ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

ブログ一周年。瞑想とは。

はてブロからメールが来て気がついた。

そうかブログ開設して一年書いていたのか・・・。

時が経つのが早すぎて怖い。

 

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記念日に書くべきこと・・・、

初心に戻って何か書くっていってもなー。

そもそもが5ちゃんのスレッドの延長ではじめたブログだ。

https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1533929590/l50

まだ過去スレ見れるな。2018/8/11から、アニメや漫画について思ったことを書きはじめて、スレは今4つめがのんびり進行中。

https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1566495487/l50

今見ると色々恥ずかしいような、何も変わっていないようなw

怠け者の自分が時々飽きつつも書き続けられたのは、やっぱり面白いと言ってくれる人がいて励みになったからだ。

月並みだが真実だと身を以て知った。ありがとうございました。

自分独りで完結したい、完成したいと願っても、まあそれはなかなか。

人間という器が基本的にそういうつくりじゃないんだな。

 

周囲の人間関係と、家系と、民族と、国家と、大きな総体の一部であることは変えられなくて、

持って生まれた性質と、育った環境と、受け取ってきたことと、選んできたことと、積み重なって、アイデンティティが形成されている。

 

天気の子で須賀が「大人になると大事なものの順番を入れ替えられなくなる」と言ってたけど、そうだ。

 

成長して、できることが増えて、見識が広がって、欲したものを獲得して、思い出ができて、世界が広がるほどに、

いつの間にか、なぜか、できないことも多くなっていくんだよな。

昨日の繰り返しの今日を選ぶことしかできなくなる。

積み重ねてきたもの、得てきたものを失うことを恐れるからだ。守りに入る。

 

生きるということは変わっていくことなのに、

捨てられない思い込みでがんじがらめになることは、苦しい。

だから時々、壊してみること、手放してみること、新しくしてみることが必要になる。

 

須賀が窓を開けて、部屋を水浸しにしたのは、多分、リセットするためだ。

死んだ妻のものと、娘のものを全部そのままにして、思い出にどっぷり浸って暮らしているから、変われなくて苦しむ。

幸せだったころのことを思い出して辛くなる、過去をリピートして今を生きられなくなってしまう。

だから、すべてを水に流すために、窓を開けた。

荒療治だけど、それで新しいオフィスを借りて従業員を雇うことができる。新しい循環を始められる。

 

ま、それはひとつの比喩だ。なにも部屋を水浸しにしなくても、

自分の内にある、自分を苦しめる思い込みを手放すことはできる。

 

親に教わったこと、教師に言われたこと、恋人に言われたこと、

傷ついたこと、許せないこと、失敗したこと、成功したこと、

常識、信条、理想、正義、階級、劣等感、ジェンダー、喪失の痛み、なにかを愛したこと。

数限りなくある、「こうあるべきだ」という思い込みのすべて、

かつて大事だった手放したくない想いであっても、

繰り返し自分を縛るものになり果ててしまった過去のすべて、記憶すべてを、来たところに還す。

 

それで今を生きることができるようになる。自由と自在の境地へ至り、

いつでも新しいインスピレーションのままに心と体が動くようになる。

 

・・・っていう話を、まじで延々としている。

今回はそこのところ、もう少し順を追って書いておこう。

自分なりの瞑想導入の忘備録だ。

 

まず場を整える。慣れればいつでもどこでも瞬間的にできるようになるはずだが、

まずは、そう。それなりにセッティングがあるといい。

整えた場は、意識を変性させる装置の役割がある。

鳥居や注連縄をくぐれば神域となるように、

講堂や教室に入れば学びの気持ちとなるように、

壇上や舞台に上れば違う自分を演じることができるように、

祭りの会場やライブハウスに入れば非日常を体験する高揚があるように、

 

普段の自分、感情の浮き沈みに苦しみ惑う自分自身から、遠ざかる場というものを用意する。

昨今の自粛続きで、子どものいる家庭で室内にテントを張り、一人になって気持ちを落ち着ける場所にするっていうアイデアがあるらしいけど、素晴らしいと思う。

ひと昔の家なら仏間とか縁側の廊下とか、階段下とか物置部屋とか、押し入れの布団の上とか、

子どもが一人になれる、秘密基地にできる、あまり使われてない場所っていくらでもあったものだけど。

今時の家はコンパクトかつ機能的で、デッドスペース、余白の場所、あそびの場所がないっちゃないからなあ。

 

子どもにも、大人にも、そういう場所はあったほうがいい。マイ・サンクチュアリだ。

自分は主に風呂がその場所。あとは猫部屋もそう。

スマホを持ち込まない、暗くて狭めの空間だ。風呂は水に満ちているのもいい。

静かで、ほの明るく、区切られて狭く、温かく、丸く、水に満ちた場、胎内環境に似た場ほど、安らぎを得やすくて、瞑想導入が捗るだろう。

広々して自然がある場所もまた別の意味でいいけどね。サウナとかも悪くない。

あとWi-Fiは切る。ノイズを遠ざける。

 

軽く体操なんかしてから、姿勢を整える。

立っても座ってもいいけど、背筋が反ってたり曲がっていたりするとうまくない。

まず、まっすぐに、正しい位置に人体を保持できる人って意外と少ないんだ。

すぐ足を組んだり、どこかに寄っかかったり、頬杖ついたり、スマホ見る前傾姿勢になってて、

自分の体の正中のバランスを意識したことすらなかったりする。

 

ま、意識してないだけ、使ってないだけだから、訓練すれば出来るようになるだろう。

右手ブラブラさせて、左手ブラブラさせて、両手ブラブラさせて、というふうに、

体の各部位を、左右交互、上下交互、そして両方、全体で動かす、みたいな体操の仕方で、だんだん力を抜いたときに中央値が定まってくる感覚が解ってくる。

 

まっすぐに姿勢が定まったら、

自分の身体を意識する、自分の精神を意識する。

自分の周囲の空間を意識する、グーグルアースみたいに視点をひいて、

自分がいる地域を意識して、属してる集団を意識して、地球を意識して、銀河を意識する。

神々のいる世界を意識して、

物質世界と精神世界を越えて、

宇宙を運行する様々な法則を越える、そう意識する。

 


宇宙の大きさを体感できる動画

こんな感じが参考になる。

 

どんどん大きくフォーカスしてもいいし、

どんどん小さくフォーカスする方法もある。

 

身体は臓器の集合であり、臓器は細胞の集合であり、細胞はミトコンドリアとか細胞核とかゴルジ体とかこまごましたものの集まりであり、細胞核のなかのDNAはタンパク質の分子の集合であり、分子は原子の集合で、原子は原子核と電子で構成されていて、

観測し得る最小単位は量子になり、粒の性質と波の性質になる。

 

自分が意識し得る、認識し得る、観測し得るすべてを心で捉えたら、

その有限の世界をひっくりかえす。

ネガとポジを入れ替えるようにして、有限を内包する、無限について想う。

すべてが果てるところ、時間も空間も、形も意味も指向性も尽き果てて、粒と波は釣り合って鎮まり、どこまでも凪いでいる。

0の、無限の、愛の世界、色即是空の世界、大日如来の世界、アルケーの世界、創造神が「光あれ」とコマンドする前の世界。

観測の視点すら持てず、言葉では切り取れない世界。

上も下もない霧の中のような、朝靄のような、静かな湖面のような、そんな感じだろうか。

それを感じている状態をつくる。

脳波を計れば、シータ波が出てる状態だろう。瞑想の成功だ。

 

その状態に至ることが、いつでもできるように日々訓練する。

一回に20分くらいが集中の限界かなー。

それ以上ハマるときは、ビタミンとかミネラルとか水分糖分とか、脳に適度な補給をする。

あとはその日ごとにクリーニングすべきテーマ、リリースすべきテーマを持って入るといい。

苦しいこと、辛いこと、ムカついたこと、許せないこと、

頭のなかをぐるぐるしてたうるさいやつを、短いキーワードにまとめておいて、

瞑想状態に入れたところで、そいつを取り出し、ほどく。ひっくりかえす。そうイメージする。

もつれた想いがほどけて、許され、溶け消えるのを観測する。

何日か、何ヶ月か、表層の問題を手放し続けるうちに、自分でも気がついていなかった根っこの問題が浮かんでくるだろう。

ま、だいたいは幼少期に親からインストールした行動様式とか抑圧、身近な人の喪失とか、そういうことじゃないかな。

普段は忘れてたこと、見ないようにしていたことがほとんどだ。

 

手放す準備なしに見ないようにしていたものを見ようとすると、強烈な抵抗が起きるので、その人なりのタイミングが整うまで待つことが肝要だ。

 

見たくない聞きたくない、認めたくない痛みに触れたくないという抵抗はマジで強烈で、

怒り、拒否し、どんな無茶な理屈でもこねくり出して、心を閉ざし、目を潰し耳を潰す。そういう厄介なことが起きるので、

ほんっと待つのが肝要で寛容。(自戒のため二回言いました。)

 

ま、一生待ってもその時が来なかったりするんだろうけどね・・・。

それもまた善哉。

たった百年で死に変わり生まれ変わりするサイクルの短さは、変われなくなることを強制的に変えてくれる親切な設計だ。

リセットして来世でやりなおしてくれいww

 

しかしまあ、仏教だと輪廻転生からの解脱、生きて死んで六道をぐるぐる巡るサイクルから解き放たれること、悟って涅槃へ至ることが目標なわけだからして。

 

いつかは悟らないといけないなら、

いつでも悟りを開いていいわけで。

今、この時、涅槃へ至ってもいい、

二千年も前からお釈迦さまはそうしなさいよと勧めてくれていたわけで。

つーか二千年も先延ばしにしてたんだから、そろそろ人類まとめて悟るべきじゃね?

