的だと思うけど。

 

それにしても「カッコイイとは、こういうことさ」っていうコピーは、額面通りに受け取っていいものだろうかww

さすがですお兄様wwwwっていう時と同じ煽りのニュアンスでもそのまま通じる気がしてくる。

 

 お題「#応援しているチーム

ものがたりを解釈する。セーラムーン・ドラゴンボール・ワンピース

DRAGON BALL モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

今日は有名どころの話題をちょいちょいつまんでいく。 

 

美少女戦士セーラームーンR

 

セーラームーンRが無料配信中だ。

https://www.youtube.com/channel/UC7J1bN5V1kL6xJ42ue_W6Vg

自分的にはアニメオリジナルのエイルとアン編がお気に入りなんだけど、

武内直子原作のダークキングダム編とブラックムーン編が、うまいこと対になってるというか、反転してる構造になっているのに気がついた。

 

ダークキングダム編では、

超過去の因縁、前世の使命が現在によみがえってくる筋書きだ。

敵はクイン・ベリル、地下のトンネルがアジトに続いていた。

主人公の母、クインセレニティがキーパーソンになる。

 

ブラックムーン編では、来世かどうかはよくわからないが、

超未来から現在を脅かそうと敵が襲来してくる。

敵はプリンス・デマンド、UFO、空中要塞が描かれる。

主人公の娘、スモールレディがキーパーソンになる。

 

なんでも象徴や陰陽によりわけて考えてみるのが自分流の解釈のコツだが、

 

過去、地下、女性、これらは陰で、

未来、上空、男性、これらは陽だ。

 

現在、地上、主人公を中心に、両翼に展開する物語になってたんだな~と思った。

よく出来ている。

祖先と子孫となると、祖先が陽で子孫が陰のような気もするけど、まあそれはよし。

陰中の陽、陽中の陰ってこともあるしな。太極図の中の小さい丸だ。

 

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さてそれで、このところよく引用するエニアグラムのブログで、

仲間を集めていくことで、楽天的なJC月野うさぎがプリンセスセレニティとしての優雅なカリスマを得ていくことができる、という考察があったんだけど、

https://gunber.hatenablog.com/entry/back_usagi

これは少年誌で育った脳からすると、少し不思議な発想でもある。

 

仲間が加わったら、それで自分の力が増すってなんだろう?

自分の力というものは、自分を鍛えることで増していくものなのではないか?

 

っていう疑問がちらっと頭をかすめる。

これは男性的な発想だ。積み上げ発想、修行脳っていうか。分析、論理、左脳的。

 

最近のなろう系小説で、ティアムーン帝国物語っていうのがあって、随所にセラムンに影響を受けてる感があるんだけど、

この話ではセラムンよりもっと顕著に、主人公自身は無力なまま変わることなく、集めた仲間のバラエティによって事態が解決していく。

ティアムーン帝国物語~断頭台から始まる、姫の転生逆転ストーリー~@COMIC1 (コロナ・コミックス)

https://ncode.syosetu.com/n8920ex/

人脈、コネクションの力、というものに焦点が絞られた、ピーキーな面白さがある。

 

ティアムーンの極端な話作りで気がついたけど、

コネクションの力はそのまま自分の力であるっていう発想があって、

それはどちらかというと女性的な発想だ。繋がり発想、融和脳っていうか。同一視、共感、右脳的。

 

セーラームーンには、修行パートというものがなくて、新しい変身アイテムとかちょっとした感情のきっかけでパワーアップするけど、

小女誌的には、それでなんの疑問もないんだな。

それまでに仲間を集めていく過程、人と人との繋がりが広がって深まっていく過程があって、それがそのまま自分の力が増していく感覚になっているんだろう。

 

自分がどっぷり読んでいた少年誌の漫画では、より強くなるためには修行パートというものがあるのが絶対のお約束だった。

幽遊白書ジョジョ、ダイ大、うしとら、GS美神スプリガン・・・etc

師匠や先生に教わって、特殊な環境で負荷をかけて肉体を鍛えたり、集中力を養ったりする。

それがある臨界に達したとき、新しい技、新しい認識をゲットできるものなのだ。

 

そういう少年誌的発想の代表としては、やっぱりドラゴンボールだろうなーと思う。

主人公の悟空は、修行によってどこまでも限りなく強くなっていく。

 

最初の師は亀仙人、そしてカリン様、神様、界王様、界王神と、師のレベルが上がっていく。

亀仙人は島に住んでて、カリン様は塔の天辺に住んでて、神様は空の上に住んでて、界王さまはあの世に住んでる。界王神はもっと高い次元とか?で、

師のステージがより高く、天空方向へ上昇していく。

 

天下一武道会舞空術が登場してからは空中戦がデフォになる。

サイヤ人がやってきて、宇宙船が登場して、宇宙へ飛び出す。

その次は、未来から子孫と敵がやってくる。

 

空、宇宙、未来、バトルステージも常に陽属性の方向へ展開していくのだ。

 

ドラゴンボールにも共に戦う仲間はいるけど、

クリリンヤムチャ天津飯、ピッコロ、ベジータ

彼らは全員、最初はライバルや敵として登場したキャラクターだ。

各々、自分こそが最強であることを目指して研鑽しているタイプで、

役割分担とか得意分野とかチームワークとか、意外とそういうものに乏しい。

武力担当でないサポートキャラとして仲間になったのは最初期のブルマ、ウーロンくらいだ。

 

強大な敵を前に共闘することはあるけど、基本的に、

全員がトップを目指す競争相手、好敵手、ライバルであることが特徴的だと思う。

 

どこまでも上へ上へと上昇するしかなくて、戦闘力がインフレしていくのを止められない物語でもあるw

 

だいたい惑星を破壊できるほどのパワーを得たら、それは個には過ぎた力というもので、少しは葛藤が生まれるだろうに、悟空は実にあっけらかんとしたものだ。

 

「つええ奴と戦いてえ」「オラわくわくすっぞ」

シンプルそのものの動機のままに、どこまでも恐れず強さを欲する。

明朗快活、純真、真性の陽キャ

心に闇がない。いや、なさ過ぎるww人間味がないと言われかねないレベルだww

 

幽遊白書なんかだと魔界、地下方向に物語が進行するので、それが精神面にも出る。

戦闘力を得過ぎた幽助には疎外感や葛藤が生じる。

ウジウジを拗らせるクソガキを玄海師範はこういう名言で導いてくれる。

「人は気分次第で壊せるものを持っている。

おもちゃだったりペットだったり恋人だったり家庭だったり、国だったりする。

お前はそれが人よりデカい。それだけだ。

壊したくなったらその前にここに来な、まずあたしの命をくれてやる。」

こんな師範がいたらグレられないよなぁ…。師範惚れるわ。

 

いやほんと、考えてみたら、気分次第で何もかも壊せてしまうほど強いって、怖いと思うよ。

大事なものをうっかり壊してしまわように、気軽に怒ることも嘆くこともできなくなっていくんじゃないかな。

 

悟空は、そんな湿っぽいかったるいことは考えもしないから強くなれる。

まずそのメンタルモデルが神話級だな。孫悟空、斉天大聖、ハヌマーンの名に恥じぬ内面と言えようw

 

鳥山明魔人ブウ編で原作を締めたけど、

今もアニメではギャラクシーバトル、異次元バトルみたいな感じで続編がつくられている。

 

鳥山明の感性は、極端に陽的で、男性性に偏って突き抜けたものだったんだな~と思った。

ただ、魔人ブウの、人をお菓子に変えちゃう魔法とかはちょっと方向性が違ってる。

魔法、陰的なものにシフトしていくこともできた可能性があるけど、それまでのバトル展開方向とは相性が良くなかったのか。

時代のニーズ、読者のニーズに応えるのが当時の漫画家のお仕事っていうか、

一度ウケたことを何度でも繰り返しやらなくちゃいけないっていうのも、ツライことなのかもな。

シリアスバトルより、子どもみたいな無邪気で突拍子もない発想があるところが自分は好きだった。

 

で、

 

仲間を集めて進むのか、自分自身を鍛えて進むのか、

 

という陰陽の二択の命題があると考えついて、

自分自身がどこまでも強さを得ていくのがドラゴンボールだったんだけど、

仲間を集めて強くなる、の代表格もジャンプの看板漫画にあったと気がついて驚いている。

ワンピースだ。

 

まずワンピースは海賊の物語、海の物語だ。

象徴でいうなら地下も太母だが、海も太母だ。母なる海。

 