 

それで瞑想を続けるうちに、自分の中の思い込みを手放すことができてきたら、

もっと色んなものを手放してみる。

有限の事象をほどき、無限へ還す。意識の中でフッと消してみる。

家族や親類を手放してみる。体質や因縁や代々の家系の質、遺伝子や模倣子を手放してみる。

民族集団に属していることを手放してみる。伝統や習俗や民族性、負の歴史を手放してみる。

国家を手放してみる。システム、人種差や言語、宗教や神話を手放してみる。

人類という種を手放し、地球、太陽、銀河、星々の巡りを手放し、時間と空間を手放す。

最後に、やはり観測している自分という視点が残る。それを消してみる。

肉体もなく、記憶もなく、名もなく、命もない。

 

多分どこかで抵抗があるだろう。

怖いとか死にたくないとか、そんなことできるわけない、していいわけないとか、

恐怖か疑いのどちらかかな。

そしたら、その恐怖や疑いをまた手放す。

怖くなくなるまで、ああそうか大丈夫だ、と思えるまで。

 

自分の存在の底まで辿りつくと、自分という存在の最初の願い、最初の指向性、魂ってなにかってことになる。

 

言語化しにくいけど、実にシンプルな指向って感じがするものだ。

 

生きたい、生き続けたい、認識を広げ、大きなものへ向かいたい。

 

そんくらいの感じで、何かを目指して駆動している。

スケールの大小はあれど、それがこの有限の世界のすべての存在を保ち、発展させている指向性の感覚でもある。

それが無限からエネルギーを汲みあげている最初の命令、最初の奇跡だ。

 

その素晴らしさを味わいつつ、やはり手放す。

自分という存在の尽きるところ、宇宙の尽き果てるところが、

恐ろしいところでも寂しいところでもなく、

調和して安らぎに満ちたところであると、そういう感覚を得る。

 

それが、自分の源泉になる。

いつでも自分のまんなかに、それがあると知る。

汲めども尽きぬ甘露の泉がある。

だからなにも恐れることなく、自在に生きられる。

インスピレーションの訪れるまま、

心の示すままに、

選び、行い、結果を受け止めることができる。

 

「僕たちは大丈夫だ」って、そういうことなんだよ。

天気の子の小説版には陽菜の祈りの感覚にそれがある。肉体と精神の感覚を入れ替え、自分と世界の境界が溶け、一体になるのなら、それが解る。新海監督はそれを識っている。

別に天気の子だけじゃなくて、古今東西の優れた物語はいつでもそれを示そうとしてて、

物語だけじゃなくて、詩でも音楽でも絵でも、芸術の求めてるところはそういうもので、

芸術だけじゃなくて、武道でもスポーツでも料理でも仕事でもブログでも、どんなものでも自分なりの道として追求していけば、そういう境地を得ていける。

 

すべては同じところからやってきて、いつか同じ頂へ至る。

 

すべては虚しい仮の宿で、ゆえにすべては愛しき我が宿だ。

 

自分はずっと、そういうことを書き続けているつもりだ。

言葉に尽くせないと知りながら、言葉に変えることで少しづつ認識は進む。

誰かが自分もそう思うよって言葉を返してくれることもある。

そういう誰かと一緒に瞑想すると、また効率がハネ上がったりするからな。

脳はひとつでも優秀なユニットだけど、

そもそもネットワークにしてくのが本来の仕様なんだよなあ。

スタンドアローンで使えるのは機能の一部だ。どうもそんな感じ。

もういっそ子どもとか幼児と瞑想するのもアリかもしれんね。

むしろ若い者から真摯に学ばせてもらうべきなのかも。

 

ま、いつかそんな時が来るまで研鑽を続けよう。

一年でも二年でももっとでも、生きているなら変わり続けることを受け入れないとしゃーない。

 MU3アクセント壁紙 空と海 雲 写真 ウォールステッカー ポスター

天気の子を解釈する5 相互理解が力になる。

今週のお題「遠くへ行きたい」お題「#おうち時間f:id:philia0:20200528014455j:plain

天気の子、DVDで観なおした。

このタイトルコールの雲が渦巻く絵、空に開いた穴って感じがとても好きだ。

異界、彼岸、隣り合う世界、近くて遠い世界へのゲートって感じがする。

空、という字がそもそも、穴と工の組み合わせでできてるしね。

工、は点と点を結ぶ線、どこかに繋がる道、トンネルみたいな意味だ。

 

久しぶりに観たけど、

高精細の映像、大量の情報をテーマソングにのせて流しこんでくる新海誠メソッドはすごく気持ちいい。音楽PVみたいな、現代的な感性だ。

 

順を追って考える前に、言語や論理の左脳の情報処理が追いつく前に、

音楽で右脳を活性化させて、ギリギリ理解できるかできないかくらいのスピードで、

とにかくイメージを脳に流しこんじゃう感じっていうか?集中を要求されるんだよな。

サブリミナルまではいかないけど、それでもオーバフロー感があってイイ。

情報があふれてなにも考えられない、というのは快感なのだ。

 

これから梅雨っていう、蒸し暑さと雨の時期に見ると没入感もひとしお。

 

さて、天気の子についてはもう結構書けるだけ書いたって気もするんだけど、

なにか書かないとDVDを買った甲斐がないというものw

 

そういえば、須賀の嫁で萌花の母、明日花が晴れ女だったのでは、という考察があるらしい。

陽菜と同じに日、太陽、晴れをあらわす字の入った名前だし、若くして亡くなったのは陽菜の母と一緒ではあり、どちらも死因の描写は濁されている。

萌花にも小さく日の字があり、雨に体調を左右されるあたり晴れ女の素質がありそうでコワイが。

が、

いやそれはどうなのか。嫁が晴れ女だったとうすうす察してたうえで、人柱を容認する発言してたら須賀の性格が鬼畜すぎる気もする。

ただ、警察署から逃げた帆高の行き先、代々木の廃ビルをなんで須賀が知ってたのかはそれで説明がつく気もする。

嫁から、鳥居のことを聞いていたんだろうか、とか?

いや、まあ、ムーの取材で怪しい噂には詳しいだろうから、天気の巫女と代々木の廃ビルの関連について心当たりがあっただけかもしれない。

陽菜が空に昇っていく夢をみて、夢の場所に見当がついたってことでも辻褄はあう。

 

それより、ホテルでバスローブから抜けるように消えた陽菜が、その後の場面でいつもの服に靴まで履いてたことの辻褄のほうが謎。

ホテルのドア前に長靴あるしなぁ。どうなってんだ。まぁいいけど。

 

で、代々木の廃ビルの鳥居には、精霊馬、キュウリの馬とナスの牛の瑞々しいやつが毎回お供えされているので、誰かが頻繁に訪れていることを思わせる。

お盆の時期、地獄の釜の蓋も開く時期、亡くなった人の魂を乗せて早く来てほしいから馬、ゆっくり帰ってほしいから牛、という彼岸と此岸を行き来する乗り物が精霊馬だ。

多分、あれが供えられてなかったり、萎びてたりしたら、帆高は彼岸に行けなかったんじゃないか?

あれは地味だけど、彼岸へ渡る必須アイテムな気がする。さす新海。オカルト方面ぬかりなし。

雑草とかはほったらかしでも、あれだけはちゃんと手入れされているわけだ。

 

で、陽菜や陽菜の母のほかにもああいう鳥居をくぐった天気の巫女、人柱は複数いるんだろうな。

占いおばば(CV野沢雅子w)もガイアのホメオスタシスで晴れ女が生まれやすくなってるとか言ってたし、

東京を守る大量の人柱、とかいうムーの見出しもあった。

彼岸の空にいる水の魚たちが、今までの人柱達だったとしたら、関東周辺地域の800年分にしても相当の数だ。

 

ただ、陽菜の母は晴れ女の代償が衰弱からの病死のようなのに、

陽菜は体が透けて浮き上がり、生身ごと彼岸へ神隠しになって、

多くの人が同じ夢を見て、夏に雪が降る観測史上最大の異常気象が一気に晴れわたるという事象の大きさになったのはなんでかっていうと、

 

まあ、そりゃあんだけ派手に晴れ女ビジネスを展開すればそうなるわな。

 

凪センパイが「みんなお前のせいじゃんか!姉ちゃんを返せよ!」と仰るとおり、

帆高のプロデュースのせいですともww

 

より多くの人々の想いを汲みあげ、彼岸と此岸を繋げれば繋げるほど、天と人をつなぐ細い糸は太くなり、効果も反動や代償もまた大きくなるというだけだ。

まぁ、あちらの存在に近づくとか、彼岸の存在に親しむこと自体はそんなに悲惨なことでもないけど。他作品ならそれを目指すキャラもいるようなことで。

 

代償、代償かー。

やっぱり一人娘の体調と、知り合い程度の女の子の命を天秤にかけたら、

愛娘をとるっていう心情もあるのかもしれない。

たとえそれが愛妻を死においやったシステムでも、容認し、維持することに同意する、か…。

あまり須賀を嫌いになりたくないのだがw

「人柱ひとりで元のとおりに戻るってんなら歓迎だ。てか皆そうだろ。」

「誰かが何かの犠牲になってそれで回るのが社会ってもんだ。損な役割を背負っちまう人間は必ずいるんだよ、普段は見えてないだけでさ」(小説版)

そうだな。それが、この世界の大人たちの態度だ。

過労死が出ようが自殺が出ようが、ブラック企業はなくならない。

途上国の安い労働力、非正規雇用、格差を使って利潤を追求し、現場の福利厚生など知りもしない。

この社会でただ生活しているだけで、弱者を踏みつけにしていることに、同意しているに等しい。

誰も彼も、自分もだ。

 

陽菜の青い石の首飾りは、母の腕にあったものと同じもの、形見だ。

彼岸の空で、帆高の指輪は落ちたのに首の石は落ちなかったこと、

彼岸から帰ってきた鳥居で、首飾りが割れていること、

あの石は、晴れ女であることを示すアイテムで、陽菜の母も晴れ女だったとして、

 

じゃあ、帆高の「晴れ女と引き換えにこの空は晴れたんだ、皆なにも知らないで、こんなのってないよ」とか「皆なにも知らないで、知らないふりして!」

っていう、皆の利益の代償を引き受けてるのに知らん顔されて、自分の大事な人が失われる痛みの言葉は、

母を失った陽菜が、叫びたかった気持ちでもあるよな。

 

母の死後、陽菜は弟と二人で生活する、働いて炊事もして、母の役を果たそうとする。

「私たち誰にも迷惑かけてません!」「私たち、 ばらばらにされちゃう。」

児相にも警察にも頼ろうとしない。大人に助けを求めない。大人をまったく信じていない。

児相がくるなら夜逃げも辞さない、断固拒否の姿勢だ。

なんだってそんなに頑なに、大人に心を開かないのかとも思ってたけど、

それは多分、皆の利益の犠牲になって死ぬ母を、誰も助けてはくれなかったのを見たからだ。

 

皆の利益には、陽菜と凪、子どもたちの利益も含まれている。

子どもの衣食住を整えて、学校に行かせて、習い事をさせるために、

母親がひとりでどれだけ頑張らなくてはいけなかったのか、陽菜は見ただろう。

 

母の代わりに弟を養おうという、中学生には荷の重い決意をしたのは、

自分が暮らしていくために母を犠牲にしてしまったという、自責と贖罪の気持ちもあってのことかもしれない。

そして、凪と支えあって一年暮らして、

晴れ女ビジネスで、尽くした人に笑顔になってもらう嬉しい気持ちを知った。

 

陽菜は、母親業と晴れ女、母のしたことを追体験して、

帆高は、母を失った陽菜の気持ちを追体験している。

 

母の気持ちを身を以て知った陽菜と、

陽菜の気持ちを身を以て知った帆高だったから、

 

「自分のために願って」

は彼岸から人柱を連れ戻す、力ある言葉になったのかもなあ。

心が、認識の深さが、言葉に力を与えるんだ。

 

帆高の答えは、きっと陽菜が母親に言ってあげたかった答えでもある。

 

「ただ、もう一度あの人に会いたいんだ」これもそうか。陽菜の願いでもある。

彼岸の空で、陽菜は水の魚になった母と会えたのかもしれない。

迎え火をまたいで、帆高が来るまであの場所で母に守ってもらっていたのかもしれない。

 

帆高が彼岸から人柱を連れ帰ると、雲と竜、800年分溜め込んでた雨が3年かけて降ってくるので、晴れ女システムは一度ご破算になったと思われる。

 

陽菜以外の天気の巫女たちも、空と繋がる力を失ったのだろうか?

 

それとも、また誰かが代償を払って利益を得る旧体制を繰り返すのだろうか?

 

もう、誰の犠牲にもならなくていいことに、

誰のせいにもしなくていいことに、気がつけるかどうかだ。

 

自分より弱い誰かにツケを押しつけて楽をして、

辛いこと苦しいことは自分より強い何かのせいにする、

他責の世界でうわべだけの繁栄を繰り返すより、

 

雨の降り続く世界でも、疫病のはびこる世界でもいい、

自分のために願って、自分の心で決めた、

その結果の世界を引き受けて、生きていたいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ・・・・、

さて、解釈も五本目となると、やや強引な感じが否めなくもなくもなかったな・・・。

今後DVD周回して気がついたことがあったら、余程でないかぎりこの記事に追記で済まそうと思う。

 

今までの記事のなかでは、手錠の意味がムスビで座標だと解釈できた2本目と、

日本神話の照応を読み解けた4本目が書いていて面白かった。

 

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はい早速追記。

 

最近こちらのブログ

https://gunber.hatenablog.com/

がんべあの「ブレない」キャラクター&ストーリーの作り方、で

キャラクターには表の顔と裏の顔があるっていうテーマをずっとやってるんだけど、

それで帆高の性格に合点がいった。

 

助けてもらったお礼に食事をふるまったり、

未成年に酒をすすめる大人をたしなめ、ジュースに取り換えたり、

訪問先に手土産を用意したり、

バイクに乗るときは非常時でも必ずヘルメットを着用したり、

誰に言われなくてもルールを守る、律儀な性格の、無害そうな少年の見た目通りの表の顔と、

 

衝動的に家出して、

衝動的に拾った銃をカバンに突っ込んで、

衝動的にその銃をぶっぱなし、

衝動的に警察から脱走してチャリをパクろうとする、

アナーキーで危険な性格の、裏の顔の帆高がいるんだ。

 

その二面性があるから、

会いたいあまりに800年モノのシステムをぶっ壊して、想い人をあの世から奪還するのに、

そこから一変して3年も全然まったく陽菜と連絡とってない、なんてことになるんだ。

 

保護観察期間だからと律儀に自粛して、ルールを破ったこと、世界を変えたことを律儀に反省してたんだろうね。3年も!

…、その性格、ヒくわ〜。

殉教者とテロリストが同居してる危うさだわ~。ないわ~。

 

エニアグラム分析でいうと、1完璧主義者と6堅実家の裏表・・・か??

そこはまったく自信ないけど、がんべあさんありがとうございました。

 

追記

がんべあさんによると、

4芸術家と9調停者の裏表っぽいとのこと。

 

エニアグラムはちょっと手に負えないので、(^q^)

とりあえずシャドーとペルソナぐらいの理解にとどめておけばいいことに気がついた。

律儀なイイ子のペルソナ帆高と、アナーキーのシャドー帆高がいて、

状況によってどちらかが対処してるんだっていう。

まあ、ちょっと心理学上の本来の意味と違うけどなw

 

更に追記、

廃ビル屋上の鳥居、雑草は手入れされてないのに、

毎回キュウリの馬とナスの牛の精霊馬がみずみずしくお供えされてて、

それはなんでかっていうと、精霊馬は彼岸へ渡る乗り物だから、アレがないと帆高は空の上に行けないんだ、と書き足してて思いついた。

「あの煙に乗って、あの人は向こう岸から帰ってくるんだよ」立花富美おばあちゃんのセリフと迎え火の煙もそうか。

煙も地上と空、彼岸と此岸を繋ぐ通路になり得るのか。なるほど。

廃ビルで帆高が空に向けて一発、銃を撃った。

銃を撃てば、硝煙が上がる。

その煙を辿って、帆高は彼岸へ行けたわけでもあるな。

 

鳥居をくぐった次の瞬間、空の上にワープしてるのは突飛な場面転換のようで、

鳥居が出入りする扉で、煙が道で、精霊馬に乗っていける。

さりげない舞台装置、伏線があるんだなぁ。

 

煙が地上から上空への通路なら、

雲間から差す光、光の水溜りのようだと言われたエンジェルラダーは、上空から地上への通路だなー。

陽菜が冒頭で彼岸の空へジャンプするときも、扉、通路、乗り物の条件が揃っている。

 

ムーを堂々と出してくるあたり、新海監督は相当オカルトに自信あるよな。

爽やかで切ない青春恋愛映画に、どうオカルトネタを潜ませてくるのか今後とも楽しみ。

いっそオカルト全振りの映画も見てみたいが、

星を追う子どもはイマイチだったから、スパイス程度が新海監督の適量なんだろうな。

戦う限り、悪が勝つ。セーラームーンを解釈する。

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YouTubeセーラームーンが期間限定無料。もう懐かしくて懐かしくて。

https://youtu.be/22qS-xw57lg

 

まあ、まだ最初のシリーズの途中だし解釈というのもなんだけど。

昔々リアルタイムで見てた時の記憶ともごっちゃにしつつ、少し書いてみたいことがある。

今、新型コロナウイルス関連で各種陰謀論SNSとかで活発に拡散されててなー。

まあ、目に入らない人はまだその時でないんだろうし、

その真偽を議論するのもとりあえずおいといて、

セーラームーン見てた世代には、そういう支配する悪みたいなネガティブなものに出会ったとき、どんな心で臨めばいいのか。

潜在意識に答えがインストールされている。

それを解凍して使えるアプリにしていきたいっていうかね。

 

セーラームーンの初期の敵対存在は、ダークキングダムという悪の組織だ。

姿の見えない「大いなる支配者」に人間どものエナジーを捧げるべく、毎回悪事を行う。

その悪事というのがちょいちょい風刺というか、社会派な問題提起にもなっていた。

後先考えないで流行りのペットを買っちゃう問題とか、

時間に追われて心の余裕がなくなってる問題とか、

過剰なダイエットへ誘導する風潮問題とか、

とにかく子供をいい学校に入れようという偏った教育問題とか、

憩いの場の自然をビル街に都市開発しちゃおう問題とか、

メディアにサブリミナルを仕込んで洗脳しちゃおうとか、

25年経っても共感できる、古びてないテーマばかりで、

その先見性を称えるべきか、解決に至らなかった年月を嘆くべきかというところだが。

 

毎回、一人のイケメン幹部とその部下の妖魔が悪の企みを実行するんだけど、

その作戦を実行する時に彼らがやることといえば、変装とか、なりすましとか、テレビやイベントで広告をうつとか、開店セールで値引き大売り出しとか、そういうプロモーション的なことが多い。情報を操って人を集めて熱狂させる。

妖術といわれるものを使うことがあってもそれは割と簡単な催眠や思考誘導のようなもので、

もともとそこにあるものを火種に、人々の愚かさにつけこんで、少しだけ助長する。

それで人間達の、コントロールを外れた興奮状態っていうか恐慌状態っていうか、そういうエナジーを回収する。

 

セーラームーン達に企みが看破されると、妖魔が正体をあらわし直接的な武力の妖術で襲ってくる。

主人公のセーラームーンは、いたって平和に育ってきた中学生女子なので、恐ろしい顔の妖魔に襲われると、恐ろしくて泣き出してしまったりするw

まあ、戦闘訓練どころかろくに喧嘩もしたことないような女の子としては当然のリアクションだと思う。

セーラームーンは変身したからといって、武器も鎧も持ってない。代わりに戦ってくれる何かが乗り移るわけでもないのだ。

 

では、どうやって敵と相対するのか。

 

セーラームーンを解釈するとき特筆すべきだと思うのは、戦闘になった妖魔たちを殴る蹴るみたいな直接的な暴力の描写がほとんどないことだ。

 

毎回毎回変身バンクや名乗りをあげるやら、決めポーズや決め台詞のターンばかりが長くて、

「ムーン ティアラ アクション!」で、ティアラ(武器でなく装身具)を投げるっていうか、ほとんど舞踊の型みたいな一連のポーズの動作をとる。

するとキラキラしたエフェクトの画面になって、次の場面では妖魔が砂とか灰になって崩れる。

 

ティアラが妖魔の体にぶつかってガツーンで血がブシャーでグエー、苦しくて痛そう、みたいな描写が一切ないのだ。

 

もう少し後の展開になるが、敵が毎回「リフレーッシュ!」と叫んで人間に戻る、というお約束が自分としては非常に印象に残っている。

リフレッシュ、気分を一新するとか、爽やかになる、と言って退場するというのは、どういうことなのか。

 

火力担当のマーズやジュピターが加わって、火や雷で妖魔の力を削ぐターンもあるけど、

だいたい最後は「今よ!セーラームーン!」でキラキラ~のサラサラ~で終わる。

 

セーラームーンの技は、基本的に浄化とか癒しに属するものという設定になってる。

「ムーン ヒーリング エスカレーション」とかそんな技もあったな。

癒しで昇華する、みたいな意味だ。

 

女の子のための変身ヒーローとしてデザインされてるので、そういう感じなんだろうけど、

後継作品のプリキュアとかだと殴る蹴るの肉弾戦要素があったりするらしい。

魔法少女ものでも結構、ファンシーながらも弓や剣などの武器をもってたりしてな。

 

主人公の属性が浄化と癒しっていうのはやっぱり今でも通用する新しさだと思う。

 

RPGでいえば僧侶、ヒーラーが主人公なのだ。

普通はパーティーを率いる勇者ってのは剣士や戦士の前衛職だ。

騎士や銃士、魔法使いや召喚士が主人公ってパターンの作品もまあまあ思い当たるけど、

ヒーラー、僧はな~。アンデットにしか攻撃力がないイメージだ。なんかあったっけ・・・?

 

なんでセーラームーンが戦う力に乏しいのかっていうと、

全編通しての前世っていう設定が重要になってくる。

 

どのくらいの時空の隔たりがあるのかはわからないが、

かつてシルバーミレニアムという、銀河の星々の王国があったという。

月にも地球にも他の星々にも、人類の祖になった種族が住んでたってのはSF的な設定でもあるね。

 

そこの女王、クイン セレニティというのがセーラームーンの前世だ。

戦士でなく女王。

戦う職の人じゃなくて、守られる貴人のほうで、斎王、祭祀の王、巫女姫みたいな存在だったわけだ。

であれば確かに、持っているスキルは、なにか宣言するとか宣誓するとか、

古式の型に則った所作で、祓い清め、鎮める儀式をとりおこなう、古来より王の役目とはそういうものだろうなって感じがする。

天皇陛下の公務みたいな感じだ。慰問するとかもそうかな。

 

毎回毎回「愛と正義のセーラー服美少女戦士」とか名乗りをあげて何々が不届きだから「月に代わっておしおきよ!」でくるくるポーズとってキラキラするのも、なんていうか、一種の、宣誓と祓い清めの型の一環なのだ。使いまわしで作画コストを稼いでいるだけではない。

 

妖魔たちは、あの名乗りを聞いちゃってる時点でもう浄化の手筈に引き込まれている、ハマってると言える。

「あらわれたな!セーラームーン!」とか言っている場合ではないのだww

 

さて、そろそろ本題に入ろう。

愛と正義の戦士、という自称なわけだが。

正義の戦士はよくわかるけど、

愛の戦士、っていう言葉には矛盾を感じないだろうか?