ルフィは初めから専門職の仲間を募る。

集まった仲間は剣士、コック、航海士、狙撃手、医者、船大工、考古学者、音楽家、だったっけ。

 

ドラゴンボールの仲間は、全員のジョブが戦士オンリーだったわけだが、

ワンピースの仲間は、各分野のエキスパートたちだ。ついでに腕っぷしも立つんだけどねw

 

船長のルフィは、

「おれは、剣術を使えねぇんだ、航海術も持ってねぇ、料理もつくれねぇし、

おれは助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある!!」ゴーン。

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と宣言する。ティアムーンの主人公もこれなんだよな。周りの有能メンツがうまいことやってくれるのに任せて自分はイエスマンでいたいと言うんだ。

リーダー、船長、ルフィ自身に必要なのは技能ではなく器量だ。方針を決定する意志、みんなをまとめられるカリスマだ。

 

ドラゴンボールは、結局のところ悟空ひとりが最後に立つ勝者であれば、それでどうにかなる話なんだけど、

ワンピースはそうじゃない、全員の技能が噛み合ってこそ海賊一味として機能する構想になっている。一応。

 

ドラゴンボールには各編に修行パートが入るけど、

ワンピースはほとんど修行の描写がない。いきなり二年後になってパワーアップが済んだことになっている。

 

ドラゴンボールは天空方向へ物語が進行するが、

ワンピースは洋上、水平方向に物語が進行する。

途中、空島とか海中とかあるけどね。

惑星の丸みに沿って、やや下降しつつ進んでると言ってもいいかもしれない。

 

ドラゴンボールは未来と繋がって来訪者が来るけど、

ワンピースは、過去の因縁を回想するパートが毎回入ってそれがまたやたら長い。

あと、考古学者がメンバーにいるけど、過去の遺物、古代兵器が重要な伏線らしい。

 

陰か、陽か。地底や海か空か、女か男か。

仲間か、自分か、

繋がるか、積み上げるか、

並列か、直列か、

下降か、上昇か、

過去か、未来か。

 

意外と要素にしてみると、ワンピースって陰属性方向ばっかりに進む物語だったんだよな。

これは女性的な感性と言っていいと思うぞ・・・。

セーラームーンやティアムーンと同じ構造なのに、

それが少年誌の看板を何十年もやってるということに気がついて、今日、とても驚いている。

 

まあ、ある視点からするとそう見えたってだけで、これはひとつの解釈だ。

各作品の魅力はもちろんそれだけじゃないと思うので、その辺は今後の課題ということにさせてください。

 

っていうか、仲間集めと修行パートの両方があってバランスがいい物語のほうが多いと思うんだよな。普通はそうするじゃん。

でもモンスタータイトルになる漫画はそこが極端とかアンバランスだったいうのが面白いというか。

天才とナントカの紙一重みたいなもんなのかねえ?

 

週末の飲み会で語りたいような他愛ない雑談でしたww

 

 

 

 

 

それはそれとして、このご時世、

女性的とか男性的とか言ってるとどこからともなくポリコレ警察があらわれて袋叩きにされかねないので予防線を張っておこう。

ジェンダーで引っかかって内容が入ってこない人は、女性的→右脳的、男性的→左脳的に読み換えて下さい、それで意味は通じます。

ヒトの脳が、右脳と左脳を合わせてひとつの器として成立しているように、

女性性と男性性は人間性の両翼です。

ひとりの人間の内面でも、各々のバランスで双方を備えている。

翼は左右を合わせて羽ばたくことで、初めて飛翔できる。

陰陽や+-は性質であって優劣ではない。

海と空のどちらが優れているかなんて、ナンセンスな問いというものだ。そうでしょ?

 

 

 

ティアムーン帝国物語は、名前考え中さんのオススメでした。いつもありがとうございます。

 

がんべあさんのエニアグラムのブログ

https://gunber.hatenablog.com/

 

 

シャドーハウスを紹介する。ペルソナとシャドー。

シャドーハウス 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

自粛中に入れた週刊誌系アプリで色々読み漁ってて、自分的に傑作の予感がしたのがシャドーハウスだ。

ヤンジャンのアプリで一巻分無料、カラー版で読めるのでおすすめ。

https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.shueisha.youngjump.android&hl=ja

面白過ぎてコミックもまとめて買ってしまったので、ちょっと感想を書いておきたくなった。

 

パッと見た感じ、絵が可愛くて小物の描写が丁寧で、流行りモノっぽくてとっつきやすい。

女の子2人のかけ合いできらら系ぽくて、ローゼンメイデンとかメイドラゴンとかの、

メイドとか百合とかゴシックとかそのへんの雰囲気モノで、ちょっとホラー風味なのかな?

とか思いつつ読み進めると、このホラーというか、密室の謎がかなりガチであることが徐々にほのめかされていく演出がすごい巧い。

 

ローゼンメイデン 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)小林さんちのメイドラゴン : 1 (アクションコミックス)エマ 7巻 (HARTA COMIX)

 

ゴシックロリータの例   百合主従の例    ディティールが繊細な例。

この辺が読める人にはおすすめしたい。

 

アンダーザローズも近いかもな。これはややマイナーな作品だが。

華やかな貴族の生活に、虐待やらトラウマやらの闇が見え隠れするというか。

Under the Rose (1) 冬の物語 (バーズコミックス デラックス)

でもシャドーハウスには重たい悲壮感はないな、キャラが明るい。

 

ほのぼのした主従の少女たちの日常系のような雰囲気でありつつ、

 

真っ黒な貴族の生態の謎とか、

主人公メイドちゃんの寝場所がまるで独房の棺桶で監禁されているに等しく、

就労環境がブラック企業を突き抜けてもはやダークファンタジーだというのに、

みんな社訓を声高らかに謳ってニコニコ、貴族のトップを神のごとく敬い畏れているとか、

うん・・・?ていう違和感の描写が積み重ねられていくんだけど、

三者視点がないから、なんか当然のことのような気がして読めてしまう。

「生き人形」で人形だから、人間じゃないから、この扱いでアリなのかな・・・?

この館、この世界ではこれが普通なのか・・・?とか、

その場の雰囲気でさも当たり前のことのようにされると、流されてしまって異常さに気がつけないってことがある、

そういう違和感を感じるような物語の構成が面白い。

記憶喪失の一人称ならではのレトリックだ。

 

4巻で一気に種明かしが進むので、

1、2巻は「え?あれ?でも可愛いしまあいっか・・・、え!?」

みたいに翻弄されることを楽しんで読むといい。

 

ここまでがお勧めのためのネタバレなしの文で、

以下は最新話までのネタバレあり。

 

 

 

コミックのオビに、約束のネバーランドの作者からのコメントがあったけど、納得の人選だ。

シャドーハウスは約束のネバーランド進撃の巨人とジャンルが近いことが明らかになる。

 

約束のネバーランド 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)進撃の巨人(13) (講談社コミックス)

 

 

外界から隔絶された小さな世界で、独自ルールが運用されている。

それに疑問をもつと、徐々に洗脳や搾取や支配の構造が明らかになる。

そしてそれに抗い、壁の外を目指す、自由を目指す。

そういう物語の構図だ。

 

ネバランや進撃では、第一話から平穏が壊れる衝撃展開がいわゆる漫画的なツカミだが、

シャドーハウスでは、箱庭の中の平穏パートが三巻分続いたってことだな。

 

「生き人形」は周辺の村から集められて、記憶を消された人間の子ども。

自分達は人形でシャドー家に尽くすことが喜びだと洗脳されている。

 

「シャドー家」真っ黒な貴族の正体は、モーフという擬態や模倣が得意な妖精だという。

 

真っ黒の影の妖精は子どものシルエットを写しとり、その子どもの名を名乗るシャドーになる。

そして代わりに子どもには生き人形としての愛称を与える。

湯バーバが千尋の名を奪い、千という簡略な名を与えたのとよく似た暗示の魔術だ。

 

子どもをコピーしたモーフ達もまた記憶のないところから、

生き人形の主人として振る舞い、シャドー家に尽くすような人格を習得していくよう仕向けられている。

 

妖精が人間の名を乗っ取り、顔を奪い、乗り移って一体化し、妖精の力と人間の姿の両方をもつ存在に仕立て上げいくシャドー家というシステムがあって、

それを構築し運用しているのが、偉大なるおじい様と呼ばれる黒幕、ラスボスのようだ。

 

なにその陰謀館www極黒wwなにが百合メイド日常モノだよww

 