キューティーハニーとかも愛の戦士っていう自称だけど。

 

あえて強調して言ってみれば、

愛するってことは肯定し受け容れることで、

戦うっていうのは否定し排除しようとすることだ。

ベクトルが逆の言葉をくっつけている。

 

たしかに、愛のために戦わなくてはならないシチュエーションはあるだろう。

でも、相反するふたつのベクトルを同時にもつと、コンフリクト、葛藤がおきる。

 

愛の戦士として、敵対するものを排除せざるを得ないが、

だからと言って愛の名のもとに人語を解する相手をボッコボコにするのはマズイ。

ほどほどに、あまり痛くも苦しくもないように、自分より強大な敵であっても、相手が撤退する加減で、

 

・・・そんな複雑微妙なことを考えていては、そっちに処理を割いてしまってパフォーマンスが落ちるのではないか?

 

ダークキングダムのみなさんの思考はいたってシンプルだ。

シンプルであればあるほど全力投球できる。

ただ支配するためだけに、壊し、奪い、搾取し、嘘を使い、催眠をかけ、なにもかも踏みにじって平気だ。

幹部ジェダイトは部下キュレネに「お前の代わりはいくらでもいる」と言い、

上司クインベリルに「お前の代わりはいくらでもいる」同じことを言われて氷漬けにされる。

同僚とか仲間にしても基本そんなものだ。使い捨てにして憚らない。

 

自分達は、古今東西の勧善懲悪の物語を見過ぎて、

戦いの中で成長していく主人公たちの活躍を見続けて、

敵にトドメをささない優しい主人公に、敵がほだされるというお約束の展開を見飽きて、

「必ず最後に愛が勝つ」という図式に疑問をもつこともないわけだけど、

 

でも、勝つとか負けるとか、つまり戦うってこと、

対立し、闘争し、相手を傷つけるっていう行動様式に。戦うというプログラムに親和性が高いのは、

 

愛の戦士と、悪の組織、本当はどっちなんだろう。

 

あらためて考えてみると、どうも自分としては、

悪の組織のほうが常に、戦うことにかけては長けていると思うようになった。

好きこそものの上手なれ、だ。

よく使われ、よく手入れされた能力ほど伸びていく。

 

争うことを好まず平和な日常を愛しているものと、

常日頃から支配のためのプランを練っているもの、

戦いに必要な能力を磨いているのはどちらなのか。

自ずから明らかと書いて自明だ。

 

戦う限り、悪が勝つ。

 

それが道理というものだ。

 

だから、懐かしき前世の王国は、シルバーミレニアムは滅びたのだと思う。

 

愛と平和を善しとする人々は、戦えば戦うほどにうんざりしてくる。

支配と闘争を好む人々は、戦えば戦うほど、血湧き肉躍ってイキイキして力を増していくんだ。


まぁ少年誌の主人公とかだと、もっと強え奴と戦いてぇ、オラわくわくすっぞっていうバトルマニアタイプもいる。彼らは戦うほど快であり、また強くなる。シンプルだ。

 

でも愛を第一と謳う戦士はそうじゃないわけだ。

最後に愛が勝つと信じ、仕方なく戦い続けることに適応するのなら、

敵の企みを暴き、悪を倒し続けることに慣れて、戦闘スキルを向上させていくなら、

それはやはり修羅道だ。

平和を求めながら、戦う以外の生き方がわからなくなっていく。

そのメンタルは葛藤し、苦しみは闇堕ちを呼び寄せ、悪の組織の誘惑が近づいてくるだろう。

 

ダークキングダムの幹部たち、そしてクインベリルは、もとシルバーミレニアムの住民、地球人だ。

 

「大いなる支配者」という実体があるか怪しい概念のような存在以外は、

ダークキングダムは闇堕ちし、裏切った同胞によって構成された組織だ。

 

・・・さて、

実はセーラームーンの話っていうか、

これからの世界、アフターコロナとかニューワールドオーダーとか、そんな話をしているつもりだ。

 

ダークキングダムのような何者かはいるだろう。

三百人委員会かもしれないし、イルミナティかもしれないし、ディープステートかもしれない、ロスチャイルドやロックフェラーやモンサントユダヤ資本かもしれない。

 

クインベリルや幹部の妖魔達のような何者かもいるだろう。

ヤクザかもしれないし、ビルゲイツかもしれないし、大統領や法王かもしれない、首相や政治家かもしれない。


各回ザコ妖魔のような何者かは言うまでもない。

自粛警察とか、買占め転売ヤーとか、ブラック会社の上司とか、毒な親とか、いじめっ子とか、いつでも隣にいる。

 

それらすべての元締めに「大いなる支配者」のような何者かもあるだろう。

ネガティブ系宇宙人かもしれないし、レプタリアンかもしれないし、

もっと実体のないもの、なにか人類や宇宙の進化の方向とは逆の指向性とか、

恐怖そのもの、コントロールを外れた自分たちの心の一部かもしれない。

 

ああ、なんということでしょう。

そんなものを相手に、変身アイテムも必殺技のひとつもない一個人にできることがあるの?

 

ある。そこが実感として掴めないうちは、そういう情報を知るにはまだ早いんだな。

悪を暴くことを常態にすると、ネガティブな感情に飲み込まれて、闇堕ちして、王国が滅びに近づく。

昇級試験に、アセンションに失敗する。

 

生まれ変わって、やり直して、今もう一度のチャンスを生きていると知ったなら、

もう戦ってはいけない。

 

善と悪の二項対立、それ自体を越えていかなくては。

 

自分の外に悪があると思うから、他者に非があると思うから、その乖離を利用されてしまう。

 

その悪、その非は、自分の内にあるものだ。

 

外にある悪や非は、自分のなかにあるものの影、投影だ。

 

「大いなる支配者」の姿は、実はとても小さい。

自分達が野放しにしている心の一部を纏って、巨大に見せているだけだ。

 

ダークキングダムが巨大な悪の組織にみえて、実はそのほとんどがマインドコントロールされた地球由来の人間種だったのと同じだ。

 

各々が、操られたり流されたりすることなく、自分の心を完全性に近づけていれば、

「支配者」は自分を大きく見せることができない。手駒をもつこともできない。

等身大の悪事しかできない。それくらいは多様性の範疇に許容できるものだ。

 

プロモーションに惑わされて浮かれ、エナジーを吸い上げられる愚かな人間どもであることを、やめる。催眠誘導から目醒める。


恐れを、葛藤を手放す。

己の至福を追求する。

自分の好きなこと得意なことで各々の道を究めていく。

それだけでいい。それが本質的解決だ。

 

まず、自分で自分を救う。

それから他者と繋がっていくなら、もっと素晴らしいんだ。

 

 

・・・・・・、

 

まあ、ハウルの動く城で書いたのとほぼ一緒の解釈をセーラムーンでやっただけではあるけど、このご時勢だからな。

もう一回同じこと書いても、違って聞こえるかと思って。

 

ソフィは「戦ってはだめ」って言って、ハウルの深層意識へ降りていく。

欲の権化、荒れ地の魔女を心から抱きしめる。それで魔女は執着を手放してくれる。

 

サリマンは支配が及ばなければ「しょうがないわね」と言って、戦争をやめるんだ。

 

そういうことなんだよ。

いつでも、今も、真に知るべきことは、心と、愛と、ほんとうのさいわいがなにかってこと、それだけだ。

 

 

「月の光は、愛のメッセージ」

セーラームーンは、そういう次回予告だったっけな。

愛の戦士も必要な段階には違いない。

でも愛の使者とか、愛の体現者というのなら、そこに葛藤はないのでもっとよろしいと思うわけだ。

 

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セーラームーン無料視聴はミュトスさんからのおススメでした。いつもありがと!

http://itest.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1566495487/l50

 

 お題「#おうち時間

 今週のお題「会いたい人」 

  

新しい世界を想う。

天気の子 グランドエスケープ ORIGINAL COVER INST.Ver

 

アフターコロナ、という言葉を聞くようになった。

この騒動の前と後で、世界は変わってしまうという認識がそういう言葉になったわけだ。

言葉にする、概念にする、というのは人の認知に新しいカテゴリをつくるような、人の知のもつ本質的な力だ。

捨象されるものもあるが、事象を脳内で扱いやすくなる。

 

アフターコロナワールドは、どんな世界だろうか。

終末戦争まで突っ走ったあげくの北斗の拳のような荒野?

マスクをしなければ5分で肺が腐る、腐海のような死の世界?

AIがすべてを管理してくれるPSYCHO-PASSのようなディストピア

それともポニョのような自然と魔法の力に満ちた新世界だろうか?

 

何が、新しい世界の在り方を決めるのだろうか。

 

それで、去年の7月に見た「天気の子」を思い出した。

 

災禍の形は伝染病ではなくて降り続く豪雨だったけど、

あれは災禍の前後で世界が変わってしまうことを、

少年少女の意志ある選択の結果として、肯定的な視点で描いた物語だった、と思う。

 

当たり前だと思っていた日常が、実はずっと誰かの、何かの犠牲の上に成り立っていた。

 

東京が住みよい気象だったのは、晴れ女という人柱の巫女を800年ものあいだ捧げ続けてきたからで、

 

「巫女、人柱が一人犠牲になれば晴れるなら、もとの天気になるというなら歓迎だ。てか、皆そうだろ。」

とかそんな言葉で、誰もがそういう世界の在り方を、弱いものにツケを払わせる世界を、多少後ろ暗くも容認していたか、あるいはまったく知りもしなかった。

 

保護者のいない15歳の少女にすべてを押し付けて、背負わせて、切り離して、

それで今までどおりを続けようとして、でもそのシステムにはもう限界が来ていた。

 

人柱の力で上空に留めおいていただけだった雨は、800年の間に積もりに積もった巨大な積乱雲になっていた。

 

歪みは、蓄積され続けていたんだ。いつかはそれに向き合わなくてはならなかった。

 

小説版の内容なんだけど、

少年少女の陽菜と帆高が帰ってきて、白竜が落ちて、豪雨になったところで、

「てか、皆そうだろ」とか言っちゃうやさぐれた大人、須賀のモノローグがある。

 

その時、誰もがおそらくはその雨が普通ではないと感じていた。

 

いつかこういう日が来ることを、本当は誰もが知っていた。

 

俺達はずっと感じていた、

俺達は別になにもしていない、なにも決めていない、なにも選んでいない。

それでもこのまま逃げ切れるわけがない。

 

世界はいつか決定的に変わってしまうだろうと誰もが予感していて、

誰もがずっと知らないふりをしていたのだ。

 

 

新海誠の先見性エグい。

「その雨」を「この病」か「このウイルス」にちょっと置き換えて、もう一回読んでみる。

 

コロナ渦中にある我々の心情に近いものがある。

 

「自分は何も悪いことしてない」「理不尽な災いに原因をこじつけるな」と思った人もいるだろうが、

 

ちょっと今着ている服をめくってのタグを見てほしい、メイドインどこって書いてあるだろうか。チャイナ?マレーシア?台湾?

フツーに生きてるだけで、何もしなくても、決めてなくても、社会が採用してるシステムに加担している。せざるを得ない。

 

もしメイドインジャパンを選んで着てるような意識高い人がいたら、環境問題やグローバリズムの弊害に関心がある人だ。

そういう人は須賀の言う意味が解るだろう。

 

 

 

新型コロナウイルスは、密集、密閉、密着の条件で感染拡大する。

それは一極集中、中央集権、都市化、グローバリズム、あるいは建築の気密化、

高度に文明化したこの社会であればこそクリティカルヒットな性質だったわけだが、

 

こうなってみて、いつも、色んな人が警鐘を鳴らしていたよな、と思う。

なにごとも経済優先、儲かること第一で、

油田でも鉱山でもあちこち掘り返して、森を切り拓いて、

乱立したビル街に人を詰め込んで、

物価や人件費が安い国から大量にモノを運んできて、

どこに行くにも飛行機や新幹線でほんの数時間行ける、

サイコーに便利でイージーな世の中の恩恵を受けていた、

でも、それには代償もあった、

新型コロナウイルスは、蓄積されていたリスクを顕在化させただけなんじゃないのかっていう。

 

多分、このパンデミックがなくても、いつかどこかで何かが起きた。

多分、人類の生存環境に決定的なダメージが入ってしまって、手遅れになってから気がつくよりは、いくらかマシなタイミングで変化のチャンスが来た。

・・・のかもしれない。

 

近代化、産業革命、資本主義の台頭、富める者がより富を集めるシステムの運用から、ざっくり200年分溜めてきたツケということになるだろうか?

 

天気の子では、800年分溜め込んでいた雨がざぶざぶ降りまくるまま、三年が経つ。

 

東京は水没する。

 

だとすれば、きっとたくさんの人が亡くなって、職を失って、家を失って、大事なものを失っただろう。 

日の光の差さない街で、心を病んだ人もいただろう。

 

でも、新海誠はその世界を絶望の終末としては描かない。

水没した高層建築の間を水上バスが走って、人が逞しく行き交ってる活気を描く。

 

誰にも保護されない十代の主人公たちが、誰かの犠牲になることをやめて、

搾取されることを、踏みつけにされることを拒否して選び取った世界は、

愛しい誰かが、どこかで自分を待っていてくれる世界だ。

 

 

アフターコロナワールド、今まで通りでない世界がやってくるとして、

そこがどんな世界に見えるかは、自分の心次第だと思う。

 

瀧のおばあちゃんみたいに、因果応報を察して淡々と「もとに戻っただけ」っていう世界を見てもいい。それは所詮人為も自然の一部という諦念かもしれない。

須賀みたいに、オフィスを立ち上げて社会的に成功して「世界なんてもともと狂ってる」というやや捻くれた達観のなかで、それでもしぶとく生き延びていくのもいい。

 

でもきっと、もうお終いだと絶望した人も少なくなかっただろう。

 

怒りの矛先も悲しみのもとも、いつでもいくらでも、数えきれないほどある。

どこかの国がウイルスをばらまいたんだとか、国の対策が遅れたから蔓延したとか、

誰にも看取られず亡くなる人がいること、死者とのお別れもままならないこと。

 

それは事実としてある、どうしようもないことだ。

ただ、それに心を飲まれないためには、どうしたらいいかってことだ。

 

 

凪や夏美には、水浸しの東京がどんな世界に見えているだろうか。

 

凪や夏美は、目まぐるしい状況のなかでも、自分の意志でなにかを選択したキャラクターだ。

そうすべきだという空気に従うのをやめて、自分の心が正しいと思うことをした。

だから、その結果がどんなものでも受け入れることができると思う。

 

自分で決めたことの先にある世界なら、どんな困難があったとしても、

誰のせいでもない、自分のものとして受け容れることができる。

 

凪や夏美は、新しい世界で颯爽と生きているはずだ。

 

自分の心が示す正しさを感じられる人、そのとおりにできる人に、自分はなりたい。

 

 

しかしまあ、誰しも日常の自分というものは、だいたいノイズだらけだ。

誰かに言われたムカつく一言が頭のなかをぐるぐるしてたり、

過去の恥ずかしい失敗をリピートして悶えたり、

今晩の献立や買い物の予定や、将来の不安とか、感染への恐怖とか、

色んなことが絶えず再生されて脳の容量を食っている。

デスクトップに使いかけのアプリやタブがいくつも開いているようなものだ。

 

自分という存在の最初の願いを知るためには、

新しいまっさらなインスピレーションを受け取るためには、

それら全部を一度閉じなくてはならない。

 

自分の思考を制御するのは、パソコンの使い方に慣れるのと一緒だ。

挙動がおかしくなったら、キャッシュを消して再起動をかける。

誰かに教わってもいいし、自分なりの試行錯誤でもいい。

ステイホーム期間こそ、そういう方法を習得していく好機だと思う。

 

 

・・・いや、ほんとさ、自粛自粛って言われ続けて、

みんな自粛じゃなくて委縮になってやしないかと思う。

 

テレビで マツコ・デラックスが「不要不急のって言われるたびドキっとする」って言ってて。

さすが言語化のセンスがあるよなと思ったけど。

観客なしセットなし、共演者とも距離をとって、ヘアメイクもなし白髪も染めてないらしく、すごく引いた構図で撮って、

もう苦肉の策のカタマリみたいな絵面で言われるとなかなかだった。

 

不要不急は控えろ、と言われたら、

自分のやることすべて要なのか急なのかって疑わないといけない。

それで自分のやってたことが要でも急でもない、ということになるのはキツイ。

仕事が生きがいの人ほどそうだろう。

自分なんか社会に必要ないんだと感じてしまう。落ち込む。

 

命を守るというスローガンは確かに是だが、

 

しかし世の中、安定よりも夢を追っかけちゃうタイプの人もいて、

彼らにしてみたら 命<生きがい だと思うよ。

命を盾に、生きてる実感を奪ったら、生ける屍になっちゃう。

大脳の発達した人間は、ただ命があるだけで満足できるようなイキモノではない。

 

医療従事者や小売店員や物流業者、今最前線で忙しいお仕事の人がフォーカスされるのは当然だし、本当に頭が下がるけど、

 

こんなところでブログ読んでるのは自宅待機で暇を持て余してる人だろうからな。

 

そういうステイホームしてる大多数の人たちだって、怯えて落ち込ませたままではいけないと思う。

 

自粛しろとか、控えろとか、外出るなとか、働くなとか、感染するぞ死ぬぞとか、

そういう抑圧や否定のメッセージは人を滅入らせる。

 

考えろとか、生き残れとか、追求しろとか、観察しろとか、新しくしろとか、

そういう積極的で発展的なメッセージに接していってほしい。

 

 

 

 

だから早く天気の子のDVDが欲しい、5月27日とか待てない。

アナ雪2も5月13日とか待てない、今すぐ見たい。

 

そこはGWに間に合うように発売しておくれよ・・・! _(´ཀ`」 ∠)_

 

仕方ないからジブリと怪獣の子供を見て待つ。

 

お題「#おうち時間」はアニメ、読書、ブログ、瞑想。

 アナ雪2は配信は開始してた!素晴らしい。お子様に見てほしい。

 

 

 

これから天気の子の考察をしたいっていう記事を見て、天気の子のことを思い出した。

LAMUさんタイムリーで感謝。

https://lamu.hateblo.jp/

 

 

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"Weathering With You"

 

 

開疎化がもたらす未来

 https://kaz-ataka.hatenablog.com/entry/2020/04/19/131331?_ga=2.37533920.1798048692.1587739206-800197266.1580546508

 

密集、密閉じゃない、アフターコロナがどんなコンセプトの世界になるかっていうひとつのおもしろい未来図。

こういうことを考えていれば、わくわくできていいと思う。

ステキな未来を創造するには、まずそれをイメージすることだ。

できるだけ鮮明に、ありありとだ。

 

「ぼくがかんがえたさいきょうのあふたーころな」とか、なろう系で流行ってくれ。

異世界ものの設定を考えるノリを活かすときだ。

宮崎駿の世界観を解釈する4 飛行体の変遷。

木のジグソー 天空の城ラピュタ 208ピース タイガーモス 208-W207

宮崎駿の描く、空をとぶものについても順にテーマが発展していくような過程を見てとれると思う。

 

以前の記事に追記してて思いついたんだけど。

夜空にいるサソリは、星の配列をサソリに見立てた蠍座で、その起源はギリシャ神話だ。

でも、日本人なら銀河鉄道の夜にもサソリの星の逸話が出てくるのを覚えている人も多いだろう。

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宮沢賢治の著書は青空文庫にあるので、引用する。

 

「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれでされると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんう云ったのよ。

むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。

するとある日いたちに見附みつかって食べられそうになったんですって。

さそりは一生けん命げて遁げたけどとうとういたちにおさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、

もうどうしてもあがられないでさそりはおぼれはじめたのよ。

そのときさそりは斯う云っておいのりしたというの、


 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、

そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。

それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。

どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにれてやらなかったろう。

そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。

こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい。

って云ったというの。

そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。」

 

引用以上。

なぜか涙ぐむような沁みる話だ。

 

地を這う虫が、空で赤く燃える星になる話、生まれ変わりの話。

 

地べたを這いまわってその日食べて生きることしか思わない、言ってみれば下等なものが、

みんなのさいわいのために、という崇高な願い、祈り、こころざしに目覚めたことで、空の高みで赤く燃える星になる。

 

心の在り方が変われば、そのとおりに姿かたちが変わるというレトリックなわけだが。

 

地面から空に、下から上に。虫が、星に。

 

そういえば、宮崎駿の作品でも前半は虫的なイメージをよく見て、

後半になるにつれ星的なものが登場するような気もする。

 

初期のほうの作品で、

腐海の蟲、ウシアブやヘビケラ、ダイオウヤンマはもろ虫、羽のついた虫だ。

ラピュタのタイガーモス号も虫、ヒトリガ(灯盗蛾)だ。フラップターも羽虫。

コミニカ キーチェーンコレクション 「風の谷のナウシカ」ウシアブタケヤ式自在置物 蛇螻蛄 鉄錆地調 約405mm PVC&ABS製 塗装済み可動フィギュア KT-011

さんけい みにちゅあーとキット スタジオジブリシリーズ 天空の城ラピュタ タイガーモス 1/300スケール ペーパークラフト MK07-171/20 フラップター (天空の城ラピュタ)

 

 

 

想造ガレリア メーヴェ&ナウシカ[Full Action Ver.]f:id:philia0:20200422210757p:plain

 

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で、ナウシカメーヴェ(カモメ)やパズーの飛行機は鳥で、

 

空を飛ぶもののイメージがの対比になっている。

 

魔女の宅急便では、箒で飛ぶキキと、自転車がベースのトンボの人力飛行機

 

紅の豚では、エンジンがついて長距離飛行ができる飛行艇

紅の豚で、自然や人力での飛行から、文明や科学の力での飛行になる。

 

もののけ姫で転換点になって、

 

次にでてくる飛行体は、ハクや名のある川の主、竜だ。神に近いもの。

羽も翼もなく、魔法具でも科学でもなく、もうそういう理屈を超えたちから、神通力とか、イマジネーションで飛翔する。

トトロも飛ぶけど、コマに乗ってるのはホウキに乗ってるのと一緒で、なんとなく飛べそうというイメージの補助、媒介やマジックアイテムで飛んでるとみることもできる。

 