三話までコテコテの魔法少女モノを装って、

マミさんの首をマミマミしたまどマギ以来の裏切られ感www

気持ちよく騙されたわ~。

 

4巻でサラッとこのカラクリが明らかになったあたりでは、

魅力的なキャラクターたちの紹介も済み、人物相関図ができていて、

1、2巻の不穏な謎が謎を呼ぶ雰囲気から、

仲間を募って洗脳解除と支配からの脱出、というフェイズの転換、方向性の転換がある。

1~3巻は箱庭のおままごと編、4巻からはプリズンブレイク編って感じになりそうだ。

 

進撃やネバランでは、壁を越え外界に出ることがイコール自由ではなくて、

外は外で弱者は淘汰される過酷な世界であると明らかになり、

壁の中はある一定の安全が保たれた基地だったってことでもあった。

 

それは、家庭や学校と社会の対比、その暗喩でもあると思う。

家庭や学校で子どもは庇護されると同時に様々なルールを押し付けられる。

窮屈で安全な檻から出れば、どこまでも広い社会や自然では適者生存の厳しい現実が待っているわけだ。

 

だからほんとは、壁の内と外、どちらが正しいってわけではないと思う。

幼い者には庇護が必要で、自立する者には自由が必要になる、そういうことなんだろう。

庇護と支配は表裏一体で、自由と危険は隣りあわせ。

メリットだけでもないし、デメリットだけでもない。

幼い頃は家庭で守られ教育されて育ち、成長して時が来れば社会に出て、自分の身を立てていく。

歳とともに相応の段階を経ていくこと。

ただ、蛹が蝶になるには、脱皮という試練を越えなくてはならないように、

変化の節目にはそれなりのイニシエーションがあって、精神的な危機をうまく越えていかないといけないんだな。

物語の主人公たちはそういう困難の越え方を教えてくれる。

反抗期、元服、思春期、成人式、入社式、結婚式、・・・、式、儀式、イニシエーションだ。

 

で、まあ。

シャドーハウスでは、まだ最終目標がどうなることなのかわかっていないけども、

多分これもシャドー家やおじい様を打倒する物語、というよりは、

メイドと主人、生き人形とシャドー、顔とシャドー、ペルソナとシャドー、

人格の裏表の正反合、円満な統合、みたいなことがメインなテーマになりそうだと思う。

 

顔、というのは、その人を示すアイコン、ということでもある。

人格、個性、アイデンティティ、ID、そういうものの象徴だ。

男女、年齢、人種、性格、来歴、顔には膨大な情報が凝縮されている。

 

怪しい飲み物とスローガンの斉唱で洗脳されて、働き過ぎの睡眠不足で、従属の名で呼ばれて、

だんだんものを考えられなくなっていって、人格が摩耗すると、

顔を、存在をシャドーに明け渡すことになる、という設定はすごく面白いと思う。

ブラック企業やカルト宗教、毒親モラハラ配偶者の洗脳テクニックで人が壊れていく様子を彷彿とさせる。

 

作者の前作も、独創的な設定の影の生き物が出てきたけど、

シャドーハウスではより多くの暗喩を解釈できるようなものになっている。

千と千尋カオナシに近いような感触だ。

妖怪や妖精というか、人の心に巣くうなにかの象徴としてみると腑に落ちる。

 

主従のペアの性格を見ていると、

多分エニアグラムで結ばれるような、憧れや抑圧、裏の人格がシャドーになってるようだ。

 

影の妖精モーフが、子どものシルエットを鏡のように写しとるとき、

子どもの心、人格のベースも写しとる。

いきなり表人格を奪おうとすると、抵抗や衝突がおきるのか、

表人格の自覚するアイデンティティではなく、普段は隠れているサブ的な側面のほうを写しとることになるんだろう。

 

心理学的な意味で言うシャドー、抑圧された心、衝動、裏の人格が、シルエットの形代に入って実体化したようなものってことになる。

 

そう思って見てみると、

ローズマリーはおっとりしてて穏やかで、ぼんくらとも呼ばれている。

そのシャドーのマリーローズは、宝塚の男役のような、芝居がかったカッコイイ性格だ。

少女的な、こんな風になれたらなあって思っているような、憧れの人格って感じがする。

 

ミアは頭がいい、字も読めるし地図も書ける、弁も立つ、それで出しゃばりとも呼ばれている。

そのシャドーのサラは、ミアの私室や私物を監視し、ミアを棒でぶつという折檻をしている。DVヤバイ。

完璧主義者ほど鬱になりやすいというが、自罰傾向、脅迫神経症のような傾向に思える。

自分を追いこんで能力を伸ばす向上心でもあるけど、完璧でなくてはと自分を追い詰める心の在り方、それがシャドーにあらわれている気がする。

 

ショーンは感覚が鋭くて反抗的。自分なりの順位やルールの通りに動くタイプだ。

そのシャドーのジョンは、天真爛漫で感情に素直、深く考えず楽しむこと第一。

これはまあ、表と裏のそれなりのいい関係だろうか。

通常時はルール順守で視野が狭くなりがち、それで対応できない場面になったとき、楽しいほうを選ぶ、というような使い分けができれば柔軟で応用力のある人格と言えるだろう。

 

バービーは暴力的で威圧的、人にすぐあだ名をつける、責任感がある。

そのシャドーのバーバラは怒りっぽく、制御不能の衝動そのもののような、リビドーのようなシャドーだ。

強力なリビドーを制御するために、ペルソナもまた強靭な精神力、節制、支配の力を習得する。

名をつける、というのは観測したものを自分の世界観の中に配置する、支配の魔法でもある。パワフルで魔女的な人格だ。

 

ラムは、能力は高いけど内気。しかし問題は性格ではなくて、自分の人差し指にラミーという名をつけて会話し、イマジナリーフレンドにしていることだ。

それで、そのシャドーのシャーリーに割り振られるはずだった人格の容量みたいなものが分散してしまっている。

シャーリーはラムの裏人格を写すことができず、人格を得ることができず、霧散してしまう。

 

ラムとシャーリーの例から、

シャドーはイマジナリーフレンドとか、二重人格のようなものと解釈してもいいようだ。

マンガではよく、なにか選択に迷ったとき、頭上に天使の自分と悪魔の自分があらわれてどっちにすべきか言い争う比喩の手法とか、

色んな立場の自分が脳内会議をする比喩なんかがあるけど、

そういう風に、普段意識していなくても人は脳内に二つないし複数のアバターを持っているものではある。

プライベートの自分、公の場での自分、SNS用にちょい盛ってる自分、などなど。

複数の価値観をもち、複数の選択肢を想定することで、多様な状況に対応していくわけだ。

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干妹うまるちゃんの脳内会議。

ギャグアニメだがうまるも裏表が激しくて、いくつものペルソナを使い分けるキャラだ。

ある困難な状況にどのペルソナで対処すべきか、考える様子が可視化されてる。

 

宮崎駿アニメでもサツキとメイや、キキとジジ、キキとウルスラなど、一人の人間の裏表、色んな側面をキャラクターにわけて描く、ということはやっているわけで、

物語表現では結構よく使われる手法なのかもなー。

 

後はルウとルイーズ、リッキーとパトリック、残るメインキャラそれぞれがどういう裏表なのかも興味深いけど、ちょっと手に余るから置いておくw

 

で、そういう風に見ていくと、

やっぱり表人格のほうが有能というか、処理能力が高い傾向にあると思う。

あくまで裏は裏技的、サブ的なもので、

表ほど使い込まれて陶冶されたものではないんだな。

 

でも、主人公の主従ペア、エミリコとケイトではそれがどうも逆のような印象を受ける。

 

エミリコの性格が、ちょっとポジティブ過ぎて不自然というか。

なにごとも前向きにとらえ、親切で、無邪気に善意を信じる、ややアホの子だ。頭がお花畑と呼ばれる。

生き人形という設定がしっくりくるような、誰かがそう思い描いたような、プログラムしたような、理想的な善い子の性格な感じがする。

この性格が序盤のミスリードにもなってて巧いと思うわけだが。

 

そのシャドーのケイトは、理性的だけど怒りっぽくて、慎重で計算高い。疑りぶかい自分を恥じてもいる。有能でもある。反乱の意志を秘めている。

ケイトのほうがフツーの人間っぽいバランスの性格なんだよなー。

 

ということはこれは、素の人格を抑圧していた子ども、ということになるのではないだろうか。

 