ハウルの動く城では、ホウキなしで人が空を歩く。

ハウルは鳥に変身し、フライングカヤックは虫の羽だ。鳥と虫の対比が再び登場する。

そして、流れ星、星の子が出てくる。

 

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8作品、ざっと20年かけて、地を這う虫が、空で燃える星になっていった。

 

そんな気もするね。

 

ポニョでは、とても印象的な夜空と星が描かれる。

ポニョには飛行体はあんま出てこないけど、グランマンマーレは光の奔流とともに上昇していく。

グランマンマーレは太古の海の女神だ。

観音様の御神渡りだと言って、船員達は彼女に手を合わせたり柏手を打ったりする。

圧倒的に神聖な存在に相対したと感じたから、自分たちの知る方法で畏敬を示した。

かなり神格が高い神様っぽい。

土地神や竜神や、契約や交渉に応じる悪魔とは一線を画する神、

母なる海の神格化、自然の理法そのもの、創世神話級の神様だ。

 

飛行体の変遷を見ていくと、

 

地を這う虫、地表近くを飛ぶ羽虫、それよりは高く空を飛ぶ鳥、

人類の飛行機械であれば成層圏より高くも飛べる。

だんだん飛行能力が発達し、高度を上げていく。

 

が、宮崎駿の世界観は、そこで宇宙に飛び出すことはない。

銀色のメカがぴかぴかするSF展開にならない。

ナウシカで「嘘か本当かしらねぇが、星まで行ってた」船が出てくるが、

朽ち果てた残骸、遺跡と化している。

 

科学や、物質文明でいける高みというものに興味が湧かない人らしい。

 

家内制手工業でつくるレトロな飛行艇の次が宇宙船になることはなく、

神殺しを経て、竜や星の子や女神を描く。

 

「どうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい。

というような、気高い、崇高な、そういう心の在り方がそのままに、その者のいる高いところになる。そういうレトリック。

宮崎駿の空への想い、飛翔への憧れは、辿り着きたい遥かな高みというのは、

物質的なものでなく精神的なものだ。

 

地球からハイテクな金属のカタマリを射出すれば、いつか行ける気がするどこか。

宇宙戦艦やスペースコロニー、地球と同じノリで開拓していけるような宇宙ではなくて、

 

願い、祈り、こころざし、そういうものが導いてくれる、

心でしか行けない場所ってことなんだろう。

 

おもしろいことに、漫画版ナウシカで描写される腐海の尽きるところの清浄の地も、心でしか行けない場所、と表現される。

地の底の、また底、最奥、深奥。

 

あるいは、天空よりも神々よりも自然の理法よりも高い、天辺、最上、最高。

 

空よりも高く、海よりも深い、心でしか行けない場所。

そのどちらにもおそらくは、同じものがある。自分はそう思う。

サソリも井戸に落ち、空で燃える星になる。

水に満ちた深い穴の底が、星々の連なる遥かな高い空とつながっている。

 

 

上からでも下からでも、最下層を抜けても、最上層を抜けても、

有限の世界の殻を破ったなら、そこにあるものは無限だ。混沌とか根源とか0とか、そういうものだ。

 

すべてであって、すべてでない。

全知全能ゆえにすべては成就し尽くし、零知零能となって安らいでいるしかない。

素粒子の粒的ふるまいと波的ふるまいが、完全に釣り合って鎮まり、なにも観測できない。

どこまでもあまねく、静かな霧の粒が揺蕩っている。

 

ナウシカの落ちた腐海の底は、砂と水だけの静かで広いところだ。

砂という粒をあらわすもの、水という波をあらわすもの。

それだけがどこまでもひろがる、そういう感じのするところなんだっていう感覚。

 

瞑想やマインドフルネスで、その感じまで行けたら成功だと思う。

 

その静けさにいつも至れるような自分なりのメソッドをつくりあげていく。

 

それで求めてやまなかったもの、渇望していたものは、遠いどこかにあるものだと、

海の彼方には、もう探しに行かなくて良くなる。

輝くものはいつもここに、わたしのなかに見つけられたから。

っていう歌の意味がわかる。

 

今、ここ、を生きられる。

 

 

 

・・・さて、

宮崎駿はそこまで解釈できるような優れた象徴を作品に込められるのに、

風立ちぬではどうしてああなっちゃうんだぜ。

妹の加代には夜空に流れ星が見えて、次郎には星が見えないんだよな。替わりに夢が見える。

そして何度となく飛行機が落ちる場面が繰り返される。

 

精神的な高みを、創世神話レベルを突破するくらい描いたから、

あらためて物質的な高みを目指そうとして、

ポルコの1920年代の飛行艇を1940年代のゼロ戦や、それ以降の飛行機械に進めようとして・・・、

 飛行機の墓場になっちゃったってことだろうか。

 

風立ちぬについては、次作を見て手のひらクルクルしたいと願ってる。

・・・が、今夏このご時勢で公開されるのか?

観ないうちには死ねない。健康には一層気を付けよう。

駿おじいさんも煙草やめて長生きしてほしいものだ。

 

このブログも残るメイン記事は、紅の豚もののけ姫風の谷のナウシカ

君たちはどう生きるか」公開までにはなんとかなるだろう。多分。

 

 

 

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追記、

創世神話級の竜神もいないことはない。

ドガルズオルムとか、伏羲と女媧を竜神と見做すこともある。

 

でもまぁ、名のある川の主やハクは、川の神格化だからな。

お内籠りで見つめてみた。

ポスター ウォールステッカー 正方形 シール式ステッカー 飾り 30×30cm Ssize 壁 インテリア おしゃれ 剥がせる wall sticker poster 写真・風景 森 風景 イラスト 緑 グリーン 植物 007948

 

 もともと、引きこもり耐性もボッチ耐性もレベルカンストの田舎住まい猫飼い。

加えて身内に既往症のある者も高齢者もほとんどいないので、

新型コロナウイルスで戦々恐々のこのご時勢でも、かなり気楽に過ごしているほうだと思う。

 

お題「#おうち時間

今週のお題「わたしの部屋」

 

まあでも、

お外へ行けないのなら、内面へ向かえばいいじゃない。

とかいう持論をかましたら断頭台にでも送られそうなほど、みんなピリピリイライラしてるのは感じる。

 

ニュースを見てるとウイルスや病と一致団結して「戦う」という表現をよく使ってるんだけど、

自分はこれにどうにも違和感を感じる。

 

アドレナリンをどばーっと出して、グッと構えて臨戦態勢に入るっていうのは、動物に備わっている本能だ。

大抵は同族の雄に対して発揮される。

我々はもれなく、ナワバリ争いや順位争いや、メスの争奪戦で勝ってきた雄たちの子孫だ。

 

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「戦う」「戦おう」っていうのはとても原始的で、それだけに万人に訴えかける強力なシグナルなんだけど、

そういう臨戦態勢ってのは短期的ブーストであって、長くは続けられないものだし、

ウイルスみたいなスケールの違い過ぎる相手に、闘争心を保てる感性の人は少ないと思う。

ウイルスそのものは余りにちっさ過ぎるし、なのに感染の規模は地図レベルで大きいし、

やつらの心らしきものも想像しにくいし、色々対策してもリアクションが感じられるわけじゃないし、

じかにブン殴れない相手を敵視するっていうのは、意外と高度な知性やイメージ力がいるものだ。

 

医療従事者とか、実際の前線にいる人達はまだしも、

 

そうではない大多数のひとが、姿形の見えない相手に、臨戦態勢でいられる時間は長くないと思う。

アドレナリン、ノルアドレナリン出しっぱなしの緊張状態は、大きなストレスになる。

 

痺れを切らして、短絡的に「戦う」衝動をぶつけられる相手を探しはじめる。

「戦う」っていうのは、同格と認知できる相手に対して発動する行動様式なんだ。一種のコミュニケーションでもある。

敵を知り、己を知るためにヒトは百戦を繰り返す。

「戦う」モードを発揮しやすい対象は、やはり同じ人間だ。

DVの増加とか、外国人や感染しそうな職業への差別とか、海外では暴動とか、もうそういうことが起きている。

 

ウイルス相手に「戦う」という表現では、みんなの心が保たないと思うんだよなー。

 

 

医療崩壊を防ぐために、接触を避けながら、集団免疫の獲得や治療法の確立を急ぐ。

でも、それっていつまでかかるの?

そういう期間が示されればまだ頑張れるかもしんないけどね。

格闘とか軍隊とかの特殊な訓練でも受けてない限り、ずーっと臨戦態勢はツライ。

心身の緊張状態は、危機回避のために良くない方の想定ばかりするものだ。悲観になりがち。

楽観するにはエンドルフィンやオキシトシン、緩和状態、リラックスでないといけない。

 

「いつまでかかるの?」「感染したらどうしよう」「あいつコロナなんじゃないか?」「商売あがったりだ」「お金がまわらない」「政治家は何をしているんだ」

 

「今までどおり暮らせない」 

 

恐れ、不安、怒り、疑心暗鬼、怨嗟。

 

ネガティブな思考がネットやニュースや噂に乗って、ウイルスよりもはるかに速やかに感染し、蔓延している。

 

さて・・・、

このブログで、自分にできることは解釈だ。

それで砂漠を楽園に変えることができるだろうか?

いつもどうやって考えているんだっけ。

そうだまず、陰陽とか裏表とか左右とか、背中合わせ、両極になっているものを見る。

 

「今までどおり暮らせない」 

 

これって裏を返せば、

 

「今までどおりに暮らさなくていい」

 

ってことでもあるんじゃないか?

 

みんな常日頃言ってたじゃないか、

満員電車で社畜はウンザリだって。

大量生産大量消費はもったいないって。

毎年毎年流行が変わって大量に生産されては捨てられる服とか、

出荷したら値崩れするから畑で踏みつぶされる野菜とか、

予算を使わないといけないから護岸工事とかして環境問題になったり、

市町村の収入がないから原発を誘致したり。

Wi-Fiとか5Gとか、本当に安全性は確認されたのかとか、

PM2.5やCO2排出過多で温暖化で「なんてことを!」って。

他にもいくらでもあると思うけど、辿ってみるとそれらの問題の根はおなじものだ。

 

つまり、お金がないと生活していけないから、

兎にも角にも利潤がないといけなくて、経済が最優先で社会がまわってて、

 

そのために環境が破壊されて、人間らしさが抑圧されてるのに、

社会や組織とか大きなものの前に個人ではどうしようもなくて、

異常なんじゃないか、ヤバいんじゃないか、って思いながらもスルーし続けてきたことを、

 

ひょっとして今、やめてもいいんじゃないのか?

みんなでやめれば、こわくないんじゃないのか?

 

・・・と、思うんだけどな~。

ミヒャエル・エンデが今がチャンス!

みんなでお金の奴隷をやめるチャンス!

お金を偽りの神から単なる兌換券に戻すチャンス!

と草葉の陰から言ってたりしないのだろうか。

 

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そういうことを、うちで、ひとりで、ゆっくり見つめられる時間ができた。

そう思えないものだろうか。

 

自分だけ貧乏になるのは恐ろしいが、

みんなで一文無しになれば怖くないんじゃね?