親が不仲とか、困難な状況で育つ子どもは、

いわゆる子どもらしい振る舞いを演じて、両親の仲を取り持とうとしたり、周囲に愛されようとすることがある。

 

愛される子ども、というペルソナを作り上げて、それを被って生き抜こうとする。

より周到に子供らしさを演じるために思い込みを強めていくと、

ペルソナがあくまで対外的な仮面であることを忘れ、それが自分の生来のパーソナリティだと思い込む。

誰からも必要とされない素の自分は抑圧し、忘れる。

 

そういう子どもをコピーしたシャドーがケイトなんじゃないかな、と思う。

 

愛し愛される無邪気な子どもを常に演じていた少女がいて、

その抑圧されていた本来の人格を写しとったのがケイト・シャドー、そんな感じなら腑に落ちる。

 

表と裏、ペルソナとシャドー、ふたつの性格があって、

それが状況によって交互にあらわれるのが人間だが、

 

シャドーハウスでは、その二つの性格がどちらも体を持っていて、会話して、触れ合って、協力したり反発したりして、関係性を築いていくことができる。

 

ペルソナとシャドーが脳内会議を飛び出して、互いを知り、仲良くなることができる。

それは自分自身との対話ってことだ。

 

シャドーが生き人形の顔を奪うとか、

生き人形がシャドーの企みを打倒するとか、

 

どちらが優位か、どちらが主かという争いではなくて、

 

どちらもある存在の一側面であると知り、円満な統合、融和、完全な心へ至るメタファーと解釈できるような、そんな結末を見られるんじゃないかと期待している。

 

シャドーハウス、全10巻くらいでキレイにまとまってほしいな。楽しみだ。

 

 

しかし・・・。

ケイトはおじい様に対抗するため、まず仲間を集めようとするんだけど、

仲間を集めていくこと、人脈を築くことが自分の力を獲得してることになる、というのはどちらかというと女性的な発想だ。

セーラームーンとかティアムーンとか、仲間集めで進む、修行パートのない物語のパターン。

で、3巻かけて謎を仕込む、大掛かりな物語の構成を組むとか、

進撃やネバランのような、父権やシステム、上位者に抗うことで自分の世界や自我を確立しようというのは、どちらかというと男性的な発想だ。

 

シャドーハウスの作者、ソウマトウは男なのか?女なのか?

 

絵の線の細さ、レースや小物の丁寧さは女性っぽいけど、

作画に3Dモデルを使うっていう発想は男性っぽい。

 人間心理や人物相関の込み入った描写は女性的か。

 

まあ、7割方で女性かな~。と思いつつ、気になるんだよなww

男原作者と女作画者のチームのペンネームなのかもしれない。

 

 

シャドーハウス、おススメだ。

 

 

まどマギのコンプリートDVDやっす!流行ったから廉価になったんだな。欲しい。

 

週刊誌系アプリを読み漁ったなかでは、スパイファミリーもコミックを買った。面白い。

 

 

エニアグラムのブログ

がんべあの「ブレない」キャラクター&ストーリーの作り方

https://gunber.hatenablog.com/

ここのところずっとキャラクターの性格の裏表について考察されているので、

シャドーハウスを読んでて、あ、これも裏表なのかなと思いついた。

ありがとうございました。

 

うまるちゃんの記事の追加がありました。

https://gunber.hatenablog.com/entry/back_umaru#comment-26006613587435735

 そうそう〜!考えてみるとうまるちゃんは意外に闇深のキャラクターな気がしてきます。

記憶の連続性が途切れるほどではないけど、多重人格的な病み方をしている。

家庭環境がヤバそうです。

親の期待どおりのお嬢様を演じていた延長で、優等生、干妹、UMRなどのペルソナを生みだしていそう。

 

 

ニコニコ大百科、脳内会議のページ

https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%84%B3%E5%86%85%E4%BC%9A%E8%AD%B0

 

 

 あと、ミアとエミリコは、元の名前の愛称や簡略でない名付けだが、

多分、もともとなにか人形やペットにそういう名前をつけていたんじゃないかと、

ラミーやパンちゃんを見てて思った。

館に来る前から、自分で縫ったぬいぐるみに名をつける子どもだったんだろう。

エミリーでもエンリコでもなく、エミリコっていうのはちょっと滑稽というか、性別を感じないマスコットっぽい音の名前だ。

ミア、は猫につけそうな名前。