空気も、水も、食べるものも十分にあって、

お金だけないっていうなら、モノは分け合えばいいんだよ。

なんでも分け合えば足りて、奪い合えば足りなくなる。

だから世界の富の50%を3%の富裕層が持つとかいう富の偏在になる。

・・・いやそれはあまりに極論だけど。

 

要はそういう楽観や安らぎ、

何があってもなんとでも生き抜いていけるんだっていう安心感を、心の真ん中にもつことだ。

人間万事塞翁が馬、到るところ青山在り、米の飯とお天道様はどこへ行ってもついてまわるって言うじゃあないか。

 

コロナに罹るのが怖いって?

交通事故に遭う可能性の方が全然高いから、自己の命に関してはそんなビビんなくてもいいと思う。アビガンは効くんだろうし、総人口という大局にもさして変動はないだろう。

ばらまかないように人事を尽くして、あとは天命に委ねるほかないじゃん・・・。

 

メメント・モリ っていうだろう。

 

死を想え、死はいつも生のそばにある。生まれたからには、いつか必ず死ぬ。

生まれ、育ち、実り、老い、死ぬ。

春夏秋冬の季節が巡るように、移り変わることがすこやかさだ。

 

そうだ、地獄先生ぬ~べ~が全巻無料配信中でおススメなんだけど、こういう詩があった。

 

たまみがく為生まれし事を思え

つらく悲しき淵に立つ時

いやいやのことでも勇み喜べ

我たまみがく為生まれ変わりし事思い

うらみつらむことなかれ

我生まれしことは

すべて たまみがく為と思え

 

日月神示の詩なのかな。

魂を磨くため、肉体という仮の宿に住まっている。

死を恐れ、生に執着するあまり、生きるってことがなにか見失ってはいけない。

いつか死ぬ、それは花が枯れることと同じ、自然なことだ。

何度も生まれ変わり死に変わりしながら、魂は長い長い旅をする。

なんにでも始まりがあって、終わりがあるのを識る。

種も、星々も、神々も、宇宙も、有限のすべてはいつか終わる。

その先にあるのが、無限とか、空(くう)とか、愛とか、0とか、「なにもない」とか、原初の混元とか、そんなようなものだ。

静かで遍く霧のようなそこで安らいでいてもいいし、また一粒の砂から何かを始めてもいい。自在だ。

 

おうちにいるときでも、そういう世界観を構築すること、イメージトレーニング、マインドフルネス、内省、瞑想はできる。

 

っていうか、仕事や日常に追われ過ぎててそういう時間を持ててなかった。

 

もうほんと、「戦う」なんて今更そんな次元のひーくいことしてる場合じゃねえんだよ。ビビッて三次元にとどまってちゃもったいないよ。

今こそ、内面へ向かうとか、至福を追求するとか、そういう言葉の意味するところを体得できるビッグなウェーブが実は来てて、レッツアセンションなんじゃないのこれ?

 

戦おうとか控えようとか耐えようとか自粛しようとかじゃなくて、

みんなで考えよう、みんなで変わっていこう、とか言ってくれないかなぁ。

新しい社会へパラダイムシフトしていきましょう、とかさ。

言葉ひとつでやる気の出方が違うと思うんだよね。

 

結局、持論をかまして終了w

断頭台の露と消えますね・・・。薔薇は薔薇は美しく散る~♪

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だいじょうぶ。

どんな苦しみもいつか終わる。今、ここで終わらせたっていいんだ。

やらなきゃいけない仕方ないと思いこんでたことをやめていい。

死ぬことだってそんなに怖くないと体得できれば、

生殺与奪の脅しに屈しなくてよくなる。

より良く、ずっと自在に生きられる。

 

メメント・モリ 死を想え。

死を受け容れることができたら、

 

カルペ・ディエム 今日の花を摘む。

今を生きるってことができる。

 

 

今読みたい本はこれですぞ。「エンデの遺言~根源からお金を問う」

お金無い、収入ない、あれこれ払えない、そういう悩みを根本から解きほぐしてくれる。

 

 

内面へ向かうとか、至福を追求するとかは、ジョーゼフ・キャンベルのよく言った意味で使ってる。Follow your bliss

自分の魂の喜ぶことを見出し、追求しなさい、みたいな。

求道を始めなさいってことかな。

 

地獄先生ぬ〜べ〜|ヤンジャン!|週刊ヤングジャンプの公式マンガアプリ

自分のオカルト知識は小学生のころ読んだぬ~べ~とGS美神が基礎になってることを再確認したww

一話完結の身近でありそうな怖い話が良い。中盤以降のバトル展開はおもんない

 

 

 「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」

https://www.mnhrl.com/corona-jail-2020-4-14/

ついでに。医者が書いた記事だそう。

タイトルはアジってるけど内容は興味深い。

 

アルマーニの公開書簡とか、この時勢を機と捉える発想がある。
https://www.wwdjapan.com/articles/1068987

 

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福岡伸一

この記事はミュトスさんの紹介。著書の「生物と無生物の間」で読んだウィルス論がほぼそのまま自分の認識になっている、動的平衡もよく使うステキな概念だ。

 

お金に振り回されない社会、具体的にはベーシックインカムいいんじゃないかと思ってる。

詳しくしてくれる人がはてブロにいたので貼っとく

https://kamosawa.hatenablog.com/entry/2020/04/20/161635?_ga=2.34281825.1197461224.1586801143-1294203070.1562999636

となりのトトロを解釈する。 都市伝説の否決。

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まず結論を先に書いておくと、

ググるといくらでも出てくる都市伝説のやつ、

サツキとメイは死んでる説だの トトロは死神説だのを否決するのは簡単だ。

一言で済む。

エンディングを聞いてみるんだ。 森へのパスポート と歌っているではないか。

パスポート、つまり旅券だ。行き来ができる手形、通行証。

森というのは、人のテリトリーの外、異界や幽世、黄泉や彼岸を指すものだろうけど、

サツキとメイは、そこを行き来して、冒険して、そしてこの世界に帰ってくることができる。

もし、都市伝説の通りに姉妹が死亡していたのであれば、歌詞は森への片道切符というのが適当だと思われるww

 

ま、それだけで記事が終わるのもなんなので、もう少し色々書いてみよう。

そういう不吉な考察をしたくなる伏線が山盛りであることは否定しない。

 

 

 となりのトトロを子どもに見せると、夢中で見る。

宮崎駿の動く絵は、どんな小さな瞬間も生き生きしてるので、

セリフの意味がわからない年齢の子どもでも、動きの面白さだけで目が釘付けになるというか。

自分はまさにトトロのLD(BLよりDVDよりVHSより古い映像媒体w)を子守りに、何十回と繰りかえし見て育った世代だ。

 

まあナウシカでもラピュタでも他の作品でもそうなんだけど、

トトロは特に幼児との親和性が高い。メイと同じ3~4歳の子どもから見ても、夢中になれる何かがある。

それは季節をしめす日本の草花や、田園や古い家屋や生活様式に感じる、身近さや親しみでもあると思うけど、

 

もっと言うと、4歳の子どもの低い視点から物語が描かれているというか。

オープニングの、歩こう♪歩こう♪わたしは元気~♪ の時点からそれは見て取れる。

画面の上下に描いてあるのは、釘の刺さった板や空き缶や空き瓶、コンクリのブロック、石ころ、スコップ。

黒いシルエットでクワガタ、トカゲ、蛾、コウモリ、蜘蛛、ムカデ、カエル、

それにイモムシ、バッタ、猫。

 

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・・・、改めて羅列してみると、なんかこう、

縁の下や床下に吹き溜まってるゴミとか、屋根裏や家の隅、影になってるような、薄暗いところにいるような連中ばかりではないだろうか。

 

折れた釘の刺さった板なんていうリアリティあふれるゴミを、オープニングに描く非凡さにはほんとに恐れ入る。

普通だったら子ども向けにアニメの主題歌の縁取りには、お花とか小鳥とか蝶々とか描きそうなものだ。

 

いや、確かに子どもっていうのは、そういう地べたに近いところにある、大人からすれば取るに足りないものをえんえんと眺めている生き物ではある。

アリの行進を眺めて飴を置いてみたり、石をひっくりかえしてダンゴムシを集めたり、そういうことしていた覚えもあるけども。

 

4歳の女の子のステレオタイプっていったら、もっとこう、

人形やぬいぐるみでおままごとして、キラキラしたプリンセスやプリキュアみたいなものを好んでいるものだと思う。

 

メイの友達、メイの嗜好は、同年代の男の子と比べてもやや異質だ。

4歳の男の子のステレオタイプを考えても、虫のラインナップはもう少し捕って面白くカッコいいものになるだろう。バッタ、クワガタときたなら、カブトムシ、セミ、カマキリ、タガメ、カミキリムシ、蝶々とかね。

 

蜘蛛やコウモリ、ムカデ、蛾。

なんというか、ナウシカもそうなんだけど蟲愛づる姫っていうか。

常識からすると不気味なもの、闇属性のものを愛する性質のようだ。

それは、眷属や使い魔を使役する古い魔女のイメージでもある。

 

メイも赤毛の魔女に分類していいキャラだ。

やや髪の赤みは薄いけど、髪飾りや服も赤系統。

 

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異界、異形に親しむ才能がある。

まあこの場合は霊感体質と言ってしまってもいいだろう。

小トトロを見つける場面で、穴の開いたバケツから覗いてドングリを見つけるわけだが、穴から覗くっていうあれは「狐の窓」っていうこの世ならざるものを見るためのオカルトなテクニックになっている。

意識せずそういうことをやって、小トトロが姿を隠しても、目を凝らしてチューニングを合わせれば見えちゃうわけだから、見鬼としてもなかなか高性能なようだ。

そういう才能があるから、見えないはずのモノを見つけて名を直感し、友達になることもできるが、

しかし、あらゆる能力は諸刃の刃だ。メリットとデメリットがある。

メイはその能力があったがゆえに危機にも陥るわけだ。

 

狐の窓 https://alpy-alpy.net/posts/2112

見鬼 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E8%A6%96

 

さて、

明るい歌のオープニングにも、すでに仄暗いモチーフが仕込まれていたわけだが、

作中にも色々と、微妙にコワイものがある。

田舎の風景を描くなら避けては通れないのかもしれないが、

稲荷、神社、道祖神、地蔵、などの場面がさりげなく、かなり頻発する。

 

稲荷前バス亭はポスターとかにもなってるけど、

引っ越しの時の三輪オートでも前を通ってる。

雨の日の夜の稲荷は、暗くなってから子どもだけで親の帰りを待つ、心細いような気持ちの演出にもなっている。

 

トトロのいる楠木はしめ縄のかかったご神木っぽいが、

神聖な神域というにはやや寂れている。

手水の水盤は倒れて、灯篭も崩れたのを戻さずに横に適当に積んである。

掃除など人の手入れのない、忘れられた場所のようだ。

そういう場所は、あまりよろしくないことがあるという。オカルト的には。

 

トトロで描かれる神仏は、なんていうかとても土俗的で、あまり強力な神威をもたない感じだ。

由緒ある神が祀られてて宮司がいて参拝客がいる、みたいなものではない。

天津神でなく国津神民間信仰で、いつからともなく古くからそこにあって、自然や生活に溶け込みつつ、次第に意味が忘れられ、信仰が薄れて風化しつつある。人との交流がなくなりつつある。

 

母親の入院する七国山病院への道も、二又の分かれ道の前に道祖神がある。

この場所は二度描かれる。メイが「道を間違え」て「迷子になった」のはここだろう。

 

その道はつまり、異界への道、幽世への道だったんだろうね。

道祖神は境界の目印とか道標みたいなもので、

人の世でないところへ迷い込み、迷子になった。

それはいわゆる、神隠し と呼ばれるやつだ。

 

だから多分、トトロに頼んで猫バスで迎えに行く以外に、メイを見つける方法はなかったんじゃないかな~。

 

地蔵は、雨宿りさせてくれるお地蔵様は縁結びの御利益さえありそうだが、

メイが迷子になって座り込んでいたところの、六体の地蔵はかなり暗喩するものがコワイ。

 

七人ミサキの怪談じゃないけど、七体目に連なる位置にメイがいて、

もう少しでメイも地蔵とともに供養されるような存在になっていた、と、そういうことのような気がする。

 

七人ミサキ https://dic.pixiv.net/a/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%AD 

七人一組の怪異ってのは結構バリエーションがあるんだよな。どれもなかなかの怖さ。

 

ばーちゃんがサンダル持ってナムナムしてるとか、不吉な描写や日が暮れていく不安な演出には意味がある。

メイは普通の探し方では見つけられない場所へ迷い込んで、

そこは現世から少しズレたところで「みんなには見えないんだわ」っていう状態になっていたと。

 

猫バスの続編「メイとこねこバス」という短編があるらしいが、

ネコバアチャンの行先表示には「風浄土」とある。

猫バスの行き先にも墓とか沼とか塚とか、そういう字がある。

猫バスがこの世からあの世へ死者の魂を運ぶ乗り物である、いうのはほぼ公式の設定だ。

千と千尋の神隠しの海原鉄道みたいなものかな。

 

二つの世界を行き来する乗り物がある、という思想は、三途の川の渡し船であるとか、

お盆の精霊馬であるとか、あるいは銀河鉄道の夜なんかも着想のモトにあるかもしれない。

ま、普遍的な発想といえるだろう。

猫バスは不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫にも似てると思う。

口が裂けるようににんまり笑ってスーッと消えるところとか。

 

都市伝説では、霊柩車のようなものである猫バスに乗った姉妹は死んでしまったのだ、という論法になるけど、

釜ジイは「昔は戻りの電車もあったんだが、最近は行きっぱなしだ」と言ってたっけ。

現代までにどんどん一方通行になってしまっているけれど、

トトロの時代、伝統や迷信や古い智慧とともに、人の暮らしのそばに不思議なものがまだ残っていた時代なら、戻りの電車もあったんじゃないかな。

神隠しにあっても、戻ってこれることがあった。

いつもの世界と不思議な世界の境が曖昧で、繋がっていて、行き来もできた。

七歳までは神のうち、という言葉があるけど、幼児はまだどこか現世に馴染みきってなくて、生まれてくる前の世界とも 親しんでいる。

そういうことだと思う。

 

さて、これで心おきなくトトロを楽しめるというものだ。

やっぱりそんな後味悪い結末があるとか思いながらじゃ、せっかくの名作を楽しめないもんねぇ。

 

後は適当に小ネタを書き留めておこう。

 

トトロにはトンネル表現、胎内回帰的表現が特に多い。

それも子どもの心に強く訴えるものだと思う。

 

冒頭の三輪オートの場面からして、サツキとメイは机の下、狭くて暗くて、エンジン音がして、一方が窓のような明るい場所でしゃがんでいる。

これは胎内環境によく似ている。胎内記憶のある子に聞くと、胎児は手足をまるめた格好で、母親の心音や血の流れるザーっという音を聞いてまどろみながら、

そういう風に母親のおなかの中から外の明るさや音、時には風景なんかを感じることができたという。

 

サツキは三輪オートからでんぐり返って降りる。

前転する、でんぐり返るっていうのも、子どもにとっては生まれた時の追体験になる行動だ。

養子が里親のもとに引き取られると様々な試し行動をとることが知られているが、

里親の母の肩口からでんぐり返って膝元に落ちる、というのを繰り返すことがある。

それは新しい母から改めて産まれるという子どもなりの儀式なんだな。

(テレビで見たことあるんだけど、ネットでソースなかった)

 

引っ越した家は「小川を渡った」「木のトンネル」の先にある。

川の話は何回かしたと思うけど、

異界は水の世界であり、その境界には川があるとか水辺であるというのは古今東西あるある話だ。

冥府の川ステュクス、三途の川、井戸、霧、靄、水鏡に派生して鏡やガラスも異世界へのゲートとしてよく描かれる。

胎内も羊水に満ちた水の世界であり、胎児は水とともに狭くねじれた産道をくぐって生まれてくる。

 

で、メイが小トトロを追って庭の茂みに潜っても、そこはトンネルになっている。

楠木の根元に開いた穴もそうだ。木の根のウロから行ける場所というと根の堅洲国で黄泉なわけだが、そこも管になっていてメイは転がり落ちていく。

トトロが寝ている場所も、筒状というか袋状というか、狭くて上だけ窓のように開いていて、シダ類やコケ類でフカフカしていて実に寝心地よさそうだが、あれも絨毛に覆われた胎内環境を思わせる。

 

そんなんばっかりなわけだ。夢中で見ちゃうわけだよ。

 

ところでトトロってナニモノなんだろうね。

人語を解してはいるようだけど、喋ることはない。

もののけ姫に出てきた面子と比べると、まあ実に素朴っていうか。

コダマと猩々の中間くらいの神格の自然霊かなーって感じ。

どんぐりを集めて、発芽させるスキルというのも、木を植える森の賢者の猩々っぽい。

夜行性で穴で寝ているところやツメの鋭さはアナグマみたいだけど、

耳のような羽角のようなやつとか、胸の模様とか、木の上でホーとオカリナ吹いてるあたりはミミズクのようだ。飛ぶし。

・・・・え、まって肉食なの?

いや、主食はドングリであってほしいwww

そうだ歯は尖ってなかった。人間や草食獣のような臼歯ばかりだったっけ。

小トトロなんかウサギにも似てるかな。

白ウサギを追って穴に落ちて、不思議の国でにやにや笑う猫に会うというのはアリスのオマージュだろう。 

アリスも昼寝の夢から覚めたらお姉さんがいたっけなあ。

 

絵本に出てきたトロル、というのはエンディングで「三匹のやぎ」というのを読んでるけど、三匹のガラガラドンという絵本にはたしかにトロルが登場する。

大・中・小の三匹のパターンがでてくるのもトトロたちと一緒だ。

 

おっさんぽいくてかわいい仕草や表情はパンダコパンダで培われたものだろう。

 

蕗の葉を傘にしてるのはコロポックルが元ネタかな。

 

分解してみると要素としてはそんなもんだろうが、しかし絶妙なデザインだよな。

あんなかわいいクリーチャーを創造できるセンスは他に類を見ないと思う。

 

あとアレか、サツキとメイでペルソナとシャドーの話もあるな。

聞き分けが良くて、礼儀正しいサツキがペルソナ(仮面)

人の言うことを聞かない、自分の衝動に忠実なメイがシャドー(影)

ユングの心理学用語だ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)

 

メイ(May)とサツキ(皐月)はどちらも五月という意味だ。

原案ではひとりの女の子だったのを、姉妹にわけて描いたという。

ひとりの人間の異なる側面をそれぞれに象徴させたわけだ。

150ピース ジグソーパズルスタジオジブリ作品ポスターコレクション となりのトトロ ミニパズル(10x14.7cm)

 

そう思って見ると、メイの聞かん気の強さったらないからなー。

おばあちゃんとこでいい子にできず、サツキに会いたくて学校まで来ちゃうし。

バス停でも眠くなっても意地でも帰ると言わないし、

おばあちゃんが止めるのを聞かず、電報見て電話しに行くサツキを追いかける。

誰にも言わないで、お母さんのところへ行こうとする。

 

こうと思ったら即行動。無鉄砲で向こう見ずな子。

誰の中にもそういう衝動はあるだろうが、普通はそれをペルソナが抑止する。

リスクを考慮したり、人の迷惑にならないようにとか、色々ブレーキやバランスがあるものだが、

メイにはそれがない。

 

寛太については過去記事が。

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後はそうだな。両親の鷹揚な感性は特筆すべきかも。

お父さんもお母さんも、おばけが好きで、子どもたちが怪しいモノと戯れていることをまったく否定しない。

フツーは、子どもが何もないところを見ておばけがいたと言ったら、「変なこと言うのはよしなさい」ってなもんだろう。

赤毛のメイはそれでも才能によって怪異を見ただろうが、黒髪のサツキまでまっくろくろすけやトトロを見つけることができたのは、この両親の方針によるところが大きい。

もし、両親のどちらかでも、非科学的なものを蔑むとか、おばけは嫌い、という雰囲気を出せば、それだけで良い子のサツキは察して 見えないものを見ることをやめただろうから。

メイが迷子になって、サツキひとりでもトトロに会えたのは、両親の教育の賜物だ。

実際、トトロと猫バスに頼む以外にメイを見つけ出す方法はなかったと思われる。

あの界隈にのんのん婆みたいな民間の霊能者とか、尾畑春夫さんみたいなレジェンドボランティアでもいたならまた話は別だが。

 

 

とりまそんなもんか。

追記があるかも。

 

 

Q サツキとメイはなぜ母に会わずに帰ったのか?

というクエスチョンがあるらしい。

 

トウモコロシだけ置いて、「そこの松の木でサツキとメイが笑った気がしたの」てやつか。

夜の庭で、トトロに貰ったどんぐりを芽吹かせて大樹にしていく場面を思い出してみればいい。

 

庭であれだけの事が起きていたのに、お父さんはまるで気がつかずに書き物をしていた。

「私たち風になってる」とか「みんなには見えないんだわ」とか「夢だけど、夢じゃなかった」とか、

そういう言葉が何を指してるかってことだ。

 

異界てのは見えないものの世界だ。この世が物質の世界なら、あの世は精神の世界。

粒なのか波なのか、それは重なり合っているけれど、すこし周波数が違うみたいなものだ。

 

猫バスと一緒にいたメイとサツキは、父母には見えない状態だったんだろう。

それでもお母さんは直感だか霊感だかで気がつくことくらいはできた。黒髪だけどメイの母だしな。

おでこの広さからして、メイが母親似で魔女の素養持ちタイプ、髪型からしてサツキが父親似で変なものを見ない感じない普通の人タイプなんだけど、

母は「あなたは母さん似だから」と言ってサツキの髪を梳いてくれる。

何度か観ないと気がつかない、思いやりが沁みる場面だ。

 

あとそう、猫バスにも多分、ちょっと寄り道くらいは出来ても、

停留所以外ではおいそれと現世の客を降ろせないようなルールがあると思う。

乗り降りがしやすい場所、この世とあの世の重なりやすい地理的なポイントがあるはずだ。

龍脈とか、霊道とかレイラインとかそういうやつだ。

そういう場所に稲荷とか道祖神とか、石碑とか、鳥居とか建てて目印にしといたもんなんだよ。昔はね。

 

 

 

 

 

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